takamura's LIBRARY NO.9

 ナポレオンフィッシュと泳ぐ日
          −takamura4部作:第1部−
      


 僕は目を覚ました。
 ベッドサイドで時計は午前3時を刻んでいた。
 暗闇の中で大きな水槽が唯一光を放っていた。
 その中からナポレオンフィッシュがじっとこっちを見つめていた。
 ベッドから出て僕はキッチンへ行った。
 フローリングの床が、空気全体を冷たくしていた。
 そして冷蔵庫からハイネケンのビンを出して栓を抜いて、一息で半分ほど
飲み干した。
 そしてリビングへ戻ると窓辺に置いた椅子に座った。
 
 ゆっくりと僕はカーテンを開けてみた。
 外の世界は僕の部屋の中と同じ様に暗闇が垂れ込めていた。
 そして街はほんの少し前に眠りについたように見えた。

 しばらくして僕はまた水槽を眺めた。
 ナポレオンフィッシュは相も変わらず僕を見つめていた。
 聴こえる音は何も無かった。
 ただ、微かに水槽のポンプから音がしていた。
 そして遠くで汽笛が鳴っていた。

「やれやれ・・・」
 そう思い僕は溜め息をついた。
 そして僕が再びベッドに入ろうとした時、無音の世界に終止符が打たれた。
 電話がのベルが僕を呼んだ。
 時計はすでに4時を刻もうとしていた。

「もしもし、西園寺です・・・」
 僕は受話器を手にした。
「二階堂です。こんなに夜遅くにごめんなさい」
 受話器の向こう側にいたのは成美だった。
「いや、べつに構わないよ。ちょうど起きていたしね」
 ベッドに入っても眠れそうになかったので、時間を費やすにはちょうどよかった。
「何かあったの? こんなに夜遅くに」
 僕はとりあえず尋ねた。
 午前4時に電話をかけてくるなど、いくらなんでも何かあったに違いないと僕は
思った。
「うぅん、別に何もないけど。眠れなかったから・・・」
 済まなそうに成美は言った。

 どうやら僕以外にも、眠れない夜明けを迎えている人はいるようだった。

「大丈夫、僕も眠れそうになくて起きていたから」
 そう言いながら僕は煙草に火を点けた。
 暗闇の中がぱっと明るくなって、壁や天井にさまざまなシルエットを映し出した。
 そしてそれは直ぐに漆黒の世界に塗りつぶされていった。
 でも、僕の目にはそんなシルエットがしばらくの間焼き付いていた。
「そう、良かったわ。もし、寝ていたらどうしようって思ったけど・・・」
「でも、いつもこうとは限らない。だから、僕にはいつ電話してきてもいいけど、
他の人には止めた方がいいね」
 ハイネケンをひと口飲んで僕は言った。

 窓の外の空は、夜空の下に微かに朝の空が張り付いていた。

「じゃあ、何を話そうか?・・・」
「人生についてなんて、どうかな・・・?」
 そんな成美の言葉に僕は少しばかり驚いた。
 たとえ冗談でも成美の口から『人生』と言う言葉を聞いたのは初めてだった。
「人生か、キツイな・・・」
「冗談だってば」
 そう言って成美は笑った。


 それからしばらくの間、成美は何も言わなかったし、僕も何も言わなかった。
 静寂な世界が僕の部屋も彼女の方も、辺り一面を覆っていた。
 それはまるで受話器を通じて成美の吐息までもが聞こえてきそうだった。


 
 どのくらいか時間が流れて、僕は急に眠くなった。
 きっとそれはさっき飲んだハイネケンのせいなのだろう。

「成美、ゴメン。眠くなってきたよ」
「言うと思った」
 そう言って成美は静に笑った。
 そんな彼女につられるように僕も笑った。

 窓の外は、すっかり明るくなっていた。

「成美は眠くならないのかい?」
 小さく欠伸をして僕は彼女に言った。
「葵君、本当は眠いんでしょ・・・?」
「さっき眠いって言ったじゃないか」
「そうね、確かにそう言ったわ」
 溜め息交じりに、小さく成美は言った。
「ごめんなさい、こんな時間に電話しちゃって。それじゃぁ、おやすみなさい」
「おやすみ、成美・・・」
 そう言って2人とも受話器を置いた。

 そして僕はもう一度水槽を眺めた。

               

 ナポレオンフィッシュは僕の方を見つめてはいなかった。
 もしかしたら、眠っていたのかもしれない。
 僕は水槽を小さく叩いてみた。
 普通の魚や熱帯魚だったら驚いてキョロキョロするだろうが、さすがに
ナポレオンフィッシュは悠然としていた。
 しばらくの間僕は、じっと水槽の中を見つめていた。
 それからどれくらいかの時が流れて、僕はまたベッドに入った。
 
 そして、意味も無くかかってきた成美からの電話の事を考えた。
 


 次に目を開いて時計を見ると、午前11時になろうとしていた。
「しまった、寝過ごした!?」
 僕は慌ててベッドから出た。
「まあ、いいか・・・」
 もう一度僕は時計を見た。
 やはり、午前11時になろうとしていた。
 諦めて僕はシャワーを浴びた。
 
 
「午後から講義に出ればいいか・・・」
 今から大学へ行っても、午前の講義は終わってしまうだろうし、特にそれに
興味があるワケでもなかった。

 

 結局大学へ着いたのは、午後1時半になっていた。 
 キャンパスは夏休みを控えて、学生は少なかった。
 講義室に入ると、知った顔は疎らだった。

「西園寺君、席採っといた」
 声のする方を振り向くと、小さく手を振るさやかがいた。
 そんな彼女の隣には弘毅が座っていた。

「ちょっとわざとらしくないか、こんな後ろで・・・」
 僕は微笑みながら、彼らの座っている机の方へ近づいていった。
 小さな講義室でも十分なくらいの学生しかいなかった。
「いいじゃない。出席しているんだから」
 さやかは白のブラウスに、薄紫のチノパンをはいていた。
「朝から講義に出てたの?」
 鞄を開きながら僕は言った。
「もちろん」
「さやか、埋め合わせは必ずするからノートのコピー頼みたいんだけど・・・」
「えー、しょうがないな、いつものことだしね」
 そう言いながらさやかは片方の目をつむった。

「今日の講義は休講だって!」
 誰かがそう叫んだ。
 部屋中が歓喜と溜め息の交錯する世界と化す。

「西園寺、何しに来たのかな?」
 弘毅が笑いながら、言った。
「広田、今日何か予定ある? 俺、暇なんだけど・・・」
「すまん西園寺、俺今日ダメ。美幸ちゃんとデートなんだ」
「ハイハイ」
 溜め息をつきながら、僕は言った。
「西園寺君確か、絵、好きだったよね?」
「うん、好きだよ。それが何か・・・」
「モディリアーニ展、行かない? 近くの美術館なんだけど・・・」
 そう言ってさやかは、チケットを2枚出した。
「偶然2枚手に入っただけよ。別に意味は無いからね、言っとくけど」
「モディリアーニか・・・」

 僕は現代画だったので少しだけ迷った。

「別にイヤならいいんだけど・・・」
 そう言ってさやかはバッグにチケットを戻した。
「行こうか、それ」
「良かった」
 そう言いながらさやかはまるで安心したように笑った。
「じゃあ僕はこれで」
 弘毅はにんまりとしながら、手を振った。
「がんばれよ」
「がんばってね」
 さやかと僕は彼に手を振った。
「さて、僕たちも帰りますか」
「そうね、はやく行こう」
 そう言って僕たちも講義室に背を向けた。 


 
 外は、異様に暑かった。
 1993年、夏の訪れを告げる太陽は、否応無く僕たちをその日差しで
焼き付けていた。

「ねぇ、すごく暑くない?」
「暑いよね・・・」
「これじゃぁ、8月になったらどうなるのかしら?」
 太陽にその小さな手をかざして、さやかは言った。
「・・・」
 何も言わずに僕は肩をすくめた。 


 駅の近くまで来ると、期末考査中なのか授業をボイコットしているのか、
高校生達が沢山たむろしていた。

「何やってるんだ・・・?」
 僕は呟いた。
「エッ、私?」
「その辺の連中全部さ」
「いいじゃないの、関係無いわよ。少なくとも私たちにはね」
 いつものように、さやかはクールだった。
 そんなさやかが僕はたまらなく好きだった。
「そうだね、関係無いよね。少なくとも僕たちには」
 少なくとも、と言うところを僕は強調して言った。
「変なの・・・」
 そう言ってさやかはくすくすと笑った。
 そんな彼女につられるようにして僕も笑った。



 美術館の前に着いた時、誰かが僕を呼んだ。

「西園寺、何してんだよ」
 振り返るとそこには勇祐がいた。
「勇祐、君こそどうしたんだよ」
「井出君、今日講義に出てなかったでしょ?」
 朝から出席していたさやかに、僕はさすがだなと思った。
「ブラブラさ」
 そう言って勇祐は苦笑した。
 そして僕たちも笑った。
「で、2人でどこへ行くの?」
 さやかと僕の顔を交互に見ながら勇祐は言った。
「・・・」
 僕は出来れば黙っていたかった。
「西園寺君とモディリアーニ展を見にね」
 さやかには黙っている理由は無かった。
「そう言うこと」
「絵か・・・俺も一緒に行ってもいいかな?」
 勇祐もかなり絵には詳しかった。
「でもね、チケットが2枚しか無いのね。だから・・・」
 申し訳なさそうにさやかは言った。
「いいよ、自分で買うからさ」 
「じゃあ、行こう」

