よもやま日記

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文責/市立小樽文学館・玉川薫
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12月21日
■12月23日から30日まで、こども美術講座作品展「ボク・ワタシノトモダチハ宇宙人」というのをやるので、手伝わせていただくことに。これは、11月20日にやった美術講座でできた作品(ペットボトルに貝殻やらビー玉やらモロモロのものをくっつけた宇宙生物っぽいもの)を飾る展覧会。美術館学芸員の星田さんが今休んでいるので、今年はやめようか、なんて話もあったようだけど、こんなおもしろいもの、やらない手はないです。
私は、この展覧会、最初の2、3回はお手伝いしましたが、最近は星田さんたちにまかせっきり。でもこうした展覧会のレイアウトこそ、学芸員冥利につきるお仕事。こどもたちの奔放な作品を、その奔放なエネルギーを、できるだけ露わにみせるような展示。むろん経費ほぼゼロ。人手も時間も非常に限られてます。でも、アワビの裏側やコルクや針金、ビー玉で、なんだかキラキラ、トゲトゲ、ピカピカした昆虫的、深海魚的、宇宙生物。イメージどんどん膨らみます。
ひとつひとつたいへんに個性的ですが、ペットボトルですからね。大きさ同じだ。それが約30体か。まず増殖させましょう。ひとつひとつデジタルカメラに撮ってもらい、大きくプリントアウトして糊付きパネルに貼って、切り抜いてもらいます。本体は、唯一無二の「作品」だから、展示の場所はある程度限られる。でもクローンの方は、さらに奔放。重力コントロールも自由自在。天にも地にも居場所をもてる。
つぎのポイント。大きな建造物。そうね、高さ三メートルくらいのドームがあれば良い。無茶を申すようですが、美術館に不可欠の消耗品類使いこなそう。商品名エアキャップ、でも「プチプチ」の方が分かりやすいビニールの梱包資材。壁にスポットライトあてて光の輪にそって大きく半円形に切り取ります。そのなかに詰め込む。何かキラキラ光る物をね。その両脇に、ステップ型の脚立をおけば、突如出現した、見知らぬ惑星上の宇宙基地。何を詰め込もうとしているの、ハリマ君。えー、大型のソファ3台。ダイナミックだなあ。こうやって、ちょっとイメージ伝えるだけで、みんな驚くほどの独創してくれる。
壁に大きなスチール製の空のガクブチを打ち付け、いつ作ったのか小さな棚をいくつも取り付けている石垣さん。こんなのは、もう私の想像外の展示であって、ちょっと表にあらわれにくい彼女のセンスと技術が小さく炸裂しているわけね。

数時間経過。ハリマ君が一日がかりで格闘してくれた「巨大ドーム」は、プチプチの内側に適当に、と思っていたアルミホイルがあんまりきれいなので、プチプチ撤去。アルミホイルをむきだしに。カタチも多少いびつになって、メタリックな岩山ともプラチナの固まりとも、またハリマ君が不思議なシワを寄せたために、銀の王蟲にもみえる。「パラマウント映画のオープニングにも見えます」と、鈴木さんが指摘(なるほど。見ていただけば、皆さん納得)。

科学館から借りてきた惑星の立体模型を配置したり(天文学的にデタラメですが)、超重量級のテレビモニターをワイヤーで吊り上げたり。ほんとうに、楽しい。照明でもうんと遊んでみましょう。「作品」は、得体の知れない宇宙生物なのだから。

美術館メインの展示では、なかなかこんなに自由自在にやるわけにはまいりません。作品(その良し悪しは別にして)への遠慮が働きますから。ほんとうは、もっと学芸員の主観が入り込んで構わないのでしょうが(一原有徳さんなんかは、必ずそうおっしゃる)。博物館の展示では、まずものそのものを正確にみせなければならない。つまり「配置」に遊びを交える余地は少ない(これも考えようなのだけれど)。
文学館は?これは、少なくともウチはもう何でもあり、だと考えております。オーソドックスな博物館的展示、美術館的展示も含めて。それらを一種のパロディ風にしてしまうこともできるし。文学展が初めからナンセンスだから、ともいえるし、本質を剥き出しにしてしまうから、ともいえますし。

