学芸員のよもやま日記

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2月の日記です。ありゃ、もう……。

市立小樽文学館学芸員・玉川薫
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2月23日(金)
●「東京ダラダラ日記」の最終回どえす。
午前中代官山のアートフロントギャラリー。旧住所を訪ねて時間をロスしてしまいましたが、応対してくださった奥野さん(一原さんのあの「カタログ・レゾネ」を担当された方。あれは死にそうなお仕事だったそうな)、優しい素敵な女性でした。現代企画室の太田さん(こっちは男性)といい、一原さんを担当なさっている人たち、みんな感じよろしいな。おのずとそういうふうになるのかしら。
奥野さんから一原さんが急病で入院されたと聞いてびっくり。あとで星田さんに電話したら、とりあえず元気だそうでホッといたしましたが……。
奥野さんから一原さんの作品を撮影したネガのアルバムをお借りして、今度は水道橋の現代企画室へ。こちらは雑居ビルの小さな小さなオフィス。小樽文学館の事務室よりせまい。なかでコートを脱いだりすると机の上に積み重なったものをなぎたおしそうな。
おもしろく思ったんですが、アートフロントも現代企画室も同じところでなさっているようなものでしょ。でも、美術のほうは代官山の広々としたテラスみたいな明るいオフィス。現代企画室は下町の雑居ビルの二人で仕事するのが精一杯の事務室。美術と文学ってだいたいこんなね。出入りする人がそういうの求めもするんでしょうね。そーいや、現代企画室の隣の部屋が「せりか書房」でしたよー。おお……。日本の出版文化の良心は、この雑居ビルにあったかー。
現代企画室で準備している一原さんの本、タイトルが「山岳小説集」ね。いいなー。うーん、私が編んでもこのタイトルにするでしょうね。選ばれた作品もうなずけるものです。負けないようにがんばりましょう。それにしても一原さん、元気になってね。のべ30時間のインタビュー、っての考えてるからねー。
夜は、新宿の萩原幸子さん訪ねました。いま刊行されている稲垣足穂の全集を編集されている方。向田邦子のドラマに出てくるようなひっそりとした古いきれいなおうちに住まっておられる、元気なすてきなオバーさんです。
あいかわらず、ダラダラではありましたが、予定のお仕事もいちおう終わりました。明日のお昼に東京を発って夕方までに文学館に戻ります。富田さんの送別会だからねー。
で、富田さんだ。うーん、富田さんのこと、いいたいこといっぱいあるなあ。富田さんね、いや失礼なこと書いちゃうけど、きっとよその面接とかでも思われてしまうんだろうなあ。最初、思ったのね。何か、さえない人な……、って。学校時代オチ研?えー?なんて。最初の日、スーツにネクタイして来たからね。ウチは、ネクタイいらないよ、あしもとはスニーカーでね、なんて冷たいいいかたしてしまいました。
でもね、これは事務長も副館長も、女の人たちもいうんだけれど、その実力ね、じわじわじわじわ発揮してきた。表情ね、あんまり変わんないよね。でも、不機嫌な顔はみたことない。
私なんかも説明かっとばすでしょ、自分でやっちゃったほうが早いよなー、なんて。文句もいわれるけどさ。でもね、えっとー、って振り返ったりすると、富田さんがいるのね。ちゃんと道具とか準備しててさ。はじめは、さほどのことに思わなかったけどな。でも、いつもいつもそうだ。
で、こりゃすげえ、と思ったのは、やっぱり山口昌男展だ。あれはね。たとえじゃなくて、ほんとうに人が倒れていったんだよ。一人二人って。それほどハード。でも富田さんは、出ずっぱり。いつもいつもさ。いっすよー、だ。断言するぞ。いなかったらお手上げだったよー。
それであの講演会だ。山口さんノリノリだったでしょ。ま、カイブツみたいな人だけどさ、やっぱり疲れているわけだ、ジイさんだから。疲れた顔をちょっとみせるでしょ、そしたらスッと椅子がでる。わーっとまくしたてるでしょ、ふっと口をつぐむ。するとワキから缶ビールが出るんだね。山口さん、わしゃ糖尿で酒は飲まん、とかね。ワガママだからねー。すっと、ウーロン茶。驚きましたよ、心底。
あとで聞いたらさ、いや、オチ研なんてずっとADみたいなもんだったっすからねー、こういうのわりに得意なんすよー、だって。富田さんからオチ研時代のこと直接聞いたのはこれが最初で、おそらく最後。
文才にも驚いたけどさ、富田ワールド、はてなく広く深いぞー。顔に出ないよなー。残念だよなー。つくづくさ。で、最後に申し上げたいのは、もし富田さんがどっかの会社受けるんで推薦書ほしい、っていわれたら500枚でも書くぞー。本気だよ。いらないだろーけどね……。

2月22日(木)
●きょうは、午前中に大宮市内にお住まいの中島和夫さんのお宅を訪ねました。『群像』編集長をながく務めたかたです。伊藤整の「日本文壇史」、中野重治の「甲乙丙丁」も中島さんの担当。きょうは、「中野重治と北海道の人びと」展のためにお借りしていた、「甲乙丙丁」が野間文芸賞を受賞したときの、中野重治のスピーチの原稿をお返しにあがったわけですね。遅すぎ。
このスピーチ原稿も、中野重治の面目躍如。ほんとにきまじめ。一語一句原稿にしている。それでね、最高の傑作は、結びの言葉。「なお、政治活動は、私はこんごもこれを続けてまいる所存です」というくだり。
きょうも、中島さんの独壇場でした。辞去したあと時計をみましたら、2時間30分経過していた。うん、おもしろかったですけどね。高群逸枝の奇人ぶりから、近代文学史に残る作品はなにか、そして大江健三郎の最新作についてまで。
中島さんにいわせれば、昭和10年代の作家はほとんどだめだそうです。丹羽、石川、火野、石坂といった人たち。伊藤整は、小説は、うーん、とおっしゃる。やっぱり「日本文壇史」ですか。評論は「小説の方法」が、たしかに画期的だけれども私小説そのものが消滅したといってもいい現代に意味が残るかどうか、とのこと。伊藤整の仕事のエッセンスともいうべき「近代日本人の発想の諸形式」かねえ、だそうです。
そして中野重治は「梨の花」は優れた芸術作品だけれども、一般読者には高度すぎるかも。繰り返し愛読されるのは「中野重治詩集」かもしれないね、とは、ほぼ同感。
太宰は残る。井伏鱒二も残るが「黒い雨」は本筋でない。三島は「金閣寺」前後だけだろうねえ、とのこと。
それで、大江健三郎の最新作「取り替え子(チェンジリング)」を、たいそう褒めておられました。最高傑作というのは躊躇するが、まちがいなくとても重要な作品だねえ、徹底した自己告発のこころみだなあ、といわれる。大江健三郎自身もほぼ同じことをいってましたね、これまでに書いた作品のうちのもっとも重要な二つの作品のひとつだ、と。
私は、最近の大江健三郎の作品ほとんど読んでおりませんが、これは気になった。自殺した映画監督伊丹十三(大江氏の義兄)とのことを小説に書かれたというので。
私は、伊丹十三さんの自殺ずっと気になっておりました。若いころのエッセイとかとても好きだったし、役者としてもおもしろかった。映画も初めの数作は、ほう、と思わせた。アタマ冴えまくった人ですね。でもねえ、あれはなあ。「静かな生活」は……。
午後、一原さんの原稿のことで水道橋駅近くの猿楽町の現代企画室へ。例によってアポイントとってませんからね、明日に延ばされてしまった。しょーがないから、近くの喫茶店に入って、駅のそばで買った「取り替え子」を読み始めました。うーん、なんだかなあ……。こりゃまずいんじゃないかなあ。最後まで読めるだろうか……。
小説は小説だし、実在した人と重ねあわせすぎるのはどうかとは思いますが、これに限ってはそうはいかないでしょう。この小説ではいきなりかなり激しい調子で否定されるけど、私は伊丹さんの自殺は、「映画の仕事の行き詰まり」に帰されると思います。はっきり。そして、それを決定づけたのが、あれですね。「静かな生活」。私が、「取り替え子」にひそかに期待していたのは、これが書かれるのかもしれない、それも完膚無きまでに、ってことだったんだけれどね。いや、まだ読み出したばかりですから、早計か。
あの映画は醜悪でした。そして、その醜悪な感じはね、映画監督の、原作者に対する激しい憎悪と蔑みが露骨に伝わってくるから、と私には思えた。そして、それはまさにその原作者の、義兄への、身震いするような蔑みに因るものだとも。
伊丹さんはね、作る前、作っているときは、そのようには思ってなかったと思う。思うまいとしていたと思う。でも、あれだけの人だからね、作ってしまった映画をみて、自分が何を撮ったのか、はっきりと気がついたと思う。そして絶望した。そのことに大江さんが気づいていないのなら、さらに気づいていて気づこうとしないのなら……、これまた絶望的だな。どう書かれるのかしらね、そのこと。
それからこの小説の出だしでひっかかったもう一つ。

