3 世界を認識するということ


私は考える、だから・・・

 わたしたちは感覚器官を通じてこの世界を認識し、世界が間違いなく存在すると考えています。しかし、確かに存在しているのは「世界」でしょうか。そうではなく、むしろ世界が存在していると考えるわたしたちの「考え(認識)」の方ではないでしょうか(8)。わたしたちが存在していると考えている世界は幻影に過ぎないかもしれません。ギリシアの哲学者プラトン(BC428−347)は、「洞窟の比喩」において、人間の感覚を頼りにする現実世界は、奥深い洞窟の中でともしびの光が映し出す「影」を見ているようなものだと述べています(9)。

 認識するこころ(精神)と認識される世界(物質)とが存在するという考え方を精神と物質の二元論(物心二元論)といいます。こうした考え方をはじめて明確に主張したのはフランスの哲学者デカルト(1596−1650)でした。彼は、「考える私(精神)」が一切の物質性から独立した存在であることを明らかにしました(10)。ただしその後、この物心二元論は、デカルトの主張を越えて、物質(世界)も人間の認識から独立した客観的実在であり、私たちが世界を認識するしないにかかわらず「世界」は存在していると考えられるようになります。 

 しかし、私たちの認識を離れて「世界」は存在するのでしょうか。デカルトは『方法序説』において、ほんのわずかでも疑いの残るものは投げ捨て、そうした上でまったく疑いえぬものを捜し求めた結果、決して疑いえないものがあることを見出しました。それは「私は考える、ゆえに私はある」ということです(11)。私たちはデカルトのように、私たちにとって確かなことから議論をはじめたいと思います。

 外的世界が存在するかどうかは明らかではありません。それは私たちの認識作用を通じてしか判断できません。しかし、私が「世界が存在すると考えている」ことは確かです。私たちがはっきり言えることは、外的宇宙の存在ではなく、私たちがこの世界が存在すると「考えていること」なのです。まず、この点を確認しておきたいと思います。

 それでは、私たちはどのように世界が存在すると考えているのでしょうか。実のところ、私たちが「世界の存在」と考えていることの多くは、よくよく検討してみると私たちの「知性」の産物であることが分かります。

世界を認識することT−記憶−

 今は春。満開の桜が風に吹かれて舞い始めました。うす紅色の花びらが青い空を埋め尽くします。花びらのひとつがちょうど私の肩に落ちました。

 ところで、私たちはどうして「花びらが舞っている」ということを認識できるのでしょうか。視覚というのは刹那的なものです。人間の網膜を刺激する光は、私たちの視神経を刺激した時点で消えてなくなってしまいます。それでもなぜ私たちが桜の花びらの軌跡を追えるのかといえば、一秒前の花びらの状態を私たちが"記憶"していたからです。

 一秒前の花びらの位置を覚えており、現在の花びらの位置と比較して花びらが舞っているという認識が生じます。記憶の力なくして、私たちは物質が動くということを認識することはできません。この世界は移り変わってゆくものですが、そうした世界を私たちが認識できるのは、現在の認識とともに、過去を記憶しているからです。世界の認識とは、今まさに感覚器官を通じて行われる外界の刺激の認識と先に認識した事象の記憶の総体として存在するものなのです。

 外界の世界が実際に運動をしているかどうかは実際のところ分かりません。明確に言えることは、世界の活動の認識には、記憶という人間の有する「知性」の作用が関係していることです。

世界を認識することU−知性の統合作用−

 夏の海。水平線がはるかかなたに見えます。穏やかな波の音、潮の香り、夏草のむっとするにおいがします。海水に手を浸すと温んだ心地よさがあり、なめてみると独特の塩辛さがあります。私たちは夏の海を身体全体で感じます。

 さて、私たちが世界を認識する場合、視覚だけによる認識に加えて聴覚、臭覚、触覚、味覚などによる認識が加わりますとその認識はより確かなもののように思われます。夏の海は間違いなく存在する、と思います。

 しかし、たとえば、自分が見晴らしている海と自分が手で感触を楽しんでいる海と、潮の香りをかいでいる海と、どうして「同じ海」だと言えるのでしょうか。いろいろなことを考えないで、目をつむり、匂いもかかずに海に手を入れてみましょう。よく分らない一定の感触があるだけです。皮膚の感覚器官を通して一定の感覚が伝わったというだけです。