明日、一日。仕上げるのは千葉さんと星田さんのホントのピンチヒッター鈴木さんか。私は、今日一日十分に遊ばせてもらったので、明日は予算ヒアリングに行ってまいります。

12月18日
■昨夜、NHKの番組に出ておられた深澤直人さん。インダストリアルデザイナー。有名な方だそうですね、私は知りませんでしたが。この文学館のなかだけでも、千葉さんの使っているケータイ、インフォバー。ハリマ君の、あれは何ていうの、ガンダムテイストのプラスチックなケータイ。そして私のお気に入り、JJ's Cafe のCDプレーヤー。小さな換気扇みたいなこのプレーヤー、みつけた人は、きっと感心してくださいます。「どこで売っていますの」と、訊ねられたことも時々。こないだ家の娘が「こんなかわいい加湿器知ってるか、おトウ」とみせてくれたプラ粘土で作ったアンパンみたいなのもこの方のデザインだったのか。
私、テレビみてて久方ぶりに感動しました。初めのほう見てなかったから、どんな経緯だったのか解らないけど、38歳で突然アメリカに行って、四方八方飛び込みプレゼン。「彼はほとんど英語話せなかったからね。彼のしゃべるのは、ただ一言。ワタシノぷらんハコレデス、こればっかね。でも、そのデザイン案が、どれもこれもコトバの100倍の説得力」(私、放送の内容、正確にお伝えしてるわけじゃありません。私がそのように視聴した、というだけですので、念のため)。
どういう設定の番組なのか、いまひとつ分からないのですが、突然、深澤さんに立て続けの質問。締め切りに間に合わなかったことがありますか。「ありません」。失敗だったと思うプランがありますか。「ない、と思います」。インダストリアルデザイナーと、いちばん似ていると思う職業は。「スシ職人、かな」。
なぜ、スシ職人。「おスシをコテコテ5分も握ってられたら、たまったもんじゃないでしょ。どんなに複雑なものでも、能う限りシンプルにしておみせするのが私の使命だと思っています」。
その深澤さんが、最近、持ちかけられたお仕事。「これこそ、私が待ち望んでいた仕事だ、と思いました」。どんな、プロジェクトだと思いますか。この超注目のデザイナーが、「これこそ」と、マナジリけっした「仕事」。
スタンプ。それも、あのシ○チハタ……。えー?シ○チハタ?
このハンコ、そういえばどういう商品なんだろう。インキカートリッジ付き簡易印鑑?みんな、もうシ○チハタってしか呼ばないね。他のメーカーの同タイプのものがないわけではありません。現に私の使っているのをよく見たら、他社製だった。でも私もこのハンコを、シ○チハタと呼ぶ。
考えてみれば、そりゃ凄いこと。社名イコール普通名詞。セロテープとかホッチキスに匹敵。でも、これをデザイン?
名古屋から社長さん(だったかな)が、おいでになって深澤さんに、とりあえずプレゼンテーションをやってみてほしい、と依頼。ナゴヤ?ああ、だからこの社名。ナゴヤは今モダン・デザインの街なそうだけど、ごめんなさい、私どうもそんなイメージ持てない。金の鯱、豪華絢爛嫁入り道具、エビフライと味噌ウドン。そういえば、私むかし、何を思ったか、ここの市教委の高校教師のテストを受けたな。メチャクチャに暑いのと、問題(教育心理学とか何とか)が、ほとんど分からないので汗が滝みたいに試験用紙にしたたり落ち、解答不能に陥りました。