イタリアの映画祭で賞を得たコメディアン出身の監督が、受賞映画のプロモーションにアメリカへ出かけて、おおいに受けたという、
──吾良さんが屋上から下を見おろした時、私の受賞が背中をチョイと押したかも知れない、
というコメントを読んだ時も、こういう品性の同業者かと思っただけだ。

ここさ、こんな書き方さ、どうかと思われるのは大江さんの品性のほうじゃないのかなー。コメディアン出身の監督が、って何だよ、いったい。このコメントさ、ビートたけしのいったことそのまま使っているんだろうけど、このコメント正確だよ。自他含めて距離を保ったクールな批評だ。それにさ、たけしの映画、伊丹さんの映画と較べものにならないよ。しかも、それは品性においてだ。
伊丹十三という人は「卑小な」芸術家だ。自分でそれを認めることにあらがい続けたけれども、最後に認めざるを得なかった。チョイと背中を押した、っていうコメントに「同業者」としての深い哀しみを感じないかな。少なくとも、「ここまでは」、たけしのほうが、大江さんよりも遥かに高く、伊丹さんを理解し、悼んでいる。
どうも、最後までこの印象かわりそうにないなあ。いくらなんでも70ページ程度で、そりゃないか……。
喫茶店を出たらもう夕風吹いててさ、昼間、大宮の10分で散髪してくれる散髪屋(料金1000円也)で頭刈り上げたせいかなあ、何か首筋スースーして。ちょっと、滅入ってしまいました。

2月21日(水)
●東京はきょうもヌルいです。小春日和ってやつですかー(誤用です)。
きのうはあんまりだったんで、今朝は気分をあらためて、出かけました。まず渋谷ね。井の頭線で一駅。神泉で降りまして、ギャラリーTOM。
村山知義のお孫さんにあたる村山錬さんが開いた美術館です。この方ご自身が視覚障害者だったことから、日本で初めて展示作品に自由にさわれる美術館になったんですね。錬さんとお父さんの亜土さん(知義の長男)が、だいぶ前ですが、小樽文学館にいらしたことがあります。そのころアクリルのケースに収めていた小林多喜二のデスマスクを、錬さんが、ぜひさわらせてほしいとおっしゃいますので、ケースから取り出してさわっていただいたことがありました。
その錬さんが、一昨年のことですが、まだ若くして亡くなられました。そのことを聞きまして、私はそれまでケースに入れていた小林多喜二のデスマスクを露出展示にいたしました。すべてのお客様に自由にさわっていただけるように。
さわるっていうのはね、新鮮ですよ。さわることで、初めてわかるってあるんだな。
ギャラリーTOMでは、今、佐藤忠良と堀内正和っていう二人の彫塑作家の展覧会をやっていましたが、これもすべてさわることができます。その堀内正和さんのお子さんが、幼いときにお父さんの目前で水死したといういたましい事故があったそうですが、そのお子さんの肖像を作っておられる。それにさわりますとね、ああ、お父さんは亡くなったこどもの顔をこうやってなでたんだな、というのが直截につたわってまいります。耳、鼻、すこしゆがんだ口もと、ひたいのくぼみ。みているだけだったら気がつかないだろう像のうらがわの空洞も作者の深い思いを伝えます。
堀内正和さんは、抽象作家として知られた人で、そうした作品も展示されています。組み木のような作品もあり、グリグリと回転させて形を変化させることができます。ズシリと重い金属でできたサイコロの目をそのままずるりと抜き取ったような作品もあって、その奇妙な感触もとてもおもしろい。
それで今のオーナーの村山夫人(錬さんの母上)のお話では、視覚障害をもったこどもたちが、これらの作品をさわると、やはり肖像作品より抽象作品のほうをおもしろがるということ。それはあたりまえのことのようですが、ちょっと示唆にとむ話。
つまり、ほんらい具象というのは解りにくいものなんですね。視覚というのは実にたくさんの情報をふくんでおりまして、具象はそのたくさんの情報を統合してはじめて理解できるもの。ただしそれらの情報は、かならずしも本質ではない。本質を理解するためにはむしろ表層的な情報をいったん排除したほうがいい。
目を閉じて、できるなら耳も塞いで神経を指先に集中させて「触れて」みると、ぎょっとするくらいいろんな思いが心にみちてきますよ。
亜土さんもギャラリーにきてくださって、楽しいひとときだったのですが、お話のなかにも記憶の古層は触覚や嗅覚であって、視覚は最後に記憶と結びつく、というようなことがありました。私の父は数年前に交通事故で亡くなりましたが、その亡くなった父をイメージしてみると、それはガサガサにかたくひびわれた足のカカトの感触、小さく黒くなった爪、私がもっと幼いころによく触らせたザリザリしたヒゲのそりあと、そして体臭。そうした感覚が、心のいちばん深いところによみがえる。
亜土さんが最近『母と歩く時』というご本を出されたんですが、これは村山籌子(知義夫人・童話作家)というまことに颯爽とした女性のお話。亜土さんの母上の思い出なのですが、これはね、とってもおもしろいです。小樽にもどりましたら、いくつかの文章をお見せしますね。誰よりも世の中のお母さんたちに読んでいただきたい。
村山籌子さんは夫だけでなく、小林多喜二や中野重治が獄中にあったときもその支援に奔走した人なのですが、『母と歩く時』に幼い亜土さんの記憶に残る小林多喜二の姿がでてまいります。その原稿は、小樽文学館に書いてくださったものなのですが、村山家にしょっちゅう出入りしていた小林多喜二が、小さい亜土さんを抱いて会議に出かけたりする。そして膝に亜土さんを抱えたまま、異議あり、とか叫んでしょっちゅう発言を求める。そのキンキンした声と頭の上で上下するノドボトケの感触が忘れられないというのですが、それはこれまで誰にも書けなかった多喜二の肖像。
お二人とのお話から、文学館のこれからのありかたにもつながっていく様々な考えがでてきもしたのですが、そのへんはこれから少しずつ書いてまいります。
ギャラリーTOMのすぐ近くにある渋谷区立松涛美術館に寄ってまいりました。場所が場所ですから、何かきどった美術館ていう先入観あったんですが、違いましたね。
口もととあかりの浮世絵っていう妙な名前の展覧会をやってまして、どういう企画かなーって、はじめの「ご挨拶」を読んだら、渋谷区在住の歯医者さんのコレクション、てありましたので、なんだ、お金のあまった歯医者さんが、美術なんてわけもわからず自分の仕事から思いついて妙なコレクション始めたのかーなんて、たいへんに失礼なことを思ってしまったりしたんですが、いや、とってもおもしろい。
「楊枝」というタイトルがあって、爪楊枝をくわえた女性の絵がズラリと並んでいるのですが、浮世絵師っておもしろいところに目をつけるんだなー。その歯医者さんも、軽いエロチシズムと書いておられますが、そのとおりですね。そのあとに「くわえる」なんてタイトルが続くと、ふーんなんて思ってしまいます。触感つながりだなー。こっちはちょっとお行儀悪い、いい感じ。
展示室のまんなかにはソファが並んでいて若い男が寝そべっていたり、おばさんたちがお茶を飲んだりしています。ウチの文学館みたいだな。ちなみにきょうは何かの日だったらしく、入館料はただ。図録も薄い冊子ではありますが600円。受け付けの、ボランティアかな、上品なおばさんが、おもしろいでしょう?とおっしゃいますので、私も、とてもおもしろうございました、とおこたえして退去いたしました。
駅にむかう途中、すれ違った小学生くらいの小さい女の子が何か思い出し笑いをしていたのが印象的。

