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6月26日
■先日、小樽市長のインタビュー記事が掲載された『日経ビジネス』5月31日号を取り寄せました。インタビューの内容は別にして、私自身は、このメディアの使い方に、率直に感心いたしました。『日経ビジネス』というメディアの性格、機能をよく生かした方法だったと思います。
しばらくの間、私も、常用しているカバンにこの雑誌を入れておくつもりです。
きょうは、部長がラフなスタイルで立ち寄り、美術館長と話を交わしておりました。内容はシリアスな事柄も含まれていたようですが、カウンターに寄られ(前部長と同様コーヒー好きなのは、うれしいことです)、「声が大きいから、うるさかったろう」。いえ、話、半分くらい聞いてましたが、あっちこっちたいへんですね。「それ込みで、人生だよ。ひたすら平坦だったら、つまらなかろう」。同意。
きのうのイベント、あがた森魚さん、イトケンさん、三上敏視さん、そして何と元「はちみつパイ」の和田博巳さんと、超豪華メンバーで、もちろんとてもステキなコンサートだったのですが、興行的には、23日同様、不本意な結果でした。
今回、ピアノの調律をしてくれた沼山さん(辣腕のコンサートプロデューサーでもある)や、あがたさんの世話をしてくれた毎度お馴染み金井さんとも話をしたのですが、一昔前だったらタウン情報誌繰ればだいたい抑えることのできたイベント情報も、発信元が多種多様、錯綜してかえって分かりにくくなってしまった。情報提供する方も、いったいどこに絞ったら良いのか。何か徒労ばっかり重ねているような気も。
金井さんのいうのには、「けっきょく、口コミですよ。これがいちばん、確実。かつ長持ち」。原点、ですね。
昨夜あたりは、富田さん相手に溜息混じり、しばらく控えるかな、などと弱気になっていたのですが。富田さんからは「玉川さんがねらっていた『子連れのお母さん』は、はずれたみたいですが、今回のようなイベントで地元の中高年の人たちがこれだけ集まってくれた、というのは、も少しポジティブに評価してもいいんじゃないですか」、と励まされ。
そうね、これが今のウチの実力だ。三歩すすんで二歩さがる、続けていかねば小樽文学館ブランド確立は、永遠にできないね。
量徳国民学校55期6年3組担任、故上野保亜先生のご長女と、ノーマ・フィールドさんから相次いで嬉しいお知らせが届きました。これについては、また後日。
6月23日
■いまの時期は、札幌や近郊の中学校からグループ学習とかいって、三々五々やってくる。どういうわけか水曜日に集中する。
「つまんなーい」とかいって、すぐ帰る子も少なくないのだけど、きょう来た子たちは、私が淹れてるコーヒーに興味を持って、「ただなの?」とかいうのですね。50円の入館料払って入る中学生に、いや、これはドネーションでね、などと説明しても始まらないので、あー、ただだよ、飲んでみる?っていいますと、一人、二人飲みたがる。「苦いんでしょ」などと言ってる子も、「じゃ、ミルクと砂糖いれて、私も」って、けっきょく10人くらいに淹れてあげました。
カウンターに腰かけて「何か、おとなだよね」なんてね。「ここ、いいよね」「お薦めのスポットだよね」って。そーですか。
くものすカルテットコンサートをボランティアでお手伝いにきてくださった方が、植草甚一さんの本を並べている棚をみて、「この人の本が、どうしてここにあるのですか?」とおっしゃる。何度かいらしている方だが、以前から不思議に思っていたのかも知れない。そこで簡単に「JJ's
Cafe 」のいわれを説明しました。
その方がおっしゃるには、「昔、私の知っている人が自殺をして」。え?「その亡くなった人のそばに、この本があったものですから」。植草さんの『僕は散歩と雑学が好き』が?「はい、19歳で亡くなった知人が、さいごに読んでいた本だろうと、ずっと気になっていたもので」。
とっても明るくて爽やかなエッセイですけどね。そうですか……。そうね、人生のさいごに読む本か。いいのかも知れないな。
その、くものすカルテットですが、良かったな、とっても。メンバーの方が「オンシアター自由劇場」のご出身だけあって、やはり「上海バンスキング」を思い出してしまいますね。あの舞台のテイストから音楽を抽出した感じ。みなさんが演劇出身ではないためか、適度にシャイで。音楽性も思っていたより(失礼か)、遙かに豊か。一曲一曲から、強く夢を喚起されます。私は、後ろのほうで聴きながら、ずっと、「古本屋物語」展のイメージ掻き立てられてました。
にしても、まいどまいど、PR不足ですね。撤収した後、富田さんと、どうやったら広報活動をもっとも効率的にルーチン化できるか話し合いましたが、皆さん、ぜひ、というご提言(具体的なね)ございませんか?