地下街と地下鉄と碁盤の目みたいな広い道路か。サッポロを、さらに巨大にしたみたいな街だな、って最初の印象が悪すぎた(ごめんなさい、ナゴヤおよびサッポロの皆様)。
そのナゴヤのそれもシ○チハタ?社長さんの身なりも、お世辞にもアカヌケ……(失礼に上塗りしてますね)。
でも深澤さんの緊張、画面から伝わる。それから深澤さん、明けても暮れてもハンコばっか。街のハンコ屋さんにも足繁く通い出す。「50円だって。ハンコ業界、価格破壊が進んでるんですね」。そうか、シ○チハタさん、独占企業みたいだけど、このままでは、って危機感募らせておられるのだな。
「これは20万円もするんだ。こんな高級品も、一方では売れてるんだな」。ハンコ押す、って何だろう。その原点ってなんだろう。これはシ○チハタが実によくできていたためでもあるんだけど、あんまり安易になりすぎた。お役所仕事を嘲笑するシンボルにさえ、なっているかも。もう、そんな時代じゃねーだろ、なんて。
深澤さんは考え続ける。ハンコの原点って何だ。大事な仕事、それを仕上げる。最後に、それを仕上げたもの、その仕事に責任を持つもの、「自分の名前」を、押す。力を込めて、まっすぐに。
「分かった」と深澤さん。答えは、やっぱり実にシンプル。「指の窪みをつけます。なだらかで確かな曲面。そこに人差し指の先が、すっと自然に収まるような、そしてハンコがぴたりと正位置に止まるように」。
プレゼン当日。深澤さんの緊張、極限状態。シ○チハタの会議室。居並ぶ幹部社員。うーむ、やっぱり皆さん、大企業の重役としてはいまひとつアカヌケ……(いくら何でももうやめようね)。
深澤さん、いきなり切り出します。「公共をデザインする」。会議室の空気が変わる。「この製品ほど社会に馴染み、空気のように不可欠、けれども空気のように存在を意識されないものも他にないでしょう。それは一商品でありながら、すでに〈公共〉になっているともいえます」。「それだけこの製品は、完成されている。それをデザインする。それは社会を改革することに等しい。たいへんな仕事を、私は受けたと思っている。それを名誉だと思う。ぜひ正式に受けさせていただきたい」。
深澤さんが、アメリカで孤独な日々を送っていたころ、書店で見つけた一冊の日本語の本。それは高濱虚子の俳句論だったそうな。「己を空しくして写生に徹す、これだと思いました」。何が求められているのか、それだけを目を皿のようにして見つめ、考える。自己表現、自己主張、それがどんなにチッポケなものか。
シ○チハタの重役さんたち(パンチパーマ……おい、おい)、心なしか目が潤んでいるようにみえました。プレゼンで感動したのは初めてだそうな。深澤さんに握手を求める。
ところで、ハンコに窪みをつける、これ実はたいへんなことらしいですよ。常識ではそんな金型、まず不可能なんですって。でもシ○チハタ技術陣、一丸となって、必ずやり遂げてみせるそうな。そこまで真剣にさせた、デザインプラン。きっとまもなくその奇妙なカタチのハンコが現れ、すぐに空気のような存在になるのでしょう。

