4 外的世界はどのように存在するか


量子力学

 さて、これまで私たちは、「私たちがどのように世界を認識しているのか」という問題を考えてきました。しかし、それはあくまで私たちの認識の問題であって、「どのように世界が存在するのか」という問題ではありません。そこで、今度は視点を変え、私たちの認識作用を離れた「外側の世界」の構造からこの世界のありようを眺めてみたいと思います。

 私たち自身の身体から100億光年先の銀河に至るまで、「外なる世界」(これまで考察してきた「内面」の知的作用を除外した世界)は、「物質」によって構成されています。この物質の運動・構造・作用などについての学問が「物理学」です。物理学からみると、「世界」はどのようなものとして考えられるのでしょうか。

 結論を先取りしますと、現在の理論物理学の知見によれば、私たちが常識的に「確固たる存在」と考えている「世界」の存在にはやはり何らかの形で私たちの「知性」が関係しているとしか考えられないということです。これでは何を述べようとしているのか分からないと思います。実は物質のあり方に関する理論の展開には、「量子力学」と呼ばれる1900年台から発達した素粒子物理学が大きく寄与しています。そこで以下では、量子力学の示す物理像から「世界の存在」について検討してゆきたいと思います(14)。

2重スリットの実験

 小石をひとつ静かな池に落とすと、円形に波紋が広がってゆきます。小石を2つ落とすと、2つの波が重なり合って複雑な模様をつくります。あるところでは強めあって大きなうねりとなり、別のところでは打ち消しあって波紋がほとんど現れません。これが波の「干渉」といわれる現象です。

 光は波の性質を持つので、同じ現象を観察することができます。光源の前にボードを置き、そこに細いスリット(隙間)を開けます。スリットを通った光は回折によって扇形に広がってゆきます(下記・図1)。その先にもうひとつのボードを置き、そこには二つのスリットを開けます。そうしますと、両方のスリットを通り扇形に回折した光同士が「干渉」を起こします。ボードの先に設けた観測スクリーンには、干渉したことを示す明暗の縞模様ができます。これが二重スリットの実験といわれるものです。

図1

ゴースト(波と粒子の2重性)

光の干渉はどうして起こったのでしょうか。光源から無数に放射される光同士が干渉を起こしたのでしょうか。いや、それは違います。ここからが光の不思議なところです。光源の明るさをどんどん暗くして、光の粒子(光子)がポツリポツリと1個ずつ打ち出されてゆくようにしてゆきます。これでは光子同士の干渉は起こらないはずです。ところが、このようにしても、長い時間をかけて観測しますと、光の干渉を示す結果が観測スクリーンに現れるのです。

これが量子力学最大のミステリーといわれるものです。膨大な数の光子が打ち出されるから、それぞれが干渉しあって干渉縞の痕を作るのではないのです。ひとつの光子は波として2つのスリットを通過し(だから干渉する)、検出用スクリーンに1つの粒子として痕跡を残すのです。1つの光子の「ゴースト」が2つのスリットを同時に通ったと考えなければ干渉は説明できません。

光子がどちらのスリットを通過したのか調べるために、スリットの一方を塞いでしまうともはや干渉を示す縞模様は現れません。また、1個の光子がどちらのスリットを通るのかをスリットを通った時点で記録し、そのまま観測スクリーンに達する装置を設けた場合、光子がどちらか一方のスリットを通過したことは記録されますが、観測スクリーンの方には干渉の模様は現れません。光子の「ゴースト」は、まるで観測することによって1点に集約し、そこからまた新たな「ゴースト」が生み出されるかのように振舞います。

物質波

さて、このように光は波動と粒子の2重の性質を持つことが明らかにされましたが、明らかに粒子であると考えられていた「電子」も波と粒子の二重性を持つのではないかという仮説が1924年にフランスのド・ブローイ(1892−1987)によって示され、その後実験で確認されました(1)。光子の場合と同じように、電子のビームを狭いすき間に向けて打つと、回折が観測され、その先に2つのスリットを置くと広がった波同士が干渉を起こしたのです。しかも、電子がポツリポツリと1個ずつ打ち出されてゆくようにしても、同様に電子の干渉を示す結果が観測スクリーンに現れました。

