よもやま日記

過去の日記へ

文責/市立小樽文学館・玉川薫
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3月30日
■きょうは、社会教育部としての最後の「課長会」があって、それはすなわち退職する人たちと異動する人たちの送別会でもあったのだけど、そして、私は少数の「送る人」になってしまったのだが、まったく感傷的にはならなかった。むしろ、ちょっと直接の仕事から離れたところからいろんな話を聞くことができて、はっきり「可能性」が見えてきた気がしている。漠然と思っていたことの輪郭が、明瞭に見えてきたように思っている。
キーワード、それは〈場所〉だ。モノではなく、〈場所〉こそが重要。その〈場所〉は、ありとあらゆる方向、ありとあらゆる人たちに開かれている場所。その場所は、抽象的ではなく具体的に語られ、形作られていかなければならない。JJ's Cafe 、それがその場所だ。すでにそうなりつつあり、もう一線を超えれば、一気にそれは広がりと明るさを増す。お金があるとかないとかいう話ではない。もう、その〈場所〉をつかさどるスタッフの心構えにかかっている、ということだ。開く、開く、開いていく。それは、これまでにどうしてもつきまとった、管理、というイメージを大きく変えていくことだ。たいしたことは、ない。ちょっとした思い切りだ。やってしまえば、なんだ、こんなことか、というようなことだ。
託す、利用者にまかす、ということだ。こうしてその場所は、使う人たちのものになる。われわれは、その場所の魅力に磨きをかけることに専念しよう。輝きはましていく。どんどん開いていく。ここに出入りする人たちによって、〈そこ〉の魅力は限りなく厚く深くなっていくだろう。
ちょっとしたことだ。ほんの少し形を変えてみる、というだけのことだ。退いていく人たちも、動く人たちも、残る私たちも、これまでと、また違う角度から〈そこ〉に関わっていくんだ。虚勢でも何でもなく、良くなっていく。この場所が。この場所から、街を、さらにもっともっと広がりをもって変革していく、そういう力を生む場所に成りうるということだ。
いや、簡単なことなんだ。じいさん、ばあさん、おじさん、おばさん、にいさん、ねえさん、がきんちょ、オタク、物知り、専門家、が来て、声をかけて、知らないことを知って、ちょっとしたことに感動して、去って、また来る、そういう〈場所〉にしていく。ちょこっとした仕掛けを重ねていくだけのことだよ。できる、絶対にね。

気持ちを新たに。明日から〈具体論〉だよ。

3月28日
■本多正一さんを再度お迎えしてのイベントも、とてもいいかたちで終えることができました。本多さんのお母様。こんなに明るい陽気な人もめずらしい。けれども、わずかの時間に、かいま見た。母の思い、父の哀しみ。
本多さんたちは、お帰りの際、もういちどお見えになるのかも知れませんが、いまは館内も静寂。さっきバタバタと入ってきた「青春日記」のカップル二組。楽しげだね。文学館をデートスポットにしてくれて、うれしいよ、私は。
ちょっとした空白。心の隙間。さっき不意に、なぜか、松本大洋のコミック「ピンポン」の登場人物ドラゴンのセリフが、浮かんだ。
「そうさっ。」
前後のやりとりもストーリーも説明するのはめんどうですが、少し気になりだして「ピンポン」関連サイトを見てましたら、ここに。驚いたな……。このマンガ、そして映画を、ここまで正確に書けているのを読んだのは、私は初めてだ。松本大洋ファンとしては人後に落ちないつもりでしたが。
もういちど読み返してみようか、「ピンポン」ではなく、「GOGOモンスター」を。

3月27日
■けさは、(元)古道具店主人の佐々木さんといっしょに、ある方のお宅に行って処分されるご本をいただいてきました。喫茶店展や、このあいだの「ガンガン屋台」でもお世話になった佐々木さんは、5月から観光協会のお仕事をされるそうな。これをご縁に、ウチもそっち方面にも、積極的に関わらせていただきたいな。こっち方面の人脈が伸びていくのは、うれしいことです。
戻ってきたら、もう本多正一さんと、作家のM浦Sをんさん(訳あって伏せ字)がいらしてました。本多さんたちとお話をしているあいだに、製本教室の北間先生がいらした。きょうは、1階の柚木修三文庫も研修室も、ふれあいパス交付で、人がいっぱい。それで、きゅうきょ、2階奥の作業室で製本の続き。狭いところで、もうしわけありません。4月からは、1階のかなりのスペースが文学館と美術館で使えるようになる予定。一部をボランティアの方々の作業の場所として、がっちり確保するつもり。ほんとうにいろんな人たちと、「ここ」を共有していきたい。そして、それが「ここ」が、残っていく唯一の道だと確信してる。
お待たせ、って、もう掲示板に富田さんが先に書いてしまいましたけれど、隅っこ企画展「タバコと文学」ようやくオープンです。レイアウトは、ウチで数少ないスモーカーのオトヨさんにお任せ。きれいな、いい展示になりました。そばに、太宰治著「美男子と煙草」という、A4二つ折りに収まってしまう掌編をプリントして、自由に持っていっていただけるように。短いけれど、実に太宰らしい文章です。オトヨさんは、「タイトルが、かっこいい」って感涙しておりましたが。
ほんとに〈隅っこ〉だから、見逃さないでくださいね。亀井館長も、「そう。タバコはかつて、明らかにひとつの〈文化〉でしたからね」「私のところにまで、専売公社の『パイプ』ってPR誌が届いてたんですよ、かなり立派な」。そうだったのか。
けれども、タバコはいまや、みるかげもなく〈日陰者〉に。愛惜の念を込めたつもりのミニ展です。私?私は20年前にタバコ止めてます。どっちかっていうと、「嫌煙派」かな。ただし、喫煙者にも〈人権〉はあると思いますよ、いや真面目な話。