午後、小林三吾さん宅を訪問。ご長男が介護の最中でした。ほとんどお一人でご両親の面倒をみておられますから、たいへんです。
三吾さん、顔色もよくお元気そうにみえましたが、ご長男おっしゃってました、食事のときに居眠りするようになりましてね、それみると食べることへの執着も薄らいできたんだなーって思ってしまいますね、って。
少し前のこと、秋田かどっかの中学校から、修学旅行の生徒さん連れてお宅にうかがいたいって先生から電話があったんですって。あのねー。あなた、欠陥教師よ。こられるほうのこと、想像できないかなー。私も若いころのこと思い出せば、冷や汗流れますけどね。
それにしても、小林多喜二の名前かかげれば何でも許されるって手合いが少なくない。さっきの村山さんのご本でもね、あのー、この小林多喜二のとこだけコピーしてください、って人がいるんですって。亜土さんご本人に。むう。

2月20日(火)
●やれやれ、無為の一日でした。だいたい、きちんと予定たてないしねー。
で、これはわかる人はわかるし、わからない人は、って、いや、ばかげたことなんだけど、コンピュータが思うように動かなくって、朝食に入ったロッテリアでいろいろやっているうちに3時間ほど経ってしまって、それで、こんなことやってても仕方ないからって、とりあえず京浜東北線に乗って、えっと南浦和あたりまでいって、その間、ずっとあれこれ動かしていて、あっ、このあたりでおおかたのみなさま、あきれかえっていますね。まだですよー。
午後1時まわってしまい、そのまま大森まで引き返してしまいました。それで、自動改札に切符くぐらしたらキンコンなりましたので、駅員に見せたらさ。私、そのまま出られるんだって思ってましたよ。そしたら、どこまで行ったんだっていうの。えっとー、赤羽あたりまでーってゆったら、じゃ赤羽までの料金と、そこでいったんまた入りなおしたとして、とか計算しだして、じゃ630円ねー、とかいうの。その根拠何だーとかってめんどうだから、払いましたよ。ちょっと腹立つなー。
たとえばね、これで大森まで引き返さないでさ、品川あたりで出たら、キンコンもならずに、そのまま出られたはずだ。また大森に戻ってもさ、プラス150円ね。せこいけどね。
あれかしら、東京では山手線に乗って一日グルグル回っている人がいたりするからかしら、こんな風に駅員にいわれるの。
何か、出張旅費もらってなにやってんだー、って聞こえてきそうだな。出張旅費は日帰り分しかもらってませんけどねー。そんな問題じゃないか。
カプセルホテルにもどっても、コンセント使えないしなー、って、けっきょく蒲田まで行きました。ここ蒲田のボロっちいホテル。でも悪くないな、このホテルも蒲田って街も。何かイナカのテイスト濃いけどね。渋谷とか原宿とかから何十分もかからないのにね。
そいで私のチューブルマックつないでPHSさしこんだら、いくつかメールきてましたよー。ようやくほっとしたな。ありゃ、これケイタイメールの女子高生とおんなじじゃん。マズいなー。もう。
あしたは、もう少しましな報告いたしますよ。。

2月19日(月)
●東京は、あったかいつーか、なんかミョーにぬるい。
まっすぐ渋谷方面にむかい、いつもの立ち食いそばやでイカセイロを食べまして、久我山へ。
伊藤礼さんは家のそとでどこかの業者さんとお話をなさってました。きょうは奥様も留守。べつに用があったわけではないのですが、少し雑談。
私は知りませんでしたが、鹿児島県の川内市というところへ寄付されたという、改造社にあった作家の原稿とか書簡のお話。すごいですね。小林多喜二の工場細胞の原稿とかね。啄木の書簡なんか一袋だって。ぜんぶで数十億じゃないですかーって。
それで、やっぱりバカげてますねーっていうこと。その改造社の創始者がそちらのご出身であったということらしいんですが。
礼さんは昔からおっしゃってたんですが、地方に文学館が乱立するって、ロクなことじゃーない。いまは、私もそう思います。
じゃー、うちは何かっつーと、センチメンタル文学館。もう、そんでいいです。情報センターとかね、研究のための、なんてたいそうなものじゃありません。
小笠原さんのスクラップみてても、思ったんだけど、これ何かの研究資料にって人いないでしょ。でも、残しておかなきゃあ。そういうもんだもん。小笠原さんが捨てられなかったものは、残しておかなきゃあ。
礼さんは、お父さんの蔵書整理されて、小樽にって、けっこう大事なものをよけて、もう包装もしてくださってました。私が行ったついでに郵便局で送ってしまいましょうってことになり、礼さん、また物置に入られて、もひとつ面白いものあるんですよーって。
YUKIJIRUSIって焼き印押した木箱。これはね、伊藤整の幼馴染みに杉沢仁太郎さんって人がおりまして、この人は伊藤家に、ま、迷惑も多々かけたようですが、恩人でもあるんですね。雪印乳業の、何か運送関係一手に引き受けてたんじゃなかったかしら、それで伊藤さんが困っていたころ、食糧や何やでずいぶん助けたようです。で、その木箱も、おそらく仁太郎氏が、昔、バターか何かを入れて届けたもんでしょう。伊藤整氏は例のごとく、それを本箱として利用し、戦時中は、手元の書籍や何やを疎開させるための器に使用したわけね。ちゃんと本人が、伊藤整第13号とか書いてますよ。
あさってぐらいに届くとおもいますが、まちがっても木箱のほう、バラして捨ててしまわないでね、頼んます。
礼さん、お元気そうでしたが、私も玉川さんに遊んでいただいて楽しゅうございました、水晶飴もいただいて、なんて。癌は恵みなのかも知れませんねーなんて、おっしゃってました。礼さんも、礼子さんも、この日記見つけたそうな。お恥ずかしゅうございます。
伊藤家辞して、浜田山で下車。井尻正二さんのお宅に。
お嬢さんの、はがのさんと少しお話。遺品の机を見せてもらいました。生前も見てたものですけどね、ほんとにそのままになさっている。博物館でお仕事をなさっているとき戦時中軍人が使っていた机をそのまま使っていて、それを持ち帰ってしまわれたそうな。立派でも何でもないけど、質朴な机。ペン皿とかも、きちんとそのまま。レーニンの小さいレリーフが置いてありましたよ。
井尻先生は、生前の遺言ていうことで、今は鶴見大学歯学部標本室に骨格標本になっておられます。若い頃の遺言なんですって。死ぬ頃、父がどう考えていたのか、ほんとのところは解りませんけどね、って、はがのさんおっしゃってました。
科学者ってすごいものですねって申しましたら、父は特別でしょうけどね、と。
4月には会いにいきます。骨格標本となられた井尻先生に。
宿泊は大森のカプセルホテルだ。初めてだよー、カプセルホテル。うーん、悪かないけど、連泊にはむいてないかも。