さらに、1990年代に入ると、2重スリットの実験は電子と比較するとはるかに大きな質量を持つ原子についても確認されています。ヘリウム原子やナトリウム原子のビームで2重スリットを通過させると、光子や電子と同様の干渉縞が現れたのです。 以上のように、一切の物質は、原子以下のレベルにおいて波と粒子の2重性を有することが確認されてゆきました。

存在確率の波

物質が波であるならばそれはどんな波でしょうか。1924年にオーストリアの物理学者エルビィン・シュレジンガー(1887−1961)は「物質波」の波形を決める方程式を発見しました。これが波動方程式またはシュレジンガー方程式です。波動方程式の発見によって、電子や光子の波が数学的に記述され、しかも従来の物理学では説明できなかった多くの物理現象が説明されることになりました。

さて、波動方程式によって示される「波」とは何でしょうか。海の波や音波は水や空気といった波を起こす媒体があります。しかし、光子や電子の波は媒体がありません。マックス・ボルンはこれを電子が見つかる「確率の波」と解釈しました。電子のような粒子がどこにあるかを確実に知ることはできません。しかし、電子の居場所を定めるような観測実験をしたとき、波動方程式は、ある場所にそれが見出される確率を計算することを可能にします。確率とは、ここで電子が見つかる確率、あそこで電子が見つかる確率です(1)。この点を朝永振一郎博士(1906−1979)の一層正確な表現でいえば、「ある状態にあるところの量子力学系に対して、ある物理量を測定する実験を実施したとき、その測定の結果としてある値が得られる確率」ということです(15)。「確率の波」というのは分かりづらい表現ですが、媒体をもたない電子や光子の波を表すのにもっとも適当な言い方なので一般に受け入れられました。

不確定原理・相補性原理

またさらに大きな問題は、波動と粒子の2重性という場合、波動と粒子はどのような関係にあるかということです。2重スリットの実験に見られる光子や電子の性質は、光子・電子が波動と粒子の2重性を持つことを示しています。2つのスリットを通り抜ける光子・電子は明らかに波動の性質(非局所性―ある1点に特定できないこと)を持ちます。しかし、観測スクリーンには粒子(局所性―ある一点に特定できること)として痕跡を残します。

ハイゼンベルク(1901−1976)は1926年、一個の電子の位置と運動量をいっしょに「測定」しようとすると、電子の位置を正確に知ろうとすればその運度量は不確かになり、逆に、その運動量を正確に知ったときには、それがどこにあるのかまったく分からなくなるという不確定性原理を明らかにしました。不確実になるのは測定機器の精度の問題ではなく、原理的に同時に測定できないという意味です。

ニールス・ボーア(1885−1962)は光の波動と粒子の理論は相互に相手を排斥するものではなく相補的なものであると述べました。この意味するところは、量子的粒子は、ある局面ではその一方を、別の局面では他方を現し、どちらが現れるかはマクロの実験装置で何を「測定」するかによって決まるということです)。彼は「測定」を行わないで物理量を云々することは無意味だと述べ、「観測する行為が波動を収縮させ粒子にする」と考えました。観測によって、ひとつだけの状態が残り、他の状態は消失すると考えるのです。この考え方は、私たちが物質の認識・存在に私たちの「観測」が決定的な意味を持つとする解釈です。ボーアの解釈はデンマークのボーア研究所にちなんで「コペンハーゲン解釈」と呼ばれています。その後ヒュー・エベレット三世が提唱した「多世界解釈」なども示されていますが、コペンハーゲン解釈は現在までの通説的見解といってよいでしょう。

非局所性(または幽霊のような遠隔操作)

ところで、素粒子の「非局所性」という性格は従来の物理学の常識からは理解しがたいものでした。物質の局在性を信じていたアインシュタイン(1879−1955)は、量子力学の不完全性を証明しようとして1935年に非局所性に関するひとつの問題提起を行いました。この問題提起は、ポドルスキー、ローゼンという若い共同研究者と共になされましたので、「EPRのパラドックス」と呼ばれています。