3月25日
■公務員ならずとも、勤め人なら異動は宿命みたいなものだ。それは淡々と「拝命」するしかない。私なんかは特殊な例だと思うが、私とてそういった「宿命」の範疇にいることは覚悟している。
それにしても、強い使命感を覚え、少なくとも向こう3年、と考える人はいるだろう。むしろ、それは当然そうあるべきだろう。一年目で輪郭がやっとできあがる。二年目で、と、考えるだろう。言葉にはもちろん、表情にも表さぬ、表せぬが、「念」は残る。
カウンターでコーヒーを一口すすり、「ここの、コーヒーと古本の場所だけでも、無料にしてもいいよな」「誰でも、きらくに寄れるサロンにさ」。はい、そうですね。あとは無言だ。でも心は通じる。その「念」の、ほんの一部だろうが、それは私に託されたということだ。
もう、たびたびお寄りになることはあるまいが、ではあっても、ついでの折にはお寄りいただきたい。上司としてではない、ご意見をいただきたい。

まだ早いのかも知れないが。ありがとうございました、心から。

3月24日
■ガンガン屋台、月1回、こんどは市場自前でやっていくそうな。こんど26日が、記念すべき新生ガンガン屋台の第1回目だそうです。ということで、私たちは、乞われて、また「ガンガン部隊」オバサン人形の着付けにいってまいりました。期待される文学館。もっとも期待されてるのは私じゃなくて、マリちゃんだけど。
こないだは、妙見市場でひさびさに「妙見カフェ」を見てきましたが。文学館が少しずつ街を変える、って不遜かも知れないけれども、小さく実感しております。
何はともあれ、春ですね。お帰り、翔子ちゃん!もう、君らがいない文学館は考えられない。

3月21日
■きのう亀井館長の講演を聴きにきた富田さんと、話をしたのだけど、「文学講座」は、もちろんウチの大きな魅力になってきているし、これからも、それは大事だ。思い返せば、亀井館長の「小林多喜二を読みなおす」月一回連続10回講座というのがすさまじかったわけだけど。つくづく考えるに、「伝統」なんて一年でできてしまう。それをもう一年、さらに一年と続けていけば。小樽の「ガラス工芸」だって、そうですからね。
きのうの講演のあとの無記名アンケートにも、月に最低一回文学講座or文学散歩要望、ってのがあって、無記名でも、小路君だってすぐわかってしまうのですが。
けれども月一回、は、これは大変。亀井さんのような、超人的「脳力」でもないと。講師月がわりでも、何でもいいという話じゃないから。
富田さんと話したのは、こんどは何の通奏テーマで、ということであり、去年は「林檎」で、ちょっと意表をつきましたからね。で、結論(あくまで、仮、のね)。今年は「本」。あれー、なんて、いわないでください。富田さんと話してたのは、何だかんだいっても、ウチに来る人たちは、やっぱり本好き。いろんなタイプであっても。じゃあ、やっぱり本。ただし、ありとあらゆる方面からのアプローチね。つまり中身もだいじだが、商品としての本、あるいはモノとしての本。ひょっとしたら観念としての本。
で、あとはランダムに講師の想定。
一気に行きます。
●作家●編集者●印刷屋●本屋店主●古本屋店主●装丁家●さし絵作家●漫画家●製本教室講師●豆本作家●タウン誌編集者●読書家(何)●教科書関係者●図書館員●古写本研究者●点訳者、ふた月に一回ペースだったら3年持つな(爆)。
こんな話をしていると、またあの人に聞きつけられそうだな。編集者・装丁者・印刷屋・製本屋・出版社・本屋・文学館学芸員泣かせの(いや、尊敬してますよ)N田G氣さんに。

