よもやま日記

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文責/市立小樽文学館・玉川薫
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■8月31日
きのう書いたようなことは、美術館の学芸員の折角の努力をないがしろにするようなことでありますが、それは本意ではありませんで、おもわずたじろぐような気合い入った企画に出会うこともある。作品以上に企画に感嘆するようなね。

同じく東京国立近代美術館で特別展「モダン・パラダイス」を見終わり、常設展示を見終わり、これで全部見終わったのかしら、あれ最後の部屋で何か小さな企画が、って見逃して帰りかねない「Body in Pieces ばらばらになった身体」。

思わず笑みがこぼれるほど自信に満ちた構成。エッジの立ったキャプション。個々の作品に対する常識的な世間の見方、はもとより、作者の意図、さえ黙殺。作品を企画に従属させる、という意志をこれだけあからさまに示されれば、いっそ爽快。
そのキャプションは、例えばこんなのです。

頭部─
……とりわけ表情のこもる目、言葉を発する口など、人格を担う部分が集まる頭部は、まるで愛する人のもっとも重要な部分を手の中に納め、二度と失われることのないよう完全に所有したい、という欲求を表すかのように、身体のほかの部分から切り離されたかたちで、くりかえし表現されてきました。表現することによってわたしたちは、愛する人の不在という、死を思わせる恐怖の経験を克服するとも言えるでしょう。またこれは、恐ろしい死を生命へと転化するため、人の頭部を喰い、その生命力を自分のうちに取り込んだ、人類の古い儀礼─首狩りの記憶に通じる表現形式なのかも知れません。目を閉じて、無力に転がるボールのような丸い頭部に、わたしたちの心はなにかしらざわめきを覚えます。

このコーナーに展示される作品は、マルクス・リュベルツ《ヘラの頭部》。この作品はもとより、作者についても私何にも知らない。でも異様に質量感のある《頭部》が、文字どおり「ごろりと」転がっております。「ざわめきを覚え」るどころじゃないですね。社会が、できれば意識の闇の底に押し込めたかったような「事件の記憶」を呼び起こす。伊藤整が控えめに、しかしきっぱりと申した如く、芸術は本質的に秩序と相容れない。本質的に反社会的だ。
その次に学芸員が展示したのが「佐伯祐三ライフマスク」。もう間違いない、これは「確信犯」です。

こういう「美術展」に出会うと、私は市立小樽文学館所蔵岡本唐貴作「同志小林多喜二の死面」や、「デスマスク」さえ、今のウチとは「別の語りよう」があるのではないか、別の、また別の語り方がなされるべきなのではあるまいか、と思ってしまうのですね。

そして、「手」、「トルソ」、最後の、「ばらばらになる身体」、まで「学芸員の語り」は、すべての作品、作品のすべて、作品のある空間のすべてをその統御下に置いたのでありました。

……身体を切る、という観るものの感覚に直接的に響く主題を描いているのに、これらの人間たちは、画面の中の照明器具や洗面器といったモノと同様の、感情移入しにくい存在です。彼らは浴室内にはっきりした理由もなく引き起こされる変化に、ただたんたんとしたがっているように見えます。

こんな、学芸員の顔立ちがくっきり表れるような企画に出会うと、一言声を掛けて帰りたくなるのですが、カウンターにおいでなのはその方ではあるまいな。

■8月30日
絵ぐらい虚心坦懐に眺めたいと思いますが、それもなかなか難しい。絵は「おなじみの美術館」という場で、「何とか展」という文脈で「見せられる」ことが多いからですね。
それでよく言われることでもありますが、私もまた、まず「何とか展」というタイトルを忘れ、「ご挨拶」などはもちろん読まず、年表は後で必要なら読むことにし、会場全体に眼を走らせて、とりあえず眼を止めさせた絵に向かって走っていきます(走らなくてもいいけれど)。
さらに画題も見ず、できれば作者の名前も眼に入れないようにしたい(難しいけど)。こうしてみると、いかに美術館、美術展が絵を眺めるのを邪魔しているかよく分かる。

