Grandmother

1915年             8月11日に、栃木県宇都宮市にて誕生。
1927年             父親の死去に伴い、親戚先に奉公に出る
1933年             石井梅次郎と結婚。東京に移住。翌年、長女出産。
1940年頃      新居を建築したのを期に、梅次郎が自宅に子どもたちを呼び寄せ、聖書の学びをする。
                        が、男尊女卑の傾向と理解不足を理由に梅次郎に拒否され、信仰の道に踏み入るまで
        にはいけなかった。

1941年以降 戦時を逃れ、伊豆多賀、湯河原に疎開する。
1945年          終戦を期に、小田原に移り住み、その後南足柄に居を構える。
1934年          長女の結婚を期に、長女夫婦と小田原市久野に同居。
                            働きをする傍ら、家事をこなし、精力的に日々の生活を送る。             
1992年             12月20日に日本キリスト教団小田原教会にて、藤田祐牧師より受洗。
1995年          2月、脳梗塞をわずらい、間中病院に入院。その後、仙石原温泉病院にてリハビリをし、
        驚異的に回復する。

1998年          この頃から、教会までの道のりや内部での行動に不安を覚え、礼拝には参加をしなくなるが
       、その分家庭集会に教会員が来ることをとても喜び、普段ではとおに寝てしまっている時間ま
        で、楽しそうに会話の中に加わっていた。

2002年             5月22日夕方、自宅の自室にて逝去。
    
元気を取り戻しながらも、やはりよる年波には勝てず、Nさん宅から譲り受けた介護用のベッドに上がるのにだいぶ難儀をしてきたらしく、畳の上で寝るからベッドを処分するように1月ほど前に言われておりました。そんな時に、Fさんから退院後、介護用ベッドを使用したいとのお申し出がありました。
5月24日、帰宅をし、いつものように二人で食事をしながら、Fさんにベッドを渡すのに、(電動部分が)きちんと動くかどうか、という話題になり、確かめにいって事故に気がつきました。
いすに腰掛け、上半身をひねるようにベッドに突っ伏しておりました。悦子が、脈を診て死んでいる、と一言。彼女の冷静さに、本当に救われました。動揺は、必ずや伝染します、悲鳴をあげたり、慌てふためいたりしたら、僕もきっとそれを感じて、2人でパニックになり救急車を呼ぶことも、その後の対応もうまくいかなかったかもしれません。4年前、人の体を扱う仕事についたことが、このような大事な時に、十分発揮できたことは本当に感謝でした。
脳梗塞の再発…、そんなことを頭に思い浮かばせながら、まだ体温が残っているので、救急車を要請。救急隊の応急処置の中での、気道確保で、はじめて餅を喉に詰まらせたことを知りました。
約2時間の処置の甲斐もなく、7時50分に最終的な確認がありました。

家に帰り、(葬式の式次第に書いていただくために)母や妹と祖母の歩みを思い返しました。上のような生涯の歩みを葬式次第に載せていただくべく、そして、歩みとともに以下のような文章を高橋牧師に送りました。

――――α
思い起こすに、生前過去を語ることや議論をする事なく過ごしたように思います。残された家族の知っている略歴をあわせても、別添の程度です。
思い出話で記憶に残っているのは、麹町で化粧品製造の会社を営んでいた祖父が自宅に子どもたちを呼んだ話、でもお前ごときものが洗礼を受けるなどとは…、といわれ受洗出来なかったことです。
あったことのない祖父ですが、きっと歩みに書いたような、厳粛をモットーとした人だったのでしょう。また、幼くして父親をなくし、家を出ざるを得なかったことも、消極的な人生の原因となったのかもしれません。
晩年受洗をし、礼拝に出、それも叶わなくなった後、石井・小峰宅家庭集会で教会員に会うことが楽しみだったようです。多分、山ア牧師の言っている聖書講解も理解はしきれていなかったと思います。でも、その席に最後まで残って神様の言葉を聞こう、というのはすばらしい信仰心だったと僕は思っています。「理解できない=退屈」な席にいることに神を呼び求めている姿を見ました。
IFと言うことを歴史の中で言うと必ず後悔が残ります。でも、全力で、家族のために歩んだ86年の地上の生涯を歩みきったのちは、きっと神様のみ元に凱旋出来たと思い、ご苦労様の言葉とともに、良かったね、といいたいです。
                                     Ω――――

窒息による死とは思えない穏やかな顔でした。生前、家族を含む色々な人に「死ぬ時は家で死にたい」「病で寝たっきりにならないで、家族に迷惑をかけないで死にたい」と言っていた祖母。「神様のみ心にかないますように」、と祈りながらも、僕たちは神様に自分の希望を伝えます。そして、その祈りが通じることに、喜びを感じます。
また、大好物のお餅を幾つか食べて、その最後の一つを喉に詰まらせたこと、いすから転げ落ちるとかいった苦しんだ様子が無いこと、死に顔が笑みをうかべていたことに、祖母の死に対し、離別の悲しみより天国への凱旋を強く感じ、祖母の最後の僕らへの信仰の証だったように思え、感動を味わいました。

主人公となる時が何度かあります。祖母の場合は、葬式が、その晴れやかな時の一つだったのかもしれません。多くの人に見送られることは、いつも隅で微笑んでいた祖母にとって、嬉しくも気恥ずかしい時であったでしょう。
しかしそれよりも何よりも、神様のみ元にいけた嬉しさの方が、ずっとずっと大きいでしょうね。

祖母の最期の伝道に本当に勇気づけられました。主に感謝です。