2月18日(日)
●明日から、東京へ出張。一週間いっています。日記は毎日更新めざしますよー。千葉さん、富田さん、よろしくね。短めに抑えますからねー。
で、12日の話。韓国木浦大学校総長をお迎えした夜です。レセプションをひらきました。お昼もそうだったんだけど、それはとってもいい会だったんですよ。
ただ、私、ずっと気になっていました。
みんなの挨拶、とてもよかったんです。それで、いちばん最後に、文學舎の副会長さんのご挨拶がありました。そのなかで、副会長さんは、あの新大久保駅でホームから転落した人を助けようとして自分も亡くなった韓国人留学生のことに触れ、彼の死を悼む、というお話をなさいました。そのとき、会場の空気が、当然なのですが、ちょっと変わりました。
直後、札幌から来てくださった韓国総領事が立ち上がって、つまりそのご挨拶にお答えするようなかたちでスピーチをなさった。これは、予定外、のことじゃなかったのかな、と思います。みんな、型どおりの挨拶だったんじゃないですよ。それぞれに心のこもった挨拶でした。でもね、そのときの総領事のスピーチの感じは、ちょっと違っていた。
総領事は、それほど流暢とはいえない日本語でスピーチをなさったのですが、私はよく聞き取れませんでした。ちょっとお顔も紅潮されているようにみえた。
それで、スピーチが終わったあと、感に堪えかねるおももちで、お二人が近づき握手なさったのですね。その時、亀井館長が、会を締めくくったのですが、館長は、このように申しました。「胸に深く届く言葉をちょうだいしました」。
私が、ずっと気になっておりましたのは、あのときの総領事のスピーチの内容です。どのように、副会長のスピーチに対して答えられたのか。
それで、昨日、出勤した館長に尋ねました。そのことを。館長は、もちろん近くにもおりましたし、しっかり聴いていましたよ。つまり副会長の、我が身を挺して人を救った青年の死を悼むお言葉に対し、総領事はこのようにおっしゃったのです。「私も、あの原潜との衝突事故で命を失った日本の青年たちを心より悼みます」と。
私は、あ、と思いました。心打たれました。総領事は、副会長が日本で事故に遭い不慮の死を遂げた韓国の青年を悼んでくださったので、すぐに、同じように日本を離れたところで不慮の死を遂げた日本の前途ある青年たちを悼んでくださったのです。
私が了解したのは、つまりこういうことです。二つの事故に遭った青年たちは、それぞれ自分たちの国を離れたある場所で、それも全く思いがけないかたちでそれに遭った。そしてこの二つの事故は、青年たちの死をまっすぐに悼む、というより(ああ、また誤解されるかも知れないけども)微妙に違う方向に語られ始めた。仕方ないとは思います。仕方ないところはあるのだけれども、前にも書きかけたのだけれども、ちょっと違うだろう、それは。
だからこそ、私は、総領事の「まっすぐな」挨拶に打たれました。何か、この数週間曖昧模糊としたままずっと胸につかえていたものが、ストンと落ちたような気さえ、いたします。何か、ようやく韓国の人たちと向き合える用意ができた、と思えてまいりました。
私どもの館長さんは、亀井秀雄さんはね、ときどきギクリとすることをいうんですよ。
北方文芸展、道新とかに、けっこう大きく出ましたでしょ。記事のなかにあったように、記者のかたから館長が、コメントを求められたんですね。それで、記者の方が訊ねられたそうです。「北方文芸」って、どういう読者を想定して編集されたんですかって。
いや、館長が私に話したのはここまでですよ、その後お客さんが館長を訪ねてこられて、私は退室しました。だから、館長が記者の方にどのように答えたのか、私は知りません。記事のなかにもなかったと思います。
うーん、その答えをね、私は聞くのが恐い……。
じゃ、明日は東京で。あ、いきなり長くなっちゃった。

2001年2月16日(金)
●とにもかくにも始まりましたので、ひとだんらく(も、してられないんだけれど)。こないだ寒くて死にそうになりながら徹夜仕事で、朝うちに帰りましたら、長女のサクラ(中3)が「おやじ、バレンタインのプレゼントだ」って、チョコエッグをくれました。もちろん、第4弾ね。そいでね、へんなヤツだなー。これ、スーパーとか、コンビニでだいたい145円でしょ。それで、どこで買ったんだか、なかに一個だけ148円になってたんだって。それで、サクラは思ったんだって。これは特別なヤツかも知れないって。値段の打ちまちがいに決まってんじゃん。しかも高く打っちゃったの買うなよー。3円だけれどね。
それでもね、開けたら、なんとかオカタニシ、ってのが出てきました。陸生タニシの一種だって。カタツムリとは似て非なる種、だそうだ。こりゃ初めてだ。で、やっぱりすごく良くできてます。えらいぞ、サクラ。ハッピーバレンタイン、イェイ♪