延々と何の話かって。公共の話、に決まっていますが。私がそのハシクレに連なっている。

12月17日
■何年も前の話ですが、浦安ディズニーランド(こういう言い方よろしくないね、すでにヒネクレておりますが)は、私には退屈でした。すみずみまで演出が行き届いた遊園地の極地。ゴミ一つない園内。マニュアルにどこまでも忠実な接遇。自動販売機もないのね。不快じゃないなら、ワルクチ書くなよ、ですが、ああ、やっぱり私はヒネクレているんだろうな、この遊園地のクライマックス、あのパレード。白雪姫と王子様はやっぱり外国人(白人)じゃないと、どうしようもないな、と思ったとたん、顔から火が出るような思いをしてしまった。金髪のカツラとドレスを召して、まわりで満面の笑みを浮かべてくるくる廻っているニッポン人。私の同胞……。
なんと昏い、薄ら寒いナショナリズム。自己嫌悪に陥るな。

その翌日の浅草の「花やしき」。私は、私の身体中のネジが緩んで、体内に溜まりかけていた悪しき液体が流れ出し、身も心も、だらしなくヌルく、ほどけていくのを実感。これこそニッポンの遊園地、ここが私の居るところ。人家に突っ込みそうなコースター。ほんとに出るんじゃないか、って噂もあったらしいオバケ屋敷。そして「ちびっこ観覧車」。全高6メートルで、これが日本最小の観覧車ではないかと。え、じゃ、わが小樽の、あれはどうなの。どっちが「勝ってる」の。

30年代って、確かに「ブーム」。得々と語る人がいます。なぜ、30年代か。現代人の荒んだ心を癒すノスタルジア、なんて。私が考えようとしているのは、ノスタルジアではなく遊園地の本質。遊びの本質なの。遊びは人工的な物。それはよく分かります。自然状態に遊びはない。けれども地上から高く離れれば、よりすぐれた遊園地なのか。生活をすっかりシャットアウトするのが理想的な遊園地か。TDL中毒というのがあるそうな。貧しい日常に戻ってくるたび、足がまた浦安に向かう。二度三度、月に一度、週一度。それがTDLドランカー。哀しいハッピー。

「文学には郷愁をそそるもの、云うにいわれぬ懐かしいものがなければあかん」「地上とは思い出ならずや」。あれ、何で急にイナガキ・タルホが出てくる。

もう3年ほども前になりますが、私、このHP上で、少し激しめの応酬いたしました。そのなかで、最近のウチが遊園地化しつつあるような、という言葉尻を(コトバジリではなくて、けっこう大事な部分だと思いましたので)とらえ、しつつあるような、ではなく、意志的に、しつつあるのだ、とお答えいたした。ただし、それはTDLを目指すものでは決してありません(目指しようがないけど……)。
こどもも、オトナも、高校生も、おジイさん、おバアさんも、少しだけ、でも、まちがいなく幸せになれる場所。思わず笑いはしても、決して昏くはなれぬ場所。そんな場所、どこにもなかったのか。
そんなことはない。そういう場所はある。そういうだいじな場所だ、ということが見えなくなりかかっているだけだ。うんと身近なところにも、そういう場所はある。でもうっかり見失っていると、ほんとのほんとに、その場所は、消失してしまうかも知れない。永遠に。

しつこく繰り返すようだけど、私は地方公務員だ。私が働くのは公共の場だ。その公共の場は、街のなかでどんな意味を持つのか。もちろん、ウチの話だけではないけど、その続きは、また来年!

12月14日
■さきほど、あがた森魚さんからお電話あり、山中恒さんの『サムライの子』を貸してほしい、とのご依頼でした。あがたさんは、小樽の入船小学校におられたころのことを追想し、担任のサトウケイコ先生との思い出などをテーマにしたアルバムもお作りになったのですが、もっとさまざまなことを思い出し、材料も集めてできれば映画の題材に、というような構想もあるらしい。

一昨夜のあがたさんのコンサート。10日くらいまえに急に話が決まったこともあって、お客様はやっぱり少なかったのですが、今までの(もう4回くらいはなさったか)文学館コンサートのなかでも、ひときわ胸に迫るものがありました。これは私だけではなく、コンサートどころか文学館に入ったのも初めて、というお客様のなかには、感極まりほぼ号泣、の方までおいでだったそうな。
だそうですよ、と、電話であがたさんに伝えたところ、「お客さんの絶対数は少なかったけれど、感動率が高かった、ということだね」と、さすがにうまいことをおっしゃる。
夢喫茶という会場も良かったのだろうけれど、あがたさんとドミニカという国をつないだ、喫茶店「カフェ・ミ・カーサ」のご主人のお話、それから、あがたさんの「作文」朗読。これは、サトウケイコ先生が、初めてあがたさんの家に、家庭訪問にいらしたときの思い出。少年の不安とときめき、てきぱき家事をなさるお母様の後ろ姿、初夏の風にゆれるカーテン、そして「ヤマガタ君のお宅でしょうか」と、美しい高い声、白いワンピース。そういった情景が鮮やかに浮かぶ朗読。
その朗読に続けて歌われた「山羊のミルクは獣くさいオイラの願いは照れくさい」という奇妙なタイトルの歌は、これもサトウケイコ先生との思い出。こどもたちを小樽の牧場に連れていき、絞り立ての山羊のミルクを皆に飲ませようとする先生、歩きながら「幸せはおいらの願い、仕事はとってもつらいけど」という「うたごえソング」?を音頭をとって合唱しようとする先生。おそらく早熟でナマイキだったに違いない、ヤマガタ少年が口をつぐみ、先生をにらむ、先生もヤマガタ少年が口を開くまでにらみつける。
若さと正義感、使命感が身体中から眩しいくらいに溢れるような、美しい先生。