このパラドックスの独創性は、粒子間の「相関」に着目することによって、非局所性から導かれる奇妙な結果に注目させた点です。この点を光子の「偏光」と呼ばれる性質で説明したいと思います。偏光とはサングラスに用いられている原理で、限られた方向にだけ振動する光の波のことをいいます。たとえば、全体の偏光状態がゼロであるカルシウム原子というものを実験によって作り出すことが可能です。このカルシウム原子から、まったく逆方向に2つの光子を放出させたとします。それぞれの偏光状態を測定しますと、光子Aが一定方向に偏光していれば、光子Bは必ずその反対方向に偏光します。もともとの偏光状態がゼロですので、そこから放出される複数の光子についてもすべての偏光状態を合わせるとゼロになるのです。相関が認められる粒子間では、偏光のみならず、位置、運動量、スピンなど、どれを測定しても相互に関連しています。

さて、量子力学によれば、光子Aと光子Bがどの方向で偏光するかは、観測を行うまでは分かりません(すなわち重ね合わせの状態にあります)。そして、放出された光子Aを観測したところある方向に偏光していたとしますと、その瞬間に光子Bはまったく逆方向に偏光するということになるのです。

しかし、こうした量子力学の予言は、まったく別の場所にある2つの光子が観測行為によって相互に関係を持つということを示しています。物質の非局所性を信じないアインシュタインは、「もしも一定の時間、2つの系がお互いに力学的に隔離していれば、一方の系に対する測定が他方の系に対して実際に影響を与えること」はないと考えました。より分かりやすく言うと、離れ離れになってしまった物質同士が相互に関係することはないはずだということです。量子力学によればそうした相関があるということになりますが、アインシュタインは、それを皮肉交じりに「幽霊のような遠隔操作」と呼び、認めようとはしませんでした。  

アスペの実験―光速度を超えてー

EPRのパラドックスを実際に実験によって確認することは難しいと考えられてきました。しかしその後、ジョン・ベルによって、アインシュタインらの局所実在性が認められれば、EPR実験における種々の測定の間において制限が課せられることが見出されました。量子力学の非局所性が正しければこの条件を満たしません。これをベルの定理またはベルの不等式と呼んでいます。ベルの定理はEPRのパラドックスを実験によって確かめる道を切り開いたのです。

そして、その実験は1980年台はじめ、フランスのアラン・アスペとその共同研究者によって実施されました。その結果は、ベルの不等式が破られていること、すなわちアインシュタインの期待に反し、「幽霊のような遠隔操作」が確認されたのです。アスペが測定したのが先ほど説明しました偏光と呼ばれる光子の性質です。アスペはカルシウム原子によって、全体の偏光状態がゼロになるように放出される光子の対を作り出しました。カルシウム原子から別々の方向に放出された2つの光子の偏光を測定しますと、光子Aが一定方向に偏光していれば光子Bは必ずその反対になります。ここで重要なことは光子Aがどの方向に偏光するかは観測を行うまでは分からないという点です。

また、アスペによって示された光子の「非局所性」は、もうひとつこれまでの物理学に反する大きな事実を提示しています。それは、光子Aの観測が「同時に」光子Bの状態を確定させたということです。特殊相対性原理によれば、この宇宙には光速度以上の高速で伝達される物理作用はありませんから、2つの粒子が空間を隔てて瞬時のうちに結びつくことはあり得ません。しかも、私が光子Aを捉えたという事実は、まったく時間を介さずに光子Bに影響を与えたことになります。それが実験によって確認されたのです。

ハッブル・ディープフィールド

1990年4月、スペースシャトル・ディスカバリーによって打ち上げられたハッブル宇宙望遠鏡は、宇宙空間から天体を観測できる唯一の望遠鏡です。1995年12月、北斗七星に近いきわめて狭い領域にハッブル望遠鏡が10日間向け続けられました。そこは肉眼では星のまったく確認できない領域です。長時間露光によって1分間に1個しか光子がやってこないような遠くの銀河をハッブル望遠鏡は捉えることに成功しました。観測の結果、何もないと思われていたその領域は数限りない銀河で埋め尽くされていたのです。その中には、これまで観測された中でもっとも遠い140億光年離れた天体も観測されていました。この宇宙が誕生して150億光年といわれていますので、ハッブル望遠鏡は宇宙誕生直後の銀河を捉えたのです(16)。