展覧会だけれど、会場のパネルにこんなように書いておきました。

展示の工夫について

今回の企画展は小規模のものですが、いくつかの新しい工夫をしています。
テーブル上のアクリルでカバーした資料は、すべて小笠原克氏自身が保存していたもので、『北方文芸』編集作業に使用したもの、作家・研究者からの来書、新聞記事の切り抜きなどです。そのそばに置いた『北方文芸』本誌は、それらにおおよそ関連のあるものです。手にとってご覧ください。さらに関心をもたれたならば、背後の本箱に並べているバックナンバー(全号揃っていませんが)を自由に閲覧ください。
また、伊藤整や小林多喜二、石川啄木など小樽にかかわりのある作家についての記事をお探しなら、背後のテーブル中央に置いてある「『北方文芸』で読む小樽の風土と文学運動のための索引」をお使いください。すばらしく役に立ちます。ご入り用なら、お持ちになってけっこうです。
テーブル上に置いてある原稿は、コピーです。手にとってご覧になってかまいません。原稿そのものが強い感情を伝える、三編を選びました。それらを手にしたときの編集者の感動が偲ばれるものです。
今回の企画のもうひとつの特徴は、「古書バザー」を併設していることです。『北方文芸』バックナンバーの一部もバザー会場で販売しています(展覧会場の『北方文芸』といっしょにしないでください。展覧会場のは館のラベルが貼ってあるので区別できます)。
奇妙に聞こえるかも知れませんが、私たち小樽文学館のスタッフは、この「古書バザー」こそ小笠原克館長がこの文学館に残してくれた大きな財産と考えています。「古書バザー」が始まったいきさつについては、バザー会場の中央あたりに置いてある「多喜二の手紙を小樽に!関連ファイル」をご覧ください。この「古書市」の本質を「関係性にある」と表現したのが昨年ここで蔵書展を開かせていただいた山口昌男氏です。やはりバザー会場のテーブルに置いてあるコピーの冊子「仮設的なものとしての古本屋」をご覧ください。これはお持ちになってかまいません。
亀井秀雄現小樽文学館長が率先して進めた韓国の大学に図書を贈る、という行動もこの「関係性」を発展させたものといえます。
この文学館の資料購入費等のあまりの貧弱に仰天した小笠原館長が、それなら自力でと始めたこの古書バザーが、ついに民間レベルでの国際的文化交流まで広がりを持ち始めたと私たちは考えています。スタッフの一人は、それを小笠原氏の「古書バザー」遺伝子が、この文学館に組み込まれた、と表現しました。こうして小笠原氏は、私たちとともに今も生きていると、私たちは考えています。
バザー会場に掲示してあるように、古書の売り上げはすべて「小笠原克記念基金」に入れられ、この文学館の資料購入、そして種々の活動を展開するための小さくない拠り所となっています。そして私たちは、それ以上に「小笠原克記念基金」を軸にして展開される交流をだいじに考えています。古書を提供してくださるかた、買い上げてくださるかた、こうして古書は、必要とされている場所にいき、そして活用され生き続けると私たちは考え始めています。文学館という場所の意味そのものを考えなおす、そのきっかけを、長く文学館活動に携わった小笠原克氏が与えてくれたともいえます。
小笠原が捨てずにいたものが役に立つと思うとワクワクするとおっしゃってくださった小笠原黎様、そして貴重な資料を貸与してくださった北海道立文学館にこの場を借りて、深く御礼申しあげます。

小笠原黎さん(奥さんです)が、いってました。小笠原克さん、一昨年の12月9日に亡くなったでしょ。12月の初めまで、それでもまだ自宅で寝たり起きたりしてたのね。奥さんの誕生日か何かだったのかな。で、お酒をすすめたら、それでもチョコ二杯ほど飲んで、置いたんだって。もういらない、って。奥さん、あんなにお酒好きだったのになー、って思いながら、いま、何がいちばんしたいのって聞いたんだって。そしたら、みんなが楽しそうにワイワイガヤガヤやっているところに行きたいって。別になかに入らなくていいから、すみっこで、それをみてたいって。小笠原さんはね、これはみんな知ってるけど、酔っぱらうと(まず、必ず酔っぱらう)最後に必ず叫ぶんだ。愛してるよ〜って。

2001年2月14日(水)
●えっと、バレンタインデーなんて私にはもちろんぜんぜん関係ありまっせん。だっがー。こないだ札幌パルコでチョコエッグ第5弾先行発売って車内吊りみつけて駆けつけたときは、いわゆるヌカ喜びだったぞー。第5弾販売券(何のこっちゃ)本日分はなくなりました、だと。けっこう混み合ってるパルコの地下二階で、そのコーナーだけカラカラと風が舞っているようだったぞ。販売員のお兄さんだけがいて、まんなかに積み上げてあるチョコエッグはぜんぶ第4弾。だれが買うかー。クサフグだけでもう3匹も出しちゃったぞ。ペットシリーズは好きじゃないしなー。第1〜3弾もリバイバルやってね。
それで、今夜はいわゆる徹夜ね。うーん、ひさしぶりー。そとは零下12、3度か。この部屋は今んとこ17度か。灯油が切れたら死ぬなー。で、何で徹夜やってるかってゆうと、あさってから企画展が始まるのね。どうやるかなー、って何かダラダラしているうちにとうとう間近になってしまいました。そんでも窮すれば通ずってやつで、ちょっと画期的なやり方考えつきましたよ。これは、まず、とても簡単。いわゆる(こればっか)ヒョウタンからコマね。ちなみに私はずっとヒョウタンから独楽だとばっかり思ってました。ありゃ何のときだったかなあ、伊藤礼さん(伊藤整のご次男)といっしょにどっかの料亭みたいなところで食事のときに、その部屋に掛け軸が掛けてありまして、その図柄が「ヒョウタンからコマ」だったのね。すなわちー。ヒョウタンから馬が出てくるところ(何だよ、この掛け軸は)。それで、私が思わず「あれー。私はずっと独楽だと思ってましたよー」っていったら、礼さんは「え?」っておっしゃいました。礼さんて、こういうときぜったい笑わないのね。「ほう……」とかおっしゃいます。私の生まれ育った福井というところは、方言学上特殊な地域で、いわゆるアクセントの違いによる同音異義語の使い分け、ってものがないところなのね。だから独楽も駒も同じなんだよー。今もわかんねーぞ。
何の話だったかな。画期的な展示方法のことね。全国のよい文学館のみなさま、けっしてマネをなさいませんように。たいへんランボウでキケンなやりかたです。こんなの許されるの小樽だけだよー(誰が許してんだ)。
おっと、こうしちゃいられねーってね。何のために徹夜やってんだ……。