6月22日
■ずいぶん昔のことですから、もう〈時効〉だと思うのですが、ちょっと怖い体験をしたことがありました。まだ小樽敦賀間のフェリーが走っていたころですが、実家が福井にある私が久しぶりに一家で帰省した、その帰りに小樽港のフェリー発着所から家へもどる途中のことです。
フェリーは便によって、ずいぶん朝早く着きます。そのときも、早朝4時くらいに到着し、5時過ぎにタクシーに乗りました。まだ道路に車も少なく、ひとけもほとんどありません。家に近づいたころですが、突然、中年の運転手さんが大きな声を上げました。外に向かってではなく、私たちに向かってでもありません。びっくりして、一瞬何といったのかもわからなかったのですが、「バカヤロウ、バカヤロウ」というようなコトバだったか、と思います。まだ小さかった娘たちはもちろん、妻も私も凍りつきそうな思いをいたしました。
ただ、運転自体は乱暴でもなんでもなく、間もなく家に着いて、運転手さんも何事もなかったように、お金を受け取り、礼をいって戻っていかれました。私たちは、キツネにつままれたようにも思いながら、これは、やはりタクシー会社に知らせるべきだろう、と話ししたものの、けっきょく何となくそれきりにしてしまいました。
これは、いま考えても、すぐにタクシー会社に知らせるべきだっただろう、と思われます。ことは利用者の安全に係わることで、会社全体にとっても重大事でしょうから。
ずいぶん、昔のことで、私は運転手さんの名前はおろか、顔も、そのタクシー会社さえ思い出せません。でも、このこと自体は、最近でもときどき思い出します。そして、すぐ知らせるべきだった、と思いつつ、その一方で、胸のなかで小さく、黙っていてよかったのかも知れない、とも思います。
私も50歳を過ぎた。それなりに責任のありかたも変化し、いっぽうで相変わらず一人で何でもこなさなければならない状況は、さして変わっておりません。ストレスは溜まらない性格なのだろうと思うし、私のような仕事は、きっとよそから見れば、ストレスなど無縁、天国みたいだ、と思われるかもしれないし、実際にそうかも知れない、とも思う。けれども、ときどき思い出し、ときどき実によく分かる気がしてしまう。深夜まで働き、早朝のんきで楽しそうな家族連れを乗せて走っている運転手さんが、思わず声に出してしまった〈気持ち〉が。
やっと、懸案のひとつめが何とかなり、気持ちが「古本屋物語」展に入っていこうとしている。それで、ちょっと考えてみると、「古本屋物語」などという企画自体、いわゆる〈ポジティヴ〉なものではない。誤解されては困りますが、むしろ〈登校拒否、登社拒否、蒸発、ヒキコモリ〉的心情(表現に問題あれば、〈出家遁世のココロザシ〉でもよろしいのですが)に繋がっていく気配あり。
でも私は思うのですよ。いいじゃあないか、って。実際に〈それ〉が許されないのなら、虚構の世界(展覧会ね)で、〈それ〉をやっても。
ね、疲れ切ったお父さんたち、ダマされた、と思って、たまに、文学館にいらっしゃい。
6月20日
■三宅さんは、市内で絵画教室をやっておられる画家です。東京芸大のご出身ですが、学生のころから古本好きがこうじて、「彼の眼力は、なみの古本屋さん、かなわないですよ。『背取り師』ができる人だな」とは、同僚だった木ノ内さんが前に語っていたこと。