 結局、僕とさやか、それに勇祐の3人になった。
 美術館の中は、平日の午後ということもあって人は疎らだった。



 美術館から出て駅前の喫茶店で、お茶を飲んだ。
 さやかは僕の前に座り、勇祐は僕の横に座った。

「ねえ、井出君て恋人いるの?」
 紅茶をひと口飲んだ後、ふいにさやかは真顔で言った。
「えっ!?」
 勇祐は僕の方を向いて笑った。
「君に彼女がいるのかって」
 そんな彼の表情を見つめながら僕は言った。
「今は誰もいないよ」
「そう、悪いこと聞いちゃったね」
「別にいいけど」
 勇祐は少し照れたような、そして少しふて腐れたような表情をして言った。
「西園寺君は、彼女いるんでしょ?」
 ティーカップの淵を指でなぞりながら、悪戯っぽく微笑みながらさやかは
言った。
「なんで知ってるの?」
 僕は気が動転しそうになった。
「有名だよ、クラス中の・・・」
 さやかは微笑んだ。
「いることはいるけど、もう秋の風が身にしみるって感じだけどね」
 溜め息交じりに僕は言った。
「何言ってんだよ、4年もつきあってるくせに」
 そんな僕を茶化す勇祐。
「えぇ!?、4年も続いているなんてすごいじゃない」
「でも、何となく最近すれ違いが多くてね・・・。だから、そろそろ終わりに
した方がお互いの為かなって思うんだけどね」
 そう言いながら僕はコーヒーカップを口に運んだ。
「・・・」
 そんな僕の言葉には何も言わずにさやかは窓の外を見つめた。
「じゃあ、もう結婚とか考えてるんじゃないの?」
 窓の外を見つめたままさやかは言った。
「いや、僕は一生独身貴族がいいかなって思ってるんだ」
「何を言うかと思ったら、そんなこと・・・」
 僕の方を向いて、そして少しあきれたような顔でさやかは言った。
「別に僕と結婚したい人がいたら話は別だけどね」
「贅沢言うなよ」
 そう言いながら勇祐は笑った。
 それにつられるようにさやかも笑った。
 僕は小さく溜め息をついて、窓の外を眺めた。

 窓の外に見える風景は、いかにもという感じの夏のそれだった。
 夏の太陽はだいぶ西の空に傾いてはいたけれど、暑い日ざしで街を照らし
続けていた。
 通りの向かいにあるフラワーショップの前で、向日葵の花が眩しい日差しに
焼き付けられていた

               

 そして白いノースリーブのワンピースに涼しげな日傘を差した女の娘が、
そんなカンヴァスの中を横切って行った。

「ちょっと・・・」
 そう言って勇祐は立ち上がり席を外した。

「2人で、別の店にいかないか?」
 勇介がドアの向こうに消えるのを見つめながら僕は小声でさやかに言った。
「何・・・、どうかしたの?」
「ちょっとゆっくり話したいことがあるから」
「考えてもいいよ・・・、おごってくれるならね」
「もちろんだよ」
 そう言いながら僕は笑った。
 悪戯っぽくさやかも微笑んだ。

 そして勇祐が戻ってきた。
「じゃあ、そろそろ」
「そうね・・・」
 そう言って僕とさやかは立ち上がった。
 勇祐は訝しく僕たちの顔を交互に見つめた。
「ここは私が出しとく」
 そう言って伝票を手にしようとしたさやかを僕が制した。
「いいよ。僕が払うよ。勇祐もそれで良いだろ?」
 そう言いながら僕は勇祐の方へ顔を向けた。
 何も言わずに彼はうなづいただけだった。

 店を出ると、夏の太陽が僕たちを否応なく照り付けていた。
「井出君どこに住んでるんだっけ?」
 日の光に手をかざしながらさやかは言った。
「赤羽だけど・・・」
「赤羽か、じゃあ逆方向だね。私達とは」
「さやかさんはどこに住んでいるの?」
 そう言う彼に“しつこいな勇祐は”と僕は思う。
「自由が丘」
「じゃあ、西園寺の近くじゃん。西園寺、代官山だろ」  
「途中まで一緒に帰るの」
 さやかが僕の腕にその細い腕を絡ませながら言った。
「それじゃ、駅まで一緒に行こうか」
 とりあえず、勇祐に声をかける。
「じゃあ、今日はこれで引き上げますか」
 勇祐はいつもの調子だった。



 池袋駅で僕たちは勇祐と別れた。

 とりあえず、内回りの電車に乗った。
 どの道、さやかと僕は内回りだった。

「どこに行こうか?」
「奢ってくれるんなら、どこでもいいよ」
 僕の顔を覗き込みながらさやかは言った。
「分かってるよ。そうだね・・・、プラネタリウムに行こう。それから何処かで
お茶を飲もう。それでいい?」
「うん」
「じゃあ、渋谷で降りよう」



 渋谷駅の周辺も若者達で込み合っていた。
 プラネタリウムはハチ公口とは反対側だったけれど、結局のところ何処へ行って
も人波で溢れていた。

「プラネタリウム、昔から好きだったんだ・・・」
 エレベーターで建物を上に上がりながら、僕は言った。
「プラネタリウム、好き?」
 僕はとりあえずさやかに訪ねた。
「うーん・・・、好きと言えば好きになるのかな。元々星が好きだから」
 さやかは少しだけ迷ったような表情を浮かべて言った。
「よかった」
「どうして?」
 やや上目づかいで僕を見つめながらさやかは言った。
「いや、星の嫌いな人をプラネタリウムに誘うのは、どうかなと思ってね」
「それはそうね。星が好きだから、プラネタリウムへ行くのが普通だしね」
 そうさやかが言った時、エレベーターのドアが開いた。

 そして僕たちはプラネタリウムの大きな暗いドームの中に吸い込まれる。


 それは、1時間にわたる星の世界への旅路だった。


「楽しかった。プラネタリウムに来たの久しぶりだったしね」
 本当に楽しそうに微笑みながら、さやかは僕に言った。
「そう。それは良かった」
「星ってさあ、何て言うのか浪漫的(ロマンティック)じゃない」
「そうね、僕もそう思うよ」
「西園寺君、どうして星が好きになったの?」
「僕・・・? 何て言うか天高く光輝くことは、何よりも美しく素晴らしいって、
そう思ったから・・・」
 少し考えてから、僕は言った。
「私もそんな感じかな」
「子供の頃は天文学者になりたかったんだよ、僕は」
「そうなんだぁ」
 小さく何度かうなずきながら、さやかは言った。

 こんな話をしながら僕たちは、駅の反対側にある1軒のバーを目指した。


 夏の日の夕暮れの渋谷は、街全体が火照っているようだった。
 ビルも街路樹も、そして街をすり抜ける人々も皆・・・。
 昼間の間、熱い日差しに焼き付けられて、日がすっかり傾いてもその熱を
抱え込んでいるような、そんな雰囲気だった。
 あちこちの店は、眩しいくらいのイルミネイションに彩られ始めていた。
 そしてそれは何処からともなく、夜の匂いを運んできていた。



 僕は行き着けのバー「American Graffiti」のドアを開けた。

「いらっしゃいませ・・・。やあ、西園寺君」
 マスターのジェイクが屈託の無い笑みを浮かべて、僕たちを迎えてくれた。
「ごきげんよう」
 僕はマスターのジェイクと親しくなっていた。
「知り合い?」
 恐らくさやかがこの店に入ったのは初めてなのだろう。
「人生の師匠ってところかな、僕の」
 そう言って僕は70%くらいの笑みを浮かべた。
「相変わらず、冗談が上手いのね、西園寺君て」
 僕の言葉にそう答えながら、さやかも微笑んだ。

 そして僕たちは一番奥のテーブルに席をとった。
「御注文は?」
「そうだな、僕はカンパリソーダ。さやかは?」
「西園寺君、カンパリってお酒でしょ?」
「別にいいじゃない。それよりさやかは何にするの?」
 メニューを眺めるさやか。
「ロシアンティーを」
 かしこまりました、と言ってウエイターは僕たちに背を向けた。

           

「いい店ね」
 さやかは、店内を見回して言った。
 うなずく僕。
 店の中にはThe Beach Boysの『SURFIN' SAFARI』が流れていた。

「ところで、夏休みにどこかへ行かないか?」
 テーブルの上で指を組んで僕は言った。
「エッ、それってどういうこと?」
 少し驚いたように瞳を丸くして、さやかは言った。
「別に言葉通りとってほしいけど」
「何て言うのかその、ちょっと妙な気持ちなんだけど・・・」