ただいま午前5時7分、事務室の室温8度。寒いっす……(泣)。

2001年2月12日(月)
●こんなに忙しいのに日記書いてるヒマがあるのでしょうか。はっきりいって、ありません。しっかし、書いておこう。聞いたときの「感じ」が、くっきり残っているうちに。
ほんとなら、今日の「書くこと」は、韓国木浦大学校総長ご一行をお迎えして、だ。いい雰囲気だったんだよ。その意味もこれから、ずんずん重みを増していくと思う。
でも、今日書くのは別のことだ。木浦大学校総長に記念品として一原有徳さんの版画をお贈りすることになった。それで、きょう一原さんにも列席をお願いしたんだね。私がタクシーで迎えに行った。
セレモニーが終わったあと、一原さんには美術館長室で休んでもらっていた。総長ご一行に文学館内をみていただくなど、私の役割がだいたい終わったところで、一原さんのところにもどって、「雑談」をした。それで、一原さんの話ってのは、これは私にかぎらず、とても長くなる。また、それが面白いっていうか、やっぱりすごいんだね。この人は。
話をしていたらさ、「人に告ぐべきことならず」っていう言葉が出てきたよ。「あ」と思ったけれど、これは不思議なことではない。こないだのあの日記はさ、一原さんのこと考えていたときに、どんどん出てきた思いをそのまま書いてしまったわけだから、当の一原さん本人から、まさにその言葉が飛び出しても不思議でもなんでもないわけだね。
それで、この「鰯雲人に告ぐべきことならず」ってのは、加藤楸邨という俳人の作だ。この人はエッセイも書いたらしい。それでそのなかで、松尾芭蕉のさ、有名なやつがあるじゃない。「夏草やつはものどもが夢のあと」っての。それに触れて、加藤楸邨がさ、この俳句は良くない、っていってんだって。この俳句は、時代を超越してしまっている。古代も戦国時代も、江戸時代もない。こないだの戦争のときのだ、っていっても通じてしまう。それどころか、何でもかんでも「夢のあと」だ。俳句は、その時代、まさにそのときその瞬間の観察、感情を詠むべきだろうって。こりゃほんとだね。でもさ、一原さんはいうわけだ。そんなら、楸邨ご本人の「鰯雲人に告ぐべきことならず」って、ありゃ何だ、って。あれだって、いつでもどこでも「人に告ぐべきことならず」じゃないかって。そのとおりだねー。一原さんがいいたいのは、表現ってのは何かってことだ。「人に告ぐべきことならず」、そりゃそーだ。しかし、「人に告ぐべきことならず」なんてゆうこと自体は表現でも何でもないだろう、って。よくわかるぞ。少なくとも一原さんが反発するのは、よくわかる。一原さんは、書きたい、っていってた。自分の感じたこと、分かったこと、伝えたいことを「ありのまま」にだ。一ミリの乖離もなくだよ。
いわれてみればさ、一原さんの版画ってそうじゃないか。あれはいわゆる「抽象」じゃないぞ。いわゆる「抽象的」というのっぺらぼうとは対極にあるもんだ。リアルのなかのリアルのなかのリアルだよ。それに極限まで迫ろうという、しかもそれが「できる」っていう凄さじゃないか。
恐らくそれは一原さんの才能だと思う。ひょっとしたら環境から生じたということもあるのかも知れない。一原さんの冷酷、明晰、純粋。そして、なおかつ、それすらも一原さんの内側から破っていくものがあるとしたらさ。
ここで、一原さんから土方定一の話が出た。これは、私も前に何度も聞いていたことだけれど、この土方定一って人は早くから一原さんの版画に注目していた人でしょ。こりゃ余談だけどさ、小樽に藤山要吉さんっていう、ま、いわゆる大富豪がいた。それで、土方定一さんが小樽に来たときに、誰かあいだをとりもったんだろうね、この藤山要吉氏所蔵の古今の名品、美術品をみせることになったんだって。それで、藤山氏は、「その土方某に、見せてあげましょう」ってつもりだったらしいんだけど、土方定一さんのほうは「見てあげる」って態度だったんだって。話あうはずないよねー、って一原さんいってた。その土方さんがね、あとで一原さんにいってたんだって。「仏壇だけだなー、ありゃ確かに東北以北いちばんかも」って。「絵はなー、なかでましなやつで銀座の画廊にもってって300万かなー」って。要吉さんのほうはさ、仏壇みせるつもりじゃなかったんだろうけどね。ま、こりゃ余談だ。
で、その土方定一氏がさ、一原さんの版画は早くから注目してて、でもなかなか、「いい」っていわない。それで、一原さんが青インクを使ってさ、あのなんかハラワタみたいな感じのモノタイプを作りはじめるじゃない。そんとき、はじめていったんだって。「よかったよ、グニャグニャが出てきて」って。「冷たいものが無機質なものができるのは、おまえさんならあたりまえだ。あのグニャグニャが出てきてよかった」って。
私はさ、この話は何度も聞いてた。それで、前は、これは文字どおりにあの「グニャグニャ」の青インクのモノタイプを始めたことをいってたんだと思ってた。
ところがさ、きょう一原さんは、こんなことをいったんだ。その土方定一氏が、やはり若いときから注目もし、その感性を評価もしていた評論家っていうか、美術研究家がいる。でも、その人のことを、そのころはこういってたんだって。「あいつもな、あいつの文章にもこのグニャグニャが出てくれば、一人前なんだけどなー」って。それで、私は、この「グニャグニャ」の意味が初めて解った。
一原さんもそうなんだ。一原さんの冷酷、明晰、純粋は、これは一原さんの天分であって、それはそれで何億人に一人かどうかっていう天分だけれど、一原さんのもっと凄いのは、それをさらに突き破ってくる何かだ。それを土方定一っていう(これも化け物みたいだなー)人は「グニャグニャ」っていったんだね。
私は、ずっと一原さんの版画が好きだった。それもエッチングだ。まさに冷酷、明晰、極限のリアル、だ。それが爽快なんだよねー。でも、それはまだ、「爽快」のレベルだったんだ。一原さんの凄いのは、それをメリッって破るその瞬間なんだね。それは、きっと一原さん本人も驚くような瞬間だ。肉であり闇であり、においたつようなもの。一原さんの意識の表層では、きっと忌み嫌うようなもの。それが突然あらわれる。その瞬間だ。
やっぱりやってもらわなきゃなんないよ。ビョークと同じだ。だれもこの人止められんぞ。私にできるのはさ、それにとことんつき合うことでしょ。それしか能ないもん。
こんどの一原展さ、美術館・文学館合同の。やっとわかってきたぞ、やる意味がさ。必然だってことがさ。

2001年2月10日(土)
●きのうから今日にかけて、頭のなかをグルグルグルグル回っている言葉がある。「人に告ぐべきことならず」ってやつだ。これは「鰯雲人に告ぐべきことならず」って、有名な人の有名な俳句だったと思うけど、名作なんだろうねえ、ことわざみたくなっちゃったもんな。
このサイトにさ、これはぜひみてもらいたいんだけど、つーか、見続けてもらいたいんだけど、スタッフのページがある。ここの文学館・美術館の人たち全員が「自分のページ」をもってるんだな。自分のページたって、それは「小樽文學舎」のサイトのなかの、「小樽文学館」のなかの、「スタッフ」のページのなかのページなわけで、それはそれとしてわきまえて(そりゃ私か……)もらわなきゃなんないんだけど、このわきまえながら、自分の考えとかを書くっていうのが、これはやってみると面白い。どーせ、誰も読まないんだから何でもかいちゃえ、うっさばらしー、ってのとは、やっぱり違うだろう。
それで、いちばんマメに、っていうか、いまのところ彼だけなんだけど、更新してってくれてるのが富田さんね。彼は、今月いっぱいでここをやめなきゃなんない「臨時職員」なんだけど、(ああ、このことを書き出したらまた止まらなくなるぞ。今は抑える)何か淡々、飄々として日記書いてくれてる。おもしろいんだよな、これが。私のひそかな楽しみだ。
そんでさ、二三日前の日記のことで、富田さんがちょっと悩んだでしょ。「実名出してマズかったかなー」って。まあね、須田アナ(私は知らないが)が読んだらキズつくかもねー。でも、これはいいと思うけどね。おもしろいもん。隣のアナもつられてかむ、っていうところがとりわけね。それで、いまチラといっちゃったけど、この「キズつく」な。これだ。
まーたヒンシュクかうが、あえてかうが、キズつきだらけだよー。まわりじゅう、日本中さ。
「本当のキズ」に目を背けるつもりはないが、キズを振りかざすなよなー。それで口を封じるなよなー。「自分がキズつくから」ってはっきりいってくれれば、いいぞ、まだ。「あなたがキズつくでしょ」とか「カレをキズつけたくない」っていうな。キズつきたくないのはあんたじゃないか。それを根拠に検閲し、「伏せ字」にし、削除し、ならまだいいや、「なかったことに」しようとしてるんだよー。せめて、それに気がつけよ。
「人に告ぐべきことならず」ってのは、たしかにある、と思う。それは「倫理」というものだ。だがよ、それを定めるのは他人じゃないぞ、まして世間とか社会とか国家じゃねえ。自分だよ。自分が自分の倫理を定めるんだ。でなかったら倫理の意味なんてねえぞ。
こりゃほとんどウサバラシだなー。じゃまた富田さんの「今日の日記」でも読んで、心なぐさめましょう。

