![]()
@
|
A 数学にかけたある戦士の思い出
| ここに、数年前に青山学院高等部に入学したK君の思い出を綴ってみることにした。K君は公立中学入学当時、学年三番の成績であったという。小学校の時から家庭教師につき竹の会に面接に来た当時も東大の大学院生二人がついていた。しかも秀栄、河合塾など一流進学塾を渡り歩いてきた戦士であった。そのK君が私の出した手書きの募集はがきをもってお母さんに連れてこられたのは、中2の十二月のことであった。青山学院志望ということであったが、成績は伸び悩み、このままではとても合格できる見込みはないということで、思い悩んでいたところ、私のはがきが舞い込みその文面が気に入って、飛びついてきたということである。当時青山の偏差値は69位であったと思う。面接の時自分の成績表、答案一切を持ってきて私に見せてくれた唯一の人であったが、このとき自分の考えを言った唯一の人でもあった。面接では大体親が主導で子供は親に求められて、首を縦にふったり横にふったりするのが一般である。このとき、彼は既に主体をもっていたのである。入試まであと一年余、私と彼との苦闘の始まりであった。 最初の授業は彼の理解がどの程度のものかを知るために数学の教科書を用いて矢継ぎ早に解かせていった。誤解したところ、間違ったところ、詰まったところでは厳しく指摘する。あっという間に三時間が終わった。彼の理解力はかなりのものであった。計算力が劣っていたものの文章題に対する彼の解答力は群を抜いていた。図形に対する理解も相当なもので逸材に回り逢ったという気がした。なによりも彼の育ちのよさからくる素直さ、温かさといった人柄が私を捉えた。このときの私の授業は彼にとってまさに衝撃的であったらしい。翌日にはお母さんから電話があり家庭教師、塾一切を止め、竹の会にかけたいとの申し出があったのである。 彼は、「僕はいろいろな塾に行ったので塾のことはよくわかります。ここが一番いいと思います。」とさわやかにいったものである。こうして、年の明けた一月から私の本格的な指導が開始したのである。まず、数学教科書のすべての問題を解かせた。それから駿台の「スキル演習」から問題を抽出しコピーを用いて私製の問題集にしてこれをつぶすことを始めた。英語については不安はそれほどなく英文解釈の指導を主とした。難関校入試の要である数学の指導がどうしても優先された。指導に際してはまず彼に解かせる。解けるまで考えさせる。たまにヒントを与えることもあった。私があまりに時間がかかるのでそろそろ解説を入れようとすると彼は「ちょっと待って下さい。もう少しで解けますから。」といっては粘った。一時間二時間考えるのは普通であった。約束の三時間はあっという間に過ぎていった。こうして、地道な努力が積み重ねられていった。やがて春休みとなり、私が夜の間に準備した問題を翌日解かせるという私にとってはかなりきついノルマが続いた。その春休みもあっという間に過ぎていった。 K君は中三になった。中三の教科書をどんどん進めた。並行して「佐藤の数学」の基礎編応用編をほとんどコピーして例のように問題集にしてつぶしていった。教科書はハイスピードで進み夏休み前には確率を除いてほぼ終わらせていた。が、夏休みに中断した。彼が河合塾で英語を受講することになり、竹の会の夏期スケジュールと調整がつかなくなってしまったのである。このときの中断が結局慶應の失敗につながったと後日K君は悔しがった。が、彼は私の厳命に従い夏休み中、一日十時間の勉強を実行した。 夏休みが終わるとK君が帰ってきた。また数学の授業がはじまった。私は新たにZ会の数学問題集から独自に編集しなおした手製の問題集を作った。それが、その時期の中心となった。難問ばかりで一題解くのに一、二時間かかるのはざらだった。残っていた確率は「スキル演習」とZ会の問題集で作った手製問題集で修得させた。この作業は十月一杯まで続いた。十一月になると、いよいよ一流校の過去問をつぶす作業に入った。この段階でようやく高水準の指導がとれることになる。開成、武蔵、慶應、早大高、学芸大、筑波大、桐朋、桐蔭など名だたる高校の入試問題過去六から十年分を網羅的につぶしていった。私もK君とともに問題にとりくみ彼の為に最高の解答を考案していった。こうして十二月も押し迫ったある日彼のご両親との話し合いがもたれた。彼の偏差値は意外に振るわず十二月の三者面談ではとても青学などとは口にだせず、結局本郷を受けて都立をすべり止めにするように勧められたとのことで、かなりがっくりきておられた。本郷でも偏差値は六四あり危ないともいわれたとの由であった。 