| 僕の不登校時代の回顧録です。 不登校や中退など、エピソードを寄せて頂けたら幸いです。場合によっては紹介するコンテンツの 作成も検討中です。 |
第1章 序 章 第2章 不登校になった 第3章 学校に行きたくない 第4章 周りの目 第5章 巨人との出会い 第6章 反抗期 第7章 進路 第8章 卒業後 第9章 最終章 |
| もうかなり前の話になる。それは、1992年夏に始まったのです。僕を含めて周囲の人々は皆驚いたであろう。この時から、中学卒業までの2年半程の間、僕は不登校になった。今でこそ、随分と「不登校・中退」が大きな問題として取り上げられることは多くなったが、かなり以前から起こっていた現象とはいえ、理解を示してくれるような人はごく一部の人であっただろうし、身近にそんな人はいなかった。 しかし、今、こうして当時を振り返ると「不登校して良かったなぁ」と思えるくらいだ。この間、たくさん悩んで自分自身と戦ったことで、僕の中にあった「生真面目さ、硬さ」が、少なからず和らいだからだ。不登校をしていなかったらと考えることが昔はあった。僕は勉強は比較的できた方なので、いわゆる良い高校、良い大学というコースを辿っていただろう。しかし、僕の「こうでなければならないという考え方」、「生真面目さ」、「自分を追い込む」といった性格は決して、順調なレールを作らせてくれなかったと思う。 今、周りの人達に「不登校だったんだよ」と言うと、皆はそんな感じしないと言う。そう、今では完全に新しい自分を切り拓いているのだ。一般的には挫折のようなあまり良いイメージの無い不登校も僕にとっては良い思い出になっている。この間に僕は夢を持ったし、勉強はしていなかったけど考える時間はたくさんあった。自分が最も成長し強くなれた時でもある。 ここに記すのは、ほんの一例に過ぎないが、多くの人達の関心を得て、皆さんが変われることを期待しています。だからこうして、回顧録として皆さんに知って頂きたい。何分昔のことですので、忘れていることもあるかもしれませんが、何かの役に立てれば幸いです。 |
| 中学校に入学した僕は、順調に1学期を終えた。小学校の4年くらいまでは風邪で学校を欠席することはあったけど、以降はほとんどなかった。弱かった身体も次第に体力がついて、中学の部活はバレーボール部に入部した。しかし、筋トレとパスの練習しかしないで、バレーボールと別れるとは思ってもいなかった。 気合を入れて進学塾にも通い、スポーツと学業ととても順調だったのだ。夏休みになるまでは。頑張りすぎて自分を追い込む性格のある僕は、40日の夏休みの内、20日間を夏期講習に費やすことにしたのだ。親は「そんなに勉強しなくていいよ」と言ったが、僕は頑張る決意を固めていた。ところが、風邪で2、3日講習を欠席してしまった。 そう、不登校になる兆候はここに表れかけていたことには、勿論気付かない。普通なら風邪が治れば再び通うのだが、僕は違った。授業についていけるだろうかという不安感から、全く行けなくなってしまった。完璧主義者TAKASHIのマイナス面が現れた。あまりにもこうでなければならないと思うあまり、挫折という言葉を体験したのであった。結局、塾には数日通っただけで終わってしまった。続いて、2学期が始まるわけだが、塾で起きたことと同じようなことが起こったのだ。またしても風邪を引き、欠席した。今度は喘息だった。やはり、ここでも行きづらくなり行ったり行かなかったりが10日ほど続いた。そして、行くと周りにも言ってしまっていた運動会を休んだことで、学校には行かなくなり2年半の不登校時代がスタートした。 |
| 不登校がスタートした後も、安泰というわけではなかった。当然のことながら親はなんとしても学校に行かせよとする。これが無くなるまで半年近くかかったような気がする。それまでは、学校に行かなければならないという義務感と心の不安との戦いだった。 しばらくの間、風邪でもなく学校を休む状態が長く続くと、もし学校に行ったら「なんで休んでいたの?」と聞かれそうで怖かったのを覚えている。ただせさえ、当時の幼い僕には強い精神力や、自分を理解するでゆとりなど無く、自分でも理由がわからず学校に行ってないことに引け目を感じていたのだから。 既に、僕の心は学校に行きたくない、行けない状態であった。しかし、朝になると親にうるさく言われる。それが辛くてたまらなかった。毎日のように朝になると腹痛を訴えて、なんとか休むことを許してもらおうとしていたものだ。気持ちの中では腹痛になれ!このように思い込むと、本当に腹痛になるのだから不思議Bなものだ。しかも朝の登校時間限定の腹痛である。たいていは9時過ぎには、治まるのであった。 当時の僕は、本当は学校に行きたいんだ、でも行けないと言っていた。しかし、実際は行きたいのではなく行かなければならないという義務感の中に身を置いていたからであろう。 その後、数ヶ月を経て親も少しづつ理解を示してくれるようになった。こうして、少しづつ気は楽になり「不登校TAKASHI」は誕生したのであった。これを挫折と見る人は多いかもしれないが、今では良い経験である。 |
