11月30日日曜日・雨
朝から、6時まで仕事。帰りに、本屋へ。@「やり直し基礎数学」(ちくま新書)、A「意識とはなにか」(ちくま新書)、B「からだを読む」(ちくま新書)、C「私は薬に殺される」(幻冬社)、D「地獄を極楽にする方法」(美輪明宏)、以上を購入。@は、やや面白いテーマを扱っていたので。マイナス×マイナスがプラスになる、というのがある。この説明をどうすべきかというのはひとつの問題だ。また、分数の割り算で、逆数にしてかけるというのがある。この説明もひとつの問題だ。教科書などでは、具体的設例をあげて説明する。しかし、これが説明として成功しているか、疑問だ。ほとんどの生徒がわかったとはとても思えなかった。この本でも説明がある。しかし、説明するのに適当な仮説を考えて、こうなるでしょという類のものだ。だいたい、マイナス×マイナスがプラスになるのではなくて、プラスにすることにしたというだけのことではないのか。つまり、定義みたいなものだ。以前、ある母親に原理を説明しないで、逆数をかけると教えるだけでは、云々といちゃもんをつけられたことがある。ばかをいいなさんな。まず、そういうしくみを理解するには、それなりの知能がいります。さらには、そのしくみも実は単なる約束つまり定義だということになってしまえば、説明の意味もない。まず、計算の操作を覚えてマスターしなさいというのは十分考慮の結果です。物事は簡単に単純に考えるのがいいのです。@の著者が何者か不明。Aは、朝日の読書欄で紹介されていたもの。気になったので斜め読みするつもり。Dの美輪さんの本はこれで3冊目かな。結構、面白いんですよ、この人の本は。Bは、養老さんもの。Cは、例のバカ医者、バカ教授、バカ弁護士のクソ腹の立つアホ実録。全く、能天気な若造バカ医者が副作用も考えないで処方したクスリで死の危険に瀕した闘病生活をするハメになったやり手サラリーマンの告発文だ。こういう本を読むたびに医者にかかるのが恐くなる。患者を助けるよりも身内をかばう医者社会の論理。背筋がゾクゾクした。
昨日買った「3びきのこぶたとまなぶやさしい会計学」が結構、面白く読み進めている。これはいい本を買ったかも。カバンの中には、美輪さんの本も入れとこ。
明日は、算数の原稿を1枚予定。その後、冬期の案内を修正することに。頼まれていた英文の訳をまだやってない。時間が足りないんです。
教室では、国学院の数学を3題解いて解説をつくり、提出されている英解のノートを添削する仕事がそのまま。明日、行ったら速攻片付けよっと。東大受験のY君は、12月はどこだったか、予備校の冬期講習に申し込んでるのでこない。少し楽かな。高校はとらないんだ。高校入試、中学入試とやって大学入試まで引き受けたら命がもたないと思ったからだ。でもOBの父兄から頼まれると中々断れない。そういうわけで他に2、3人高校生がいる。正直、辛いです。
弱者は必死です。真摯に助けを求めています。しかし、医者、弁護士といった特殊社会のわけのわからん論理が弱者の命を抹殺しようとしています。仲間の医者をかばう医者、不真面目な弁護士、いったいどうなってしまったのでしょうか。闘う術をもたない私たち弱者は、しかし闘わねばならないときは闘うしかないのです。
私に何ができるのでしょうか。心は怒りに震えながら、1ページをゆっくりとめくるのです。そして、だまって、だまってもくもくと歩くのです。心はいつもブルーです。
あっ、塾で、韓国のキムチカップラーメンに別に買ってきたキムチをたっぷりと入れて、生徒たちと食べました。これ病みつきになりそ。ヘルシアは毎日飲んでる。でも、効果あんのかな。ダイエット失敗かな。心はブルーですけど、体はデブーです。すいません。昔、「オレはビッグになりたい」と言っていたT君。君はそのときすでに90キロはあったよな。すでにビッグでした。君の乗っていた自転車は、1トン(豚)車でした。もう、25,6になってるかな。いつか、代々木八幡の駅で偶然会ったとき、思わず、さらにビッグになってました。少年のころから、「パトカーに乗りたい」といっていた夢を、喧嘩して、実現させました。乗ったのは、後の座席ですけど。何か、面白くいうのが病気なんです。すいません。


11月29日土曜日・曇り・台風接近
昨日、今日と買った本。@「ケータイメモ撮り発想法」(光文社新書)、A「2分間ミステリ」(ハヤカワ・ミステリ文庫)、B「免疫学の威力」(安保徹著)、C「私は勉強したい−中国少女マー・イェンの日記」、D「3びきのこぶたとまなぶやさしい会計学」以上。@は、カメラ付携帯でメモをとるという発想。実は、同じ目的でこの前デジカメを購入したばかり。何か先人のお得な情報があるかなと思って購入。Aは、頭の体操用。Bは、「免疫革命」と同じ著者のもの。同じ内容の繰り返しになるかな。Dは、会計学の易しい解説本。特に、貸借対照表の借方と貸方には命名になにも根拠はないというのが、知ってはいたが、ほかにも何かいいこと言ってくれそうで、買ってしまった。貸借対照表は、商法の資本のところでは必須の前提知識だ。Cは、天声人語で紹介されていたもの。赤貧の少女が、貧乏のため学校をやめさせられ、その思いを日記に託したもの。これは、現地をたまたま取材で訪れたフランス人記者に母親から託され、フランスに紹介された。たちまちフランスで大きな反響をよんだ。「今年は、私が学校に行くためのお金がもうないのですよね。私は家に戻って、畑を耕さなければなりません。二人の弟たちを学校に行かせるためです。学校でのみんなの笑い声を思い出すと、まだ学校にいるような気がします。どんなにみんなと勉強したいでしょう。でも、私の家にはお金がないのです。母さん、私は勉強したい、家に戻りたくない。ずっと学校にいることができたらどんなにすばらしいでしょう」(日記から)。読んでいて、涙が出て困った。
今日は、朝から、仕事。午前中は、青山へ。午後は、教室へ。6時から渋谷へ。家には7時半ころ帰り着く。疲れたので、夕飯は、焼肉にしてもらった。痛風を抱えているので、食べたのは少しだけ。今日は疲れているので、あまり書けないかなと思ったが、書き始めたら、止まらなくなる。昨日は、東大理系受験の高校会員の質問などをこなして、中3のそれぞれに細かい指示をだす。今日は、中3の親から電話で、12月の日程が少ないのではと不安を訴える。去年よりはかなり多いのだが、さらに費用的にも実質的に例年並なのだが。指導中の小6は、算数の問題が、ちょっとしたひねりにころりとひねられてしまう。見抜いて冷静に処理するということがまるでできない。いちいち説明するということは、なんの力の足しにもならない。真剣さ、まじめさ、必死さが感じられない。ノートがまともにとれないのはかなりのマイナスだ。なにしろ記録できないんだから。ずっと、きちんと字を書けと口酸っぱくいってきたが、どうしてもだめだった。ゆっくりと丁寧に書く。これができない。最近この手の子が多い。小学生にも中学生にもそういう子が多い。この現象はどう説明したらいいのか。かなり深刻な問題だ。まともな字が書けない子どもの「なぜ」に対する明確な答えはまだわからない。ただ、小1の時がポイントのような気がする。