こないだ東京国立近代美術館で、「モダン・パラダイス」という展覧会を見てきたのですが、これは実にあっさりしたコンセプトの美術展なので、安心して絵に「出会う」ことができました。つまり国立近代美術館と大原美術館の代表的な収蔵作品を一堂に会したものだから、企画展というより両館の常設展示を交通費、時間、その他を節約して楽しめる、たいへんお得な催しなわけです。モダン・パラダイスというタイトルも、意味不明でよろしいね。

そんな調子でのんびり見ていたら、永年思い焦がれていた絵にいきなり出くわして泡を食いました。それは中学校の美術の教科書で、爪の先くらいの写真だったのですが、その異様さはページをめくる手を止めるのを後ろめたく感じさせるほどだった。それ以来、ずっと特別のなかの特別な絵。
その後、作者や、その絵がどんなふうに描かれたとかの話はずいぶん読んだり聞いたりしてしまったので、もう虚心坦懐に眺めることはできなくなっておりましたが、その「信仰の悲しみ」(関根正二)の前で客の流れにお構いなく20分以上足を止め、行き過ぎ、また戻り。
まったく予期しておりませんでしたから(考えてみれば大原美術館きっての名品だから出てて当然だったんだけど)、幸福な「再会」。

でもね、中学生のときのあのトキメキは。行きつ戻りつしてたのは、あの全身が熱くなるような感覚をもういちど、だったのだけど、それはやっぱり無理でありました。思い返してみれば、あのちっぽけな写真の衝撃は、画家が確かに見たという幻視、重苦しく曇った午後、日比谷公園の公衆便所から突然現れた女性の一群、うつむき無表情で手に花や果物を捧げ、この世ならぬ悲しみにうちひしがれた人たちを目撃した衝撃と限りなく近かった。間違いなく、そう思う。画家はこの幻視を19歳で体験し急いで絵に描き上げ、20歳で死んだ。そういうタグイの絵を見切るのには年齢制限があるんだろう、きっと。絵は若いうちに見ておけ、とはこのことだったんですね。

■8月21日
暑い。苫駒の決勝試合である。

それはさておき(え?)。きょうは製本教室の日。わざとそうしてるわけじゃないが私の休みの日になること多し。だから今日も出てきております。JJ's Cafe には人影なし。暑いからかな。
「カフェコーナーに見知らぬ人がいると落ち着かないようなお客さんもいますね」と小路君。それじゃ私もいないほうがいいのかなあ。リピーターさんだったら、私がいようといまいとお構いなしだけどね。

「古本コーナーはすっかり定着しましたね。みんなゆっくりしているみたい」。あっちの方が、さきに落ちついたね。

古本コーナーに週一回ぐらいのリピーターがおられます。私は名前を知らない。小路君も名前を知らないけど「ハゲのオジサン」と言っている。失礼かもしれませんが、週一回ぐらい古本コーナーに来られる、ということ以外、私も小路君もオジサンについて何も知らないのですから、失礼でもないのかな。
小路君がそのオジサンについて語るのです。「あのオジサンは古本の棚が変わり映えしなかったらすぐに帰ります」「『新しい古本』が入っていて、それもきれいに整理されているとゆっくりしていきますね」「変わり映えしない上に、乱雑になっていると気落ちしたように見えます」。
私は驚いた。じゃ、あのオジサンの表情で「古本コーナー」がうまく回転しているかどうかわかるってこと?「そう」。

そうか、リピーターひとりひとりの表情に、ウチが良い状態なのかそうじゃないのか表れるということだね。「だからJJ's Cafe のカウンターってとてもいい場所だと思います。そこからは古本コーナーの場所が見えますが、古本コーナーからはカウンターが気にならない」「サトウさんが作ったこの仕切りもとても良くできていますね」。
そうか!この格子状の仕切りね。つい何か飾りたくなる格子。でもサトウ君は言いました。「ここには決して物を置かないでください」。なるほど、きょう初めてその理由が分かった。ここに物が飾られたら古本コーナーが見えないじゃないか!