その三宅さん、きのうお寄りになって、カウンターに掛けられましたので、今秋予定している「小樽・札幌古本屋物語」展のことを話してみました。背取りができる目利きだと……。「そんな小声で話さなくてもいいよ。別に隠すようなことじゃない。背取りはできるよ。最近はあんまりしないけど」「学生のころ、田村書店とか扶桑さんとかに出入りしてさ、古本屋さんって、癖が強いからね。店頭に置いていても売りたくない本ってあるんだな。わざと破格の高値をつけたりしてる」「田村書店なんかではさ、例えば西脇順三郎は〈定番〉でね、売った本でも、必ずその何割かの値段でまた買ってくれるんだな」。貸本みたいですね。「背取りはね、公認されてるようなもんなんだ。目録販売だけしてる小さな本屋さんって、仕入れの大半は背取りだよ」「東京で古本屋に嵌ってたころから、北海道の小樽に木ノ内さんって凄い人がいる、って聞いてた。渋澤龍彦や稲垣足穂や種村季弘なんかを驚かすような人だって」「小樽に住むようになってすぐ木ノ内さんと知り合ってさ、意気投合したよ。で、二人で小樽、札幌の古本屋、ずいぶん回った」。神保町と比べるとやっぱり物足りなかったんじゃないですか?「そんなこともないよ。古本屋さんの世界でも、〈ニューウェーブ〉が台頭してきた時期があってさ、これをやりたい、って自負と野心もった若い人たちが次々店を出してね」「そんな若い店主に、値段付けと適切な価格についてちゃんと説明してあげた上で、背取りをさせてもらったこともあるよ。夢書房さんが目録出すときも、僕がアドバイスしてあげた」。手元には今でもその頃の本が。「もう、ほとんどないよ。興味も薄れたし。ただ手放しがたいのはあるね。少しだけど」。「念のためにいっておくけど、僕は〈背取り屋〉じゃないからね。背取りはできるけど」「夢書房さんとか、小さな古本屋さんがいろんなおもしろい話を書いてる本があったはずだ。今度もってきてあげるよ」。
インターネットみてるんだったら、ここのホームページみてみるといい、と三宅さんが教えてくださった「青猫書房」のHPは見つからなかったな。もう閉鎖したんだろうか。
とりあえず私は梶山季之の『せどり男爵数奇譚』(「まだ読んでなかったの?」と三宅さんに驚かれた)と、横田順彌の『古書狩り』は、注文しました。
うーん、まだ懸案一、二抱えてるけどね。私も早く嵌りたい。「古本屋」のディープな世界に。
6月19日
■「こどもたちの戦争体験」、知らぬうちにいろんな人が来てくださっているようです。
昨日は、横浜から本間義一郎さんが来てくださいました。量徳国民学校55期の同窓会の世話役などをなさっている方です。今回、本間さんから教えていただいた同窓生の皆様の連絡先がわからなかったら、展覧会そのものの「核」ができなかった。
本間さんは、この展覧会をご覧になるためだけにいらしたわけではなく、ときどき小樽や札幌にいらして、最近亡くなった同期の方々にお参りなさったりしておられるのですね。ゆっくりご覧になっていましたが、私には「だいぶ前からご計画をなさっていたのですね、ご苦労様でした」とだけ。
何人かしかお目に掛かっていないから、一般論にしてしまうのはいけないのでしょうが、皆さん、思いのほかあっさりとしておられる。でもね、本間さん、かえりぎわに、ちょっと手をあげて、挨拶されていった。私にじゃないですよ。展覧会場に。一瞬、胸が熱くなりました。