| 特に理由の無い、自分でも分からない休みが続くと、学校に行ったら「なんで休んでいたの?」と言われるようで不安になっていた。よく考えればたいしたことでは無いのかもしれないが、当時の僕には苦しかった。どんなことに対しても考えすぎる性格は、既にこの時に芽生えていた。もしかしたら、皆こんな風に思っているんじゃないかなとか考えてしまい、なんだか自分が悪いことをしているような気持ちだった。きっと学校に行ったら行ったで皆普通に接してくれただろうし、すぐに僕も慣れたかもしれない。しかし、既に「行く」という行為が実行できないのであった。こうした気持ちは、中学卒業まで残っていた。今でもたまに同じような気持ちになるときがある。それは、僕の性格の根底に根ざしているもので決してなくならない。その度合いが減っただけのような気がするのだ。たまに、自分はまだ完全に不登校から抜け出してないのかなと思うことがあるのは、こうしたことから来ているのだろう。 少し話が反れたが、このように周りの目を気にするようになっていたのだ。でも、なぜか僕は「引きこもり」にはならなかった。外には毎日のように出歩いていた。別に目的があるわけではない。ただ、じっとしていられなかっただけなのかもしれない。よく出かけた場所が、ヨドバシカメラであったり、八重洲ブックセンターであったりした。都心の電車の路線図が頭に入っているのもよく出掛けていたからなのだ。また、読書をするようになったのもこの頃である。今思い出すと、ゲームか読書かテレビか出掛けることの繰り返しの生活であった。このように出掛けたりしていたが、さすがに朝からは外出できない。周りの目が気になるのだ。だから決まって出掛けるのは、4時以降が多かった。県民の日とかで明らかに学校が休みの時は、うしろめたさを感じず堂々と朝から出掛けていたくらいなのだ。 これだけなら、まだいい。ここで昼夜逆転現象への道が現れた。夕方からで掛けるため、そして、学校に行かされるかもしれないから朝は起きたくない。朝起きれない言い訳の為に夜遅くまで起きているという現象に当ったのだ。ゲームとかテレビを見ながら朝4時頃まで起きていた。 |
| そんな生活も巨人戦との出会いで変化を見せる。外野スタンドでの応援歌を歌う応援は、なんだか自分の居場所を見つけたようであった。ここにいる時は、何もかも忘れられる。僕の心の拠り所が、東京ドーム巨人戦ライトスタンドであったのだ。今でも観に行っており、TAKASHIには欠かせない趣味の1つになっている。今まで静かに生きていただけに、こうして大騒ぎすることはとても楽しかったことを覚えています。大声を出して応援して巨人が勝つ、劇的なサヨナラや素晴らしいファインプレーに魅せられたのです。しかも、観戦2年目の1994年、我が巨人軍は見事西武ライオンズを破り日本一に輝いたのです。勿論この胴上げを目の当たりにしたのです。この年にもらった選手のサインの入ったはっぴは僕の宝であり、今でも球場では着ています。そんな思い出と、苦しかった時代を知るこのはっぴと共に僕は巨人を追いつづけ歩んでいるのです。 ここでは巨人との出会いの他にもう一つ素晴らしい出会いがあったのです。今日まで続く野球観戦仲間との出会いです。年齢こそ僕とは随分離れた社会人の方ばかりでしたが、不登校の中にあって話をする仲間がいたことが、心の救いにもなっていたかのように思います。自分は不登校だとは言えずに苦しむときもありましたが、話ができる喜びもあったと思います。 |
| 巨人との出会いで安らぎを得た僕だったが、決して心が安定していたわけでわない。学校を休むことへの不安はあったし、勉強に対する不安、将来への不安などが交錯していた。ちょうど自分の存在さえも否定し始めたのが、この章のタイトルでもある『反抗期』であった。 反抗期の起きた経緯は定かではなく覚えていないが、こうした不安から親に当り始めたのだろう。何か起こるたびに親に当たり、今考えると非は僕にあると思うことでも親に当る。精神的に考え方も幼い僕は、自己正当化していた。思い起こすとたわいもない事なのであったが。だが、僕を戒めてくれる人はいなかった。自分が悪いと思っていても誰も戒めてくれないことに歯がゆさを感じていた。そうした苛立ちもあって、家の物を破壊したり、親に無理難題を押し付け約束させていた。暴力も振るった。しかし、親は「出来ない」と言わないので僕はますます腹が立つ。本当に当時の僕は荒れていた。親を外に出して家の鍵を閉めたりもした。1歩間違うと何をしていたか分からないほどだ。残念なことにこんな僕の心を癒してくれる人はいなかった。やるせない気持ちでいっぱいだった。だからこそ、不器用な僕は荒れることで助けを求めていたのは間違いない。 親の気を引こうとしていたのかもしれない、心配をかけるようなことばかりしていた。夜に突然飛び出して4時間ほど歩いたり、一緒に出かけても突然一人で別行動をとったりもした。当時の僕の心の中には、こんなに悪いことばかりしている僕はいない方が皆が幸せになれるんじゃないかとも思った。それなら死んでしまった方がいいと思い親に言ったこともある。正直な話、当時の僕は自分ひとりがいなくなることで、皆が幸せになれるならその方がいいと思っていた。 中学2年からの2年間くらいは、本当に荒れていた。しかし、2年も続くと落ち着くのだろうか、疲れたのだろうか。反抗こそ続いていたものの、大きな荒れは薄れていた。その後、もう2年ほど反抗は続き長い長い、暗黒の日々は過去のものとなった。たぶん、ここで過去のものと成り得たのは、親に何かを求めていたのだろうということと、将来を考えていたため、ここで頑張らなくてはという気持ちがあったからだと思う。 |