あがたさんたち1970年半ばくらいにデビューしたシンガーソングライターは、何かひとからげにされてメッセージと四畳半ソング程度に大雑把なわけられかたされたりするのですが、あがたさんの詩の純度は際だってます。タイプまったく違うけど、三上寛さんと双璧かな。そして、こんど気がついたんだけど、あがたさんって「反戦歌」いちども歌ったことないんじゃないかしら。それもこの時代のシンガーとして、ひょっとしたら希有なこと。だからこそ、「山羊のミルクは獣くさいオイラの願いは照れくさい」という歌のなかに織り込まれた「幸せはおいらの願い、」というモロのメッセージソングが、真っ白に鮮やかに陽の光に反射する。
実際の佐藤先生は、2000年、小樽の病院でひっそりと息を引き取られたそうですが。

「イナガキ・タルホ銀河系遊覧記念あがた森魚2001年1001秒展望展」という、ながーいタイトルの展覧会をやったとき初めて会ったあがたさんは、小樽にそんなに思い入れないようにみえました。あがたさんといえば、函館ラサール。確かに、あがたさんのイメージに「小樽」は乏しい。けれども一度、二度、この文学館で歌うことを繰り返されるたびに、あがたさんの記憶は鮮やかさをとりもどし、そのエッジから新しい小樽の記憶が始まろうとしている。そんな印象つよくした一昨夜のミニライブでした。

「年明けたら、またちょくちょく訪ねることになると思いますよ」。え、そんなに早く?

12月11日
■今夜は、「ハンパねー」(by 田臥勇太)寒さでしたが、SGKコンサート「In the secret naight」、ごく少量だけれど最高級のココアをいただいた感じかな。顔見あわせて、思わず笑ってしまうような贅沢な幸せ。まいどまいど、このゼイタクをもっとたくさんの人と分かち合いたいのだけれど、すべて当方の力不足。各方面に申しわけない。
大急ぎで、明日(あれ、書いているうちに日付変わってしまった……)、hairballs ningensei.「WATER BALLS」FASHION SHOW
今日の「学よも」(何なんだ、いったい)偶然眼に触れた方、超ラッキー。ぜひ来てください。ほんのちょっとだけ気の早い、小樽文学館からのクリスマス・プレゼント。こっちは、もっとキラクな心地よさ。わずか300円で、(ドミニカ!)コーヒーとビスケット付き。+1500円で、飛び入り、あがた森魚さんのミニ・ライブまで(怒んないよね、あがたさん)オマケします。おいでになるしか、ありませんが。

12月10日
■浦沢直樹氏の「MONSTER」18巻を、レンタル・コミックで読了したのですが、おかげで少々寝不足。深夜まで読みふけっていたわけではなく、三泊四日の返却日まで一日余裕を残して6冊読み切っていたのだけれど、娘に私の読み違いを指摘され、遡りながら読みなおしていくうち、「この世の涯の風景」に私も取り憑かれてしまったのかも。眼が冴えてしまった。
浦沢氏、恐るべし。保守正統、恐るべし。この人、自ら語っておられるように「天才とは読者を意識しない作家」であり、浦沢氏は、水木しげるや松本大洋のごとき天才ではない。けれども自分が学び切ったマンガの技術、マンガの文法を信じ、水も漏らさぬ構成で、本来天才しか描き得ないものをとらえる、というたいへんな野望を果たした作品。
私のアタマのなかを遊泳しはじめたのは、テレビに写った霧雨に煙る「第七サティアン」と称するプレハブだったり、「懲役13年」と題された作文だったり、「バモイドオキ神」「アングリ」という何度聴いても見ても、初めて眼にするような響きのコトバや絵だったり。