3月19日
■芦屋市立美術博物館の「存続の危機」については、最近もメディアに大きめにとりあげられておりましたから、もうかなり知られているでしょう。そのメディアの紙面に掲載されている当事者のコメントを、そこの部分だけ切り取るのは誤解に誤解を重ねるもとでしょうが、それでもあえて。
まず「当局」。「一万人の(存続陳情の)署名と言うが、芦屋市民は10%いるかいないか。大半は冷ややかに見ている」。
つぎに声明書を出した「有識者」。「今もっとも恐れているのは、『芦屋』を見習って文化的施設を短絡的かつ無責任に切り捨てようとする地方自治体の登場です」。
両者のコメントに加える私のコメントはございません。ただし、どちらに対しても冷笑的にならず、推移を見守っていきたいとは思っております。この事例をもって不安になど、まったく思ってはおりませんが。
きょうは、「学校辞めようかな、って思ったこともあったよ」って、レイナちゃんが、もう半日ほど、いる。小路君は黙ってカウンターに座って、黙って帰ったし。富田さんもちょっと寄って、あわただしく帰った。2時間ほど話し込んでしまったのは、76歳になられるというご婦人で、女学校4年のときから勤労動員で逓信局の仕事をさせられ、驚いたことに終戦後、進駐軍が入ってきてからも、しばらく司令部がおかれた三井ビルで電話交換の仕事をなさったといわれる。その方が持ってこられたのは、その三井ビルの前で若い進駐軍の兵士が数人、笑顔で写っている写真だ。その方のお話は、どれもこれもとても新鮮でした。「知ってるつもり」はおうおうにして誤解に満ちている、ということを改めて思い知らされ。山中さんがおっしゃっていた同じものを見ていても、見逃してしまうこと、もこれに通じるものだろう。レベルが全然違うだろうけれど。
私は二、三日前から「特定非営利活動法人小樽体育協会」の定款をずっと書き写していた。また、さっきは沖縄県浦添市美術館友の会の事務局にお電話し、資料を送ってくださるようにお願いした。少しずつではあるけれど、できる、と思い始めている。やる、というべきか。
「うんこ長者」の後援をお願いにFM小樽にまいりましたら、そこの女性が、「こないだの科学館のプラネタリウムコンサート、とっても良かったです」って声を掛けてくださいました。後援のほうは、そばの男性の方が、「あ、いいよ」と、まことにあっさり。で、マリちゃんがデザインしてくれた楽しいポスターを仕上げれば、ひとまず良し。
「うんこ長者」って?舞台も客席もウンコまみれになるユカイな韓国の劇ですよ。

3月15日
■きょうは、末広中学校の卒業式にいってまいりました。教育委員会の祝辞を携えて(手分けしてまいるのです)。
近来にないほど、感動。どっちかっていうと、冷淡なんだけど、卒業式とか入学式。
そもそも卒業式とは誰のためのセレモニーか。それは決まっております。卒業生と、彼らの担任のためのもの。父母の、まして来賓のための式では決してありませぬ。
きょうの卒業式は、3時間ほどにわたる式のほぼ全部を、その「卒業生と担任のため」に費やしていた。ていねいに、ていねいにね。卒業生の「言葉」のひとつひとつが、お仕着せでないことがよくわかる。クラスメートを「60億分の32人」って、呼ぶなんて。口のなかで「ありがとうございました」って呟く子もそれは、言葉の重みを伴って伝わる。おそらく、3年間で初めてだったかもしらん。
担任の「送辞」も、私はこれまで見たことがない。若い男の先生は、「すまない、鼻水が止まらない。あと一年、早く君らを受け持ちたかった。明日から教室の戸を開けても、君らがいないなんて思えない」と、途切れ途切れに。続けて女の先生が、「○○先生が泣いてしまうから、私は泣くわけにいかなくなりました。きょうは、緊張しすぎて、眠れずに、さっきは鼻水じゃなく、鼻血が出ちゃった」。前列の女生徒たちは、もう笑ったり泣いたり、ぐちゃぐちゃだ。
複雑な思いはあろう。生徒も先生だって。みんな感動一本やりであるわきゃない。でも、卒業式って、やっぱり特別な空間だ(とりわけ中学校だな)。愛憎、筆舌につくしがたい3年間。それがコミになって、「ありがとうございました」「がんばれよ」って、シンプルなやりとりになる。泣いたり笑ったりして、それが、この複雑きわまりない3年間のカタルシスになる。それが本来の「セレモニー」だ。中途半端な「創意工夫」は鼻白むだけだが、きょうのように、ひたすらていねいにやられると何にもいえぬ。「来賓席」で滂沱の涙と鼻水を垂れていたのは、私だけか。娘のときだって、こんな感動しませんでした。
それにしても、「三年間の思い出」のビデオ撮影と編集をなさったのは、どなた?うまい。実に。自然、斬新、リズミカル。ラストの卒業式まで、あと6日、5日、4日……、とたたみかけていくあたり。

Majicoでは、できなかった先生と組んでみたいな、こんど、いつか。

3月14日
■このごろ、休みの日には休んでいる。春とはいえ、まだまだ寒いせいもあるのだけど。トシだな、とも、思うこともあり。休みに、休むのあたりまえだろって。そうだけどね、そうなんだけど。
めったにしないことだけど、家からアクセス、スタッフにエール。北キャナコさん、一年ありがとう。二人に、とっても感心してる。キャナコさんとその友だちに。北さんはスタッフとしてどうだったか。私が書くまでもない。オトヨさんの、友だちとしての、そして同僚としての北さん評。正確。すみからすみまで。
うらやましい、という年齢でもないが。なるほど、友情、ってこういうかたちか。
来たんだね、Majicoオリジナルメンバー、元祖「中学生日記」。春だな。ああ、やっぱり気になる。家にいても、どこにいても気になる、文学館。もう、こんな風にいっても、いつかのように「私物化」って非難はされるまい(非難されても構わないが)。
私の、いちばん大切な、その場所。その場所を大切に思う人たち。
小路君、サンキュー。70000いったんだね。