11月28日金曜日曇り
養老さんの本の中で、「日本人は、雑学と常識を混同している」という一節があったのを記憶している。そういえば、タレントがクイズ番組で満点で優勝して、すごい才能の持ち主ということで、国会議員になったって話もあったわな。これなんかまさに雑学をなにかと勘違いしたのと違いますか。タレントの武田鉄也がよくテレビでうんちくを語るがまあ雑学披露ということだよな。常識というのは、何かを知ってて当たり前ということではあるが、その何かは決して雑学なんかじゃないんだ。電車の中で大声で話すとか、座席に土足を放り出しているとか、そういったことはやるべきではないということを知っておくべきことであり、これを知らなければ常識がないということにもなる。クイズ王がもてはやされるが、雑学博士がすごいという風潮はなにやら知らないことばかりの劣等生の裏返しのような気がしてならない。まともに勉強してない連中が、こんなことを知っててすごいと大騒ぎするのは、なんとも軽薄社会の骨頂だ。雑学と常識を混然一体ととらえるなんて、なんの思考もないことの証明じゃないか。アホか。知識は大切だ。しかし、考えるという習慣はもっと大切だ。本を読むことは大切だ。論理的な判断も大切だ。しかし、良識ある判断はもっと大切だ。常識とは良識だ。何も考えない感覚的にしか反応しない、自己中心にしか物事を考えない、自分さえよければどうでもいいという、知的思考ゼロの非常識者が、雑学の有無で反応的に歓喜するアホ。学問があったって、常識のない奴は腐るほどいるよな。例のバカ医者もそうだけど、バカ教授もいれば、バカ工員もいる。桃井かおりじゃないが、世の中バカばっかりということになりかねない。常識というのは、学問の有無とは関係ない。りっぱな職人さんもたくさんいる。悪い職人もいる。功名心や名誉欲あるいは物欲でヒトを殺すバカ医者やバカ教授、手抜き建築をやる大工職人、手抜き工事の高速道路(これなどは個人ではどうしょうもない組織ぐるみの非常識だ)などなどつきないくらいの非常識。いったい常識って何。その人の生き方の真面目さみたいなものかな。真摯に人生を生きる人のみが持っているものかな。ヒトの一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。重荷をじっと耐え、まじめに人生を考えながら、ゆっくりと歩み歩み常識を踏む。常識は、単に形式的な取り決めなんかじゃない。その人の人と成りから湧き出る生き方の形だ。
今日は、家を出る前に一筆書いた。仕事から帰った後、また何か書くかも。さあ、昼ごはん食べよっと。


11月27日木曜日曇り
午前中は、青山学院の英語教科書から、指導用レジメつくり。銀行まわりをして、仮眠を1時間ほどとったあと、家を出る。途中、紀ノ国屋に寄り、本を3冊購入。1冊目は週間温泉シリーズの「別府温泉」。2冊目は「体を温めると病気は必ず治る」、3冊目は、森岡正博著「無痛文明論」。2番目の本は、石原とかいう人の本。長崎大の医学部出身の人だ。長崎大医学部には、大学時代の友人が行った。九大の法学部を8年かけて、ようやく卒業したかと思えば、今度は、医学部に行きたいと言い出し、何年か受けていた。丁度、共通1次試験が導入された時分に、長崎大の医学部が共通1次の後、2次試験の科目が生物と小論文だけだった年があった。このとき運良く合格した。友人の話はこれくらいにして、本の内容。はっきりいって、内容はほとんどない。体を温めろというのはいい。「免疫革命」では、温める根拠は、内臓を冷やすとエネルギーを使うからとかいっていた。石原の本には、温める理論的根拠は何も提示されていない。ヒトの生体は一種の熱機関としてはたらいているから、というのが根拠としてわずか1行あるだけ。本のほとんどは、体を温める食事療法に費やされている。やたら事実をあげて、根拠づけようとするが、すべて現象面的にいいといっているのみ。読むべき理論的内容はなにもない本だ。ただ、最初の導入ページにあった内容は雑学としてやや面白かった。葛根湯が、風邪だけでなく、気管支炎、肺炎、扁桃炎、結膜炎、耳下腺炎、口内炎、中耳炎、蓄膿症、肩こり、湿疹、化膿性皮膚炎などに効くと限りがない。著者は、「温める」ことがポイントだという。「冷えは万病のもと」というわけだ。葛根湯は、体を温めて冷えを改善するから、かなりの病気に奏効するのだという。全体に、雑学の寄せ集めのような内容だった。「無痛文明論」は、快を求め痛を避ける現代文明をテーマにした本格的な論文だ。値段は、やや安めの専門書クラス(3800円)だ。ちょっと読むのに時間がかかりそうなので、教室においてきた。池田晶子著「14歳からの哲学」が好評らしい。哲学ものは、中山義道の本をかなり持っている。もちろん読んだ。池田の新著は、惹かれるがなかなか買う気分になれない。池田の哲学本はもう2,3冊持っているしね。2004年版模範六法が出たらしい。渋谷で1割引で買えるスポットがある。明日当たりのぞいてみようかな。商法もすっかり変わって、私の棚にある商法の本がほとんどや役にたたないものになってしまった。中3は、単願推薦でいく子が必ず出てくる。苦しい受験勉強のストレスから解放されるという魅力いっぱいの制度だものね。偏差値の低い私立では、退学者が多いのが気になるけどね。都立は学区制がなくなり、受けやすくなった面もある。中心から逆に、郊外の都立を狙うのも手だろう。やはり努力してそれなりの都立に入るのがベターかな。話は変わるけど、湿疹の治療法について、いい方法が発見。草津の湯の花を患部にすりこむのだ。草津の湯の花はよく精製されていて小麦粉のようにキメが細かい。別府のはいかにも土という感じですりこむには抵抗あるかな。結構効いてます。ステロイド使うのイヤだし、市販にクスリなしだから、これしかない。あっ、今日はこの辺で。


11月26日水曜日・青空の日
午前中は、明日ある英語の下原稿を打ち上げる。明日また手を入れて終わり。11時までかかった。急いで、算数の原稿を作る。いいアイデアが浮かんだので、速攻書いた。かなり満足。家を出たのが、2時半。紀ノ国屋で本を買う。津本陽の「幕末御用盗」。津本の本はかなり読んだ。「柳生兵庫介」は8巻あった。「宮本武蔵」は1冊だが、吉川英治のものとは違って、津本流の描きぶりだ。時代物はやはりうまい。これがきっかけで、様々な作者の時代物にも手を出した。五味康祐は結構気に入っていた。池波正太郎や柴田練三郎などの大衆路線は読めなかった。今日買った津本の本は、何かゆったりしたときに読もう。今は、心がせいてとても読めない。いよいよ受験指導が本格化する。バスの中では例の「大学病院にメス」を読んだ。バカ教授の話だ。朝日の広告に「体を温めると病気は必ず治る」というのがあった。安保さんの「免疫革命」にも体を温めることの重要性が説かれていた。そのせいで読みたくなった。明日にでも買うかも。今日の朝日の天声人語に、ディカプリヲが天才詐欺師の役をやる話が載っていた。実際に天才詐欺師に会って話しを聞いたとある。目を合わせて心をとらえ、話を聞かずにいられない雰囲気をつくってしまうのだとディカプリヲの話が引用。天声人語氏は、続けて「オレオレ詐欺」は手口が当世風の粗雑さを感じさせるとし、天才詐欺師とは違って、と強調する。いったい天声人語氏は、天才詐欺師を価値あるものと評価しているのであろうか。どうもこの「天才」という形容詞の付け方もプラスのイメージのようでひっかかる。当世風というが、携帯がこれだけ普及した、電子機器が高度に発達した現代特有の詐欺類型を古典的詐欺つまりは職人的個人技と単純に比較するのがお粗末ではないか。比較するのは、詐欺師個人ではなく、社会の質の違いではないか。いわゆる大衆社会の疎外された人と人のつながりの希薄さがこそ切り込みの視点ではなかったか。どうもこのごろは機嫌が悪くて朝日もそうだが、なんだか達観した風体で文を書くマスコミの態度にイチャモンをつけたくなる。物事には、いろいろな見方があるのであって、何が正しいなどということはできないはずだ。自分の意見を高い壇上の上から見下ろしながら、押し付ける愚だけはしたくない。最近のマスコミは自分達のみが正義の判断者のごとくにふるまい、どうもついていけない。おまえらそんなにえらいのか。謙虚という言葉が好きだ。わからないことばかりで、ゆっくりとなっとくいくまで考えたい。本を読むことで心のどうしょうもない怒りが不安が忘れられる。少なくとも読んでいる時は無だ。自分の無知を思い知りなぜかホッとする。。今日も読書の日々。怒りの批判をぶっつける相手はいつも見えない。
明日はいい出会いがあるかしら。クリスマスの飾りが街に目につく。もうすぐ師走だ。明日天気になーれ。


