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10月19日
■7月から、ボランティア養成講座と銘打って、製本教室を月1回やっている。もう4回終わった。これにはいちおう目標があって、年明けて2月、「小樽・雪明りの路」のイベントまでに、伊藤整詩集『雪明りの路』を手作りしよう、ということだ。
指導してくださるのは図書館で図書修理のボランティア作業を指導している北間さん。この図書館の図書修理ボランティアというのは、私も初めて知ったのだが、週2回ぐらいのペースでずっと続けられている、とのことだ。図書館では、仕事の場所と材料は提供するが、あとは全くボランティアスタッフに任せているらしい。
ボランティアの基本は無償の善意ということだが、私は言葉が先行する行為はあまり信用していない。無償の善意による行為にも対価は求められるのであり、それは金銭ではない、というだけだ。
ボランティアのセルフイメージ次第で、行為と対価のバランスは崩れる。これほどしてやっているのに、などという感情が芽生えた時点で、ボランティアはすでに破綻しているということだ。
私が図書修理ボランティアに感心するのは、その力の抜け方が絶妙だからだ。だいたい、誰が本を修理しているのか、など大方考えもしないだろう、私もだけど。
図書修理ボランティアは三々五々集まり、黙々と、あるいは世間話などしながら、5冊10冊と本の修理をしてお帰りになる。何がいったい楽しくて、と疑問を持つ人がいても不思議ではないが、もちろん答えは決まっている。手作業そのものが楽しいからだ。ここで初めて「仕事」本来の持っている遊戯性が見えてくるのだね。
ウチの製本ボランティアは、図書修理ボランティアの応用展開というより、そのまんまのパクリだが、さらに遊戯性を加味したいと考えてしまう私のサガである。
第1回目は『五年日記』を作った。第2回目は、インターネットの青空文庫から太宰治『お伽草子』をコピーし、本にした。第3回目と第4回目は、やはり青空文庫から宮澤賢治の作品の異色のものを私が選んで本にしてもらった。ここまで続けた人は、すでに練達の製本職人である。できあがったものは市販の書籍に遜色ない。
夢は膨らむのであって、この文学館で展示などしながら、その作家の作品も読めぬというナンセンスが、これで解消されるかも知れぬ。商業出版では絶対にありえない作家の作品が少しずつ手作りの本になって、この文学館から現れてくるのである。
亀井館長も、このプランにはたいへん乗り気であり、自分が解説をつけてもいい、といってくれている。さらには亀井ルートや、僭越ながら私ルートで、厳選された評者の解説付きの手作り『小樽文学館版文学全集』が出来うるということなのだが、これは前にも書いたし、ちょっと言葉が先行し始めた。
もういちど図書館の修理ボランティアがなぜ成功しているか考えてみよう。図書館側がボランティアに提供しているもの。それは「場所」だ。自由意志によってボランティアが続けられる必要にしてほぼ十分の条件。「自分たちの仕事」の場所、だ。それによって、仕事に輪郭が見えてくるんだね。
こんどはウチの話だ。ウチには柚木衆三文庫という部屋があって、これは故小笠原克前小樽文学館長の知友であった増毛在住の柚木衆三氏の旧蔵書を収めた部屋である。稀覯書ではないが、良質の文学書が良く揃えられている。閲覧自由なのだが、利用者はあまりないし、人をずっと貼りつけてもおけないので、心ならずも半ば古書置き場に化しつつあった。
これに対し、まず亀井館長から、古書を一時置くのは仕方がないが、その古書を整理して海外の大学へ送る作業の場所くらい確保できないか、と要望が入った。この作業は、ほとんど館長に任せきりなので、この要望に応えないわけにはいかない。さらに製本ボランティアを指導している北間さんと、それを手伝ってくださる図書館の図書修理ボランティアの方から、製本の道具を常時置いておき、随時作業を続けられる場所を作ってくれないか、と要望があった。
いずれも「場所」の問題である。