 私たちは物事を、目や耳や鼻や舌や皮膚といった感覚器官を通じて、視覚、聴覚、触覚、嗅覚といったさまざまな「知覚」によって認識しています。知覚は「世界」を認識するために必要不可欠なものです。また、知覚が複合的になればなるほど、その対象を間違いようのない実体として私たちは考えるようになります。

 これは大変不思議なことです。視覚と触覚、臭覚、聴覚はまったく別の感覚器官からもたらされる刺激です。私たちはそれら別々の刺激からひとつの世界を組み立てています。こうしたことが可能なのは、私たちが別々の感覚を統合する力を持っているからだといえるでしょう。感覚器官からの信号を統一し、ひとつの世界を認識させているのは人間の知性なのです。だから、確かなのは、様々な感覚を私たちに与える総体としての外的な世界が存在することではなく、感覚器官の刺激を統合する私たちの「知性」が存在するということです。

世界を認識することV−切り取り−

 私は今、全山紅葉に染まった山並みを眺めています。ブナやならの黄色の中にもみじの赤が鮮やかです。私たち日本人にとって山は心のふるさとです。

 ところで、「もみじは赤い」という場合、「赤い」のは「もみじ」の属性でしょうか。どうもそのようには言えません。なぜなら、私たちの目は可視光線の範囲でのみ認識が可能であり、その外側にある赤外線や紫外線、エックス線などを認識することはできません。山に反射してもたらされる光も実際には様々な光があるはずですが、私たちが認識できるのは一定の範囲の光なのです。もし、私たちの目が赤外線や紫外線を認識することができたら、もみじはきっと違ったように見えることでしょう(1)。

 同じことは聴覚刺激についてもいえます。私たちが聴くことのできる音はその振動数が二〇〜二〇〇〇〇ヘルツ程度に限られ、それ以上および以下の音は私たちの耳に届きません。私たちは外界のおびただしい刺激の中の一部を「切り取って」認識しているのです。

 ですから、「赤いもみじ」という場合、それは私たちの知覚作用によって認識した範囲における色の認識であり、そうした認識作用から切り離された実体として「赤いもみじ」なるものが存在するわけではありません。この意味において、色の認識という単純な事がらも私たちの知的作用を離れて存在しないことが分かります。

 また、そもそも、山を眺めるという場合、私たちが眺めているのは、山に反射して視覚器官に到達した太陽光線です。光エネルギーが視神経を刺激し、それが電気信号となって私たちの大脳に至り脳内の情報処理システムによってそこに山が存在すると教えているのです。しかし、視神経に刺激を与えているのは光であり山そのものではありませんから、山が存在するという認識は直接的には光線を知覚する私たちの認識作用の賜物といえるでしょう。

世界を認識することW−意味付け−

 「星はすばる。ひこぼし。ゆうづつ。よばい星、少しをかし。」枕草子(254段)のなかで清少納言は、最も魅力のある星として「すばる」を挙げました。すばるは冬の空にオリオン座の左上に位置する牡牛座の背中の部分にあたる星の集まりです。この星団は青白い光を放つ120個ほどの星々からなるのですが、実際に肉眼で確認できるのは七つ程度です。それでも、星々がごちゃっと集まり、私には柄の付いた団扇のように見えます。元来、「すばる」は「統る(すまる、ひとつにまとまる)」という意味に由来するようです。

 ところで、私は「すばる」を「星」と認識して眺めています。星であるという認識とは、宇宙空間に浮かび、太陽と同じ高温の球体であり、眺めれば私たちを厳かな気持ちにし、星座や神話などが作られているなどと認識しているということです。一定の意味付けをおこなって星を見ているのです。

 星に対する意味付けはそれぞれの人間で違ったものになるでしょう。天体観測に興味のある人なら、すばるが地球から410光年離れており、西洋ではギリシア神話の七人の姉妹から名をとって「プレアデス星団」と呼ばれているなどの知識や、苦労をして写真をとった体験などが加わります。そうした思いの総体として星を眺めることになるのです。