 ロシアンティーが運ばれてくる。
 静にさやかは口にそれを運ぶ。

「彼女と行けばいいじゃん・・・」
 やや間があって、さやかはそう言った。
「・・・」
 小さく溜め息をついて僕は、何も言わずに首を横に振った。
「ねえ、一つ聞いていい?」
「何?」
「西園寺君、私を彼女の代わりにするつもりなの?」
 目をやや上目使いにして、さやかが言った。
「いや、別にそういう意味じゃないんだけど・・・。そう思ったのなら謝るよ」
 そう言いながら僕は、グラスの水を静に口に含んだ。
「そう・・・」
 それだけ言うとしばらくの間、さやかはカップの中をかき回していた。
「どこへ行くの?」
 ふいにスプーンを持つ手を止めて、彼女は言った。
「エッ、まだ考えてないけど・・・」
「決まったら教えて。場所によっては考えてもいいよ」
「そうだね」

 The Beach Boysは『ALL SUMMER LONG』を歌っていた。

 それからしばらくの間、僕たちは話したところでどうしようもないことを話した。

「じゃあ、今日はこれで」
「そうね」
 僕は、2人分の会計をして店を出た。
 
 

 真夏の太陽は西の空に斜いていた。
「僕、代官山だから」
「私は自由が丘だから、同じ電車だね」
「そうだね」 
 渋谷駅から電車に乗る。
 電車に乗っている間、さやかはずっと風景を眺めていた。
 僕はその隣りでずっと『何か』を考えていた。
 しかし、結局その『何か』の答えは見つからなかった。
 


 電車は代官山の駅に滑り込もうとしていた。
「じゃあ、僕はこれで」
「今日はどうもありがとね、西園寺君」
 小さく手を振りながらさやかはそう言った。
「明日はちゃんと講義に出てね」
 微笑みながら、さやかは言った。
 僕はうなずいた。
「ごきげんよう」
 僕は軽く手を振った。
 電車のドアが閉まる。
 電車が走り出すと、ホームには風が吹きぬけた。

            

 それはまだまだ暑い夜風だった・・・。
 駅を出てマンションに着く間、僕には一つの決意が生まれた。

“成美とは終わりにして、さやかと同じ時間を刻もう”と・・・。



 ゆっくりと部屋のドアを僕は開けた。
 そこではナポレオンフィッシュが僕の帰りを待っていた。
 こんこん・・・、と小さく水槽を僕は叩いてみた。
 水槽の中で彼(彼女)は身動きひとつしなかった。
 ただ尾鰭を少しだけ動かして、水の流れを作っただけだった。
 そしてそれはゆっくりとした海流のように、水槽の中を流れていった
 小さく溜め息をついて僕は、水槽に餌をまいた。  
 それから僕はベッドルームに行った。
 リビングからは“ぴしゃっ”という水を打つ音が聞こえてきた。
 そしてベッドに横になって窓の外を眺めた。
 雲一つない空は、夕焼けで真紅に染まっていた。



 遠くで電話のベルが僕を呼んでいた。
 その音は僕を夢の世界から現実の世界へ引き戻していった。

「もしもし、西園寺です・・・」 
「ああ、西園寺。オレだ、勇祐だ」
「どうしたんだい勇祐? あっ、ちょっと待ってくれ」
「どうした?」
「明るくするから・・・」
 そう言って僕はフロアスタンドを点けた。
「なんだ寝てたのかよ」
 勇祐の口調からは、彼がかなり酔っているように思えた。
「どうしたんだい? 何か用事があるんだろ?」
 ライトの明かりに目が馴染まなくて僕はしばらくの間、何度も何度も瞬きを
しながら言った。
「頼む、西園寺」
 勇祐の言葉はいつにもまして、単刀直入だった。
 そんな彼の言葉を聞きながら僕は起き上がって、ターンテーブルにレコードを
載せた。
「どうしたんだい、何だか訳が解らないけど」
「オレは、さやかさんを恋人にしたい」
 勇祐の言葉からは彼の気負いが十分に感じ取れるくらいだった。
「・・・」
 僕は色を失って、言葉が出なかった。
「結構お前はさやかさんと仲が良いから、俺たちの間に入って上手くまとめて
くれよ。頼むから・・・」
「突然、何言うかと思ったら」
 その時の僕の心は、かなり動揺していた。
 それはまるで漣に戸惑う、湖面に浮いた木の葉の様に・・・。

 辺りにはCharlie Parkerの『Just Friends』が流れていた。
 それはまるで場違いな映画の為の、場違いな音楽のようだった。

「考えておくよ、勇祐」
 何とか気持ちを落ち着けると、ようやく僕はそれだけを勇祐に言った。
「頼むぞ、西園寺・・・。じゃぁな」
 そう言って勇祐は電話を切った。
「やれやれ」
 受話器を置いて僕はそうつぶやいて溜め息をついた。



 ソファに身を委ねて僕はシーバス・リーガルを飲んでいた。
 テーブルの上の灰皿からは薄紫色の煙が空中に螺旋模様を描き出していた。
 相変わらずCharlie Parkerのサックスは、場違いに思えた。

 その時、再び電話が僕を呼んだ。

「もしもし、西園寺です」
「二階堂です」
 受話器の向こう側にいたのは成美だった。
「何・・・?」
 受話器の向こう側にいたのが成美だったので、僕は少しだけうんざりした
気分になった。
「何かすごくイヤそうね」
 僕の気持ちの変化を感じ取れない程、彼女は鈍感な娘じゃない。
「成美、今朝も電話してきたろ」 
「そう言う言い方ってキライ。大人っぽくって」
「・・・」
 何も言わずに僕はシーバスをひと口飲んでから灰皿の煙草に手を伸ばした。
「今度の週末、逢えない?」
 やや間があって、成美はそう言った。
「いいよ」
 白い煙を吐き出して僕は言った。
 でも、僕には成美と逢うつもりなんて、最初から無かった。
「どこで待ち合わせる?」
「そっちで決めてくれて良いよ」
 すれ違い始めた2人の仲を、全く気付くそぶりも無い成美に僕は、
少しずつ冷ややかになっていった。
「決まったら電話してよ。じゃあ」
「ちょっ、ちょっと待ってよ」
 成美はまだ喋っていたが、僕は受話器を置いた。


 それから僕は少しの間、窓の外を見つめていた。
「どうしてこんな事になってしまうのかな」
 僕はそう呟き溜め息をついた。
「いったい僕は、どこで舵をとりちがえてしまったのかな・・・?」
 ふとそんな言葉が出た。
 
 それは答えられる者のいない疑問符だった・・・。



 次の日から僕は学校へは行かないで毎日海を見ていた。
 海を見ながら考えごとをすることが僕は好きだった。
 そして3日目の夜、さやかから電話があった。

「3日も何をしていたの?」
 たしなめるような感じがさやかの言葉にはあった。
「海を見てたんだよ」
 ぼんやりと窓の外を見つめながら僕は言った。
「3日間もずうっと?」
 僕の言葉に彼女は驚いたように言った。
「そう・・・」
「・・・」
 さやかは何も言わなかった。
 僕もそれ以上何も言わなかった。

「そう・・・。海をね・・・」
 受話器越しにさやかの溜め息が聞こえた。
「結構好きなんだよ、海が」
「心配して損しちゃった」
 あきれたような声でさやかは言った。
「心配?」
 意外なさやかの言葉に、僕は少しだけ驚いて言った。
「当たり前でしょ。一人暮らしなんだし、ちゃんど講義にでるって
約束したのに・・・」
 そこまで言うとさやかは溜め息をついた。
 受話器越しのそれは、深く深く、まるで底が無いくらいに深い海を
僕に想像させた。
「ごめん・・・」
 僕の口から出た言葉はそれだけだった。
 たった一言・・・。

 それから、この3日間の学校でのコトや、最近観た映画や聴いた
音楽のコト、そんなさして話してもどうしようもないコトを話した。
 でも、相変わらずさやかは、あまり自分のコトはあまり話さなかった

 その時キャッチホンがはいった。
「ちょっと待って、キャッチ入ったんだ」
「切らないでよ」
 すこしだけすねた様な声でさやかは言った。
「判ってるよ」
 そう言って僕は少しだけ笑った。
 それにつられるようにして受話器の向こう側からも、さやかの笑う
声が小さく聞こえた。


「西園寺ですけど・・・」
「二階堂です」
 成美の声が一瞬にして僕を憂欝な気持ちにさせた。
「何・・・」
「ねぇ、最近私のこと嫌ってない?」
「そう言う訳じゃないけど。今キャッチなんだ。また電話するよ」
 そう言って僕は、一方的に電話を切った。
「ちょっ、ちょっと・・・」
 受話器の向こう側からはまだ成美の声が聞こえていた・・・。