ここで!突然降ってきた良い話。せんだって小樽で「天国の本屋」という映画のロケがあり、そのために港の倉庫に巨大なオープンセットが作られ、ロケ終了後も保存が決まり、ときどき一般公開することになったのは、新聞などでもご承知だろう。ロケ中は、セットの巨大な本棚は、私も知っている古書店の協力で埋められたのだが、ロケ終了後セットは残ったが本が無くなった。それでウチの古書を貸してほしい、という話がきたのだ。むしろ、と担当のKさん。「文学館の分館ぐらいに思ってくださっていいですよ。あそこでイベントやってくれたら映画のPRにもなるし映画が終わってからも、みなさんの関心引きますからね」って、さっそく見に行ったのだが、何とも魅力的な空間。セットも悪くないが、何といってもその天井の高さ、床面積の大きさ。
願い続ければ、おもいがけない形で夢はかなう、というのは、また先走りすぎであろうが、まだまだ夢は膨らむのだよ。
10月13日
■文學舎主催のイベントですが、ラーシュ・ホルメルさんと向島ゆり子さんのライブ、すばらしかったです。成功、といってよいですね。大成功、とまではいかないのは、PR活動がほとんどできなかったから。逆にいえば、それでもあれだけのお客様が来てくださったのは不思議なくらい。
コンサート終了後に回収したアンケートでは、このコンサートを口コミで知ったというお客様が大半、あとダイレクトメールで、という方も数人お出ででしたが、ご案内をしたのは昨年のコンサートにいらした方のごく一部でしたから、きわめて効率の良いDMだったということになりますが、昨年の栗コーダーカルテットはともかく、今回のホルメルさんは、日本ではほとんど、まして小樽ではまったく知られていない。アルバムやライブに接したことのあるごく僅かの人たちの熱狂が伝えられているだけ。
それなのに、口コミが信頼できる情報とされるのはなぜか。
手前ミソといわれるかも知れませんが、私はそれを文学館、あるいは文學舎が主催するイベントに対する信頼が、すでに確立しつつある証拠だと考えております。
もちろんコンサートだけではない。文学講座も、ほとんど満足なPRはできていませんが、確実に30名以上、亀井館長が講師を務める講座などは、40〜50人以上の聴講者が確実に来てくださる。やはりそれは聴講された方々の満足度が極めて高いからだと思われます。それは全回傍聴している私の実感でもあります。いちいちアンケートを取っているわけではありませんが、リピート率もたいへん高い。これらのリピーターは、組織されていなくても、まちがいなく小樽文学館に対する最も信頼できる応援団である。そして、その応援団は、確実に成長しつつある、ということです。
それで、ここからが肝心な話ですが、その成長の勢いをそぐようなことは決してできない。リピーターを失望させてはいけない。つまり質を落としたイベントは決してしてはならない、一度のミスが、信用を一気に失墜させるということでもあります。
文学館で行うイベントに大きな特徴があります。それはお客様が、「プロ」(適切な比喩ではありませんが)ではないこと。
一昨日のホルメルさんのコンサートも、西麻布のライブハウスで行えば、集まるのはほとんどマニアといっていい音楽体験を重ねた人たち。それに対し、文学館にこられるのは、ライブというもの自体の経験すらない方たちが大半。
また亀井秀雄氏の講座はどうでしょう。大学時代に続けられた亀井氏の講義は、毎回周到に準備しつくされたきわめて高度な内容のものであり、聴講する学生、研究者も意識の高い、いわば一回一回がプロ同士の真剣勝負の緊張感の漲るものだったと思います。それに対し、もちろん、文学館にこられる方のほとんどが、いわゆる「学界」とは無縁の人々。
そして、ここにこそ、小樽文学館が果たしつつある前人未踏の仕事があるのだ、と思います。
このつぎは、これらのイベントを支える主催者側のアマチュア集団である、ボランティアについて書きます。
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