11月25日火曜日
朝から冷たい雨がドシャブリだ。午前中は、冬期の案内草稿を書いた。2時半に家を出る。TSUTAYAで新作「The core」get.紀ノ国屋書店を一覧して、ブックファーストに回る。とって返して、渋谷駅からバスに乗る。今日は、「大学病院にメス」を読んでいる。それにしても大学の医局というところはひどいところだ。患者が助かるのに死なせるということが日常的なのには愕然とした。「隣の医局は外国より遠い」「医師や看護士たちの懸命の緊急措置が功を奏し、一命をとりとめたこの女性はICUに運ばれ、人工呼吸器をとりつけ」「主治医には循環器系医局の医師がつくことになった」「人工呼吸が長期化すると、肺が細菌感染を起こす恐れがあり、もし肺炎になれば致命傷にもなりかねない。このため、医師には、患者の心臓の快復具合や呼吸をみたうえで、適切な時期に人工呼吸器をとりはずすことが求められる。しかし、主治医は患者の心臓につけたモニターの数値にばかり気を配っていた。「先生、いつはずすんですか。云々」さらに10日が過ぎた。「先生、呼吸器系の先生に相談してみたらどうですか。云々」。けれども主治医は首を縦には振らなかった。肺炎の恐さを知り、処置に精通している呼吸器系の医師たちも、この主治医の方針に異を唱えようとはしない。そんな状況のまま2週間が過ぎて、看護士が恐れていた通りの結果がやってきた。患者は肺炎にかかり還らぬ人となったのである。」。これはある私立大の救命救急センターの実話である。この本には、こうした類の実例が満載されている。昔は、大学病院といえば、町医者ではどうにもならない病気を治す、高レベルの医療を提供するところだと思っていた。町医者もひどいが、大学病院の内部を支配する別の論理は、医療の破壊だ。自分が「すぐれた医者だと見られたい」という中身からっぽの自尊心(絶対「知らない」とは言わないし、「できない」とも言わない心も技術も未熟なバカ医者)が平気で患者の命をまるで虫でも殺すように抹殺する。罪の意識のかけらもない。いまでは、むしろ、私立の病院のほうがいい。医者にかかるときは、年間の手術実績のチェックを怠りなく。なにしろ国立大の病院で、豚に2回、人間1回の手術経験で、やってはならない内視鏡による手術をやって動脈瘤を破裂させ患者を死なせたという。これなどは普通に手術をしていれば簡単になおるものであったらしい。練習をしたというわけだ。わたしは、こいつらを許せない。医者の仮面を被った悪魔がいる。真贋を見抜ける人間になりたい。私の年来の思いだ。でもどうしていいのかわからない。トラブルは間断なく私を襲い、私は必死で考え、対応する。余裕は無い。いつも必死だ。政治?運命?何かとてつもない歯車が私に関係のないところで、コントロールできないところで、勝手に理不尽を強いてくるのだろうか。私には何ができるのだろうか。何もできないままに、なされるままに、弱者として、死すことになるのであろうか。私にできることは何。相変わらず、本を読み続ける。批判の炎を誰にも負けない強い怒りの炎を心に燃やし続けながら。
明日は、あさっての英語授業の原稿を書く予定。それと小学生が楽しみにしている算数の原稿を書きたい。冬は、中2用にオリジナル原稿を書くことになってしまった。12月前半は忙殺かな。今日は、読んだ本が悪かったかな。ブルーなハートでさょうなら。


11月24日記
朝から夜まで仕事。中3は明日で定着度テストが終わり、いよいよ最終内申が出る。明日からは、受験モードに切り替えだ。12月と1月は竹の会にとっては、もっとも実力を飛躍させる時期だ。しかし、今年は、夏休みにほとんど英文解釈などの基礎固めが不調に終わった。中3に全くその気がなかったことが主因だ。12月、ようやくやる気を出してきた中3を引っ張ってゆくことになる。今日、読み途中の本は「大学病院にメス」という本。大学病院の実態をドキュメンタリーに知らせてくれる良本だ。教室では、小林秀雄の本を久し振りに取り出し読んだ。「真贋」という文章は以前、朝日の天声人語で引用されていた。原文は、1951年の中央公論の中に載ったものだ。小林が、良寛の詩軸を得て、得意になってかけていたところ、良寛の研究家である友人がやってきて、「偽物」と聞かされて、持っていた助光の名刀でバラバラにしてしまったというくだりである。小林は、書画骨董の収集家らしく、この一件についても、なんやかやと言い訳ともとれるコメントを書き述べている。真贋を見分けるというのは、至難のことだ。本物だけを見て、これが本物だなどと断定できるのか、そもそも疑問だ。本物と偽物を比べて、ふんふんと納得することくらいしかできまい。「比べる」というのは、私のような無知な人間には有用だ。門前の小僧習わぬ経を読むというが、骨董屋の小僧も偽物は分かるが、本物かどうかはわかるまいということだ。テレビのなんでも鑑定団で専門の鑑定士が本物だ、偽物だときっぱり断定する。しかし、その鑑定に絶対間違いがないとはいえまい。小林も、同じものでも、名のある鑑定家が買えば、高値がつく。その意味で、骨董は「信用」だなどともうとてもついていけない。私にはやはり無縁の世界だ。しかし、真贋の判別ということには少しく関心が深い。昔は、下痢をすると「水を飲むな」というのが、医者の定説だった。ところが今は「脱水症状を起こすから、とにかく水分補給だけは怠るな」というのが医学の常識だ。本多勝一は幼き頃、下痢で苦しむ妹が水を飲ませてもらえず、脱水症状を起こして死んだ辛い思い出を語ったと聞く。いったい、その当時、当時の医者の言っていることを真贋の眼で見分けることなどできようがない。しかし、昨今の専門家という人たちの言説には疑いの眼をもって見るという習性がぬけない。経済の専門家、法律の専門家、医者、政治家等々、いったい真贋はどうなのか。たいていは、その専門家という人たちが誤った結果を導いてきたではないか。電気の専門家が変な工事をやったおかげで、困り果てたことがあった。その度に、思う。どうして、こいつらはうそばかりつくのか。知らないのに知ったふりをして、とりかえしのつかないことをしてしまうのか。不安をもったら、おかしいと思ったら、疑いをもったら、はっきりと問いただすことだ。世の中に専門家なんていやしないんだから。自分の良識の方が余程正しい結論を示してきたではないか。専門家などという形容詞は省いて、その人間の本質のみを素直にみることにしよう。今ほど「裸の王様」が私たちを害することがはっきりしたことはない。
いよいよ怒涛の12月がやってくる。難題をかかえたままに受験を闘わねばならない。さまざまなハンディをかかえての受験突入だ。いつも守ってくれる竹の会の守護神がきっと今年も幸運をもたらしてくれるだろうと思うしかない。必死にやるしかない。