2001年2月8日(木)
●ひとつ、書きとめておかなきゃあ、と思っていたことがあった。夕張市美術館でやってた「筑豊炭坑絵図」の山本作兵衛翁ね、この人、昭和59年に92歳で亡くなったんだけれど、後年こういうこと言ってたんだって「わしの絵にはひとつだけウソがある。ヤマのなかはくらくてあんなにみえやあせん」。凄いと思わないか、この言葉。
それでさ、また飛躍するようだけど、ウチ(小樽文学館)でいつかやりたい展覧会がある。その名も「バリアフリー展」だ。いま、大きくうなずいた人。きっとカンチガイしたぞー。血の気が引くぞー。「バリアフリー」は「流行語」になった。流行語になって「カクレミノ」にもなった。なら本来の意味を取り戻そう。差別、辺境、殺人、孤独死、すべてなだれこむぞー。ヒントは、見えないから、みえる。届かないから、願う。孤絶するから、つながる。だ。常と常。「と」のあたりに、コンニャクのように氷のように、薄ら笑いを浮かべてそびえたつもの。正体不明のやつ。それが「バリア」だ。それを「フリー」にする。してみせる。私の最後の展覧会になるかもね。

2001年2月6日(火)
●日曜日(2月4日)、夕張市美術館の「筑豊炭坑絵図 山本作兵衛展」にいってまいりました。美術館とは関係ないことなんだけれど、小樽から夕張にいくのに、10時頃に家を出て、11時に札幌駅に着きました。それで、そっから先なんだけど、夕張市美術館のもよりのJRの駅は、夕張駅。ただし、ここに停まる列車の本数、接続を考えると、JRを使ってこの街に行くことは、不可能といっていい。で、自家用車をつかわないで、となると唯一の選択肢が札幌からの直通バスです。それで、これは夕張にいくたびに何度も驚いて、いいかげんにわかっているはずなのに、あらためて驚いてしまった。11時に札幌に行って、その時間で乗れる夕張行きのバスが出るのは、12時40分だという。それでバスで夕張まで約2時間ね。5時閉館間際まで展覧会みました。そして札幌まで戻るのにまず市内バスでターミナルまで行かなければならない。ターミナルに着いてみますと、つぎに出る札幌行きのバスは7時で、それが最終だとゆう。いやね、ターミナルは寒くて自動販売機のホットコーンスープで何とかしのいだ、なんていうのは、要するに私の下調べが懲りもせずにいい加減だったからで、それをどうこうというんじゃない。
ちょっと時間を戻します。午後3時ちょっと前に夕張に着いたんだけれど、ああ、これも前も、その前もそう思ったはずなんだけど、あらためて。人が、いない。ひとりもいない。街のなかに。いないんだよ、ほんとうに。日曜なのに(日曜だから、なのか)お店も何もかもシャッター締めきっている。
それでね、夕張ではシネマ通りとか名前をつけたらしいけれど、街のあちこちに大きな映画の看板付けているのね。昔の手書きのやつの復刻版みたいやつだな。「太平洋ひとりぼっち」とか「花と龍」とか「青い山脈」とかさ。そーいえば、もうすぐ「ゆうばり国際映画祭」っていうのが始まるんだ。ユウメイだよね。そんときは、世界中からユウメイ人が、それから映画好きのイッパン人が大勢集まるわけだ。そんなふうにこの街がなるのは、もうすぐだ。でも、今は人いないぞー。ひとりもいないぞ。除雪車がさ、ごとごと動いているほかは、街頭放送が響いているだけだ。むなしいぞ、街頭放送。夕張ったらさ、かつては北海道の、じゃないぞ、日本の基幹産業支えた炭砿の街、「日本近代」のエネルギーそのものの源だった街だよね。これは比喩とかじゃなくて、ダイレクトにそうだったわけだ。非道すぎじゃん。悲しすぎじゃん。
ごめんなさい、ダラダラと。肝心な話にうつります。山本作兵衛。私はこの人の名前じゃなくて、「絵」は中学生のころから知っていた。憶えていた。兄貴が買ってあったんだろうね、今考えれば上野英信の『地の底の笑い話』だったんだろうと思う。その挿し絵みたいに、この人の絵が使われていた。で、中学生の私はさ、男と女が混浴しているような絵があるじゃん、へえ、と思って絵だけパラパラみていた。文章読まないよ、絵だけだ。絵だけなのに、ズンズン沈み込んでしまった。くらーい、いやーな気持ちになってしまった。こういう暮らしがあるってことじゃないぞ、何かこういうところから僕らも出てきた、うんと昔の、記憶以前の記憶みたいなもの。それは薄闇になかば被われた「絵」として、私のなかに棲みついた。
上野英信『地の底の笑い話』は、去年あらためて読みました。「昭和歌謡全集北海道編」とゆう名前の特別展のために。直接は使えませんでしたけどね、あの暗さだよ、あの暗さ、あれは骨がらみで、皮膚から染みこんでくるような暗さだ。私は苦しみました。「北海道」は、この暗さがない。伝わってこない。同じ炭坑でも成立とか背景とかの違いはわかるぞ。わかるけども、どっちも地の底の話じゃん。それは文字通りの地の底だぞ。
北海道の人は、おおらかで楽天的ですからねー、ってそんな話じゃないぞ。「暗くない」ってのはイコール「明るい」じゃないぞ。「暗くさえ」ないってことだ。凍りつかないか。
「昭和歌謡全集北海道編」では、私は永山則夫という人間と「奇跡的に」出会うことで、何とか自分のなかでは糸口はみつけたつもりになった。戻りも行きも断ち切られたうえで、はじめて「ゆいたいことあったら、ゆうてみ」って投げだされた「ノート」に永山が書きつけた瓦礫のような文字の山の隙間から、イーぃって、悲鳴みたいな、それこそ「歌謡曲」みたいな「詩」が生まれるとこを目の前にしてさ。
何か肝心の話いつまでもしないでさ、でも今日はちょっとヒステリックになるぞ。いい展覧会だったんだよ。あたりまえじゃん。三年か四年に一回であえるかどうか、ってゆう展覧会だぞ。「がんばってますねー、夕張」なんて口が裂けてもいうなよ。予算もないのに人もこないのにスタッフが頑張って……なんていうレベルじゃないぞー。
学芸員の源藤さんと話した。予想どおりだったよ。空知版に、展覧会のお知らせってかんじで一回出ましたかねえ、っていってた。放送局の人がみにきて、帰ったあとで電話かかってきたんだって、「いんじゃないですかー案外」(ほんとうにこんな風にいったわけじゃないと思うけど)「源藤さん、そっちでビデオ撮ってくれませんか、それでビデオレターみたく、画面みながら電話でしゃべってね」って。源藤さん断ったみたい。でさ、源藤さん、その夜テレビつけたら北海道のニュースやってて、札幌のデパートでやってる展覧会のことだったんだって。何か、愛犬の「肖像画」描き続けているオバサンがいて、その「肖像画」展がたいへん好評で、ってニュースね。私知りませんよー、その「肖像画」展みてるわけじゃないから。でも、源藤さんいってた。「フンマンやるかたない」って。
そうだよね、源藤さん。聴いてて、笑いながら、私もアタマに血が上ったぞー。でも、源藤さんまちがってるよ。そのビデオレター断るんじゃなかったぞ。撮影機材とか照明とか技術とか、そんな話じゃないぞ。だって、この展覧会の意味をわかってるのは、記者の一万倍わかってるのは、誰よりもそれ伝えたいはずなのは、源藤さん、あなたじゃないか。
だんだん、おもにサッポロ方面にむかってとんでもないこと言いだしそうだから、この辺で止めておきますが、せめて買えよー、「筑豊炭坑絵図 山本作兵衛展」図録。電話はこちらだ。夕張市美術館(tel.01235-2-0930)。