| 将来のことを考え始めていた僕は当然、進路についても考える。ところが結論は出ない。学校に行くという選択肢だけは考えられなかったからだ。もし、普通高校に行ったら又同じ事が起きるのではないかという不安があった。ただ、唯一の救いは夢を持っていたことにある。もしかしたら、この存在が新しい路を切り拓く柱だったかもしれない。 中学2年の頃であろうか。僕は『アメリカ横断ウルトラクイズ』を観た。ここで、普通は参加したいと思うだろう。勿論僕は参加したいと思った。それ以上に強く思ったのが、アナウンサーになりたいであった。僕の想いは、福沢アナの後は自分がという強い思いがあった。今でこそ随分取り上げられるようになった不登校も当時は、あまり取り上げられていなかった。そんな中で、アナウンサーという露出が多くて何かを伝えられる仕事に魅力を感じていた。そんな意義のある仕事を自分がすることで、他の僕と同じように悩んでいる人に、やればできる悲観することはないと伝えたかった思いが強かった。しかし、なぜ僕が不登校から抜け出していないにもかかわらず、こんな思いを思っていたのか自分でも分からない。 又、『教師』になるという夢も持った。不登校になってなぜ教師?と思う人もいるかもしれない。だが、この経験は生かせると思った。できるだけ不登校を理解している人が近くにいた方が子ども達のためだと思ったし、自分だから出来ることがあるはずだと思ったからだ。 このように不登校の間は、将来を考えたり自問自答する機会に恵まれた。『アナウンサー』と『教師』、皮肉なことにどちらも大学進学が必要であった。やはり高卒が必要なのだ。しかも勉強しなければならない。僕は勉強する状態にはなかったし、何から手をつけて良いかもわからなかった。それを教えてくれる人もいなかった。僕の担任はなんとか僕を学校に通わせようと手をこまねいていただけだった。 そこで、当時は10校ほどしかなかった通信制サポート校を見つて進路を決めた。そして勉強するために家庭教師を呼んだ。僕の家庭教師は2度変わって、最初の人と次の人は不登校への理解はなく辛くなり止めた。3人目がよかった。勉強だけでなく僕の話を聞いてくれる人だったからだ。当時の僕に最も必要だったのは、勉強ではなく話を聞いてくれる人であったのだ。僕の支えにもなりなんと3年も続いた。その先生は司法試験に合格し弁護士になった。 |
| 中学校は数ヶ月しか通っていないにもかかわらず、卒業はできた。卒業し新たな路を歩むことになった。90分もかけて都心に通えば、知り合いもいない。地元にも友達はゼロになっていた。地元の人とと話すことなんて別になかった。しかし、通い始めたサポート校は高校中退者や不登校経験者などの集まりで、皆お互いの気持ちへの理解を示しており、共感する所もあったしやさしい人の集まりなので、すぐに友達はできた。 そんな生活の中では生徒会の副会長を務めたりして、次第に積極性も生まれ始めた。しかもサポート校ではあるが、皆勤賞も取った。ただ、最初の1年は一度休むと中学時代の二の舞になるのではという不安から、休めなかったのも事実だ。 こうして多くの仲間を得て、見事大学合格を手にし高校生活を終え今の大学生活に至る。このときの友達の多くは専門学校などに通っていたため、今では就職をしている人が多い。あまり会う機会は無いが皆充実した生活を送っているようだ。 *1サポート校…突然できた言葉で、主に通信制高校のレポート指導をし高校卒業のサポートをする塾のような所。 |
| 僕の大学生活も後1年となり、就職を決める時期にも来ている。こうした話は別に自ら話したりする事は無いが、不登校をした事実だけは伝えているし今後もアピールしていきたい。なぜなら、少しでもこうした教育問題に関心を持って欲しいし、身近に不登校を感じて欲しいからである。大学進学してから、不登校の話をしてもよく分かっていない人がたくさんいたからでもある。もっと多くの人に理解してもらいたくてここに掲載したのだが、少しは関心を持って頂けただろうか。又、悩んでいる人は何かを掴んでくれただろうか。ただ、ここで改めて言いたい。これは、たくさんの人の中の1つの出来事で不登校のタイプも前向きな人、後ろ向きな人もいるわけで多種多様でたくさんあることを知って欲しい。まずは、今の自分を受け留めることが大事で、そのあと自分がどうしたいのか考える。周りの人はそれに手を差し伸べてやる。自分の力で考えて動くことが最も重要だと思う。いつかかならず、自分はこんなにいい経験をしたんだと思う日が来るだろう。 『為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり』(上杉鷹山) まずはやってみよう! |
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