さて、先ほどのアスペの実験は宇宙規模で実施しても同じ結果が得られるはずです。たとえば、10億光年離れた銀河から相関する2つの光子をまったく逆方向に放出したとします。この2つの光子は関係していて、一方が垂直方向に偏光していれば他方は必ず水平方向に偏光します。しかし、どちらが垂直方向になるかは観測するまでは分かりません。たとえば地球上の観測者である私が一方の光子を捉えたとしましょう。この光子は垂直方向に偏光していました。そうすると、逆方向に10億光年離れた相関する光子もその瞬間にその反対に偏光して見出されます。私の観測行為はまったく時間を介することなく20億光年先の光子に信号を送ったのです。  

先に述べましたように光子は観測されるまでは「非局所的」ですから、ハッブル宇宙望遠鏡が140億光年先の光子を捉えたという事実は、その光子が別の場所で見出される可能性を失わせたことになります。その光子はまったく反対側で見出される可能性もなかったとはいえません。しかし、私が観測することによって、反対側で見出される可能性は消滅しました。つまり、私の観測行為は一瞬にして全宇宙に影響を与えたということです。

物質の存在と知性の役割

これまで検討してきた物質(素粒子)の特徴を整理してみましょう。@物質(素粒子)は観測されるまでは存在確率の波として存在し、観測行為によって一点に確定する、A観測行為はそれまでの存在確率の波を崩壊させ、間髪をいれずに新しい確率の波を生じさせる、B観測行為は光速度を超えて(まったく時間を介せずに)全宇宙に影響を与える。

以上の量子力学に基づく物質の特色は、私たちの「観測行為」抜きに物質の存在を述べることができないことを示しています。それでは、観測行為を行っていないときの物質はどのように存在するのでしょうか。物理学者はこの問いには直接答えず、次のように言います。「ある物理量を測定する実験を実施したとすれば、その測定の結果としてこれこれの結果がそれぞれの確率で現れる。」つまり、自然科学というのは、実験(観測)によって確かめられてはじめて真だとする学問ですから、観測を行わないでその物理量の値を述べることは許されないのです。そうしますと、観測行為を行っていない間の物質については、少々こなれない言い方ですが、「存在確率の波として存在する」というのが現代物理学の回答となるでしょう。

さて、「存在確率の波」確定させるのは私たちの「観測行為」です。しかも、この観測行為は物理的な相互作用とは考えられません。なぜなら、非局所性の箇所で説明したように、物理的相互作用は光の速度を超えて行われることはありませんが、観測行為は一瞬にして全宇宙に影響を与えるからです。特殊相対性原理によれば、この物質世界では光速度以上で情報が伝達されることはありません。すなわち、ここで述べられる「観測行為」は観測機器と観測される対象としての素粒子との物理的相互作用だけで説明できるものではありません。そうするとこの世界を確定させている「観測行為」とは、私たちの「意識」「知性」であるとしか言いようがないのではないでしょうか。

先に私は、私たちが「この世界」と考えていることがらの大部分は、実は、人間の知的作用に基づくと述べました。記憶、統合作用、切り取りの作用、意味付けの作用などなしには私たちが常識的に考えている「世界」は存在しません。この結論に量子力学からの知見が付け加わります。「物質」の存在という観点から眺めた場合、物質は存在確率または存在の可能性としてあり、私たちの認識行為が存在確率である物質宇宙を確定させているのです。しかも、認識行為は全宇宙を一体として確定させているのです。量子力学的世界像から見ても、この世界を世界たらしめているのはやはり私たちの「知性」なのです。

「月はわれわれが見ているときにだけ存在する」のか

以上のように考えると2つの大きな疑問が湧いてきます。ひとつは、「この世界は私たちが認識しているときにだけ存在するのか」という疑問であり、もうひとつは、「知的生命体が存在しない前の宇宙は存在しないのか」という疑問です。