3月13日
■追記。堅田精司さんから、CD-ROM版『北海道社会文庫通信』1-2000号をいただきました。堅田さんが添えてくださったお手紙の全文。
「市立小樽文学館 御中 堅田精司
CD北海道社会文庫通信1-2000号を贈呈申しあげます。自由民権期から15年戦争期の反戦運動まで2万人の個人別経歴を収録しました。なお現在2150号まで発行。1-1750号はワープロ入力のため乱れています。33字で折返して利用ください」

「これ」のものすごさが、どうやったら伝わるだろう。ためしに、デタラメに2000号のうちの1冊を選んでみようか。

2001,11,12
──────────第1627号────
大石泰蔵のこと改定
第871号を改定します。
大石泰蔵は、1888年6月11日に、大石良順の長男として、兵庫県出石郡出石町に生まれました。
1906年3月、大阪府立市岡中学を卒業。
キリスト教に入信。
9月、札幌農学校予修科に入学。6日、寄宿舎に入りましたが、11月に、退舎します。菜食主義をつらぬくためのようでした。
学生時代の君は、痩せすぎで、言動の物柔かな方であつたが、頗る信念が強く、己れ信ずるところに従つて他を顧みぬ傾向があつた。在学中終始例令それが同級生の会食の場合であつても──菜食に一貫したが如きはその一面を表はすもので、云はゞ外柔にして内剛と云ふ性格であつた。
運動には殆んど手をつけなかつたやうであるが、比較的熱心な基督教信者で、語学に長じ、文章を嗜み、有島武郎に私淑して啓発せられたところが尠くなかつたやうに思はれる。
在札同期生一同社会主義に共鳴。
1907年7月、平民農場の原子基らに協力して、喜茂別方面で、社会主義宣伝を行います。
年末、東北帝国大学農科大学の同志を糾合して、社会主義研究会を組織。
逢坂信吾とともに、その中心となります。
独立教会の日曜学校の教師となります。
−1−
12月26日、札幌に来た西川光二郎を訪問。
29日、西川を招いて、茶話会を開催します。
1908年1月、農科大学に赴任して来た有島武郎と、親しくなります。有島を日曜学校の校長にかつぎだします。
後輩たちは、予科生の大石を、有島と同格のように感じました。
大石泰三は生徒時代から中央の文学者や社会主義者との交際があって、有島先生などとは対等のつきあいであった。
渡邊侃「有島先生の面予科時代を回想して」
「北海道新聞」1960年6月10日朝刊
7月、休暇を利用して上京。12日、東京社会新聞編集部で開催された社会主義研究会に参加。革命の可能性を論じて、中止を命ぜられます。
1909年2月、札幌中学の演説会に参加。「低きより見れば」と題して演説、「英雄の光を放つは凡俗の背景あるに依る」と説きます。北海タイムスの記者に、「鶏群の一鶴」と評価されました。
同月、幸徳秋水訳の『麺麭の略取』を、秘密裡に配付します。
「クロポトキンの『パンの略取』は、当時幸徳秋水の訳が秘密出版された。私は学生で社会主義研究会員の大石泰蔵の手を通じて一本を購った。」
吹田順助「札幌に住んでいた頃」3「原始林」1956年7月号
7月、大学予科を卒業。
9月、農科大学本科に進学します。
12月10日、印刷人として、「文武会々報」第58号を発行。
1910年初頭、有島などと、『東北帝国大学農科大学』の編集をすすめます。5月、出版。社会主義研究会が、高岡熊雄の圧力により、解散させられます。
夏、大逆事件証拠品として押収された新村忠雄所持住所録、大石誠之助所持住所録、坂本清馬所持住所録に、泰蔵の名が記載されていたところから、有力な社会主義者と判定され、尾行をつけられます。
12月15日、編集兼発行人として、「文武会々報」第618号を発行
−2−