私は現在の入試問題による指導がまだ中途であり、さらに彼に実行させている今までにやった問題の復習の三回目が終わる冬休み明けの試験を見て欲しいということで青学受験は事実上決まった。実は彼の実力は相当の水準に達していると私は見ていたし、彼自身もいつしか青学は眼中になく、慶應を目指しはじめていたのである。彼の実力は慶應早稲田をうかがえるまでに達していたのである。 冬休みになると、彼は竹の会に入りびたりの状態になった。 授業は深夜に及び二時三時ということもざらであった。私の家族が寝静まった中で二人で問題を解き続けた。冬休みからは五十分と時間を切って入試問題の訓練も開始した。深夜二人でよく即席ラーメンを食べた。私が体調を崩すと彼は本当に心配してくれた。彼は思いやり深く常に相手の立場に立って心を配った。試験の結果が思わしくないと必ず自分の努力が甘かったといって自分を責めた。私がいつかVネックのセーターを前後反対に着て授業していたことがあった。彼は何も言わなかった。途中、前後逆だということを家族に教えられて私が照れると彼は申し訳なさそうに笑った。 一月の始め河合塾で合否判定テストが実施された。彼は数学百点をとり青学の合格可能性は八〇%と出た。 実は彼は国語を最大の苦手としていたのだが、この国語克服の道程については別の機会にお話したい。彼の数学の修業は続いた。時間との戦いに苦しんだ。一流校の過去問による訓練が回りきれていなかったのである。彼は夏来なかったことを悔やんだ。が、今はそういうことをいっていられない。竹の会での開成武蔵等の入試訓練では90点を超える事も多かった。彼はいつも考えていた。道で会っても何かを思い詰めたように考えている姿があった。私は彼の為に全力全生活をかけた。そして、戦士は入試に立ち向かった。 初戦は市川高校(偏差値69・早慶受験者の登竜門)。発表はお母さんが出向いた。今でもお母さんの弾んだ声が耳に残っている。「先生!Kが受かりました!」。次は慶應志木と意気込んだものである。が、受験者は五千人にも達し合格者わずか百人という難関に彼は舞い上がってしまった。失敗だった。次は中大付属で手堅くと思ったが彼は周りの反対を押し切って開成を受験した。試験のあった翌日、彼が入試問題をもってやってきた。私が一番から順に解答していくと、1題解くごとに「あっ」という彼の声が言葉になりきらずに響いた。いつしか、彼の目には悔し涙があふれていた。明日は青学の試験という日のことであった。 青学の発表は夕方にあった。彼の家では青学中等部に通う妹さんが見に行くということになっていた。が、家族みんながめいめいにこっそりと見にいったらしい。合格していた。私のところに連絡が入ったのは夜八時を過ぎていた。あまりの喜びに一家でわーっと食事にいった由である。家の中がパッと明るくなった様子が目に見えるようである。 入学後、彼の成績が十番以内にあったことを知らされた。数学は彼によると計算一題をしくじり九十五点だったということである。ちなみに計算は1題のみの出題であった。 やはり、君はわたしの思った通りの実力者であった。最後にそれを証明したではないか。慶應はだめだったけれど、君の実力は私が一番よくしっている。「K君おめでとう」。私は目に溢れる涙をこらえた。 こうして、K君との一年余の受験生活は終わった。熱い情熱を夢にかけ全力を尽くすその姿に私は感動せずにはおれない。奇跡の合格、彼の出身中学では多くの先生達がそういい驚いたということである。ある先生は「Kにとっては塾の先生は神様だな。」といったそうである。が、私には奇跡なんかではない。彼の実力を皆が知らなかっただけなのだ。彼のひたむきな努力する姿を私はいつまでも忘れない。 |
| 思考作りの実際 |
| 今年は久し振りにいい仕事をしたという実感です。このところ中学入試の依頼があってもほとんどが大手塾に通う生徒の補助ということでしたから。平成二年に独協中学に合格させたのは私の仕事です。翌年、東洋英和に合格した女子は四谷大塚の準拠塾の児童でしたが、竹の会の算数を一応は指導した子です。平成七年には、成城学園に女子が合格していますが、これは日能研の補助でした。大手の生徒の補助というのは気分的には楽です。結果の責任は負いませんから。竹の会では中学入試の児童は毎年一人二人いる程度です。しかも、純粋に竹の会のみでやろうという児童はあまりいません。今年は久し振りに私の方法でやりました。 私の方法といっても特別な方法などはないのです。過去問を解いていくだけなのですから。私の仕事は能力の段階に応じたいい問題を取捨選択すること、問題をじっくりと考えさせること、生徒がどこで悩んでいるかを的確に見抜き本質を突いたヒントを暗示すること、その場合も決して懇切丁寧には教えないことです。