そこで再確認。JJ's Cafe のデザインは小樽文学館の未来を先取りしている。デザインは文学館に出入りする人たちを適切に配置し、幸福にする。そして最後にコトバがやってくる。
もひとつ、ぶれないデザインが、コトバの自由を保証する。もひとつ、自由なボランティア精神がデザインの意味を発見する。

ということで、今後も安心して、「格子には物を置かない」ことにいたしました。
(写真は、JJ's Cafe カウンターから古本コーナーを見たところ)

■8月12日
今年は暑い夏です。去年、まして一昨年が暑い夏だったか冷夏だったか、もうすっかり忘れておりますが。
館内は32度くらいなのかな。そこで「大人のための読み聞かせ 名作の時間」の第二回目。お盆でお墓参りで皆さんご多忙。それでもお客様、38人。たいしたものじゃありませんか。
50歳代以上のご婦人方が大半かな。皆さん、いっせいに扇子をお使いになる。文学館特製ヲタブンマーク入りのウチワをお使いになる方、おいでにならない。
「暑いわねえ」という声がそこかしこから。扇風機4台フル稼働なのですが。
本日のプログラムは、向田邦子「霊長類ヒト科動物図鑑」から4編、朗読・加藤瑠璃子さん。小泉八雲「怪談」からやはり4編、朗読・大塚稜子さん。
私、冒頭に朗読に耳を傾けられれば、必ず汗は引きます、と申し上げたのですが、どうでしょう。
私も、会場からちょっと離れた場所で耳を傾けました。タイトルは何も覚えていないのですが、向田邦子さんの、幼い頃の台風の思い出。風が次第に強まる学校帰り、友達の髪が逆立つようすとか、父親の忙しい様子とか、今夜のおかずは鮭缶、牛缶だとか。風の音、雨の音が気持ちを高ぶらせる感じとか。耳傾ければ、40数年前のこと目に浮かび、耳に聞こえてきます。
会場の暑さは、暑さでね。あまり気にならなくなる。お客様の扇子のチラチラもほとんど目に入りません。
そうすると暑さの中にも、ふっと風を感じ出すのね。それが辛うじて何枚か開く窓から入ってくるのか、扇風機の風なのか、よく分からないけど。冷房のない、どころか風通しほとんどない文学館内にも風立ちぬ、秋の気配を感じたのは私だけ?

大塚稜子さん、今回は小泉八雲。「幽霊滝」「因果ばなし」などは、八雲怪談のなかでも読み手、聴き手を確実に恐怖させるのですが、少し離れたところで私がおののいたのは第一話、知らなかったな。この短い話。
次の日、喜久屋書店で岩波文庫の『新編日本の怪談』求め、やっと分かりました。
以下、その全文。

子捨ての話

昔、出雲の国の持田浦という村に、ひとりの百姓が住んでいました。男はひどく貧しかったので、子どもなど持てるものではないと思っていました。
女房に赤ん坊が生まれると、そのたびに川に流し、村人の前では死んで生まれたと言いつくろっていました。赤ん坊は男の子のこともあり、女の子のこともありましたが、生まれてくればかならず、夜のうちに川に捨てられました。
こうして、六人の子どもが殺されました。
しかし、年月が経つにつれて男の暮らし向きも豊かになっていきました。田畑を買い、いくらか蓄えもできました。そのころ、女房が七人目の子を産みました。男の子でした。
男は言いました。「ようやくわしらも、子どものひとりくらいは養えるようになった。わしらが年をとった時に、面倒を見てくれる息子がいるでな。この子はずいぶんと器量がええことだから、ひとつ、育ててみることにするか」
子どもは日に日に大きくなっていきました。男はしだいにそれまでの自分の料簡が嘘のように思えてきました。わが子の可愛さが、日ましにしみじみと感じられるようになってきたのです。
夏のある夜、男はその赤ん坊を抱いて庭に出てみました。子供は生まれて五月(いつつき)になっていました。
その夜は大きな月が出て、いかにも美しい晩でしたので、男は思わず大きな声で言いました。
「ああ、今夜はめずらしいええ夜だ」
その時、赤ん坊が男をじっと見上げて、まるで大人のような口を利きました。
「お父っつぁん、あんたがしまいにわたしを捨てなすった時も、今夜のように月のきれいな晩だったね」
そう言うと、赤ん坊はごくあたりまえの赤ん坊らしい顔つきに戻って、それきり何も言いませんでした。