1912年2月、文武会学芸部主任幹事となれります。
10日、独立教会青年大演説会に参加。
7月、卒業。卒業論文は、UntersuchungeneUberdasVerdunnenderK-artoffelpflanzenでした。
卒業後、官吏になることをきらい、雨龍郡北龍村字小岩で、小農場の経営をはじめます。
しかし、運悪く、1913年、北海道農業はじまって以来の大凶作に襲われます。
9月、有島や逢坂が、励ましに来てくれます。
1913年9月24日
暁に宿を出て、息詰る様な深い霧の中を行く。二時間歩いて大石の農場に着く。彼の農場は東西に向つて併行する二列の高地にかこまれた低い谷間にあり、所有者自身が管理してゐる約五町の農場と三人の小作人がゐる。余がついたので、大石と、偶然大石の家に泊り合せてゐた彼の友逢阪とは、たしかに驚き喜んでゐた。大石が手紙で、本年の収穫(特に米)僅少なる為、その経済状態が窮乏を来してゐることを告げたので、訪ねて来たのである。彼は相当の利潤を挙げながら農場経営をすることが不可能であり、何か思ひ設けぬ事情が起らない限り、その事業を抛棄しなければならないと考へてゐる。
我々は農場を観察した。特に幸福に恵まれた場所柄だとは、言ひ切れない。地面は湿気過ぎ、四邊と隔絶し過ぎてゐる。農場も現在の所でははたいして清潔だとは言へない。けれど、やつとその計画を初めたばかりの彼が、早くもそれを止めなければならないと云ふのは気の毒なことだ。余は彼に、失望せずに、低利で、も少し金を借りて仕事をすすめる様に勧めた。
有島武郎日誌から
10月、道庁への陳情委員に選ばれます。
1916年、農場経営をやめて上京。本所区亀澤町に居住。
−3−
7月、「明暗」の内容について、夏目漱石と意見の交換をします。漱石は、二度、長文の手紙を送ってきました。
1917年、府下の高田村に移ります。
1919年1月、「大学評論」1月号に、新しき村を批判した文章を発表します。
3月、「大学評論」3月号に、「再び『新しき村』を評す」を発表。
秋、兵庫県の芦屋に転居。大正日日新聞社に入社。鳥居素川を慕っての入社でした。鈴木茂三郎と知り合います。
1920年7月、大正日日新聞社を退社。
秋、大阪毎日新聞社に入社。大阪府下に転居。
1922年3月、山本宣治、安田徳太郎などが組織した性学読書会に参加。
5月13日、H・W・Long:SaneSexualLifeandSANESexualLIVINGの内容紹介を行います。
1923年9月、「文化生活」9月号に、「有島先生の死の聨想」を発表。
1924年、東京に転勤となり、巣鴨に住みます。
1927年、発病のため、大阪市天王寺区に移り静養につとめます。
病気回復後、兵庫県武庫郡本山村に移り、漁業会社に勤務。
かたわら、「夕刊大阪」に、香阪静之助のペンネームで、「文化と批判」欄に執筆。無患子、葦長生とも名乗ります。
1936年4月、「文芸懇話会」4月号に、「夏目漱石との論争」を発表。
1936年秋、時事新報社に入社。
刀江書院から『性格判断法』を刊行。
12月、同社が解散したため、神戸に移ります。
1938年6月20日、死去しました。
晩年のキリスト教との関係は不明です。
記者時代には、頻繁に飛行機を利用し、友人間に話題になりました。
−4−

これが2000号のうちの1冊です。堅田さんを歴史家といってよいか、ジャーナリストといってよいか、ご本人も頓着なさらないだろうが、歴史家・ジャーナリストを自認される方々のほとんどを沈黙させてしまうようなお仕事ではないでしょうか。これこそ「質実」。それも厖大なエネルギーをはらんだ「質実」。さらに堅田さんのすごいのは、文体にもあらわれている無頓着。無頓着に「質実」をどんどん進めていく仕事の仕方。
前にも書いたかも知れませんが、この『北海道社会通信』は、ときどき発行年月日が「未来」になります。これは、おそらく一日に数号も発行されてしまうことがあり、律儀な堅田さんは、号ごとに発行日をずらしてゆかれるから、そのようなことになるんじゃなかろうか。そのへん、ユーモラスでもあるような無頓着。
CDには印刷もしてないし、ラベルも貼ってありません。100円ショップで2枚一組で売られているようなデータ用CD。私は、さきほど常用しているパソコンにデータを移し、ためしに「並木凡平」で検索をかけてみました。たちどころに9冊の『北海道社会文庫通信』が開きました。どれも見たことのない記録です。『北海道社会文庫通信』以外では。
堅田さん、いったいいくつなんだ。はじめは恐らく手書き、コピー、ワープロ専用機、二年ほどまえには火事にあわれ、厖大な蔵書のほとんどが焼けたとも。その後、パソコンを使われるようになったのでしょうか。そしてワープロ時代のものを含めて、すべてテキストデータに変換されてCD1枚に焼かれた。
どんなに言葉を重ねても表現できないが、あえて。
「かっこいい、とは、こういうことだ」。

3月13日
■一日中カウンターにいても、春の気配は感じられます。外は、むしろとても寒いのですが。日が長くなったとか、その陽射しの白っぽさが、とか。身の回りの整理を始めた人がいたり。春愁は似合わないけど、やっぱり気疎い、何となく。遠くから、金槌のトントントン、って音が続いたり止んだりしてると。ああ、春なのだな、と、なぜかしら。

閑中忙あり。千客万来、ほどではないが、大学卒業以来30年ぶりに会った人とか、ヨシダさんにはHPでは、いつもどうも、だけど、顔を合わせるのは年に一、二回か。見知らぬお客様も、ホームページみてますよ、科学館にも行って来ました、と声を掛けてくださる。青砥さんも、カウンターに掛ければ、立て板に水のごとく話題は尽きないし。
合間合間に、「To Do」は、アタマをかすめていくのですが。とりあえず、備忘録のように書き留めておこう。