しばらくして、外へ出たら、鈴木始さんがおられる。やはり量徳国民学校55期生。最初に文学館に寄ってくださった方。もう、ご覧になったのですか。すみません、ご招待状もお送りしてなくて。
「いや、たいへんだったね」。さっき、本間さんも見えてました。「へえ、ギイチが来てったのかい。何にもいってなかったな」。皆さんによろしくお伝えください。「ああ、じゃ、また」。
私、つくづく思うな。思いの深さ、それは簡単に言葉や、行為に表れるものではないですね。
いい展覧会じゃないか。また、自画自賛か。
6月17日
■書くことあってもなくても、短くてもだらだらでも、とにもかくにも毎日続けてこそ、日記。とは分かっているのですが、それでもやっぱり滞りますね。
何でもかんでも、書いていきましょう、と何度目かの決心です。
いまも昔も、毎号欠かさず買っていた雑誌なんて私にはない、いや、あったな。ひとつは学研の「科学」と「学習」だ。とりわけ前者に思い入れ深し。これについて語りだしたら、とまらないから、またいずれ。
きょう、書いておきたいのはもうひとつ。懐かしく、また突然の廃刊が今でも残念。それは「ビーツール・マガジン」って文房具情報誌です。ほんとうに楽しかった。そして、この雑誌で、私は、私が如何に文房具好きか分かりました。超高級万年筆などには、まったく興味ないです。好きなのは、使い捨てに近い値段のボールペンとか、ちょっと工夫したクリップとかね。こないだとりつけた文学館のミニ掲示板の鉛筆立てに差しといたBICも私の大好きなボールペンだ。どういうわけか、今は100円ショップでしか見かけなくなってしまったけど。ついでながら、BICは使い捨てヒゲソリも、使い捨てライターも超優秀です。文具じゃないけどね。
文房具については、また「お茶して」か掲示板で、熱く語り合いましょう(あんまりいないのかな、そんな人)。それにしても復刊してくれないかなあ。「ビーツール・マガジン」。なつめぐさん、ってセンス抜群の編集者さん、どうなさってるんだろう。
きょうは、私は議会に出たので、草刈りは大須田さんと播磨くんにまかせざるを得ませんでした。ちょっと残念。
6月16日
■忙しい。忙しいと思う。のだが、相変わらずカウンターにおさまっています。脳内忙殺状態。
朝、岩田書店さんがみえたので、古本屋物語展の話。そのなかで、私がもっとも気になっている、不思議な古本屋さん、夢書房さんのご消息のこと。この方は、お店をもたない。いや、山田町の古いお家の壊れ掛けたガラス戸に、「夢書房」とマジックで書いた画用紙は貼ってあるのですが。昔から、いわゆる目録販売をなさっていて、あつかう書籍にも特徴があり、知る人ぞ知る存在だった方。
自転車で飄然と街を走る姿をときどきお見受けしていたのですが。
お昼前にいらしたのは、旧・マイカル小樽(いまの名前をまだ覚えられない)のなかに巨大な店舗を構えられた喜久屋書店の社長さん。まだ若い二代目。あるべき「本屋」のスタイルについて、ずいぶん共感できるところが多く、一時間以上、すっかり話し込んでしまいました。ヴィレッジヴァンガードといい、喜久屋書店といい、少なくとも本好きには魅力いっぱいのデパートだと思いますよ、マイカル小樽(いまの名前は何でしたっけ)。