今日のふたつめ。って、ちょっとヤバイよ。一日中日記書いてんのかよー、って、近いものあるけどね。ま、いいや。やっぱり書いておこう。
それでね、こんどは1月23日の続き。IT革命関連ね。で、マホーびん。これは、けっこう知られてるのかなー。でも、私はひさびさに感心しちゃいました、この方面において。
私はさ、こうみえても(そうみえるよ……)パソコンとかモバイルとかけっこう好きでしてー、コンビニとかでも文芸誌とかじゃなくてー(売ってねえよ……)まず情報誌とか立ち読みするのね。で、こないだのMI-○1とか、機能てんこ盛り、デザインも、ま、それなりにアカヌケてはいるね、ってモバイル関係が並んでいるじゃないですかー(トツゼンとぶけれど、この「じゃないですかー」っていいまわし、気になるぞ、だいぶ前から。これについては日をあらためて)でさ、そこにいきなりマホーびんの写真があるわけだ。さすがに花柄じゃないんだろーけどさ。笑うよねー。
でも、私感心しました。これはつまり電気ポットにコンピュータ制御の通信機が組み込まれてるのね。それで一人暮らしの年寄りがさ、いちばんしょっちゅう使う家電じゃん。この電気ポットが。で、このポットの使用状況が、一日二回Eメールで届くんだって。離れたところで生活してる息子とか、娘にだ。
ほかのものじゃなくー、この「マホーびん」っていうのに私はちょっと感動した、それ思いついた技術者に。誰だかしらないけどさ。その人は知識じゃなくて知ってるんだよね、一人暮らしのジイさんとかバアさんを。やっぱりいろんな事情あって、一人で暮らしてる年寄り少なくない。かなりヨタってきててもね。で、それでもカルチャー教室通ったり、社交ダンスやったり、ま、そこまでじゃーなくても、きっちり朝晩の献立考えて、買い物して、自炊してって、できなくなるでしょ。でも、やっぱり一人で暮らす、そうしなきゃなんない。おっくうになってくるよね、きっとさ。私だってそうなると思う。煮炊きとか、電子レンジも、新聞読むんだってさ、電話だって。生きてく気力そのものがさ。
それでも枕元にマホーびんは置くよね。朝、お湯沸かしていれておけばいい。お茶ぐらいは飲めるよ、薬もさ。で、マホーびんを使ったらさ、それがメールで届くんだ。離れたところに暮らしてる息子とか娘に。冷たいなーとかいうなよ、いろんな事情があるんだから、ほんとうに。
携帯メール打ちまくってる女子高生の話したでしょ、心理学者とかよく「コメント」するよねー、「みんな淋しいんです、耐えられないんですね」とかって。ま、そうだろうと思う。淋しいの、女子高生だけじゃないよね。
私はさ、さすがに携帯メールの女子高生に同情はしないけどー、マホーびん使ったらメールが届く、って仕組みには、胸を突かれました。
象印マホーびんの、このシステムについてのホームページで、開発に協力したっていうお医者さんのコメントが出てるぞ。こういうふうに話してる。

「見られている」という受け身の行為ではなく、お年寄りが自ら無事を知らせるという能動的な行為であるという点が重要だと思っています。

それから、

電気ポットの使用状況から読みとれることがあります。(1)夜遅くに使われ始めると、必ずといっていいほど、体の調子が悪くなっている。(2)不規則に使われ始めると、痴呆が始まりかけた徴候と考えられる。

こういう話を、身を乗り出して真剣に聴く技術者、やろうよ、これを、って決断したメーカー、協力したサーバ、電信会社。この人たちは、イメージできるんだ。寝る前とか、朝にさ、クイクイってポットを押す「独居老人」の気持ちをさ、「メール」を受け取る息子や、娘の気持ちをさ。生きてるよー、心配すんなよー、だいじょぶだよー、って。

IT革命ってやんだったらさ、こういう人たちに先導してもらいたいよな、ほんとうに。

2001年2月3日(土)
●明日、夕張市美術館(tel.01235-2-0930)にいってきますよ。「筑豊炭坑絵図 山本作兵衛展」が、明日、2月4日最終日だ。やることいっぱいあるんじゃない?準備ぜんぜんできてないんじゃないの?っていわれそうだけど、じっさいそうなんだけど、他のスタッフにも迷惑かけるんですけどねー。やること、のために行くんだ。
この展覧会見てないみなさん(おおかたでしょうが)、行こうよ。後悔するよ。凄いと思うよ。夕張。まだ見てないわけだけどさ、こういう企画ができるだけで凄い。行こうよ、ぜったいに。感想は、火曜日にアップするぞー。追記;ウチの館長からのメッセージもちょっと凄いよ、必見。追記2;ウチのスタッフもそれぞれのページを作りはじめたぞー、見てねー。

2001年2月1日(水)
●きのうからきょうにかけて、たくさんの人に会い、たくさんの人と話をしました。顔をあわせて、メールをとおして。
10年前に若年性アルツハイマー病を発病された奥様とともになさった生活の記録。その「介護日記」を、教え子の人たちの応援で設けたホームページに綴ってこられた元高校教師のかた。
私が編集刊行のお手伝いをしようとしている、ある老齢の優れた芸術家の『自叙伝』に関して、高齢になり脳の働きが衰えると、かつて激しい愛憎の対象であった人たちへの、愛の記憶は薄れていき、憎悪の念だけが固く残っていくということがあるのかも知れない、と告げにこられたかた。
館長を訪ねてきて、会えなかったけれども、読みたかった古本を手にして喜んで旅立たれた韓国木浦大学校の青年。
その韓国に贈る古本のなかに、亡くなった前館長の旧蔵書が交じっていたことを嬉しく思う、とメールをくださったかた。前館長の脳裏を去ることがなかったのは、去らせることのできなかったのは、日本と韓国、朝鮮のことだったから、と。
同僚を見舞ってくださった女性。そのかたからの「質問」のメール。
残ってもらう人もいる。残ってもらえない人もいる。辛い話をいつかはしなければならない、と話す同僚。
辛酸をなめる、という言葉がありますが、辛酸の深みに沈み、あるいは自ら入っていこうと覚悟した人たち。楽しい、明るい笑顔は、深い悲しみと出口のない闇に閉ざされていくような孤独に「支えられて」いる。私などは、辛酸をなめるどころか掠ってもいないよ、笑いながらそのなかに一人で沈んでいく勇気。それがあるとかないとかでなく、いつか必ずその日がやってくる。

とはいえ、きょうは。帰って、寝っか……。