11月23日記
子どもが、保育園から小学校の頃は、よく家族で旅行をした。伊豆の熱海、伊東、箱根は、定番のようによく行った。車で浜名湖まで出かけたこともあった。伊勢地方から、京都、北陸とまわったのを最後に、行かなくなった。学校を休ませて行くということはできなかった。そうこうするうちに子どもが受験時期となりますます旅行はしなくなった。それでも、年に1度の九州への里帰りは続いた。が、これもなくなりそうだ。子どもが高校、大学となるともうそれぞれに都合をいい、とても無理だ。子どもがまだ幼かったころがなつかしい。私の父は、学校には厳しかった。病気以外の理由で、学校を休むなどということはおよそ許してくれなかった。私も、学校がすべてに優先していくべきものだと義務感をもってきた。京都大名誉教授で、数学者の森先生なら、「自由でええんと違うか」といって終わりというところだろう。生き方なんて自由でいいんだから、「でなければならない」「何々べきだ」というのは、堅苦しくていけない。ただ、学問は、私にとっては、至上の価値であり、いろいろな意味で、そのことは、私の子供たちに刷り込まれていったように思う。
私は、長く、湿疹に悩まされてきた。といっても、2,3箇所の部分的な疾患だが。医者で顕微鏡検査をやってもらったことがある。湿疹という診断で、ステロイド系のクスリをもらった。これを塗るとたしかに湿疹は引っ込む。しかし、何回か使ううちに皮膚がおかしいと感じるようになった。あまり使わないようにはしていた。「免疫革命」の著者安保徹さんの説明は私には納得がいくものだ。「身体の中で組織が障害、つまりダメージを受けたとき、身体がそこの部分に血流を増やして修復しようとするのは当然の働きであり、これが炎症だ。現在の医療は、血流が増えたときに起こる熱や痛みの苦しみをきらって、消炎鎮痛剤やステロイド剤を処方してしまい、血流を止める治療をしている」と喝破する。昨今の幼稚で未熟なレベルの医療事故の増加は、現在の医療が矛盾をほころびをもはや自己のシステム内に包摂しきれなくなって、自壊していく様子に私には見えるのは、私のうがった見方なのであろうか。
草津の湯は、日本温泉番付で東の横綱だ。私の出身の別府は西の大関になるらしい。草津の湯は、狭い場所に点在する共同浴場が、いかにも温泉らしい建築で、きれいで、無料というのが、人気の核心と思った。別府は奥別府の湯布院が西の横綱ということで、どうもなさけない。湯布院は里山の残る狭い場所という点は草津に通うものがある。建築だって、若い人をひきつける工夫がある。別府の共同浴場は、いかにもきたない。しかも有料だ。これは別府に住む人たちがほとんど内湯を使わないことと関係がある。あちこちに共同浴場があり、月額1500円前後から様々だ。何回入湯しても月額1000円というのもある。つまり別府市民の毎日の風呂場なのだ。決して、観光客のための共同温泉ではないのだ。無料なのは明礬温泉などのかなり別府でも高地だ。別府も草津がなぜ人気なのか、よく考えてみればいい。湯質では、湯布院がいいという記憶はない。湯布院の温泉はとにかくぬるかったという記憶しかない。草津の湯はいろいろ不満なところはあるのに、確かによかった。
明日は、朝から夜まで仕事。「免疫革命」はまだ読んでいる。もう1冊「大学病院にメス!」がカバンに入りました。
今日は疲れているので、もう寝ます。


11月21日記
今日は朝から暑い。薄い背広で汗じっくり。午前中は、急な用で新宿へ。ひとつは、高3に質問された「逆像法」に関する本探し。一応ネットであたりをつけていたが、新宿紀ノ国屋で一発で見つける。「逆像法」という用語は初めてきいたが、どうやらSEGが言っているらしい。「大学への数学」では、「逆手法」というのが、どうもこれらしい。正攻法ではなく、逆手攻めというわけだ。私はもともと文系出身だから、数学は一期校・二期校時代に、数学T・UBをやっただけだ。理系は数Vをやる。今の分類とは違う。今は、数学A、B、C、T、U、Vとかなり細分化されている。理系は、C、Vまでだ。去年、私の息子が理系受験だったので、数V、Cを少しく読んだ。今年も、会員に東大受験の高校生がいて、理系だ。結構、難問ばかりの質問を受けた。易しい問題なら質問するわけないか。東大模試やZ会の数学やら、東大の過去問やら、とにかく質問攻めだった。竹の会は、原則として、高校はとらない。現在、指導している高校生は、小学生の時からいるとか、高校受験を竹の会でやったとかいう限定で、父兄に懇請されたからだ。余程のことがないととらないことにしている。話が脱線して申し訳ない。新宿では、ほかにデジタルカメラを購入した。パソコンでのテキストワークをより充実させる意図だ。デジタルカメラは既に2台あるが、カミさん用だ。来週の月曜日には、定着度テストが終わり、いよいよ受験指導が本格化する。うれしいことがあった。いつも算数に背中を向けがちだった小学生が私の算数プリントに取り組んでいるのだ。少しずつわかってきたようだ。フリーズしていた思考が少しずつ解凍しつつある。これはうれしい。もっともっといい原稿をつくろうと決意を新たにした。例の国語さっぱり小学生の指導を通して、国語の指導が見えてきたこともうれしい。「トラブルは何だ」「問いを何度も読め」「問いに答えろ」私の口癖になった。できない小学生を相手にして、国語の指導法が見えてきたかな。これは収穫だ。私の算数プリントは現在31になった。そして小学生に変化が見えてきた。よし、頑張るぞ。


11月20日記
今日は雨模様、しかもかなり寒かった。朝から内臓がしくしくする。風邪気味かなと思って、葛根湯を早めに飲む。今日ある英語の原稿の仕上げをして、プリントアウト。パソコンが使えるようになって、ワープロ専用機はサッパリ使わなくなった。2台は倉庫に眠り、1台は、専用機のソフトをDOSVに変換するのに使うだけとなった。昔作ったテキストはすべて専用機だから、フロッピーをDOSVに変換して、パソコンに取り込むハメになってしまった。ところで、今バスの中などで読んでいる「免疫革命」は途中放り出すこともなく、読み進めている。昔、ギックリ腰をやったとき、針医は冷やせといった。これは整骨院も同じだ。ところが、整形外科に行くと「温めろ」という。とはいっても、東京のある病院は湿布をドッサリくれたっけ。弟は、ある電気針の治療院の先生にゾッコンで、その先生ときたら、西洋医者、つまり整形外科医の悪口ばかりを言っていた。医者は「温めろ」というが、「あれは間違いだ」と、患者ひとりひとりに喝破していた。私はどちらかというと、東洋派、いや湿布絶対信仰だった。今読んでいる「免疫革命」は、どうだろうか。湿布を続けることには警告している。痛みは血流が生じて、修復している証拠だから、これを消炎剤で冷やすのは、逆に血の流れを悪くすることで、よくないという。痛み止めなどはもってのほかで、痛みをとめるために冷やしても、血流が止まるだけで、せっかく体が修復しようとしているのに、それを邪魔するのだから、もってのほかだというわけだ。なるほどと思ってしまった。以前、「腰痛は怒りだ」という本を読んだことがあったが、あのときより説得力がある。4年ほど前に、痛風を患った。1年ほど、町の整形外科や、東京女子医大などに通ったっけ。でもあるときを境にしてクスリを飲むのをピタッと止めました。医者にも行かないことにしました。大学病院はやたらいろいろ検査をやるので、閉口していた。血液検査もうんざり。黒酢を毎日飲んでいる。最近はうこんの粉も飲む。要するに食事療法で過ごしている。ここ2,3年発作は出てない。
明日は、成蹊中の入試問題をタネにして、算数の原稿を予定している。成蹊の問題はよく練られている。小学生の頭の訓練にはいい教材となる。割合の苦手な小学生がどこでフリーズするのか、解凍剤となる問題が作れればいいな。夜は、ボジョレヌーボを少し飲みました。おいしかったです。ではまた。