先日、そのヴィレッジヴァンガードでみつけた緑色のクロスを貼りつけたコルクボード(800円なり)。さっそく館内に、ミニ掲示板を作りました。小樽文学館特製のメモ帳と、黄色い軸のビックボールペン2、3本置いて、おもしろい情報や、イベントのお知らせなどご自由にお使いください、なんて書いてね。
ところへ、例のSさん(もと古本武闘派)。「和歌山県人会会員を募集しているのですが」。?。
「やってた人から頼まれてね、あんたがやってくれんかと」。そうですか。「どっかに貼り紙お願いできませんかな」。まー、いいですが。ミニ掲示板も作ったことだし。第一号が、これか……。
昼からは伊藤整文学碑そばの遊歩道の雑草が繁りすぎ、との知らせを受けて、事務長と様子を見に。なるほど、この辺、確かにね。さっそく明日やりますか。バイク走らせ、ホーマックでカマ3丁お買いあげ。
戻ってきて、またカウンターに収まっておりましたら、キコキコさんからお電話。「くものすカルテット、チケットのほう、反応どうですか」。あいかわらず、PR遅れてますからねー、ちょっと見当がつかないな。「どっかのブラスバンド、共演してくれないですかね」。?。「くものすの人たち、ときどきやるんですけど一曲かんたんなオリジナルね、客席からステージにあげてアドリブ共演」。うーん、家のこどもが下は高校で、上は大学でブラスバンド入ってるけどなー、一言のもとに退けられそうな。おもしろそうですけどね。
カウンターに戻れば、「こどもたちの戦争体験」を見においでになった、小樽の俳句界の長老のお一人、辻井卜童さんに声を掛けられる。「昭和18年、陣内写真館の前で東条英機首相を見送りましてね」。初めて聞いたな、そんなお話。「何で来たんだろうな、あんな時に小樽まで」。不思議ですね。「北海道に来たのは学徒出陣を見送るためらしいんだけどね、小樽まで来たのは、あれが念頭にあったからじゃないかな、大正末期の軍事教練反対事件」。ああ……。先生は当時(昭和18年)おいくつ?「私は18歳。学校を出てすぐに入隊しました」。お話はそこまで。
カウンターに座っていると、脳内千々に乱れるな。井尻正二さんの資料も整理しなおさなきゃ、ならないし。
6月6日
■小樽市役所に永年勤め、以前に小樽文学館の館長も務められた大石章さんは、放送作家でもあり、そもそも25年前に、文学館設立のアイディアを提案した人でもあります。実は、この文学館でずいぶん昔からやっているように皆思いこんでいることのいくつかは、大石さんが館長時代に発案し、始めたことでもあったりします。そのように発案力も行動力も抜群の人なのですが、たまに独走、まれに暴走のきらいあり(私も人のことは言えませんが、私以上にバクハツ的だったりした)。今も、小樽文學舎の理事として、かげながら力になってくれますが、会の集まりのときなどは、ときどき私を困らせるような発言もなさる。まあ、大方は、もっともなご意見であるのですが、内心はそんなに仰有らなくとも、などと思ったりもします(失礼)。
けれども、大石さん、昔から不思議な人であり、私がほんとうに窮地におちいると助けてくれるのですね。今回の展覧会(こどもたちの戦争体験)も、ぎりぎりでやっと形が出来てきたのですが、まだ「特別展示」として皆様に見ていただくには、もひとつ力不足かな、と思っていた。
先ほど、午後7時を回ったころに、文学館に来てくださった大石さん。「こんなもの持ってるんだけど使うかい」。はあ。えーッ、これってみんな大石さんご自身のもの?