過去問はなるべくレベルの高い学校のものを使います。問題の質が最高にいいのです。過去問は様々な問題がアト・ランダムに出てきますから、大手のテキストのようなパターン化思考で凝り固まるような弊害もありません。しかも、実によく考えさせられる良問が多く、思考の養成には最適の教材なのです。私の経験では立教あたりの問題から始めるのがもっとも効果があるようです。私は必要な過去問を的確に選んで生徒に考えさせ必要な能力を抽き出し育てるプロといっていいのかもしれません。そのために私が解いてきた過去問は夥しい数にのぼります。 さて、話をもとにもどしましょう。今年受験した児童が四月の時にどういう状態であったかから始めましょう。能力的にはごく普通の子です。このとき、東京家政学院の問題を解かせたところ計算が七題中二題解けたきりで、文章題は全くの手つかずです。ほとんどゼロからのスタートだったのです。まず計算そして割合とか縮尺とかのパターン化されていてやり方さえ覚えればできるようになる問題を習得させることから始めました。これには、日能研の「受験全解」という本が便利です。ただし、基本問題以外はやらないほうがいいのです。これに八月いっぱいかかりました。九月から過去問に入ったのですが、家政学院のレベルで四苦八苦の有様でした。ほとんど全部がわからない状態なのですから。おまけに四月から家でやる事になっていた国語のテキストを結局全然やっていなかった事が九月になってわかり、私をがっかりさせました。算数だけでなく、国語がさっぱりとれず事態はまさに八方ふさがりでした。やはり小学生は親がつきっきりになってやってやらないと家では何もしないということなのでしょうか。独協中の時は過去問を四月からいきなり立教からスタートできたのと大きな差です。が、その時も国語で苦しんだ悪夢が思い出されます。とにかく過去問を使った思考作りは先の見えない暗い見通しの中で続けられました。十月のコンピューターは最悪でした。三、四割といったところです。十一月思い切って芝中・立教中のレベルに過去問をあげることにしました。 私の思考作りはその一問一問でその子を思索の中に追い込むlこと、迷った思考にほんの少し謎を解くヒントを与える事、そして再び思索の中に追い込む事、このくり返しです。ヒントは多く与えすぎてはいけない。本質を突く的確な暗示でなければならない。もちろんあることを知らなければ解きようもない問題もある。そのときはあることを教える。ちょっと見方を変えるだけで解ける問題もある。その時はしばらくは何も言わない。入試の問題は刻々と変化する、まさに千変万化だ。その問題の一つ一つが思考なしには通れない。私は思考養成のプロなのだ。十二月冬休みが迫る。まだまだ足りない。本来なら、十二月に入ると復習のリズムに入るのが私のやり方だ。だが、まだ、思考が足りない。 冬休み直前慶応に入ったところで過去問は終わり。冬は午前中は過去問テスト、午後は六時間かけて今までやった過去問のやり直し、夜七時からは国語、このリズムである。冬休みが終わっても過去問のやり直しは続く。「先生、四回めのやり直しに入ります。」必ず何をするにも、私に断ってからする癖がついた。私は彼女が何をしているのか常に把握できた。一月、最後までどうしても解けない過去問の解説をする。日曜の過去問テストはなかなか私を納得させてくれない。入試まであと4日という一月二十七日の過去問テストでは、大妻の問題を使った。算数86点、国語87点(去年の合格点を軽くクリヤー)。来た!ギリギリようやく私の待っていたものがきた!伸び始めたのだ!もう止まらない!これだ!これだ!私は打ち震える心をおさえた。入試まであと4日、私はずっとこれを待っていた。 何度ももうダメかもしれないと思った。でも彼女は私を信じてけなげに頑張っている。くじけそうになるのを何度思い直したことか。お母さんと話す時がつらかった。かなり高いところをいっている。私は彼女をぜひとも合格させたかった。だから、私のいうとおりにするように何度も説得した。そして彼女は私の言葉に従った。私のやるべきことはすべて終わった。入試は孤独な闘いだ。だからきつい言葉を何度となくいってきた。彼女は涙ぐみ一時間も二時間もしくしく泣いていたこともあった。つらかったがしかたない。「先生!トキワ松受かりました!」「先生!昭和女子うかりました!」弾んだ彼女の声が響く。私は彼女と私に合格を与えてくださったことに心から感謝しました。これで私の仕事は終わりです。 |
| 彼女の合格体験記ものってるよ。 合格体験記 UP |