・3月20日(土)、亀井秀雄館長講演「文学館を考える─その内包と外延」午後2時から、1階で。「考えるヒント」が示されるはずです。まずは、私に。
・3月28日(日)、本多正一写真展「彗星との日々」最終日。
没後10年・追悼中井英夫「黒鳥館主人の生と死と」本多正一氏講演&ビデオ上映。午前10時30分から文学館展示室内。
・4月11日(日)、「うんこ長者」(!)上演。午後1時30分から「遊人002」で。
・5月5日(水)、文学散歩、伊藤整の「幽鬼の街」めぐり。小樽の街歩きが、気がつけば地獄めぐりにね。
・5月下旬には「天国の本屋」で、映画封切り直前のキャンペーンに便乗して大古本市、その他のイベント。
そうこうしているうちに、もう6月で、特別展「こどもたちの戦争体験」が始まってしまう。
そのあいだに、審議会とか文學舎総会とか、とても重要な会議あり(人事異動もあるしな……)。
それなのに、「オキタさん!ヒジカタさん!ナガクラさん! 女子高生の新選組」なんて企画をすべりこませられないかしら、などと。カウンターで、ときおり、うとつきながら、ね。

3月11日
■私などウカツだから、いわれて初めて気がつくのだけれど、きょうは黄砂がひどい。駐車してある車のボンネットや屋根やガラスが、ずいぶん泥はねが多いなって思ってたんだけど。黄砂だったんか。
私はだいたいJJ's Cafe のカウンターに座っているが、すぐ左手は天井まである大きなガラス窓だ。窓枠は細いスチールだ。この軽やかさ、明るさが、この建物(旧小樽地方貯金局)の設計者、小坂秀雄さんの真骨頂だ。だから、窓ガラスが汚れていては、困る。
去年、一昨年と、年一回だけど、窓ガラスの清掃をお願いすることができました。外壁に足場組んでやるからね。思いの外、お金が掛かる。
今年は、できそうにないな。切りつめるだけ切りつめてますからね。それでは、黄砂が降れば汚れ放題か。そうはいかないな。では、どうする?屋上からザイルで降りるか。それは危ないな。
こういう事態を想定して、私は買ってありました、通販で。こういうものを。まあね、自宅でも使うつもりであったのですが、自宅の窓では使えなかった、二重ガラスだったから(泣)。
でもJJ's Cafe は違う。一枚ガラス。冬は寒いけどね。すきま風も入ってくるけどね。多少の寒さをガマンしても、この明るさ、軽さ。やせがまんのモダニズムね。
一枚ガラスなら使えるな、きっと。これ。
ガラス拭きはもとより、近い将来、やんなきゃならなくかも、毎日のお掃除、トイレ掃除も、私たちスタッフが。でも、それはそれで良し。壁が汚れたらペンキを塗る。床が剥げたらニスを塗る。壊れた備品も自分で直す。楽しそうじゃないか、ちょっと。
ミュージアムのスタッフが、そんなことやってられないでしょ、かな?
でも私のイメージする少数精鋭、は、それができるスタッフだ。智も言葉も、行動とともに在り、ね。

3月10日
■さきほど、勤労青少年ホームの館長さんから、ホームで使っていたビニールレザー張りの椅子が不要になったから、もし欲しかったらあげますよ、っていわれ、見に行きました。ひょっとすると、ミッドセンチュリー風の、などと期待したのだけれど、それはなかったな。
私、小樽に住んで25年、(恥ずかしながら)勤労青少年ホームって初めて入りました。ちょっと衝撃、だった。いや、ただ、あまりにも「勤労青少年ホーム」という呼称のイメージどおりだったからですが。
ちょっと、またまた付け焼き刃で調べてみたのだけれど、昭和45年に「勤労青少年福祉法」というものが制定されて、その「勤労青少年福祉対策基本方針等」に沿うかたちで、それから二、三年のうちにタケノコのように各地に「勤労青少年ホーム」というものができたのですね。Googleで、検索かけてみたら出てくる出てくる、飯田市、大野原町、網走、小杉町、佐野市、……。
その「勤労青少年福祉法」というのも、改めて読んでみましたが。うーむ。
めったなこと、いえませんが。社会は変化する。それは、表層的な変化に右往左往するのは、ぜったいマチガイなんだけど。ただねえ、法律制定するって、やっぱり社会は変化するってことを、(イマジネーションまで動員してでも)十二分に踏まえてすべきなんじゃないかしら。その〈拘束力〉は、おうおうにして、時を止めるのね。
なら、文学館はどうなんだッていわれそうだけど、〈幸か不幸か〉「文学館法、ならびに文学館基本方針等」などという〈スタンダード〉は制定されてませんから。きょうの文学館は、きのうとは違う。明日の文学館は、また違う、かも知れない。