私は、人様のコレクションには滅多なことでは驚きません。それは、そういう大切なものを貸していただければ、とてもありがたい。ただ、苦労してコンプリートしましたよ、などと得々と言われても、そうですか、たいへんだったんですね、などとしか(失礼)。
でも、それが最初から自分自身のもの、となると話は別だ。つまりこどものころに作ったもの、使ったもの、それを今でも大切に持っている人。これは、まじ凄い。だって出来ないもの、他の誰にも。いくらお金を掛けても足を棒にしても、できないでしょ、自分の時を取り戻すなんて。
この世にほんとに価値のあるコレクションって、それは自分自身だ。その過去の時間。そのかたち。
「すごい、すごい、って連発すんなよ」と大石さんは、帰っていかれましたが、うーん、これは展示品としては、今回の展覧会にタマシイを吹き込むものになりそうです。まずは、心から感謝!です。
6月5日
■堅田精司さんから、封書が届きました。ワープロで打った短いお手紙と、古い原稿が1枚。
小樽文学館 御中 堅田精司
矢橋丈吉の原稿手に入りましたので贈呈します。矢橋のものを大事にしてくれるのは小樽文学館と小樽美術館だと思うからです。
矢橋のタブローは見込みありませんが、クロッキーなら手に入りそうです。
矢橋丈吉、恥ずかしながら、私はその名前知りませんでした。けれども堅田さんから先にいただいていたデジタル版「社会文庫通信」とGoogleですぐに分かった。
北海道雨龍村出身のアナキスト、詩人にして画家、画家としての名前は矢橋公麿、マヴォに参加。堅田さんから届いたのは、その矢橋丈吉の自筆の原稿です。以下、その全文。
無権威者の「位」
矢橋丈吉
傷ついた百足(むかで)のようにのたうちながら生き
殺虫剤をくらってコロリと死ぬ蠅のように私は死にたい。
遺言も葬列も墓碑もなく風化したい。
百足や蠅や蝶と同じように
私はそんな「民草」であり「無権威者(アナキスト)」の誇りと「位(くらい)」を汚したくない。(38年1月)
矢橋丈吉は、北海道の生まれですが「小樽にゆかり」ではありません。けれども、私はこの原稿を明日にでも、館内に展示します。場所は、これは小樽に住んでいたアナキスト川柳人八橋栄星の隣でしょう。なぜ展示するか。私が、これを毎日眺めるためです。「多喜二の写真」のとき、さんざん浴びせられたな。〈公私混同の学芸員〉。はい、私がその学芸員です。でも私は懲りない、省みない。私に徹することだけが、公になにがしかの変化を与える、唯一の途である、と思いこんでいるからです。
堅田さんのお手紙と、この原稿をいただいたこと、それは私の、そしてこの文学館の大きな誇りだ。
6月4日
■美術館のほうでは、なかなか華やかにオープニングセレモニーがありましたが、私の方は、それを後目に72通もの手紙をせっせと封筒に詰めております。帰り支度をしていた奥山さん(美術館副館長)が、見かねたようで糊づけを手伝ってくれました。おかげで、きょう出せる。
何をやっているのかというと、量徳国民学校55期卒業生の皆様にお手紙を出そうとしているのです。例の学級文集ね、あれを書いた人たち、およびその同期の人たち。
先日、水口先生といっしょに来てくださった昭和17年3月、量徳国民学校6年3組卒業生の鈴木さんと今熊さん、お二人と話しているうちに、このときの卒業生の方々が、今から10年前、平成6年6月に小樽の豊楽荘で同窓会をなさったことが分かりました。そのとき、世話をなさった本間さん(横浜市在住)にご連絡をとったところ、その同窓会に出席された方、さらに出席できなかった方々の名簿、ご連絡先を送ってくださった。その方々、計72人。
その皆さんに、片っ端から手紙をお送りしようと思ったわけです。同窓会から10年、会場になった豊楽荘も今はありません。この10年の間に亡くなられた方もあろう。ほんとうは亡くなった方があることを、私は伺っている。けれども、敢えてお手紙出すことにしました。非道いと思われるかも知れませんが……。
どのようなご返事、あるいは反応があるか分からない。少し怖い気もいたします。今さら、と無視されるかも知れない。先日いらしてくださった鈴木さんも、「人間、ある程度の年齢になると、昔のこと、とくに懐かしくもなくなるものだよ」とおっしゃっていた。そうかも知れない。
ノスタルジアを強いることはない。けれどもノスタルジアであっても構わない。この時代のこと、それがある一定の枠組みのなかでしか語られないとしたら、それは不幸なことだと思います。
今回、準備を進めるなかで、あることがあり、私も往生しかけました。もとはといえば、私が準備を進めるうえでの「基本」を怠ったためではあるのですが、さらに突き詰めれば、解釈は読者(来館者)に委ねる、というここ数年来のウチの方法が、今ひとつ理解されなかったということでもあります。
そんな状態のときに、亀井館長から届いたメール。無断で失礼ながら一節のみ引用させていただきます。
例え戦争が、どんなに不幸な、不本意なことであっても、その時代に生きた/生きざるを得なかった子どもたちや、若者たちにとっては、たった一回きりの、掛け替えのない子ども時代、青春時代を精一杯、楽しく過ごそうとしたはずです。そこには遊びがあり、恋もあった。子ども文化も、青春の表現もありました。それを懐かしく思い出し、語り合うことに何の躊躇いも、制限もあってはなりません。
私、たちまち立ち直りました。これでいい。間違ってはいない。結論先にありき、そんな展覧会は、ウチはもうやりません。これで行く。
それにしても、あと7日!