「間違い電話だったみたい」
 さやかに僕はそう言った。
「間違い? その割りには長かったわね」
 僕の心の中を、彼女は見透かしているような、そんな響きだった。
「エッ、そう、そんなに長かった?」
「本当は、彼女からじゃないの、今の電話・・・?」
「・・・」
 そんなさやかの言葉に僕は、何も言葉が出てこなかった。
「冗談よ」
 そういってさやかはくすくすと笑った。
「僕が嘘をついたと言うなら、それでもいいけど。別に・・・」
「そんなことないよ」
 彼女の声は、どことなく済まなそうな雰囲気があった。
「ねぇさやか、話しは変わるんだけど、ある日突然男の人がさやかの
前に現れて、付き合ってくれって言ったらどうする?」
 こんなふうに彼女を試すようなコトをしている自分がイヤになった。
「相手によるな」
「じゃあ、例えば僕とか・・・」
「考えておくわ」
 そう言ってさやかは笑った。
 お願いしますと言って、僕も笑った。
「学校に来てね、明日は」
「たぶん・・・」
「たぶんて何よ、ノートのコピーさせてあげないから」
 何となくさやかは苛立っているようだった。
「わかった。明日はちゃんと出るよ」
「じゃあ、待ってるから。おやすみなさい」
 そう言ってさやかは電話を切った。
「ごきげんよう」
 そう言って僕も受話器を置いた。


 それから僕は窓の外を眺めてみた。
 瀟々たる雨が、静かに東京の街を濡らしていた。
 そして遠くで汽笛が鳴っていた。
 それから僕はナポレオンフィッツシュを見つめた。
 彼(彼女)には僕の心の中全てを見透かされているような、そんな
気がした。


 結局のところ僕は、成美には電話をしなかった。
 


 次の日の朝、目を覚ますと僕はカーテンを開けた。
 真夏を思わせる空には雲ひとつなかった。
 そして真夏の太陽は、まるで焼き付けるかのように、僕を照らしていた。
 
「今日は講義に出るか」
 目をこすりながら僕は、シャワーを浴びようと、バスルームに入った。
「勇祐のように一途な恋をしたい。それに比べれば僕のは裏切り、偽りの恋だ」
 シャワーを浴びながら僕は、こんなことを考えていた。


 そして僕は電車に揺られながら、同じことを考え続けた。
 でも、結局のところ答えは出なかった。

 『偽り』。
 この言葉が脳裏を幾度もよぎった。


 大学の講義室に入った僕の目に映ったのは、4人の友人達だった。
 弘毅と美幸。
 そしてさやかと勇祐。

 弘毅と美幸は当然並んで座り、朝からいちゃついていた。
 その後ろに、さやかと勇祐が並んで座っていた。
 そして互いに雑誌を広げて、視線を落としていた。

「お久しぶり」
 最初に僕に気がついたのは、弘毅だった。
 彼の一言に3人が一斉に僕の方を向いた。
「ごきげんいかが・・・」
 そう言いながら僕は、ゆっくりとさやかの隣に座った。

 さやかを挟んで僕と勇祐が座っている・・・。

「昨日はどうも・・・」
 小さな声でそっと僕はさやかに告げた。
「今日はちゃんと来たのね」
 うっすらと微笑みながら彼女は言った。
「だって、約束したじゃない」
「今も井出君と、こないんじゃないかって言ってたのよね」
 そう言いながらさやかは、勇祐の方を向いて笑った。
「あぁ・・・」
 広げられた雑誌に目を落としたまま勇祐は短く言った。
「3日間もどこ行ってたんだよ?」
 身を乗り出すように振り向いて弘毅は言った。 
「海を・・・」
「海を見に行ってたんだって」
 僕の言葉を遮ってさやかが言った。
「海を・・・? どうしてまた・・・?」
 今度は美幸が振り向いた。
「ちょっと考えごとがあってね・・・」
 少なくとも、僕たちの中で1番、この世の春を楽しんでいる2人に、
色々と話したところで無駄だろうと、僕は思った。
「なぁんだ、彼女といちゃついてるんじゃないかって、話してたのよね」
 そう言って美幸は笑った。
「君らとは一緒にしないでくれよ」
 そう言って僕は笑った。
 そしてポケットから煙草を出した。
「西園寺君て煙草吸うんだ!?」
 目を丸くして、さやかは言った。
「意外?」
 煙草をくわえながら僕は言った。
「うんん、そう言うんじゃなくて。もしよかったら、1本くれない?」
 周りに聞こえないようにか、トーンを1つ落としてさやかは言った。
「さやかさんて、煙草吸うの・・・!?」
 驚いたように勇祐は言った。
「いけない?」
 パッケージの中から1本手にしてさやかは言った。
 僕はマッチを灯して、僕の煙草の先端に火を点け、さやかのそれにも火を
点けてあげた。
「・・・」
 何も言わずに勇祐はうつ向いていた。

「煙草を吸う女は嫌いだ」
 たしか勇祐はいつもそう言っていた。
 


 半分も吸わないうちに、教授が現れた。
 僕もさやかも、携帯灰皿の中に煙草を落とした。


 そして講義が始まるとすぐに、僕は本を広げた。
 基本的に僕は、講義の最中は読書をしている。

 しばらくして僕は隣に人気を感じた。
「ごめん、隣に座ってもいい?」
 振り返った僕の目の前には、未森が立っていた。
「やぁ、未森。別に構わないよ」
「おはよう」
 未森に声をかけるさやか。
「あっ、おはよう」
 どうやら、未森は駅から走って来たようだった。
 彼女の呼吸はいつもよりもずっと早かった。
「朝から大変だね」
 話し相手が出来て僕はほっとした。

 講義中のさやかは話し相手にはならないから・・・。


「最近、良い人いるの?」
 未森は最近、彼氏−少なくとも僕から見れば下らない、品のない男だった−と
別れて独り者になった。

 以前僕は勇祐に未森とつきあうように勧めたが、彼は首を縦には振らなかった。

「友達はいっぱいいるけど」
「そう・・・」
「葵ちゃんは成美ちゃんと上手くいってる?」
「そうでもない」
 短くそう言った後で僕は、小さく溜め息をついた。
「何か悪いこと言っちゃったかな」
 少し表情を曇らせて、未森は言った。
「僕のことはいいよ。未森は早く良い彼を見つけないと」
「いつも私のこと励ましてくれて有り難う」
「どういたしまして」
 再び僕は本に目を落とした。


 こんな風に、今日の講義も過ぎて行った。



「みんなこれから何か用事ある?」
 帰り支度をしている5人に僕は言った。
「僕たちはちょっと」
 弘毅は自分と美幸を指さして言った。
「さやかは?」
「私も今日はちょっとね・・・」
 いそいそと帰り仕度をしながら、さやかは言った。
「そう・・・。勇祐は?」
「悪いが俺もパスだ」
 勇祐も帰り仕度をしながら言った。
「お先に」
「じゃあな、西園寺」
 僕が顔を曇らせていると、さやかと勇祐は時を同じくして去って行った。
「ごきげんよう」
 僕は軽く手を振った。
 2人の後姿が少しづつ遠ざかっていった。
 そしてばたんと音を立てて、ドアが閉まった。


「2人でどこか行くみたいよ」
 ポケットから出した煙草に火を点けようとしている僕に、美幸は言った。
「冗談だろ?」
 驚きを隠せないでいる僕。
「いや、本当。朝、2人でそんなような話をしていたからな」
 弘毅は立ち上がって言った。
「気になるなら後つけてみたら? じゃ、僕たちはこれで」
「バイバイ」
 弘毅と美幸は講義室から出て行った。
「ごきげんよう」
 彼らの後ろ姿に、そう僕は言った。


「さてと・・・、帰りますか」
 独り言の様に言いながら僕は立ち上がった。
「私、私は午後暇だよ」
 僕の服の袖を引っ張るようにしながら未森が言った。
「じゃあ、一緒にどこかに行こうか?」
 僕は少し迷ったのだけれど、結局そうする意外の選択肢は無かった。
「うん」
 嬉しそうな笑みを浮かべながら、未森は元気にうなづいた。
 

 結局、僕は未森を連れ立って午後の一時を過ごすことになった。
 さやかと勇祐の行方を気にしながら・・・。



「明日の講義は休講だったよね?」
 何処となく作り物っぽい青空を眺めならが呟く僕。
「明日、土曜日よね」
「そうだよ。今日は金曜日だから」
「じゃあ、休講だよ」
 なにげない会話だったが、哲学っぽいと僕は思った。
「ねえ、どうして金曜の次の日が土曜なんだろう?」
「はあ・・・?」
 僕の顔をのぞき込む未森。
「いや、土曜の前の日はどうして金曜なんだろう?」
「暑さで頭やられたの?」
「どうでもいいか・・・」
 そんな世間の真理なんて考えても無駄だろう。
「どこへ行こうか・・・?」
「ねぇ、葵ちゃんの部屋で飲もうよ」
 にこにこしながら未森は言った。
 僕の部屋にお酒が沢山あることを未森は知っていた。
「・・・」
 青空を見つめたまま僕は何も言わなかった。
「明日は休みなんだしさ」
「まだ、昼の2時だよ」
 腕時計で時間を確かめながら僕は言った。
「じゃあ、夕方までどこか行って、私が何か作ってあげる。そんで、夜通し飲もう」
「それって、料理をするのかい? それも僕の部屋で?」
「そうに決まってるじゃん」
 やれやれと思い、僕は溜め息をついた。
 未森の提案をどうにも断れそうもなかった。
「いいよ。そうしようか」