11月19日記
天気はややどんよりか。午前中は、明日の英語の教材を作る。水曜は、比較的、子ども達が早く来るので、1時半には家を出る。途中、ビックカメラで用足し。その足でTSUTAYAにまわって新作をゲット。ブックファーストによる。「免疫革命」という本を購入。免疫力という言葉に最近敏感になっていたからか、読む気になった。医者が対症療法によりクスリばかりを与えるから、自然治癒力、つまり免疫力が落ちてしまうというくだりが心をひいた。最近の医者はなんでもかんでもクスリで済ませてしまう。しかも対症療法だ。医は仁術なんかはもう過去の話で、医は算術が当然の世の中だ。医者は、症状を診て、何も考えずにクスリを使う。与えたクスリが効かないとわかると、次のクスリを与える。患者もたまったものではない。医者は知恵を使わず、クスリを使う。この辺のところは、塾も同じではないか。すぐに解き方を教える、なぜできないのか考えもせず、つまり知恵を使わないで、対症療法的に教えるだけ。大手だって例外ではない。大量の教材と授業を与え続けるのは、何も考えない医者が自分の知識を盲信して与え続けるクスリと同じではないか。知恵のない医者も多いが、知恵のない弁護士もいる。そもそも何々の専門家というのが、信用できないことが多い。おかしなことをやってるのに、相手が専門家だというので、黙ってみていたら、取り返しのつかないことになったって話が多すぎる。専門家も専門を引いたらただの人間だ。そもそも専門知識ですべて解決できるなどという思い上がりは鼻持ちならない。こういう私も、指導に関しては専門家を自負するものである。知恵と謙虚さを自戒として、指導していきたい。今日はこの辺で。


11月18日記
今日、買った本。中学入試のために国語4冊。それから「合格したけりゃ勉強するな」という本。後、「中国古典の名文集」という本。前者は、タイトルに魅かれて、内容を斜め読みして、全部読んでみたくなった。後者は、もともと漢文に、中国古典の叡智に全面的に降伏しているから。前者は、韓国人でニューヨーク大学スターンビジネススクールに通う著者の勉強成功の方法論みたいなもの。何か役に立つこといっているかなとバスの中などで読み途中。今日は、午前中、算数の問題を1題制作。今日は、成城学園の過去問を利用。成蹊の過去問はかなり練られていると思う。パソコンのソフトトラブルで仕事フリーズ。電話でなんとか解決。ようやく完成。5時半からの仕事なので、昼間少し眠る。教室には、4時過ぎに着く。いよいよスーパーの工事が始まるようだ。粗大ゴミが無くなっているのを確認した。以前作った折込広告が大量に不要なゴミと化して教室の一隅を占領。少しずつ捨てていくことに。かつては、よく新聞に広告を出した。ここ2、3年はすっかり広告を出していない。竹の会の会員のほとんどが口コミか、OBの紹介、OBの兄弟姉妹なのだ。なにしろ狭い教室なので、あっという間にうまってしまう。たくさんは呼べないのだ。もう少しで12月、受験生をかかえて今年も去年と変わらない。仕事に追われる毎日だ。私ひとりなので風邪をひかないように頑張っている。過去風邪で一度も塾を休んだことはない。ある夏などは、37度強の微熱がひかず、10日以上仕事をした。特に、受験直前には、風邪は絶対ひけない。親族の不幸にも帰れなかった。このときは、もうこの仕事はそんなに長くはやれないなとさすがに思った。今日は持病の背中が痛むので、少し元気がないかも。


11月17日記
今日は、朝から青空が広がり、自宅のベランダから富士山がくっきりと白い姿を見せていた。午前中は、算数の原稿を2枚作成。割合をいかに理解させるか、これが最近のメインテーマだ。作った原稿は、その日のうちに小学生に使うので、直接その反応がわかる。最近では、小学生が「先生、1あたりのプリントありますか?」と催促するようにまでなってしまった。少しずつではあるが、変わっているのがわかる。
今、ひとりの小学生に入試算数を仕込んでいる。1あたり量の理論は、小5で完全ではないが、理解したと思う。運動が好きで体を動かすことが勉強より大好きな小学生だ。活発で、思考とは無縁と思われるくらいに体を動かす小学生だった。最近では、私の解説解答を書いたわら半紙を読めるまでになった。しかし、まだまだ道のりは遠い。冬休み直前までが勝負だ。中3は、迫ってきた到達度テストの準備に追われている。しばらくは、受験指導はお休みだ。絶版中の「英語指導案U」の改訂版の執筆が遅れている。来年の春になるかも。教室のあるところは、静かなところで、およそ塾があるところではない。通常は、駅そばであろう。ところが、教室の前の空き地にスーパーマーケットができるらしい。近隣では、反対騒ぎが起こっているらしい。大型ダンプがうるさいとか、食品のくさったにおいがするとか、なんやかやと反対理由があがっているらしい。そういえば、近くに老人施設が出来る前、大した反対騒ぎだった。もっともらしい理由がいわれていた。私などは「便利になっていい」と単純に考えてしまう。「都市化」の中の都市化なんだろう。都市化は養老さんが現代の人間を説明する概念だが、都市の中にうごめくエゴイズムのぶつかりあいは避けがたい現象だ。自分達はいい。でも他人がするのは反対だ。この論理だ。自分さえよければ他はどうでもいい。最近の大人たちの意識かも。子がこれを刷り込み学習するわけだから、都市化は、人間疎外を加速させるばかりだ。昔のように自然に接して遊ぶことのない子どもたちは、すでに都市化されており、都市化された大人社会の部品でしかなくなりつつある。山手通りは大工事で大型ダンプの出入りどころではない。近隣のミクロなレベルもいいが、マクロに見れば、自分のところだけ別だというわけにはいかない。東京全体が都市化を人間の心の中の隅々までに及ぼそうとしている。そこが問題であり、そういう深みのある背景をもった意見があってもいい。教室の周辺一帯には、たいしたスーパーもなく、皆遠くに足をのばしていたと思う。便利ならいいのかという意見もあろうが、少なくとも、便利さは都市化の別表現だ。コンビニがこれほど普及したのを考えてみるがいい。便利さとは、都市化そのものなのだ。
どうも話が脱線してしまった。今年は何かと騒がしい。静かな年末が迎えられるのだろうか。今日はこの辺で。


11月16日記
今日は日曜日。朝から仕事。例の国語のできない小学生と格闘。今日はスタンスを変えた。読ませた後、質問する。「この文章のトラブルは何?小説でも、論説でも必ずトラブルがある。トラブルがあるから、文がある。まず、このトラブルを答えさせる。設問はトラブルにからんで作られる。これだ、これでいこう。今日はいいひらめきがあった。漢検は今度は目の前でやらせる。いつも問題集を中途半端にしかやらない。もうこれではすまない。いままでの勉強が、ノルマ、こなし仕事でやってきた。だから何も身に付いていない。勉強する意思をもってやらないからだ。自らやることに意義を見出さなければ。きたない字をなんどいっても直そうとしなかった。結局、社会に出て損をするのはお前だろ。説教する。ノートが満足にできないから、蓄積ができないんだ。また、説教。「トラブルは何だ」。読ませる。「トラブルは何だ。」。くそっ、徹底的に、トラブルを問い詰めてやる。なぜできないんだ。まじめに勉強するということの意味がわかっているのか。いい加減に勉強する習慣が何も身につけない結果になったのだ。責任をもって勉強しろ。まじめに勉強するということは、責任をもつということだ。また、説教。昼は、2人で、即席ラーメンとおにぎり。昼から、また、今度は、ひとりで考えさせる。3時過ぎると、V模擬を終えた中3が三々五々やってくる。近づいてきた到達度テストに備えて、質問に答えるべく、教室にくることを許可していたからだ。5時過ぎに、教室を出る。クタクタ。バスで渋谷へ。ブックファーストに立ち寄る。面白そうな本はないかなとブラブラ。渋谷から電車で家へ。そうだ、今日は、明日の算数の原稿のアイデアを思いついたんだった。これは中々いけそうだ。きっと竹の会の小学生は算数が得意になるぞ。家に帰ると、大学生の長男が、英語の専門論文の訳せないところをびっしり指示した半紙をはさんで、2日以内に訳しておいてときた。まじかよ。もうくたくたなんすよ。「英語で亀はなんていうの」、ガッツ、ガッツ、ガッツは答えた。「スッポン」、「スッポンは亀の種類」。ガッツガッツ。今日はこれまで。