やめよ。私の能力も、今の気力も、そこまではムリだ。小さいながら宮澤賢治だとか永山則夫だとか中城ふみ子だとか中井英夫の展示作ろうとするなら、もういちど其処まで考えなければならないのだろうけど。怖い。

12月7日
■今朝の新聞のコラムに昨今のプロ野球をめぐる話が書かれておりました。
メディアを眺めわたせば、プロ野球の人気凋落という言葉が氾濫している風であるが、ほんとにそうか、という話。確かにね、少なくとも北海道はファイターズでけっこう盛り上がっています。これは今年の正月特番だったか「クイズ・ミリオネア」にゲスト出演した新庄剛志さんが、鉛筆転がして決めたファイナル・アンサーで1000万円ゲットしてしまった「神懸かり」の勢いを、シーズン終了まで持っていってしまった、のかどうかは知りませんが、とにもかくにも人間も街も明るいのは何よりだ。
コラムの筆者にいわせれば、確かに凋落しているのはジャイアンツ人気であって、それをプロ野球全体の人気凋落と決めつけるのこそ、マスメディア(経営母体はともかくも、ライバルであるはずのメディアさえ媚びているとしかみえない風潮、確かにありました)および球団自身が、いかにジャイアンツ(人気)に依存しきっていたかという証左なり。そしてその依存体質こそがニッポンプロ野球界を深く侵している病の根源なのだ、ということですが、同感。もっとも私何の知識も持っておりませんけれど。
ニッポンの夏、ランニングにステテコで、ビールに枝豆。寝そべりながらテレビでナイター。日本シリーズ9連覇(でしたっけ)のジャイアンツ。まず安心して応援できる。ヌルい幸福、それをもちろん批判はしません。ジャイアンツと水戸黄門のファンは、みな善人、というのは、確か山口瞳説。これも同感、私の知ってる範囲でも、ジャイアンツファン、みないい人。
私のこどもの頃は「巨人、大鵬、卵焼き」などという言葉が、まだ現役だった(貧しきかな、ニッポン)。近鉄(弱かったから)、若羽黒(人気なかったから)のファンだと言い張るような、私のようなこどもが友達多いわけはない。教師に好まれるわけはない。この児童、人格に問題ありね。
話大幅にそれてった。コラムの筆者はジャイアンツ凋落=プロ野球凋落では決してなかろう、といい、さらにこう述べておられる。「楽観は意志であり、悲観は雰囲気である」。これ、何かの引用なのかなあ。名文句ですねえ。
また思い出す、ポジティブ・バカ。ポジティブ・バカの権化のような詩人・小熊秀雄。

現実の砥石

君よ、早く材木屋に
行つてきてくれ
何しに、材木を買ひにさ、
それで座敷牢を建てるんだ
誰のために
君が入るためにではない
自由といふ我儘者が入るためにだ
執念ぶかい貧乏と
たたかひながら生活してゐると
自由の騎士は気が益々荒くなる、
飯は喰へず
いたづらに詩が出来るばかりだ
私の野放図な馬鹿笑ひは
肥えた方々の機嫌を損ずる
現実は砥石さ、
反逆心は研がれるばかりさ、
かゝる社会の
かゝる状態に於ける
かゝる階級は
総じて長生きをしたがるものだ、
始末にをへない存在は
自由の意志だ、
手を切られたら足で書かうさ
足を切られたら口で書かうさ
口をふさがれたら
尻の穴で歌はうよ。

私、これを長い間、悲壮な詩だ、と思いこんでた。稀に外国のお客様が見え、私は英語などできないから(キッパリ)、通訳の方がついてくださるときに限るのだけれど、常設の小熊秀雄を紹介し、この詩のラストの6行を通訳していただく。そうすると、外国の人、必ず大笑いするのね。私は、ここで笑うなよ、と内心思ってた、長いこと。
でも今は違います。大笑い、こそ正解だ。時代も国境も軽々と越えて、大笑いされるからこそ、小熊秀雄は真のプロレタリア詩人なのね。プロ野球から、ムリヤリだな。