 どうせ独りで飲んでいてもつまらない。
 積もる話も山とある、僕はそう思った。

「とりあえず、どこに行く?」
 池袋駅の前まで来て、未森は行った。
「ロフトへ行こうか」
 少しだけ考えて、僕は言った。
「なんで?」
 どこへ行こうかと質問したくせに理由を聞こうとする未森を、少しだけ僕は
不愉快に思った。
「新しいグラスを買いにさ。いけないかい?」
「そんなことないよ。別に私はどこでもいいんだし」
 
 だったら「なんで」なんて言うな、と僕は思った。
 しかし、そんな不快感を顔には出さずにいた。
 
 
 そして僕たちは電車に乗った。



 渋谷は相も変わらずの街だった。 
 ロフトへ着くとエレベーターでダイニング売り場へ上がった。
 そしてそこには色々な形をしたグラスが沢山置かれていた。
 しかし、どれ一つ採っても僕の気に入ったグラスは無かった。

「どう、これ?」
「いまひとつって感じ」 
 未森の指さしたカクテルグラスは、全くもって僕の趣味にはそぐわなかった。

 結局のところ、未森の選んだ気に入らないカクテルグラスと銀製のタンブラーを
2つづつ買った。
 それから、別のフロアで洒落たスタンドを買った。

「スタンドなんか、どうして買うの?」
 突然スタンドなどを買う僕を未森は不思議がった。
「スタンドを変えると気分が変わるんだよ」
 少しだけ面倒臭そうに僕は行った。
「結構ロマンティストなんだ、葵ちゃんて」
「悪いね、ロマンティストで」
「そんなつもりじゃない」
 そう言う未森に、僕は溜め息をついた。

 そして僕たちはロフトを後にした。


「何が食べたい?」
 未森はかなり料理は上手いという噂だった。
「パストラミ・・・」
 少しだけ考えてから、僕は言った。
「パストラミ? 何それ」
「肉の薫製。サラミみたいなやつ」
「そんなの、私には作れないよ」
「じゃあ、何でもいいよ」

 また僕たちは電車に乗った。
 数日前にさやかと一緒に乗った電車に、こんどは未森と・・・。


 
 部屋に入った時、僕はクリーニングに出してあった服を取りに行かなかったこと
に気づいた。

「ちょっと用事があるから行ってくるけど・・・」
 部屋の中を見回している未森に僕は言った。
「私はどうするの?」
「勝手に何か料理してていいよ。冷蔵庫の中の物で」
「判った」
「あっ、それからナポレオンフィッシュには餌やらないで」
「ナポレオン・・・?」
「水槽」
「水槽? ああこれね。解った」
「じゃあ」
 僕はドアを閉めた。



 クリーニング屋から戻ってくると、未森は椅子に座って外を見つめていた。

「何を見ているの?」
 未森は僕の存在に気が付かない程、何かを見つめていた。
「あっ、お帰り」
「ただいま」
 反射的に僕の口からこの言葉が出た。
「何か同棲してるみたいね」
 嬉しそうに未森は言った。
「そうかい?」
 はしゃぎながらそう言う未森の言葉に僕は少しばかりうんざりとした。
「葵ちゃんって、いつも冷めてるね?」
「そうかい?」
「ほらぁ」
 そう言って未森は笑った。
 そんな彼女の笑顔につられるようにして僕も笑った。


「お酒、何があるの?」
 大きな瞳を輝かせながら未森は言った。
「シーヴァス・リーガルとジョニーウォーカー、ヴァランタイン。その他色々」
 前の方に並んでいるウイスキーの銘柄を、僕はざっと言った。
「みんなスコッチじゃない。バーボンは?」
 カクテルしか飲まないくせに、未森は銘柄にはうるさかった。
「ジャック・ダニエルとフォア・ローゼス。それとワイルド・ターキーかな」
 僕が買うバーボンと言えばその位の種類だった。
「ねえ、どうしてこんなにウィスキー持ってるの?」
「趣味だよ、収集するのが。」
「へえ。でもどうしてウィスキーなんか?」
 自分が納得するまで質問する、未森はそんな娘だった。
「琥珀色の魔力にかかっているんだよ、僕は」
「葵ちゃんて、やっぱりロマンティストなんだね」
 未森が納得したのかどうかは、僕には解らなかった。
「ひとつ聞いてもいい?」
 こんどは僕は質問した。
 それがフェアと言うものだろう。
「どうぞ」
「僕の名前は『まもる』だよ。どうして『あおい』って呼ぶの?」
「『葵』っていう字は『あおい』って読むでしょ。だから」
 それは実に単純明快な答えだった。
「なるほど」
 妙に納得して僕は未森が見つめていた風景を見つめた。

 目が痛くなりそうなくらいの青空に、真っ白な雲が浮かんでいた。
 そして遠くで汽笛が鳴っていた。



 結局未森は、僕の部屋で何も作らなかった。
 未森はブラディマリーを飲んでいた。
 しきりに僕はバーボンを飲んでいた。

「ねえ、どうしてバーボンしか飲まないの?」
「バーボンが好きだから」
「ふうん」

 僕たちが座っているソファの前には、小さな丸テーブルがあった。
 その上には、昼間買ったシックなスタンドがほのかな光を放っていた。
 部屋のライトは落とされていた。 

             

「何かバーで飲んでるみたいね」
 未森は滅法酒には強かった。
「どうせ飲むんなら、雰囲気の方がいいじゃない」
 新しいオンザロックを作ろうとサイドボードの前で、僕は言った。

 TVでは昔の映画が映されていた。
 オードリ・ヘップバーンが、まだ若かった頃の映画だった。

「ねえ、お水とかボトルをこっちにもってくれば、いちいち立たなくて済むよ」
 グラスをテーブルに置いた僕に未森は言った。
「それじゃあ、雰囲気が壊れる」
「なんで?」
「未森が場末の飲み屋のお姉ちゃんのような気になるから」
「そんなの、気にしなくていいのに」
「イヤなんだよ僕は・・・。そういうのがさ」
「葵ちゃんて、けっこう神経質ね」
「そうかい」
 

「よいしょっ」
 未森は新しいブラディマリーを作る為に立ち上がった。
「いいよ、僕が作ってあげるよ」
「だいじょうぶ」
 カクテルの作り方に未森はだいぶ慣れていた。

 もっとも、ほとんどのカクテルの作り方は、僕が未森に仕込んだのだけれど。
 
 時計は午前1時になろうとしていた。
 僕も未森もだいぶ酒がまわっていた。
 友達間の恋愛関係について、僕と未森は止め度もなく話した。
 広田と美幸のコト。
 さやかのコト。
 勇祐のこコト。 
 未森のコト。
 僕のコト。


 そして僕は、二階堂成美と別れる決意を未森に告げた。

「可愛そうだよ」
 未森は成美をかばう。
「1度すれ違い始めたら、もう元には戻らないんだよ」
「それは葵ちゃんの理屈だよ」
「未森には関係の無いコトだよ」
「じゃぁ、私に関係無いコトを、どうして私になんか言うのよ?」
「・・・」
 僕は未森の言葉に、返す言葉が出てこなかった。
「・・・」
 未森は何も言わなかった。

 それから僕たちはしばらくの間、何も言わなかった。

「勇祐がさやかと付き合いたがってる」
 しばらくしてから、ぽつりと僕は言った。
「井出君が?」
 僕の言葉に未森は少しだけ驚いたようだった。
「無理よ、それは」
「どうして?」
「だって、さやかには好きな人がいるもの」
「・・・」
 彼女の言葉に僕は言葉も出なかった。
「知らなかったの?」
「ああ」
「井出君には言わない方がいいよ」
「がっかりするだろうな、勇祐」
 そいう言いながらも僕は自分自身にも言ったようだった。
「可愛そうね、井出君」
 未森はグラスを口に運んだ。

 それから僕は立て続けに3杯、バーボンをストレートで飲んだ。
「どうしたの、急に?」
「別に・・・」
「本当に成美ちゃんと別れる気なの?」
 そう言いながら未森は、会ったこともない成美をかばっていた。
「そうするしかないよ」   
「別れてどうするの?」
「未森とつきあう・・・」
 僕は何気なく言った。
「なあんだ、冗談なのね」
 笑いながら、未森は言った。
「本気だよ」
 未森はとりあわなかった。

 映画は終わっていた。
 ソファから立ち上がって僕はカーテンを開けた。
 外ではいつの間にか雨がさたさたと降っていた。


 さやかには好きな人がいた。
 勇祐の恋は実らなかった。
 そして僕の密かな想いも実らなかった。
 でも、たとえ結果がどうなるにせよ、僕は成美とは別れる以外、残された道は
無かった。


 
「未森、未森・・・」
 何も言わない未森を、僕は気になった。
「・・・」
 未森からの返事は無かった。
 何時の間にか彼女は眠ってしまっていた。
「いったい僕たちはどこで舵を取り違えてしまったんだろうね」
 そう呟いて僕は成美の部屋へ電話をしようと受話器に手を伸ばした。

 成美に「さよなら」を告げるために・・・。

 僕は未森の身体を揺すって、彼女を起こした。
「どうしたの・・・」
 眼を覚ました未森はかなり酔っていた。
「成美に電話するよ・・・」
「そう・・・」
 未森は小さな声てそれだけ言うと、溜め息をひとつついた。
「もう私が何を言っても、無駄なのね・・・」
 そう独り言のように未森は呟いた。