百姓は僧になりました。

漱石の「夢十夜」みたい。終いから4行目、全身総毛立ちます。これこそ、八雲怪談の神髄ですね。

■8月6日
今朝、ウチワの骨が200本届きました。ミドルサイズということですが、思ったより小さいな。「いいですよ、このサイズで。このままバッグに入りますし」。なるほど、小さめのカバンでも入るサイズですね。いいかも、いつでもどこでもバッグからさっと取り出す小樽文学館(文學舎)オリジナル・ミドルサイズうちわ。

これの裏表に貼るのは小樽文學舎キャラクター、ヲタブン君をプリントした紙ですが、裏はちゃんとヲタブンの後ろ姿になっております。これで一枚50円(お志あれば、ということで)。

いつも以上に人手の少ない日曜日、今日の仕事はサイズを変えながらウチワの紙をプリントすることで終わってしまいそう。

ウチワのプリントするのが学芸員として大事な仕事なのかどうか分かりませんが、現実問題として今日の館内は最高34度。ウチワは館内で使う分には無料であります。そのウチワ、在庫がなくなりそうになっていれば、作るしかありません。当然、特別展の準備のさらに前段階、資料読み込み作業などに優先してしまうのだけど、やっぱりこれ重要。

午後2時からはボランティアさんの集まり「暇人クラブ」。とりあえず手元にあった用紙でプリントしたのはウチワ10枚分!「こういうのでもボランティアっぽいですね。一人でやってると暗くなりそうだけど」。そうね、夏らしいボランティア。燃える太陽に向かってウチワ作りでゴーです。何のことやら。

■8月5日
今月の製本教室は「和綴じ」を作ることにしています。先月、まだ半ヨレの状態で次回の予定を聞かれ、ボリュームのあるものは辛いな、と思いましたので、急遽、「和本」に。
「和本」は見た目難しそうですが、これまで二度ほど作り綺麗に仕上げられました。
それで私の側からいえば、中味の量が少なくても格好がつく。その中味ですが、「和本」にふさわしいのは何だろう。
短歌とか俳句は和本に馴染みますが、文章はどうでしょう。古典はぴったりでしょうが、現代語訳文つかないと、私に意味聞かれてもわからない。
うーん、樋口一葉あたりかなあ。もっと短いものないかしら。

そういえば、「名作の時間」の第2回目、8月12日のプログラムは向田邦子と小泉八雲だ。
小泉八雲の朗読は、怪談朗読の名手、大塚稜子さん。何をお読みになるか分からないのだけど、そしたら製本教室も小泉八雲でいきましょう。

小泉八雲の怪談、どれもこれも怖いですねえ。そのなかでも私のベスト。それは「茶碗の中」。
小樽出身の映画監督小林正樹氏も感じるところあったようで、映画「怪談」にとりあげた4話の最後にこれを入れた。映画はなかなかの傑作だったと思いますが、「茶碗の中」は原作の「中途半端」ではいくら何でも怖さを伝えることは難しいと思ったんでしょうね、一歩踏み込んでしまった。
その結果、うーん、怖さ原作の半分以下になってしまいました。八雲自身が冒頭で書いているように、この話の怖さは「中途半端」にあります。もっと短く、主人公がお茶を飲み干すところで終わっても十分、いや考えようではもっと怖かったかも知れません。いくら何でもそれじゃ短編にもならないか。

製本教室の和本、「茶碗の中」一編ではちょっと足りないのでもう一編。

これは誰もが知ってる「むじな」。英語の原作(「怪談」って原文英語なんですね)は中学校の教科書に載っていたような。
これの怖さは二段落ち、ってずっと思ってたんですが、読みなおしてみるとこの短い作品、タイトルから最後まで一字一句全部怖い。
「むじな」って、昔はちょっとユーモラスでのどかな感じで、怖さを薄めてるって思ってました。「むじな」ってどういうものか知ってましたから。
でも、あらためて「むじな」って、なあに? そこから始まると、この話、もっと怖くなる。「むじな」を知らなければもちろんのこと、知ってるつもりでも、この話、ほんとにあの「むじな」のこと?ちょっと違うんじゃない?と考えると背中に寒気が走ります。

ほんとに短い作品だから、読んだことのない人、ぜひご一読。