5 なぜ人は尊厳なのか


世界の創造主体

 なぜ私たちは個人として尊厳なのか。この問いに対してカントは、「自己目的性」と「自律性」すなわち「人間の創造性」をもって答えました。そして、これまで述べてきたように、私たちの創造とは同時に世界の創造でもあるのです。世界の存在には人間各自の知性が関係し、人間の知性がひとつの統一体としての世界を現出させているのです。日々の私たちの認識活動は世界を創造する活動です。私たちは、どうしても自分の知性の外側に確固としてこの世界が存在すると考えますが、そうではありません。私たちの知的作用を離れてこの世界は存在しません。私たちが世界を認識すること、それ自体が世界を存在させていることなのです。そして、私たちがこの世界を認識する行為は、日々新たな「世界」、新たな「宇宙」を作り出してゆく行為です。世界を構築する自由な創造主体である点において私たちは「尊厳」なのです。

世界はどのように存在するのか

 以上から次のような重要な観点が浮かび上がってきます。私たちは小さな肉体に縛り付けられ、全宇宙の実に矮小な1点から宇宙を認識しています。ですから、私たちの世界は、目が覚めて顔を洗う、トイレにゆく、新聞を読む、食事をするといったあまりにも日常的なルーティーン・ワークに満たされています。私たちにとって100億光年離れた宇宙のことなどよりも、今日の勉強、仕事、恋愛、家庭内のいざこざなどの方が重要な関心事です。

 しかし、宇宙の存在(認識)とは元来そういうものです。宇宙というのは、いかなる場合であっても特定の地点(認識主体の身体)から認識されるものです。ですから、自分の身近なことがこの世界の一番大きな部分を占めます。自分から離れれば離れるほどその認識は希薄になります。たとえば、毛利衛(まもる)さんがスペースシャトル・エンデバーから地球を眺めたとしても、同じように矮小な肉体の感覚器官を通じて地球を眺めているのです。少々異なった視角から宇宙を認識しているに過ぎません。

 このように考えますと、宇宙旅行をした人や全世界をくまなく歩いた人が、生まれたところで一生を終えた人よりもより広く世界を認識しているわけではないことが分かります。大気圏外から地球を眺めることも、アマゾンのジャングルを歩くことも、生まれた場所から夜空を眺めることも、世界の認識のあり方は同じですから、それぞれが独自個性的でかけがえのない認識です。

「生きる」ことは世界を創造すること

 また、世界を「認識する」ということは「活動する」ということです。人間は視線を動かさずに安定して形を認識することはできないと言われています。たとえば、はじめて会った人を認識するということを考えてみてください。視線を動かして相手の全体像を眺める、正面から相手の顔を見る、横にまわって相手の横顔を見る、握手をしてみる、言葉を交わしてみる、自分の意見をぶつけて相手の反応を見る、そうした活動を行うことによってその相手に対する認識を深めてゆきます。世界の認識は、こうした感覚器官を通じた活動および意味付けや統合作用など内的な活動を通じてなされてゆくものです。 

 そして、私たちが活動することはそのまま世界を認識すること、創造することです。通常、身体的活動は世界の認識とは考えられないでしょう。しかし、そんなことはありません。たとえば、散歩をしたとしましょう。一歩右足を出せば右足の裏に土の感触を感じ、左足を前に出せば左足の裏全体に大地の感触を感じます。頬には風のさわやかさを感じ、目には日差しの強さや移り行く風景を感じます。まさに散歩はこの世界を身体全体で認識・創造する行為です。

 このように、意思的活動はすべて世界を認識・創造する行為です。「認識する」ということと「活動する」ということは、人間の意思的行為を別の観点から述べたに過ぎません。私たちが「生きる」ことが世界を認識することであり、世界を創造することなのなのです。

「私」についての誤解

 しかし、どうでしょうか。私たちは日常の些細な失敗で頭がいっぱいになり、他の人のたった一言で傷つきます。この世界は自分の知性が作り出しているはずなのに、私たちは世界に押しつぶされそうに感じることがあります。

 これまで厳密に区別をせずに用いてきた「私」には、この世界を認識する「知性」「意識」としての「私」と、その世界の中にひとつの位置を占めている「身体的存在」としての「私」とがあります。後者の「私」は、前者の私が認識する世界の中にひとつの場所を占め、世界を認識するための窓口(目、耳、肌などの感覚器官をはじめとする身体)を提供しています。同時に、身体的自己は、他の者たちによって「私」と認識されるものとしての私です。

 肉体に縛られている人間は、この「私」のジレンマからなかなかのがれることができません。しかし、身体的自己は言葉の正確な意味における「私」ではありません。なぜなら、この世界を認識するのは私の「知性」であり、身体的自己はその知性が認識する世界の一部だからです。この世界を認識しているのは「知性としての私」であり、この世界の中で「あまりにも小さき存在」であるのは「身体的存在としての私」です。

 ですから、「人間の尊厳性」を理解するということは「身体的存在」が私なのではないということを理解することでもあります。

世界は複数存在するのか

 また、以上のように考えますと、この世界は認識主体の数だけ存在することになるように思われます。ただし、それはある意味で正しく、ある意味で間違っています。各個人はそれぞれ別の認識視角を持ち、それぞれ別の過去体験を持ち、それぞれ別の人生の切り開き方をもっています。この観点から見ますと、この世界は認識主体の数だけ存在すると言えるようにも思われます。

 しかし、世界が認識主体の数だけ存在するという表現は正確ではありません。私たちは絶対的主体であり、私たちが世界を認識しているということ自体はひとつふたつと数えられる「認識の対象」ではありません。私たちの「知性」「心」はこの外的世界のどこかに場所を占めているものではないのです。「人権のはなし」の中で、井戸に落ちようとしている赤ん坊の例を挙げました。この場合、2人の人物が井戸に落ちようとしている赤ん坊を見ていたとしましょう。この2人が一緒に「危ない」と感じたとしましょう。この「危ない」と感じる気持ちは「同じ」気持ちでしょか、「違う」気持ちでしょうか。また、この2人が協力して赤ん坊を助けたとします。この行為はそれぞれがまったく別の世界の活動でしょうか、同じ世界の活動でしょうか。以上の点については早計に結論を出すことはできないように思います。


      

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