 一定の意味付けを行いながら認識するということは、私たちが見間違い(認知の錯誤)をすることからも分かります。夕方の空に奇妙な動き方をする物体を認めたのでUFOだと思ったらヘリコプターだったといった経験を私たちはよくします。知覚心理学では、同じ絵が壺に見えたり、相対した二人の横顔に見えたりする「ルビンのつぼ」に代表されるように、意味付けをしながら認識する過程が研究されています。

 さて、何の意味付けもおこなわないで認識するということがありうるでしょうか。「星」と述べた時点で一定の意味付けがなされているわけですから、たぶんそれは論理矛盾でしょう。たとえば、公園のベンチに座って何か考えごとをしながらぼんやりとまわりの景色を眺めていると想像してください。この場合、考えごとに没頭しているときには、「何を見ましたか」と聞かれても答えられないということがあるでしょう。元来、「見る」ということは、対象を知覚するということとその知覚刺激から呼び覚まされた意味付けの過程すなわち人の知性との総体としてあるものなのです。

「知性」のすばらしさ

 以上のように検討してみますと、どうも私たちは誤解していることが分かります。私たちが認識しているのは外的世界そのもの(それがあると仮定しても)ではなく、私たちの「知性」が構築した世界です。少なくとも、記憶の作用、統合作用、切り取りの作用、意味付けの作用など私たちの知的作用なしには私たちが常識的に考えているところの「世界」は存在しないのです。私たちのあまりにも強い偏見が私たち自身の知的作用の産物を「外の世界そのもの」と考えさせているのです。

 外的世界がどのようなものであるにせよ、そこからひとつの「外の世界」を構築する私たちの知的能力とはなんと偉大でしょうか(12)。この世界を成り立たせるほど見事な認識作用を有するというそれだけで私たちの知性の「尊厳性」が理解できるものと思われます(13)。


(8)ここでは、「世界」という概念と「宇宙」という概念を区別せずに、「外的に存在するものの総体」といった意味で用います。 同様に、「認識」「考え」「知性」などの言葉も区別をせずに、「外的世界が存在すると考えていること」という意味で用いたいと思います。

(9)藤沢令夫訳『国家』プラトン全集・第11巻(岩波書店、1976年)492頁以下、とくに498頁。

(10)野田又夫訳『方法序説・情念論』(中央公論社、1974年)44頁。

(11)同43頁。

(12)パスカル(1624−1662)は述べています。「私が私の尊厳を求めなければならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。私は多くの土地を所有したところで、優ることにはならないだろう。空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。(前田陽一ほか訳『パンセ』世界の名著二九[中央公論社、1978年]204頁)。」

(13)本章の内容については、加藤茂『ひとは自我の色眼鏡で世界を見る』(勁草書房、1998年)、中島義道『時間を哲学する』(講談社現代新書、1996年)、関塚正嗣『哲学の誘惑』(朝日出版社、1997年)、中村光世『哲学にご用心』(ナカニシヤ出版、1997年)、苧阪直行『意識とは何か』(岩波書店、1997年)、下條信輔『〈意識〉とは何だろうか』(講談社現代新書、1999年)、野矢茂樹『哲学の謎』(講談社現代新書、1996年)、ラッセル著/竹尾治一郎訳『心の分析』(勁草書房、1993年)、岡田雅勝ほか編『知ることと生きること』(東信堂、1988年)、市川一寿・吉岡亨『記憶とは何か―分子生物学的アプローチ』(丸善、1997年)、ロフタス他著/大村彰道訳『人間の記憶―認知心理学入門』(東京大学出版会、1980年)、山元大輔『脳と記憶の謎』(講談社現代新書、1997年)、港千尋『記憶』(講談社、1996年)、山鳥重『脳から見た心』(日本放送出版協会、1985年)、天外伺朗・茂木健一郎『意識は科学で解き明かせるか』(講談社ブルーバックス、2000年)、大森荘蔵『時間と自我』(青土社、1992年)、ジョルジュ・プーレ著/井上究一郎ほか訳『人間的時間の研究』(筑摩書房、1969年)など参照。

      

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