 僕は成美の部屋のナンバーを押した。
 とてもゆっくりと・・・。

「はい、二階堂です」
 驚くほど早く、成美は電話にでた。
「西園寺だけど・・・」
「葵君から電話をしてくるなんて、珍しいじゃない」
 電話の相手が僕だったので、成美は少し驚いたような声で言った。
 でも彼女の言葉には僕からの電話のワケを気付いているような、そんな
響きがあった。
「そうかな」
「何、酔ってるの?」
「少しね」
 僕はあまり喋りたくはなかった。
「どうしたの? こんなに夜遅く」
 そういう彼女の言葉に僕は、時間を確かめると、時計は午前2時を告げていた。
「終わりにしよう」
「えっ!?」
「終わりにしよう。何も言わずにさ・・・」
「・・・」
 成美は何も言わなかった。
 それ以上僕も何も言わなかった。

 しばらくの間、気まずい沈黙が辺りを包んでいた。
 僕はふいに未森のことが気になって、彼女の姿を探した。
 未森は窓辺に立って、漆黒のカンヴァスを見つめていた。

「1つだけお願いがあるの。それを叶えてくれたら、別れてもいいよ」
 しばらくして、成美は言った。
「何でもどうぞ・・・」
「もしも葵君が私と別れるって言うなら、私を葵君と出会った16才の時に
戻してよ」
「・・・」
 僕は何も言わなかった。
 いや、何も言えなかったんだ。
「それが出来たら別れてもいいよ」
「そんなこと・・・」
「ホラ、出来ないじゃない」
「もう僕たちの心は離れちゃってるじゃないか」
「勝手よ、あんまりじゃない」
「勝手なのはお互い様じゃないか・・・、成美」
「そんなこと・・・。私は今のままでいいのに」
「僕たちの心が今よりも離れちゃったら、もっと辛くなる。その前に、さ」
 そう言って僕は煙草に火を点けた。
 薄紫色の煙が静に立ち昇っていった。
「・・・」
 成美は何も言わなかった。
「これから僕たちは他人だよ。いいね」
「どうしてそんな言い方するの?」
 受話器の向こう側で成美は、少しだけ涙声で言った。
「僕も成美も、一緒にいすぎたんだよ、長い間」
「葵君・・・」
「こういう言い方はフェアじゃないけど、僕は知ってるんだよ、成美」
「そう・・・」
 力なくそう言うと、成美は溜め息をついた。
「解ったわ・・・。これでお別れね」
「済まない、成美・・・」
「そんなことない。ごめんなさい、私の方こそ・・・」
「それじゃぁ」
「元気でね、葵君も」



「本当に終わりにしちゃって良かったの?」
 受話器を置いた僕に、未森は言った。
 相変わらず彼女は窓の外を見つめたままだった。
「もうだいぶ前から、すれ違い始めてたんだよ・・・成美と僕は」
 そう言って僕は、グラスに半分ほどターキーを注いだ。
「帰るね、私」
 荷物をまとめながら、未森は言った。
「・・・」
 何も言わずに僕は溜め息をついて窓の方を見つめた。
「どうしちゃったのよ? 急に・・・」
 未森はソファに座って言った。
「始まりがあれば、終わりが来るんだ」
 外を眺めながら、僕は言った。 
「それはそうだけど・・・」
「そして物事には入り口があれば、出口もある」
「・・・」
 何も言わずに未森はうつむいていた。
「終わりは次の始まりへのワンステップさ」
 そう言って僕はソファに座った。
 そしてグラスに手を伸ばした。
「何があったのよ・・・?」
 未森はそう言って、僕の隣に座った。
「あまり話したくないな・・・、今は・・・」
 そう言いながら僕は、何だか全てを失ってしまったような、そんな淋しさを
感じていた。
 
 そしてナポレオンフィッシュだけが、そんな僕と未森の会話を聴いていた。


 そのまま僕と未森は朝まで飲んでいた。
 雰囲気は何となく気まずかった。
 昼頃、未森は帰って行った。

「じゃあ」
「ごきげんよう」
 僕はドアを閉めた。

 しばらくして窓から下を見ると、未森が歩いていた。
 街の空は高く晴れて、夏の日差しは街を照らし続けていた。
 水槽の中でナポレオンフィッシュは、僕は見つめていた。



 その日の夕方。
 勇祐の部屋へ僕は電話をした。

「はい、井出です」
 しばらくして、勇祐の声がした。
「西園寺だけど」
 僕は時計を見た。
 午後3時になろうとしていた。
「どうした? 珍しいな」
「何が・・・?」
「昼間は電話しないだろ、西園寺・・・」
「急に声が聴きたくなってね」
 煙草に火を点けながら、僕は言った。
「昨日は悪かったな」
「いや、いいんだ。結局未森を付き合わせた」
「どこかへ行ったんだろ?」
「僕の部屋で飲んでたよ。それも朝までね」
 そう言いながら僕は笑った。
「そうか。それはご苦労さん」
 そう言って勇祐も笑った。
「今夜、僕の部屋で飲まないか?」
 電話より直接の方が話易いと、僕は思った。
「俺はいいよ。でも西園寺、連ちゃんでもいいのか?」
「誘ってるのは僕の方だよ、勇祐」
「でも西園寺の部屋、俺知らないよ」
「5時に渋谷で会おう」
「OK。でも渋谷のどこ?」
「109の前で5時に・・・」
「OK。何か持って行こうか、酒でも・・・」
「別に何もいらないよ」
「解った」
「じゃあ」
「また、後ほど」
 そう言って僕たちは電話を切った。


 僕はヴェランダに出た。
 日はまだ、だいぶ高かった。
 どこかで日暮らしが鳴いていた。
 そして遠くで汽笛が鳴っていた。

 それから僕はシャワーを浴びた。
 頭の中を3人の女性が駆け回った。
 成美、未森、そして、さやか。
 必死に僕は、成美の姿を消そうとした。
 しかし、すればするほど、一層強固なものになっていった。
「さやかには想いを寄せる人がいた。それでもさやかを想い続ける気持ちを大切に
すればいいじゃないか・・・」
 こんなことを僕は勇祐に言うつもりだった。
 
 そして、僕自身にも・・・。
 


 時計は4時になろうとしていた。

「まだ早いけど、街をブラブラしているか」
 そう思い、僕は部屋のドアを閉めた。
 夏の太陽ははるか空高く、燃え続けていた。
 しかし、日差しは確実に斜陽へと変わりつつあった。
「『斜陽』・・・確かそんな題名の小説があったな」
 太陽を見つめながら、僕は呟いた。



 渋谷に着いた時、時計は4時半を刻んでいた。
 渋谷の街は無個性な人ごみで溢れかえっていた。
 待ち合わせた所に行くと、勇祐はすでに来ていた。
 勇祐はこれといって何も持っていなかった。

「何か肴を買って行こう」
 勇祐は辺りを伺いながら言った。
「僕は何もいらないよ」
「ピーナツくらい食うだろ?」
「そうだね」
 そのくらいの物なら、と、僕は思った。
 結局、ピーナツとポップコーンを抱えきれないくらい、勇祐は買い込んだ。



 部屋のドアを開けた時、そこで僕たちを迎えたのは、ナポレオンフィッシュ
だった。
「西園寺、でかい魚飼ってるんだな」
 水槽をのぞき込みながら、勇祐は言った。
「ああ。ナポレオンフィッシュって言うんだ、それ」
「ふうん。名前は?」
 勇祐はだいぶ気に入ったようだった。
「ナポレオン・・・」
「そうじゃなくて、ジョンとかポールとか・・・」
「別にない」
 今まで、名前なんて考えたことも皆無だった。
「じゃあ、あんまり可愛がっていないな」
 ソファに座って、勇祐は言った。
 水槽の中を見つめながら。
「そうでもないけど・・・」
 そう言いながら僕はキッチンに行って冷蔵庫を開けた。
「ビールだよな、勇祐は」
「出来ればその方がいい」
 勇祐はまだナポレオンフィッシュを見ていた。
「大丈夫。まだ15本くらいあるから」
 グラスとビールを勇祐に渡すと僕は、ヴェランダに出て煙草に火を点けた。

 空は綺麗な夕焼けになっていた。
 そして西の方から快い風が吹いていた。

「静かだな」
 ビンのままビールを飲みながら勇祐が言った。
「そうだな。珍しい」
 そう言って僕は部屋へ入った。
「何か話しがあって、俺をここへ呼んだんだろ」
 勇祐の直感はたいしたものだった。
「まあそう急ぐなよ、時間は沢山ある。ゆっくり飲みながら話そう」
 どこかで日暮らしが鳴いていた。
 それ以上僕は何も言わなかったし、勇祐も何も言わなかった。
「音楽でも流そう。静かすぎるから」
 そう言って僕は、立ち上がった。
 適当なレコードを手にとって僕は、それをターンテーブルに載せた。
 それはJ.S.BACHの『無伴奏チェロ組曲』だった。
「何のレコードだ?」
「CASALSのチェロだ」
「CASALSか・・・。悪くない」
 そう言って勇祐は眼を閉じた。
 CASALSのチェロが奏でる旋律が部屋の中に満ちていった。
 出来ることならば、時間がこのままであってほしい、と僕は思った。
 