明日の文学館、を模索するために、私は、きょうの午前中には「体育館」に行きました。ここもこれまでご縁のなかったところ。何故に体育館に?それは、また後日。

3月6日
■けさ、岩手の大学の先生がお二人見えて、1997年8月にやった特別展『宮沢賢治─一通の復命書』展の図録を欲しいとおっしゃる。完売してしまったのだけど、お二人の話をうかがって、どうしても必要らしいと思われましたので、保存分のなかから差し上げました。先生たちは科学系のご専門で、宮沢賢治の作品のなかに出てくる「標本」という言葉、その「標本」への賢治の視線が一般の科学者とは少し違うのではないか、ということで、私たちが展覧会のモチーフとした、あの「修学旅行復命書」のなかに出てくる標本、それは北海道帝国大学附属博物館見学のくだりなどで出てくるのですが、やっぱりそれに注がれる賢治の眼差しが、どうも教師とも科学者とも、少し違う。言ってしまえば詩人の眼差しなのかも知れないが、どうも気になる、というようなことでした。
少し面白いお話。あの展覧会のときには、私はほんとにマジメに復命書の記述のとおりの行程を歩き、賢治が見たもの、興味を引かれたものを再現しようとしました。その結果、たいへん驚いたことに、北大付属博物館(近年北大理学部内に開設された立派な博物館ではなく、植物園のなかにある古色蒼然としたほうね)で、まちがいなく賢治が、あのとき見て、感銘して、復命書に記述した植物標本が、〈そのまま〉あった。あと、標本そのものはなかったけれど、「蜂雀」の、額に入った解説板があった。確証があるわけではありませんが、「黄色いトマト」というやや奇妙で、さらに不思議な余韻を残す童話に登場する蜂雀の剥製標本をホウフツさせた。
先生たちは、「そもそも、何で小樽に寄ったんでしょうね」とおっしゃる。確かに言われてみれば、札幌の北海道帝国大学に行って、当時の学長、郷里花巻の大先輩である佐藤昌介を表敬訪問するのが、大きな目的であることはよく分かるし、米国から移入された北海道の大規模農法に強い関心を示すのは当然だ。でもどうしても小樽に寄らなきゃ、って理由はないですね。賢治が復命書に書いているとおりの「港市」だからな。先生たちは、この「港市」って書き方にもこだわっておられましたが。
でも、「復命書」全文のなかで、もっとも記述が躍動しているのが小樽高商の商業実験室見学、小樽公園から港を一望し、列車で札幌へ移動、車中で生徒と校歌を合唱し、北大付属の博物館を見学し、という前半部分。これは先生たちも私も意見の一致するところ。
小樽高商の模擬銀行や、アメリカから持ち込まれた加工食品(どうやらポテトチップとかシリアルの類)、そして「標本」に注がれる視線、これはもう子どものように夢中になってしまっているわけね。
「どうも、その綺麗なガラス箱に収められた標本の眺め方がね」。一時期宝石の見本をトランクに詰めて歩いたっていう賢治に重なる。「そう、そう」「これは、冗談ですけれど、質草を値踏みする質屋さんの眼にも似て」。ふふ、質屋の息子さんですからね。賢治自身が嫌悪したっていってるもんだから、賢治のなかのそういう部分、あまり省みられない。晩年の石灰販売も、高熱を押して石灰の詰まった岩のような重さのトランクを引きずって、と、もう殉教者・聖ケンジの物語になってしまってるけどね。まちがいなくあるの。商人ケンジ。誤解のないようにいっとくが、近代的商業とはちょっとずれてる、〈商業〉が原初にもっていた〈夢を交換する仕事〉ですけれども。
「おれたちは百姓だ」と賢治が百ぺん叫んでも、違和感ぬぐえないのは、そこ。私も小商人の倅だからよくわかる、ってのはオモイコミですが。
話、飛ぶようですが、私が今欲しいもの、それはトランク。そのトランクは、宮沢賢治が宝石見本や、書きかけの童話の反故紙や、石灰を詰めて歩いたトランク、或いは小林多喜二が、アジト(これも多分にオモイコミで、こないだ多喜二ライブラリー訪問のとき、学芸員の佐藤三郎さんに、ライブラリーが設けられた麻布十番の界隈、つまり多喜二が転々としたといわれる「アジト」が点在しているところ。「どう考えても、この辺がアジトになるわけないですよね。多喜二が特高を怖れて逃げ回ったというのは、ちょっと違うんじゃないかな」とは、佐藤さんの弁)を転々としながら、片時も離さなかったという草稿・ノートの詰まったトランク。
そんな夢とか、希望とか、ま、絶望とか革命とか何でもいいんだけど、そんなものが詰まったトランク。それを携えて、私は街に出たい。あるいは街を出たい。あるいは国を出たい。そのトランクを開いた場所。それが「どこでも小樽文学館」だ。学芸員もおまけしちゃうよ。は、こりゃ寅さんだね。やっぱり、インチキ行商人か。