6月3日
■余市水産博物館の浅野さんのご案内で、福原漁場の文書倉へ。戦争中のこどもたち向けの読み物が保存されている、ということで伺ったのですが、読み物のほうは、昭和20年代半ばから30年代はじめの雑誌の附録が中心。これはこれで初期の横山光輝や杉浦茂、めずらしい赤塚不二夫の少女漫画など綺羅星の如し。心が残ったものの、私の大事は、戦争中の紙芝居。みっつありました。うち一つの絵は戦後も童画家として活躍してる人。あと表紙が取れているのが残念だけど、室生犀星や長谷川町子も寄稿している少年少女向け読み物。
というわけで、大収穫だったのですが、「去年、文学散歩でいらしたときにもご覧になってるはずですよ」と浅野さん。うーむ、そのときの関心のありどころ如何で、見ているはずのものが見えていないという、私の従来の考えを、身を以て立証したわけですね(何をいばっているのか)。
それにしても来るたびに驚く。広々とした史跡福原漁場の手入れの丁寧なこと。大輪の牡丹数輪。眼を洗われるようでした。
そういえば、去年文書倉に入ったときには、靴をウチ履きに履き替えた。きょうは、土足でいいのですか。「土足禁止はやめました。私たちがマメに掃除すればいいのですから」と浅野さん。うーむ、時代に逆行してる……、んじゃなくて、金がないんだからしかたないじゃん、って開き直っていないか、私たちは。こういう時代だからこそ、無理をしてでもキレイにしておこうね。文化って、いわば痩せ我慢。だから最強。
博物館に戻って、浅野さんからいただいた立派な冊子『余市町の文化財』。浅野さんが執筆されたものですが、これは余市町の広報誌の別冊だったかな、それに連載したものをまとめられたらしい。何でもないことのようですが、これも眼からウロコ落ち。「余市は、文化の潜在力はあるんですが、それを自負していても始まらない」「地元の人に口で説明しても、その場限りで、こういう小冊子でもよその人に示すことができれば」。
小さなものですが、写真もレイアウトもしっかりしてます。「原稿がまとまってましたから、余市の信用金庫の援助をいただくことができました」。
うーん、じゃあ、私もさっそく広報の青木さんと相談してみよう。いつか連載させてもらえないかって。小樽の文学。書こうと思えばいつでも書ける、って思っていても、けっきょく書けない、いつまで立っても。書くって確約できないから、本にするっても心許ない話だ。だったら強制的に書かせる、自分にね。締め切りが毎月やってくる。書かざるを得ない。月に一編ずつ。二年くらい経てば、本になるぐらいになるじゃないか。それ持って、スポンサー探そう。中身があれば説得力もあろう。私のアイディアの7割はパクリだ。でもいいことは遠慮なくパクらせていただく。
きょうの余市行きは収穫大だった。帰りには館の職員の方が摘んできたばかりだっていう、薔薇の花束までいただきました(こっち向いて笑って参照)。伊藤整が忍路まで行って、初恋の少女の家から薔薇を貰ってきたのもこんな季節か。
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