 窓の外は雨が降りはじめていた。
 いつしか僕も飲み始めていた。
 しきりに勇祐はビールを口に運んでいた。
 僕はドライシェリーを飲んでいた。

「で、何だい? 話しは」
 3本目のビールを飲み終わった時、ポツリと勇祐は言った。
「実は成美とは、終わりにしたよ・・・」
 ナポレオンフィッシュを見ながら、僕は言った。
「何!? どうしてそんな・・・?」
「昨日、未森にも同じコトを言われた」
「昨日・・・? 西園寺お前、いつ別れたんだよ、成美ちゃんと?」
「昨日の夜さ。未森の前でね」
 僕は氷がとけて少し薄まったドライシェリーをひとくち飲んだ。
「未森もその場に居合わせたのか?」
「居合わせたというか・・・、未森と飲んでいたんだ、夕べ。その時に電話で」
「まさかお前、酔った勢いとかじゃないだろうな?」
 ビアグラスに残ったビールを一気にあおって、勇祐の口調はますます強くなって
いった。
 そんな彼を見ていると、やれやれと思い、僕は溜め息をついた。
「もう、ずっとすれ違ってたんだよ・・・。僕と成美は」
 グラスを両手で包み込むようにして、その中をじっと見つめながら僕は言った。
 ずいぶんと小さく溶けてしまった氷を見ていると、何だかそれは僕と成美の心の
繋がりのように思えた。
 最初は大きくてしっかりとした形をしていたのに、徐々に溶けて今ではすっかり
その姿が小さくなってしまっていた。

 窓の外の雨はまだ降りつづいていた。
 そしてそれは強くもならず、弱くもならなかった。
 しばらく僕たちは沈黙の時を過ごした。

「何か音楽を・・・」
「音楽なんかどうでもいい」
 立ち上がろうとした僕を、勇祐が制した。
「どう言うつもりなんだ。未森の前でよくもそんな」
 勇祐は立ち上がり、そして外を見つめながら言った。
 そんな彼を横目に立ち上がって僕はレコードをかけようとしていた。
「さやかのコトで色々と勇祐に話したいことがある」
 SATIEの『GYMNOPEDIES』が部屋に流れ始めた時、僕は勇祐に言った。
「そんなことはどうでもいい。それより未森が可愛そうだと思わないのか」
 勇祐はそれ以上何も言わなかった。
「昨日さやかとどこかへ行ったんだろ?」
 グラスに新しい氷をいれながら、僕は言った。
「えっ! 何故それを・・・?」
「弘毅から聞いたんだよ」
「そうか・・・」 
 窓の外を見つめながら勇祐は言った。

 2人を取り巻く空間には、SATIEのピアノの旋律が螺旋を描いて取り巻いていた。

「そのコトを西園寺に話す必要は無いはずだ」
「別に僕はそれについてとやかく言うつもりはないよ」
 そう言いながら僕は勇祐を見ると、彼はビールを口に運んでいた。
「でも勇祐、あまり深入りすると後悔するコトになるかもしれないよ」
「どう言うことだ? 何を知ってるんだ、西園寺?」
 勇祐はグラスを置いた。
「勇祐、ワインでも飲むか」
 立ち上がって、僕は言った。
「ワインなんか飲みたくない。そんなことより、何なんだ。教えてくれ」 
 勇祐も立ち上がって、キッチンに姿を現した。
 ワインクーラーからワインを出して僕は振り返った。
「シャブリだよ。前に勇祐も飲みたいって言ってたろ」
 そう言いながら僕はコルクを抜いた。
 ポン、とコルクが抜ける快い音がした。
 ワイングラスを2つ出して、ゆっくりとワインを注いだ。
 ほのかに葡萄の薫りが辺りに立ち込めていった。

「さやかのために・・・」
 僕は軽くグラスを上げた。
 勇祐もそれに倣った。  
「勇祐、さやかには想っている人がいるんだよ」
 ワインをひと口飲んでから僕は唐突に言った。
「そんな・・・」
 その手にしたグラスを落としそうになりながら勇祐は言った。
「西園寺、お前がさやかさんに気があるってことは知っている。だから、
そうやって・・・」
 勇祐の声は、荒々しく部屋に響いた。
「それは君の考えすぎだよ、勇祐」
「嘘をつくなら、もっと上手くなりな。西園寺」
 勇祐はワインを一気にあおった。
「僕は嘘を言ってると言うなら構わない。でもね、これは本当のことなんだ」
 勇祐は何も言わなかった。
 僕は、勇祐のグラスにワインを注いでやった。
 勇祐は顔を上げて、ナポレオンフィッシュを見つめていた。
「未森が言ったのか?」
 呟くように勇祐は言った。
「そうだよ。未森が話してくれた」
 グラスをテーブルに置いて僕は、煙草に火を点けた。
「ビールを飲んでもいいな。ワインは俺には合わない」
 立ち上がって勇祐はキッチンの方へビールを持ちに行った。
 テーブルの下にはビールの空きビンがいくつも転がっていた。
 そして僕は立ち上がって窓の外を眺めた。

 外は静かなものだった。
 雨は上がり、珍しく星が出ていた。

「それで西園寺は、さやかさんを想うのは止めろと言うんだな」
「そう言うことだ、勇祐。僕も止めたから・・・」
 この時、初めて僕は勇祐に気持ちを打ち明けた。
 勇祐はうつむいていた。
 僕は再びワインをグラスに注いだ。
 それは綺麗な紅色をしていた。
「なるほどな、さやかさんと付き合うには彼女がいてはまずいと言う訳か・・・」
 勇祐は唸る様に言った。
「それとこれとは関係ない。成美との事は・・・」 
「そんなことを俺に信じろと言うのか、西園寺?」
 僕の言葉を遮るように勇祐は言った。
 そして彼は立ち上がり窓の外を見つめた。


 その時、電話が鳴った。
「はい、西園寺です」
「もしもし、岡田です」
 電話の相手は未森だった。
「どうしたの?」
 僕は勇祐を見ながら言った。
 勇祐は外を見つめていた。
「井出君の部屋へ電話したら、留守だったから。もしかしたら葵ちゃんの部屋
かもしれないと思って・・・」
「ああ・・・。勇祐ならここに居るよ」
 勇祐は手にしたビールのビンを置いて、こちらに近づいてきた。
「なんだ、俺に用か?」
 勇祐は僕の手にした受話器に耳を近づけた。
「今、勇祐に変わる」
「葵ちゃん、別に井出君に用事がある訳じゃなくて・・・」
 未森はどうやら“僕に電話をする口実として勇祐の部屋に電話した”と言う
訳だろう。
「井出君と飲んでるの?」
「そうだよ」
「今から葵ちゃんの部屋に行ってもいい?」
 その言葉を聞いて僕は“勇祐との話しも上手く運ぶだろう”と思った。
「別に構わないよ」
 時計を確かめると、それは午前1時を刻んでいた。
「でも、どうやって来るんだ? 電車はもう無いだろ」
 勇祐が言った。
 どうやら勇祐は、未森の言葉が聞こえたようだった。
「タクシーで行くよ」
「代官山の駅からの道は判る?」
「もちろん」
「じゃあ、待ってるから」
 僕は受話器を置いた。

 電話を切ってしまうと、辺りは妙にしんと静まり返った。
 ピアノの旋律が場違いな雰囲気を作り出していた。
 僕はグラスにワインを満たして、じっとその輝きを見つめていた。
 勇祐はビアグラスを片手に、窓の外を眺めていた。
 しばらくして僕は勇祐の隣に立って、一緒に外を眺めた。
「本当に来るのか? 未森・・・」
 勇祐は不意に言った。
「ああ・・・」
「未森の部屋はどこだっけ?」
「三軒茶屋・・・」
「ふうん」
 そう言うと勇祐は、ソファに腰を下ろした。
 僕は空になったワインの瓶とビールのビンをキッチンのシンクの中に片づけた。
「勇祐、僕はバーボンを飲むけど、君は?」
 僕は氷の入ったグラスを手に持って、空いた方の手でジャック・ダニエルの
ボトルの栓を開けた。
「俺はビールだ」
 勇祐はそれ以外何も言わなかった。
 僕はビールと僕のグラスを手にして、勇祐の隣に座った。
「西園寺、未森が来る前に確認したいことがある」
「何だい?」
 グラスを置いて僕は、煙草に火を点けた。
「好きな男がいる娘がだ、他の男に抱いてなんて言うかな、普通?」
「何っ!? 勇祐、さやかがそう言ったのか?」
 僕は口にくわえた煙草を落としそうになった。
「ああ。言ったとも」
 勇祐はビールをあおった。
「それで勇祐、お前は・・・?」
「まさか・・・」
「だろうね・・・」 

 それから長い沈黙が二人を包んだ。
 いつ終わるとも知れない沈黙が・・・。



 どのくらい時が流れたのだろう。
 煙草は僕の指の間でフィルターだけを残していた。
 そしてグラスの中の氷は溶けてしまっていた。
 ただ動くものと言えば、時計の針とナポレオンフィッシュだけだった。