12月5日
■新潮社から刊行された小説?『電車男』。これは、ブンガク史上、特記される「事件」といっていいでしょう。ブンガクはどこにあるか。「作家」の脳髄か舌先か掌か、原稿用紙か青インクか、パソコンワープロファイルかディスクか、インターネットウェブサイトか。
文学館においでのお客様にも、あるいは文学館関係者のなかにさえ、「作家がみなワープロやパソコンを使うようになったら、文学館も困りますねえ」などというジョーク(と御本人だけが思っている)を発する方が、いまだに、おいでになります。まあねえ、これは強いていうならブラックジョーク(そんな高等なものではないが)であり、その方は「文学館」という存在そのものが無意味、と(恐らくは)無意識に発言されているのですね。
「文学館」無意味論はおいといて、ブンガクは無論作家の脳髄だの原稿用紙だのに御座っているわけではない。一言でいえば、それは読者のまなかい(耳でも鼻でも皮膚でもいいのですが)にある。発するものと受けとるもの、その「関係」のうえに、ブンガクは心細く立ち竦んでいる、といっても良いかも。
インターネットを「手段」とした作品は、いやというほどガイシュツ(「既出」を2ちゃんねる語でこのようにいうらしい)です。ただ介在する錆び付いた夾雑物を、これほどきれいに取り除いた「作品」は、初めて。それだけでも「事件」。料理でいえば「サシミ」の発明のようなものか。ただし「サシミ」がナマ魚とは次元を異にする、立派な「料理」であるように、単行本『電車男』と2ちゃんねるのスレッドそのものとは別次元。サシミに介在するのは板前さんの包丁さばき。『電車男』に介在するのは、まとめサイトの管理人(これの場合は「中の人」?)、担当編集者、デスク男、営業男、宣伝男、装幀男、組版男、赤ペン男(女でもいいんだけど、これは新潮社の広告サイトでの表現。後でいいますが、このサイト自体、私がここで書いていることなどは、十分自覚してやっている、すなわち「確信犯」であること、よく伝えております)。
単行本『電車男』の手柄は何か。それはおおかた深夜から早朝にかけて、青白く発光するモニターの前、に限定されていたリアルタイムの「祭り」(これも2ちゃんねる語?)を、精巧なレプリカとしてではあるけれど、白昼の「フツウの人々」(語弊があるわね。だからカッコ書き)に解放したことだ。この事実の前には、内容二の次。内容あってなし得た「手柄」ではありますが。
この「事件」については、当の2ちゃんねる(おもしろいことに、「板」によってニュアンスは異なるものの概ね「不評」)はじめ、さまざまな掲示板、ブログ、その他に飛び交っておりますが、私がいちばん面白く、かつ納得したのは、さきほどの新潮社、すなわち当事者の広告サイト。むろん広告サイトだから、手前ミソではありますが、何しろ「確信犯」だからね、説得力があります。とくに「赤ペン男さん」の述懐は、はからずも(と見せかけているとしたら、それもすごいことですが)この「事件」の本質を突いている。
逆に、これはひどい、と思ってしまったのは、ある大新聞のさる著名作家の「書評」。もうネット上にも乗っかっていますし、明記してもいっこう構わないのでしょうが、私は、これは読むべきではない「書評」だと思う。ということは、載せるべきではない、そもそも書くべきではない「書評」だった。それは内容以前のことであり、つまりこの「書評」は、重大なルール違反をしている。そのルール違反は、ここに述べた単行本『電車男』の持つ事件性そのものをないがしろにするものです。意図的にせよそうでないにせよ、書評者がないがしろにしてしまったのは、御本人と書評掲載紙の品性ですから。残念!!(ギター侍持ってくるつもりはなかったのですが、すみません……)。