11月15日記
寒くなったかな。東京ガスにガスストーブの点検をしてもらう。教室には、本棚が入り、本が少しすっきりした。土・日は朝から1日指導でクタクタだ。執筆中の算数の教材がかなりのできばえ。割合の苦手な小学生をなんとかしなければと必死で(実は楽しみながら)教材を書く。最近、小学生に変化が見えてきた。最初、気合の入り過ぎで、やや難しかった原稿が次第に原理的でいいプリントに仕上がってきた。これなら絶対いけるぞ。
今日は、養老さんの環境問題に関する本1冊、それと韓国版英語克服法の本、2冊を買う。後者は、50の文を死ぬ気で覚えろというフレーズが気に入った。その前には、遺伝子のコピーこそが、人間の行動の本質だという本を読んだばかり。村上龍一の語呂合わせシリーズは全15巻予定の週間本だが、とにかく押さえている。全国温泉週刊誌は、郷里の別府が出るというので、なぜか買っている。今年は、東大を受験する高校生がいるので、そちら関係の本は相当買い込んだ。鉄緑会の過去問解説は結構役に立っている。中学入試の過去問は棚1つ分は買うことになりそうだ。高校入試は今年も都立が主体でそれほど必要ないかな。早稲田を受けるとかいう子がいると、棚1つは増えるけど当分はそういうこともなさそうだ。
国語が全くできない小学生のことで悩み中。結構深刻だ。これほど内容を読み取れない例はちょっと経験がない。どうするか、思案がつきない。この子の能力の数段上に国語の文章レベルがあるということか。内容を理解しながら文脈を追うという読解の常識が通用しない。筋が追えない。感覚的に反応して、直感的に解答するのだろう。何が書かれているのか、意味をとるということもしないのだろうか。語彙力がほとんどない。漢字も駄目だ。どうしょう。いくら読ませても、その子のレベルをはるかに超しているのなら、読解練習そのものが無意味だ。いくら解説しても、ニワトリさん状態のままだ。とにかく、語彙を増やそう。今日は、帰りの電車の中で、そう決心した。漢字を覚えさせ、諺を理解させ、四字熟語を理解させよう。もう、読解はやめた。
いつも思う。もう指導の限界だと思う。そしてまたなんとかやってみようと思いだす。かつてDNA的に理解できない子がいた。真の意味のオーム返ししかできない子だ。解き方を説明した同一の問題しか、解くことができないのだ。基礎から徹底して教える塾が、できるようになったと宣伝していた。これはウソつきだ。DNAレベルなら私にはできない。国語のできる子は、言うことに深みがある。できない子は言うことが、頭隠して尻隠さず的だ。国語のできる子は、まわりのことをよく理解し、他人の心情をよく理解し、思いやりといった人の心が理解ができる子だったと経験的に実感している。幼くて、自分中心にしか、ものごとをみれない間は国語はできないままだろう。国語とは、結局、自分中心ではなく、四囲の状況を把握し、他人の視点からものごとをみれる能力の学問ではないかと思う。自分中心にしか、物をみれない子をとにかく教育することが国語の指導なのかも。とすれば、単に言葉を勉強させることではなくて、徹底して、他人の視点を悟らせることか。今日はこの辺で。


11月13日記
昨日上がった雨がうれしかった。青空が見えると少し心が安らぐ。今日は朝方曇り模様だ。所要ができて新宿に行くことになった。その前の時間を利用して日記を書いてるわけです。ホームページに初めて竹の会への書き込みがあった。ほとんど書き込みがないので、うちのカミさんが幼友達のお京さんとやりとりをすることでごまかしていた。最近、私が塾で「もっと書き込め」といったら、中3の連中が殴り書きを始めて苦笑いというところです。さて、ここで掲示板38番のお答えになるかどうかわかりませんが、私の考えを少し。「成績が伸びない」というお悩みですが、たぶん「塾に行ってるのに」とかいう前置きもあるかもしれません。成績が伸びないのは、端的にいって、「わかっていない」からです。塾でいろんなことを習っても「分かっていなければ」無に等しいということです。「わかる」の積み重ねが伸びていくという結果を必然的に結果するのです。「わかる」とは、主体的に自ら考えて「わかる」という意味です。「教えられればわかる」というのは、実は何もわかっていないのだと思います。教えられればわかるの段階は、私流にいえばオームさんの段階です。同じ種類の問題であれば、オームさんもオーム返し的に対処できます。しかし、本質あるいはしくみは変わらないのに、問題の目先だけを変えて出題するとオームさんはもうアウトです。オーム返しの限界です。わかるとは、しくみがわかるという意味です。物事の本質的なところで「あっ、そうか」と納得することです。新しい問題がきても、この本質やしくみに照らし合わせて、あれやこれやと思考をめぐらすことができること、これが考えるということです。数学の難問を考えるとき、解決の糸口はいつも、原理的なこと、定義的なことにありました。塾の仕事も、わからない問題をただ教えるだけではだめで、考えるということを学ばせることこそが結局は成績を伸ばしていくのだという認識にたっての指導であるべきです。この解答は数学を念頭に置いて述べたような形になりましたが、英語が伸びないというのであれば、基本の知識を確実にしたうえで、積み重ね的に効率のいい反復の問題演習がいい方法です。しかし、「効率のいい」というのが、中々、家庭の勉強ではうまくいきません。考え抜かれた1問に適切な助言というセットを際限なく繰り返すのが一番いいと思いますが。これは竹の会での指導ということになります。この問題につきましては、ドクターTのQ&Aでも近く詳論したいと思います。今日はこれくらいにしておきます。
 中3の受験が押し迫ってきました。今年の中3は、ほとんどといっていいほど私の課題を流してきました。流してというのは、出された課題を結局やらないでうやむやにしてしまうという意味です。X模擬でも受ければ、少しはショック療法になるのかと思っていたら、ショックを受けたのは親の方でした。本人達はV模擬で自分達の順位を見て、いかに自分達が何もしなかったかを悟ってくれたのでしょうか。私の当初の目算は大幅にずれ込み、下手をすると冬休み明けになるかもしれない。なにしろ、期末テストで受験指導は少なくとも2週間はストップするのだから、12月のV模擬には結果を出せるのかなと思っていたが、そうもいかないようだ。英文解釈をなかなかやらない。こんなのはある程度できる生徒なら竹の会では遅くとも夏休みにはやり終えていた。そんな状態で点なんかとれるわけがない。私の指導に従えというのは、私が「やれ」といったことは100パーセント「やる」ということだ。勝手に自分で宿題をやったり、小テスト対策勉強をやったり、自分で持ち込んだことをやる。これでは、私の指導は何もないではないか。その結果、V模擬では思ったとおりの惨たんたる成績。私は、竹の会で指導を受けるということの意味を真に理解して出された課題は即日とまではいわないが、相当な期間内にきちんと出す責任感をもってほしいと思っているのだ。うやむやにすることはもうできまい。結局被害を被るのは自分なのだから。
 