 
 静まり返った部屋の中にドアを叩く音が響き渡った。
 ゆっくりと立ち上がって僕は時計を見た。
 未森の電話から1時間がすでに経過していた。 
 そしてドアを開けると、そこには未森が立っていた。


「こんばんは・・・、未森」
「おじゃまします」
 僕と未森は簡単な言葉を交わした。
「勇祐、未森が来たよ」
 そう言って僕は、未森を部屋に導き入れた。
「井出君、こんばんは」
 勇祐の肩を叩いて、未森は言った。
「よう・・・」
 そう言って勇祐はうなづいただけだった。
「未森、何か飲むかい?」
「自分でやるよ」
 そう言って未森は、キッチンに消えて行った。

 僕の部屋は、僕と僕の友達とのバーの様になっていた。
 結局、未森はブラディマリーを手にして現れた。

「で、話はどこまで進んだの?」
 黙って飲んでいる僕と勇祐に向かって、未森は言った。
「別にこれと言って話はしていない」
 そう言って勇祐はビールを口に運んだ。
「そうだね」
 そう言って僕は煙草に火を点けて、ソファから立ち上がった。
 そしてカーテンを開けた。
 薄い窓ガラスの向こう側には暗闇のカンヴァスが広がっていた。
「勇祐、さやかが何を言ってもお前の恋は終わったし、僕の密かな恋も終わった
んだよ」
 勇祐は、確かに、と言う様な顔でうなづいた。
「葵ちゃん、それどう言うことなの?」
 僕の言葉に目を丸くして未森は言った。
「俺も西園寺も、さやかさんに惚れていたのさ」
 ビールを一気にあおって、勇祐が言った。
 僕はしばらくのあいだ手にしたグラスをじっと見つめていた。
 中の氷がとけて、その水が小さな海流のようにウィスキーの隙間に潜り込もう
としているのが見えた。
「葵ちゃん、成美ちゃんと別れたのは、そう言うことだったの!?」
「違うよな、西園寺・・・」
 水槽のナポレオンフィッシュを眺めながら、勇祐は言った。
「さやかとは関係ないよ。僕と成美のコトは・・・」
 軽く振り返って僕は言った。
 そして、再び窓の外の世界を見つめた。

 手にした煙草は灰と化していた。
 それが静かに床の上に落ちた。
 その小さな音が、僕たちには聴こえたような気がした。

「葵ちゃん、あの時私を騙したのね!」
 未森は強い口調で僕に言った。
「別に、騙したつもりなんてないよ」
 僕は灰皿にフィルターを捨てて、キッチンに行った。
 そしてジャック・ダニエルのオン・ザ・ロックを作ってリビングに戻った。
 
 なじるのは未森ばかりで、それは一方的であり、勇祐はただ黙って飲んでいる
ばかりだった。

「裏切りの恋なんて、神への冒涜じゃないの」
「神への冒涜? まさに冒涜そのものさ。僕は許されざる者だ」
「開き直りが早いのね!」
 ますますムキになって未森は言った。
「基督が殺されたのは、きっと僕の罪のせいだ」
 そう言って僕は、グラスを口に運んだ。
「もうそんな話はどうでもいい。旨い酒を飲もうじゃないか」
 もううんざりだと言った表情で勇祐はそう言った。
 そうだねと僕は言い、そうしようと未森は言った。
「でも・・・」
 まだ何か言おうとしていた未森を、勇祐が制した。
「西園寺にだって、それなりの理由があったんだろ」
 そう言って勇祐は立ち上がり、レコードを選び始めた。
「『RHAPSODY IN BLUE』が聴きたい」
 そう言って勇祐は、レコードを僕に渡した。
「OK」
 僕はステレオに近づき、ターンテーブルにレコードを乗せた。
 Gershwinのピアノが部屋に流れた。
 もうだいぶ古いレコードで、音を聴き取るのにはかなり苦労だった。
 その時突然、全く突然に未森が言った。
「私たち、3人とも失恋した者同士じゃない」
「そうね」
 僕がそう言うと、勇祐もうなづいた。


 それからしばらくの間、僕たちは音楽を聴き入っていた。


「違うレコードにしよう」
 そう言って僕が次に選んだのは、FRANK SINATRAの、やはり同じ位古びた
レコードだった。
「『South Of Border』・・・。知ってるだろ?」
 ターンテーブルに乗せながら僕は勇祐に言った。
 “勿論しっている”と勇祐は言い、“知らない”と未森は言った。
「この曲を初めて聴いた時、国境の南に何があるんだろうっていつも考えていた。
もっとも、国境の南って言うのがメキシコのコトを意味しているのを知ったのは、
それから何年か経ってからだったけどね」
「確かに、国境の南って聞くと、何かありそうね」
 僕の言葉を聞いた未森がそう言った。
 勇祐は目を閉じて何も言わなかった。
 もしかしたら勇祐は眠っていたのかもしれない。

 レコードの中でFRANK SINATRAは次々に懐かしい歌を歌っていた。
 しかし、本当にそれが懐かしい歌なのかどうかは誰にも判らなかった。
 ただ、僕には僅かながらも懐かしいと言う感情があったことだけは、確かなこと
だった。


 結局、僕たちは朝まで飲んでいた。
 その間に再び色恋沙汰の話しになった。
 “僕が速まった真似をしなければ成美との仲は当分続いただろう”
と勇祐は言った。
 “葵ちゃんにはちょうどいい時期だったのよ。過去を省みて、これからの
ことを決めるのには”と、未森は言った。
 僕はどちらとも言えない、としか言えなかった。
 本当にそれが正しい選択だったのかは、僕自身には決められなかったし、
正しいとも思えなかった。
 ただ、はっきり言えることは、僕も勇祐と同様にさやかに幻想を見せられていた、
と言うことだけだった。
 なぜならばそれによって−直接的な原因ではないにしても−僕は成美と別れたし、
勇祐は戸惑い、困惑していた。
 そして未森はそんな僕と勇祐に振り回された。
 しかし僕も勇祐も何故かさやかを恨む気持ちは湧いてはこなかった。
 それは僕と勇祐の2人が勝手にさやかの幻想を見たことに他ならなかったと、
2人とも確信しているからだろう。



 気がつくと、時計は午後3時を刻もうをしていた。
 カーテンを開けると、窓の外には1993年7月のぼんやりと曇った空が
広がっていた。
 ソファで勇祐は眠っていた。
 そしてベッドの上に乗って、未森も眠ったままだった。
 僕は2人を起こす気ににはなれなかったので、静かに後片づけをした。
 そして午後4時になって未森が起き上がった。
 それから30分ぐらいで勇祐も起きた。
 勇祐も未森もそして僕も、何故かあまり喋ろうとはしなかった。
 祭りの後にも似た、どことなく空しい空気が辺りを覆っていた。
 そして、午後5時頃に2人は出て行った。
 夕方のわりにはまだ外はとても暑かった。



 僕はドアをしめて、眠たげな目をこすりながら水槽を見た。
 そこには既に冷たくなったナポレオンフィッシュが、仰向けになって浮いていた。
 僕は何一つ声も出さずに、死んだそれを見つめていた。
 いつしか涙が溢れ、頬をつたっていた。
 独りになってしまうと僕だけがそこに取り残されているような淋しさに襲われた。
 何だか僕は、全てのものを失ってしまったような気がした。
 そして僕はべランダに出てビルの谷間に消えていく落日を見つめながら泣いた。
 涙が溢れてきてしかたがなかった。
 こんなに泣いたのは久しぶりだった。
 小学校の時、好きだった女の先生の転勤を知ったとき以来かもしれない。



 次の日の朝僕は、死んでしまったナポレオンフィッシュを葬るべく、海に
出かけた。


 僕の目の前を幾つもの船が過ぎて行った。大きな船もあれば、漁船のような
小さな船もあった。
「生きとし生けるもの全てその命が絶たれれば、魂は天上にありて神と共に
永遠に生き続ける。しかし、その肉体は、母なる海へと還るべきである」 
 そう言って僕は十字を切った。
 そして静かにナポレオンフィッシュを海に流した。
 遠い南の熱帯の国で生を受けたそれは、こんなにも遠い北の国の、そして
黒く汚れた東京湾の緩やかな波間にその姿を静かに消していった。


 それから僕はそのままぼんやりと海を見つめていた。
          
              


 結局、部屋に帰ったのは、夜の10時頃だった。
 どこをどう歩いたのかは全く覚えていない。
 そして、久しぶりに両親の元へ電話をした。
 ナポレオンフィッシュが死んだことを告げた。
 母は、また買えばいいじゃない、と言った。
 じゃあ、明日にでもペットショップへ行くよ、と言って電話を切った。
 しかし、もうナポレオンフィッシュを飼う気にはなれなかった。
 別にそれに飽きたと言う訳ではないけれど。
 


 1993年の夏のことはそれ以外は覚えていない。
 それはまるで夢の中の出来事のようだった。



 そしてその夢の中で僕は、ずっとナポレオンフィッシュと泳いでいたような、
そんな気がする。


                〜fin〜


 


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