3月3日
■こっち向いて!笑って!(何)にリンクさせたカメラ日記、たまたま見てしまった人のなかにはフシンに思った向きもあったかも。鵠沼に何しに?それは、山中恒さんが住んでおられるからです。
こんどの展覧会、「こどもたちの戦争体験」は、亀井館長の発案だ。「山中さんの仕事を土台にして」とのことだが、こんど行く前に、ちょっとした疑問を館長にいってみた。館長は、山中さんの書いたご本をどのくらい読んでおられるのですか(不躾!)。
「私が来てからこの文学館に入った本は、だいたい眼を通しています」。
それで、こんどの展覧会のご提案は、どのあたりのお仕事から思いつかれたのでしょうか。
「『間違いだらけの少年H』から『新聞は戦争を美化せよ!』にかけての一連のお仕事です」。
ああ……。この『間違いだらけの少年H』は、私はもちろん惹かれはしたが、その分厚さと、その分厚さもコミにしてこちらに押し寄せてくるような怒濤のような批判精神というか、そういうものにたじろいでしまって、けっきょく読んでいません(恥)。
「この仕事は、単純にひとつの作品、ひとりの著者に対する批判にとどまってはいない。戦時下の、みごとな民衆史の記述になっています。近現代史の研究に携わっている人たちのなかでも、ここまで達成できた人は少ないのではないでしょうか」。「山中さんには講演もお願いするのでしょうが、個人的には、とくに聞いてみたいことがあります」。「山中さんご自身が、『間違いだらけの少年H』からの一連のお仕事を経て、歴史を振り返る、その観方に変化が起きたのではないか、と想像されます。それをご本人に伺ってみたい」。
それで、先日、山中さんにお会いしたとき、館長がこんなことを申しておりましたよ、と(ヌケヌケと)しゃべったところ、山中さんは、ちょっと黙られたあと、「それは、ほんとうに館長のいうとおりなんだよ」「自分では、そのつもりはなかったんだが、こんどの仕事をとおして、やっぱり一種の〈歴史観〉に、自分もとらわれていたところがあったことに気がついた」「今まで、みていても、見えていなかったところ、それが細部まで見えてきてしまった」「やらなければならないこと、やり直すことが、いっぱい出てきてしまったね」。
その『間違いだらけの少年H』は、館長が自宅へ持ち帰ってしばらく読み込んでおられた、ということで、きょう持ってきてもらいました。やっぱり、展覧会のまえに読んでおかねば。わあ、すごい付箋の数だ。「私ほど、読み込んだ読者も少なかろうとは思います」。……めげるな。

3月2日
■科学館の旭さんから電話あり、文学館との合同企画、「宮澤賢治と星と鉄道」は、ほんとに好評で、会期中の入館者は例年比一割増とのこと。それもあって、会期を二週間延長し、3月14日まで開催したいとのことでした。そっちょくに、うれしい。

このあいだ、我孫子の白樺文学館に行って来たのですが、そこで白樺文学館「自己評価のための5つの質問」というプリントをいただいた。
この「自己評価」というものは、昨今、各地の自治体、大学、そして美術館、博物館でも導入し始めたものだ。でも、それが大方どうなってるかは想像つきます。おそらく、多岐にわたる項目を設け、それにいちいち細目を設け、かなり大部の設問表に書き込み、それで結果は、ほとんどみな同じ。「おおむね良好」「課題は残るが、今後改善」「評価は五段階のうちBの上程度」なんてものだろう。

そこで白樺文学館の「自己評価のための5つの質問」。5つ?きわめてシンプルではありませんか。以下その「質問」の全文。

1.われわれの使命は何か
我孫子に在住した白樺派文人の芸術文化活動と、彼らの思想を地域の皆様はじめ、広く一般の人々に知ってもらうことと共に、時代を担う若者に伝えること。

2.われわれの顧客は誰か?
来館される地域及び一般のお客様と、館運営を支援してくれる人
(注)顧客とはある事業が、継続して存在するために提供する商品(サービス)を繰り返し有償で購入(利用)してくれるひと。

3.顧客はなにを価値あるものと考えるか?
各種実物展示品により、白樺文人を改めて知ることが出来た、知的なよろこびと、そのゆとりある時間と空間。

4.われわれの成果はなにか?
より多くの人に白樺派の文人の活動を知ってもらうこと、ボランティアとしては、意義あると判断した白樺文学館運営に参画できた喜び。

5.われわれの計画は何か?
白樺文学館運営行動計画(別紙)

うーん、シンプルにしてラディカル。ほんとうに、これがすべてですよね。
その(別紙)の運営行動計画も、とても具体的かつ質素。つまり質実のみ。
考え込んでしまうのですが、個人がオーナーである文学館とか美術館、やっぱり資産家の趣味的な、という先入観が立ってしまう。けれども、とても採算のとれる事業ではありえないこと、それを十分に承知のうえで、行うこと。継続していかねば、意味はない。公益であることを、民が行うこと。それって、ほんとうに凄いことだ。
ひるがえって、私たちはどうであるか。ここまでシンプルで質実に徹する覚悟ができているか。できていないとしたら、そこから、どのくらいの距離にいるか。

これは、大きな大きな指針になるな、ほんとうに。