まず、最初の問題から考えて見ましょう。「月はわれわれが見ているときにだけ存在するのか」という言葉は実はアインシュタインが「観測行為」と実在とを結びつけようとするコペンハーゲン学派に対して批判を込めて述べた言葉です。私たちが見ているときにだけ月が存在するというのは何とも奇妙です。観測行為を行っていないときの物質はどのように存在するのでしょうか。

この点についてはすでに答えました。繰り返しますと、観測行為を行わない間の物質(宇宙)について述べることは無意味であり、あえて言えばそれは「存在確率の波」として存在しているのです。一定の物理量に対する観測が行われれば、その結果として観測された物理量については確定した値が出ます。しかし、観測が行われない間の物質は「存在の可能性」としてあるのです。

生命が存在しない前の宇宙

2つ目の疑問を検討してみましょう。150億年前、ビックバンによって宇宙が始まったとき、生命は存在してはいませんでした。ですから、宇宙の始まりを認識する「知性」は存在しなかったことになります。これまで述べてきた考え方によれば、宇宙の認識(存在)には知性が関わっていますから、知性を持つ生命体が存在しない限り宇宙そのものが存在しないはずです。しかし、人間が誕生するはるか以前に宇宙は存在していたのです。宇宙は知性が作り出すというのは、やはりおかしな話ではないか、このように思われるでしょう。

しかし、量子力学が示すところによれば、そうした結論には至りません。私たちは人類が存在するようになったはるか以前の宇宙を現実に観測しています。ハッブル宇宙望遠鏡は140億年前の銀河を観測することができます。そして、量子力学の知見によれば、その光は140億年前に確定した光ではなく、私たちが観測したことによって確定した光であると教えています。その光は私が観測しない可能性もありました。しかし、私が観測したことによって別の場所で見出される可能性は消滅したのです。私が観測するまでの光はその観測点で見出される可能性(存在確率)の波に過ぎませんが、私が観測することによってはじめて一点に確定したのです。これは、言ってみれば、現在の私の観測が140億年前の過去を作ったといえるでしょう。

現在の認識が140億年前の過去を作ったというのは奇妙に聞こえるかもしれません。しかし、私たちが実際に体験した過去を思い出す場合であっても同じことがいえます。例えば、「3年前、こんなことがあった」と思い出すとします。私たちは三年前の記憶も昨日の記憶も同じような形で想起します。3年前の記憶は3年前の出来事だと認識して、昨日の記憶は昨日の出来事だと認識しているという相違があるだけです。3年という長さ自体がどこかにしまわれていたら、思い出すまでに3年かかってしまいます。過去はそれが何年前であるにせよ、私たちが想起したときに現在に呼び出されるものです。ですから、私が認識した瞬間に突如としてこの世界が創造されたと考えても一向に差し支えないのです。

私たちの生活と物質の認識

また、以上眺めてきた物質のあり方は、私たちの日常生活のあり方と極めて一致しています。たとえば、学校に入学してこれからどんなクラブ活動を行おうかと迷っていると考えてみてください。あなたは自分の経験を思い起こします。友人たちとサッカーをしたときには自分も活躍でき面白かったが、野球はまったく楽しくなかったといった経験を思い出し、サッカー部に入ることにしました。サッカー部に入ることによって野球部に入る可能性も天文部に入る可能性も消えてしまいました。それはちょうど可能性の波として存在していた物質が観測行為によって確定的状態になり、それまでの波動関数がご破算になったのと同様です。しかし、サッカー部に入部したことにより、レギュラーになる可能性、サッカーで大会に出場する可能性などが広がってきました。ちょうどそれは、観測によってそれまでの物質の存在確率がご破算になると同時に新たな波動関数が生まれたのと同じです。

これは人生が世界の認識・創造に似ているということでしょうか。いやそうではなく、後で述べるように、私たちの人生そのものが世界の認識・創造だと考えられます。

新幹線は今「製造」されたのか?