11月11日記
今日も雨っぽい。昨日作った算数の問題、1枚目はよかった。2枚目は芝中の入試問題からとったものだが、まるで歯が立たない。易しいかなと思って、取り上げてみたものだが、公立でもかなりできる小学生でもとても無理ということか。ましてや、鶏さんやオームさんをやって、考えることに正面から挑んでこなない小学生には、背を向けられること必至だろう。この問題はボツだなと複雑な心境。最近の小学生、とにかく考えない。与えられた課題に反応するだけ。易しければやる。考えないとできない課題には、すぐに退屈し始める。そして教えてもらおうとする。しくみや原理といったものを散々説明して、そういった類の問題も相当やってきたと思って、ちょっと切り口を変えて、簡単な原理がらみの問題を出す。途端に止まる。20分でも。30分でも止まったままだ。これでこの子が鶏さんやオームさんをやってきていたことがわかる。根本の原理のところがわかっていれば、聞いてることはひとつのことだけなのに、オームさんには、まるでいままで出会ったこともない問題と化する。これでは、中学に入って、塾に行っているのに数学が全然伸びないと苦情がきて、退塾するのは目に見えている。その意味で、私は預言者だ。といってもこれは親の見識とも関係する。親が自分の子をどう見るかだ。この子はわかりやすく教えてやればできるようになると信じている親が多い。しかし、自分で考えない子ができるようになることは現実問題としてありえないのだ。だから、私は、考えることのできる子供にすべくいろいろアイデアを考えて努力している。塾のこういった姿勢を親がどこまで理解しているか、つまるところは信頼の問題だろう。苦情をいって竹の会を止めていった多くの子たちがその後うまくいかないで失敗したという話が後日耳に入ってくる。問題を塾のせいにするのではなくて、その子に真に問題となっていることは何かを真剣に考え、取り組むことの重大性を考えるべきだと思う。少なくとも、竹の会は、いや私は真剣に考えるということの重大性を伝えようとしている。わたしの方法をわかってくれない親も子も当然いる。去るものは追わずは私の長年のポリシーだ。私は、静観するだけだ。


11月9日記
8日は漢字検定を実施。8,9と一日仕事に追われて、日記を書く元気もなかった。英検に比べて漢字検定は人気がない。入試のことを考えると、絶対に漢字検定が得なのに。確かに英検は、一部の私立で推薦入試で内申にプラス1したりする。しかし、それだけ。圧倒的に多い都立志望者にとって漢字の占める比重は大きい。漢字は語彙を増やすという意味で国語の読解にも大きく影響する。英検をやる子には国語軽視の傾向が強い。かなり損してるのに一向に気がつかない。漢字検定はきちんとまじめにやる性格の子がよく合格する。問題集1冊なのになかなかやれない子が多い。中学入試では漢検は絶対得だ。以前、漢検をたいそうな資格試験と勘違いして中学受験にマイナスだなどねじこんできた親もいた。漢字は日本語の基礎ですよ。日本語をしっかり勉強しなくてどうするんですか。昨日、買った本が「自己破産の現場」という本。角川から出たもの。読み始めてがっくり。接続詞の使い方がでたらめ。一気に読む気が失せた。破産法は興味があって専門書を2,3冊読んだことがあった。こんどは債権取立てを業とした経験のある著者が実態を描いたもので本屋で立ち読みして「いいかな」と思って買った。しかし、接続詞の使い方がちがう。だから、文脈が追えない。養老さんのものを読み尽くした後なので、ことさら論理の流れがない文は頭が生理的に受けつけないのだ。そういえば、中央大学の教授であった原田剛(政治学者)の論文の中に
接続詞の誤った使い方があるとして、丸山真男が「戦中と戦後の間」の中で痛烈に批判しているのを思い出した。たしか、逆接の接続詞の使い方が誤りだと指摘していた。内容はいくら高度でもこれではといった趣旨であったか。丸山は「現代政治の思想と行動」がすばらしい。論理の流れが文章の論理的流れが私を虜にしてやまない。丸山の本はほとんど持っていると思う。小学5年の頃から本をよく読んだ。おかげでか、国語で苦労した記憶がない。図書館の貸し出しカードが何枚にもなった。中学の頃は本を読まなかった。高校もあまり読んでない。大学に合格した日から、岩波文庫で日本の近代文学を読み尽くした。ほとんど1日1冊のペースで読んでいった。外国ものはトルストイなど有名なもので終わった。評論は大宅壮一にこったことがある。佐高、立花隆、日垣はよく読む。以前、「内(?)の子は本をよく読むのに国語が悪い」とかいう母親がいた。そんなわけがない。鶏読みをしているからだろう。鶏読みとは、私の造語で、何も頭に入ってないということだ。トサカを動かすだけで記憶は何もないというわけだ。小学生によくあるのが、オーム返しだ。算数でも、教えると、オーム返しで解くだけだ。理解したわけて゛はない。それがわかるからつらい。いくら図を使って説明してみてもなかなか理解にはほどとおい。鶏やオームじゃなくて、考えるフクロウになって欲しい。


11月6日記
「考えない方が楽だ」というくだりが、今読んでいる養老孟司さんの本の中に出てくる。「楽をしたくなると、どうしても出来るだけ脳の中の係数を固定化したくなる」というのだ。養老さんは、脳を1次関数で捉えているからこういう表現になる。思考停止状況が一番気持ちいいからという。小学生が考えることから、遠ざかろうとするのは、その意味で理解できる。「知的労働というのは、重荷を背負うことだ」という。物を考えるということは決して楽なことではない。算数について、多くの小学生が、考えることについて楽をしたいと思っているのだと思う。だからもそこには「どうしょうもない」壁があるということになる。つまり、わかる、わからないという能力の問題ではなく、動機の問題だ、ということになる。養老さんの分析を小学生にあてはめてみた。考えようとしない小学生が多い。どう考えていいのかわからないのだという。だから、巷には、考え方を教える塾なるものがあるらしい。ばっかじゃないの(カミさんの口癖)といいたくなる。考えないのは、考えない方が楽だからだというのは、その通りだろう。楽な方に走るのは弱い人間の常だ。しかし、楽ばかりして、得られるものはない。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」というのは、徳川家康が言ったと伝えられている。子供のころ、床の間の掛け軸にこの家康の言葉を書いた軸があった。その頃はなんと思ったのか記憶にない。養老さんの本にこの言葉がでてくる。人生は重荷を背負うて歩くというのは私にはズシリとくる実感がある。考えることは楽じゃあない。でもこれを避けては通れない。人生の意味を知るには考えることは避けて通れない。何も考えない方が楽に決まっている。一元論はその意味で楽なのだ。宗教だって、万能の神がいるのであればその神を信じて行けばいいのだから、何も考える必要がなくなる。考える、考えないは、個人の動機づけの問題というのが養老さんの分析だ。決して能力の問題ではないというのがいい。私が考えることの大切さを説いてきた意味があるというものだ。今日は、朝間、降った雨が止み、カラリと晴れ上がった。晴れの日には、新しく買ったお気に入りの革靴を履き慣れるために意識して履く。だいぶ履き慣れてきたのがうれしい。今日は、大学生になった息子の誕生日です。前期試験の結果は、ほとんど優をとって感心しきりというところです。自分が大学生の頃は、単位試験は単位さえとればいいと思い、まじめに授業に出たこともない。しかし、やたら勝手に専門書を読んだこともあり、3年生までにほとんどの必要単位をとってしまっていた。きちんと授業に出てまじめに勉強して単位をとっていくのがいいにきまっている。なにやかやと横道、遠回りばかりをしてきた人生でした。人生の意味を考えることの多い日々です。無駄ばかりしてきたような気がします。「無為に時を過ごしたくない」といったのは、現在東京地裁で判事をしている大学の同期生でした。若きころ無為に時を過ごした私が考える人生の意味は何なのでしょうか。


11月4日記
午前中、恵比寿まで散歩がてら所要をすます。その後、算数のアイデアをパソコンで具現化する。愛用のソフトはカルキング6.0で、数学や算数の数式がずいぶんと楽に作れるようになって、重宝している。今日は、算数24を執筆した。執筆しながら、次のアイデアが浮かぶ。明日もいい原稿ができそうだ。教室まで、電車とバスを乗り継ぐが、そのとき養老孟司の新書を読む。読んでると時間を意識しないですむ。いつのまにか押し迫ってきた。今年も後2ヶ月を切った。あっという間に年が変わり、夏が来て、また短い秋の後、冬が来る。何度、受験生を送り出してきたことだろう。長い間に、何をどのくらいやれば、こういう結果がでるだろうということが、ウソみたいに予測できるようになった。もちろんこのくらいの能力の子ならということも考慮している。これを使って、こういう結果がでるはずだと読めるようになって、オレは、ブラッック・ジャックかなんて思ったりして、ハイテンションの日があったかと思うと国語の指導でほとんど0点を出されて、ブルーにテクテク夜道を歩いた帰った日もあった。そんな日は今度は患者になった気分で、ブラックジャクがいたらなんとかして欲しいと本気で思ったりもした。今日は、算数に背を向けがちの児童のことがやたら気にかかる日でした。自分に解けそうな問題を1問解いて、「先生、漢検の勉強していいですか」とか、「先生、明日テストあるので、テスト勉強していいですか」とか「明日、社会の宿題があるのでやっていいですか」とか、算数のやっかいな「考える」作業を逃げているのが私にはわかります。なかなか算数に正面を向いてくれません。多くの小学生がこの「考える」ということから遠ざかる方にと向いていきます。いつか、意を決して、「考える」と正面立ち向かうしかないのです。いらいらしながら待っています。寝食を忘れて「考える」くらいに考えることが好きになってほしいのです。


11月3日記
朝から仕事。国語がさっぱりの児童に再度指導を試みる。2時間近く読ませるだけにして放っておく。書いてあることに、いちいち「なぜ」と問いかけろ、と口酸っぱく言い続ける。「なぜ」と問いかけ、その「なぜ」の答えを次にくる段落で探せと怒鳴っていた。十分読ませた後、小問を解かせていった。採点してみると、ほとんどできていなかった。ここで、ふと考えた。この子は、内容を何も理解していないんだと。「いしょく足りて礼節を知る」のいしょくを移植と書いていた。これでは、文の内容はまるっきりわかっていないということだ。読み・書きができて国語はスタートに並べる。この読み・書きをいままでほんとうにいい加減にしかやってこなかったということか。小問ひとつひとつについて、その意味することを質問してみた。その結果、内容をほとんど理解していないということが判明した。方法論以前だ。中学入試の国語が普通に高度の文章が出題されてるということもある。だいたい小学生には高度すぎるんだ。しかし、私が、過去指導してきた多くの小学生が普通に7,8割をとってきたのだから、そのせいばかりでもない。こうなったら、文の意味するところをとにかく説明して、啓蒙していくしかないと思い至る。なにしろ頭の中には、あまりにも貧困な予備知識しかないのだから。こうなると国語の指導の根底から変えることになる。とにかく11月の国語指導はこれでいくことにした。
祭日だけど、午後3時から、通常指導を入れた。雨ということもあり、案の定、集まりが悪い。まだまだ、勉強の優先順位は低い。久し振りに、教室の本を整理した。不要な本を捨てたり、会員にあげたりで、大分片付いた。教室に溢れていた本が少しだけ整理されたかな。ここのところ養老孟司の本ばかりを熟読している。中3のために課題の日大二高の平成7年の数学の解答解説を手書きして渡した。いつも私の手書き解答が取り合いになるので、順番制にして、他はコピーという合意ができたようだ。難問があったので、市販の解答もコピーして、渡した。市販の解答がわけがわからんことを示しておいたというわけ。私の作っている割合のプリントが好評で、算数に背中を向けがちの児童が少しだけ動きを見せ始めた。ほんとうにわかったというのがわかった。微妙な表情の動きでわかるのだ。分かると目が光る。満足した微笑みがこぼれる。算数のアイデアをいつも考えているのが最近の私かな。指導のアイデアひとつで、小学生のために何かできそうだという自信が今はあるという実感がするんです。今日は雨でしたが、明日晴れるといいな。今日は一日大変でした。じゃあまた。


11月2日記
朝、約束の仕事に向かう。時間がいっぱいでもう続けられないかもしれない。午後、3時から、約束の仕事で教室に行く。今日は、合間に、養老孟司の文庫本2冊を仕入れ、一気に読み流す。どちらも対談形式のもので、文脈を追うのは楽かも。教室で、日大二高の数学過去問を数題解いて解説を書き込む。中学入試の成蹊中の過去問を何題か解いて、説明する。指導している男子児童がまた例によって国語の問題を忘れてきたといって、中断。真剣に受験する気があるのか、怒鳴る。それにしても国語の出来ない子が多い。読解というが、多くは、内容、つまりは意味が全くといっていいほどとれていない。文脈を追うということができない。あらすじを書けというと2時間近く、何かやっていて、結局どうでもいい瑣末なことを書いてしまう。いったいどうすればこうなるんだ。文脈を追うということがどうすればわかってもらえるのか。11月、国語をどのように克服させるか、私のストレスはマックスだ。提出されていた英文解釈のノートを添削する。自宅のベランダには、今年は、キンモクセイが少しだけ花をつけていたが、あっという間に散ってしまった。今年、手に入れたばかりで、少しでも花がついてことだけでも幸せだった。来年はきっと期待できるぞ。明日は、朝から、夜までずっと仕事だ。また、持病の背中が痛みそうだ。姿勢が悪いからだと思うが、背中には、いつも、マグネットを貼り付けている始末だ。ごろ寝がずっとできないのがストレスになっている。合間に思いついた算数のアイデアをわら半紙に書き留めて、今日はこれまで。


11月1日記
いよいよ、11月が始まった。午前は、受験相談1件、午後の指導は、キャンセルになったので、書店にまわる。渋谷なので、ブックファーストと紀ノ国屋書店は、必ずまわる。まず、学習参考書売り場で、中学入試、高校入試、大学入試と一通り書棚に目を通す。その後、一般書を一覧する。最近は、養老孟司さんのものを熟読している。「逆さめがね」「まともな人」「バカの壁」を熟読中です。これから読もうと思って買ったのが、「預金封鎖」「病院にメス」。平成14年改正の商法ものは、専門書を読んだ。もともと私は法学部出身なので、よく読む。司法試験の短答試験にも合格経験があり、法律にはそれなりの見識はあるつもりだ。と、まあ、話が脱線しそうで、本屋を回った後、6時から、予定が入っており、それをこなす。いつもは、午前中に、算数の原稿を書いたり、改訂中の英語テキストに手を入れたりで、かなり忙しい。中2の会員たちが、私の「図形100題」で四苦八苦しているので、手書きで、模範証明を書き、コピーして1題解くごとに渡すようにした。これが、結構受けて、また仕事が一つ増えた。中3は、過去問指導法がようやく軌道に乗りつつある。英文解釈もかなり厳しく実行命令を出している。11月は、私の「英語ポイント集」を配った。これで英語をマックスにもっていく。先日、母親の直談判があり、日曜も中3が入ることになった。いったい私の休める時はいつ来るのか。受験が終わったら、今度こそは、勇気をもって、断れる仕事は断ろう。絶対、断る。