最後に、「世界の存在(認識)」についてもう一度整理しておきましょう。今、私たちは新幹線に乗車していると想像してください。私たちは車窓を流れる景色を眺めています。小刻みの振動を感じています。「ゴー」という重低音を伴う走行音を聞いています。私たちは体全体で新幹線の存在を感じています。私たちは新幹線を「知覚」することによって新幹線を「存在」させているのです。 ところで、私たちが「認識」するまでは、新幹線は存在しないのでしょうか。それも納得しがたいことでしょう。新幹線は日本の車両技術の粋を集めて開発され、製造工場において組み立てられ、車両基地まで運ばれ、そして今ここを走っているのです。私たちが「認識」するまでは存在しないなどとは考えられません。

ここで、量子力学の知見によって明らかとなった「物質の認識」についてもう一度確認をしておきます。今私たちは観測行為によって存在確率の波を確定させ、知性のさまざまな作用によって新幹線の存在を認識しています。この瞬間に認識しているのは走行している新幹線であり、製造途上の新幹線ではありません。一方、わが国の技術者たちが新幹線を開発しない限り、私たちが新幹線を認識する可能性はありませんでした。つまり、次のように考えるべきなのです。私たちが「認識」するまでは新幹線は存在しないのですが、新幹線技術者たちによる創造がないかぎり、私たちが新幹線を認識する可能性もありません。技術者たちの活動は、私たちが新幹線を「認識する可能性(存在確率)」を創造したのです。それはちょうどサッカーを始めることによってその人の未来が創造されたのと同じことです。人々の活動は常に私たちの新しい認識可能性を作り出しているのです。


(14)本章の内容については、朝永振一郎『量子力学的世界像』(弘文堂、1965年)、同『量子力学T、U[第二版]』(みすず書房、1969年、1997年)、デイヴィス著/木口勝義訳『宇宙の量子論』(地人書館、1985年)。デイヴィス・ブラウン編/出口修至訳『量子と混沌』(地人書館、1987年)、グリビン著/山崎和夫訳『シュレジンガーの猫(上)(下)』(地人書館、1989年)、グリビン著/櫻山義夫訳『シュレジンガーの子猫たち 実在の探求』(シュプリンガー・フェアラーク東京、1998年)、町田茂『量子力学のふしぎな世界』(新日本出版社、2000年)、F・A・ウルフ『量子の謎をとく』(講談社ブルーバックス、1990年)、ウォレス著/荒牧正也ほか訳『量子論にパラドックスはない』(シュプリンガー・フェアラーク東京、1999年)、デヴィッド・リンドリー著/松浦俊輔訳『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』(青土社、1997年)、ポーキングホーン著/宮崎忠訳『量子力学の考え方』(講談社ブルーバックス、1985年)、アインシュタイン・インフェルト著/石原純訳『物理学はいかに創られたか(上)(下)』(岩波文庫、1940年)、ロジャー・ペンローズ著/中村和幸訳『心は量子で語れるか』(講談社、1998年)、フレッドA・ウルフ著/遠山峻征ほか訳『もう一つの宇宙』(講談社ブルーバックス、1995年)、ダナー・ドーハー著/中島健訳『クォンタム・セルフ 意識の量子力学』(青土社、1991年)、和田純夫『量子力学が語る世界像』(講談社ブルーバックス、1994年)、福島肇『物理のABC』(講談社ブルーバックス、1985年)、治部眞里・保江邦夫『脳と心の量子論』(講談社ブルーバックス、1998年)、志村史夫『こわくない物理学 物質・宇宙・生命』(新潮社、2002年)、野本陽代『見えてきた宇宙の神秘』(草思社、1999年)、佐藤文隆『量子力学のイデオロギー』(青土社、1997年)など参照。

(15) 朝永・前掲『量子力学U』271頁。

(16)ちなみに、1998年にわが国がハワイ島マウナケア山頂に建設したスバル望遠鏡は、主鏡の口径が8.2メートルという世界最大級の反射望遠鏡です。このスバルは1999年、10時間程度の長時間露光によって「かみのけ座」と「うしかい座」の中ほどの星がほとんどない領域を撮影し続け、130億光年から140億光年先の銀河を捉えています。

      

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