よもやま日記

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文責/市立小樽文学館・玉川薫
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■10月28日
昨日の亀井館長の講座「近代文学のなかの源実朝」。

亀井秀雄氏の話はもちろんおもしろいのですが、ひとつ私を悩ませるところがある。
マイク、であります。亀井氏は姿勢が良すぎて口元がマイクからどうしても遠くなる。マイクスタンドの柄を伸ばして無理矢理ちかづけるのも鬱陶しかろうと、だいぶまえにピンマイクを買いました。
これも胸ポケットに電池ボックス入れてスイッチ入れたり切ったり、マイク襟につけてみたり、ネクタイにつけてみたり、鬱陶しさ変わらず。話始まってしまえば、たしかに軽快ですが。
その後、山中恒さんの講演や、啄木コンサートの朗読など経験した結果、ワイヤードマイクでもアンプのボリュームを限界まで上げれば、多少顔を離しても十分声を拾えることが判明。
そこで昨日はピンマイクをやめてワイヤードマイク復活。

館長が着席し話が始まる直前、「タマガワさん、チョークありませんか」。?、板書されることは、ほとんどないのだが。
演台の下にボール箱一杯のチョーク発見。亀井館長、箱ごと机のうえにボンと置く。あの、そんなにたくさんお使いにならないのでは。「あ、そうですね」と平然たるものです。
ここで、ちょっと悪い予感よぎった。

講座、講演のスタイルは人によって様々ですが、亀井館長は一貫して、テーブルを前に椅子に腰かけ、手元に資料を置いて話します。
これはやや伝説めいた話ですが、大学教師時代、亀井秀雄氏の講義は基本的にノートを読み上げるスタイルであり、そのやや古めかしい講義方法について学生が疑問を呈したところ、「講義において私が発する言葉のすべてに私は責任を持つつもりでここに立っている。ここでアドリブめいたことを口にするつもりはありません」と答えられたそうな。もちろんノートは講義の前夜までに毎回完璧に仕上げて臨まれるわけです。
これは若い頃のお話だと思われ、文学館での講座はむろんずっとカッタツ。だいたい、にこやかに、機嫌よく語ってくださいます。それでもテーブルを前に、ほとんど立ちあがることのないスタイルには変化なし。

しかし、昨日は立ちあがられました。考えてみれば、源実朝、確かに時代背景、頼朝以来の家系から説明の必要あり、どうしても板書は必要。
それにしても板書がおわっても、館長座らず。わぁ、ピンマイクにしておけばよかった。

マイクは失敗だったのですが、講義は目を見張った。チョークを片手に、じつに生き生きと、実朝に「惚れ込んだ」人々、坪内逍遙、大佛次郎、太宰治、斎藤茂吉、正岡子規、小林秀雄、吉本隆明らについて語ってくれました。こうした形容は亀井秀雄氏の講義振りに相応しくはないのだけれど、躍動感さえ感じられ、聴き見ているほうがちょっと高ぶってくるほど。
これも変ですが、亀井氏20代の高校教師時代を髣髴させるような(全然知らないけれど)。

つまりは好きなんですね(急いでつけ加えますが、この人は「好き」とか「嫌い」という形容語を一切口にしません)。源実朝が。そして実朝に惚れ込んだ人たちが。
亀井秀雄氏は、小林秀雄や吉本隆明に厳しい批判をあびせた人ですが、むろん彼らの卓越した目を評価した上でのこと。

なかでも大佛次郎の実朝観を高く評価するところが、やっぱり亀井氏らしい。すぐれた実朝論が出そろうのは奇しくも昭和18年、そしてそれが後日意味ありげに(むろん意味はあるのだけれど、それが過剰に)語られるのですが、大佛次郎の文体は戦中であろうとなかろうと、まったくブレを感じさせない。

箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよる見ゆ

(中略)「箱根路をわれ越えくれば」という大きな物の言いようも、並ならばふやけて実感が失せ去るものを、ここでは弛みなく言い切って確と、広く明るい展望の中へ人を立たせた。視野は忽然として展け、奥行きも加わった。こういう大きな空間は、古今新古今の歌には見当たらなかったのである。しかもこの空間は緊密に充実している。空気の粒子がふやけても褪せてもいない。実朝は、単純に自分の流儀で無造作にそう詠んだというだけであった。(大佛次郎『源実朝』)

この人たち(亀井氏も含めた)の実朝に寄せる思いに比べれば、私の実朝理解など、ちょっといいなあ、でも深く関わらないでおこうっと、ケガするのいやだから、と、どこまでも中途半端の自己保身。

でも太宰治の描き出す実朝(自己を虚無に放擲したような文体の危うさを、亀井氏はちょっぴり指摘していましたが)の何と魅力的なこと。

私の親しく拝しました将軍家は、決してそんな深い秘密のたくらみなどなさるお方ではなく、まつりごとの決裁に於いても、お歌をさらさらお作りなさる時の御態度と同様に、その場の気配から察してとどこほる事なく右あるいは左とおきめになつて、まさにそれこそ霊感といふものでございませうか、みぢんも理窟らしいものが無く、本当に、よろづに、さらりとしたものでございました。ただ、あかるさをお求めになるお心だけは非常なもので、

 平家ハ、アカルイ。

 ともおつしやつて、軍物語の「さる程に大波羅には、五条橋を毀ち寄せ、掻楯に掻いて待つ所に、源氏即ち押し寄せて、鬨を咄と作りければ、清盛、鯢波に驚いて物具せられけるが、冑を取つて逆様に著給へば、侍共『おん冑逆様に候ふ』と申せば、臆してや見ゆらんと思はれければ『主上渡らせ給へば、敵の方へ向はば、君をうしろになしまゐらせんが恐なる間、逆様には著るぞかし、心すべき事にこそ』と宣ふ」といふ所謂「忠義かぶり」の一節などは、お傍の人に繰返し繰返し音読せさせ、御自身はそれをお聞きになられてそれは楽しさうに微笑んで居られました。また平家琵琶をもお好みになられ、しばしば琵琶法師をお召しになり、壇浦合戦など最もお気にいりの御様子で、「新中納言知盛卿、小船に乗つて、急ぎ御所の御船へ参らせ給ひて『世の中は今はかくと覚え候ふ。見苦しき者どもをば皆海へ入れて、船の掃除召され候へ』とて、掃いたり、拭うたり、塵拾ひ、艫舳に走り廻つて手づから掃除し給ひけり。女房達『やや中納言殿、軍のさまは如何にや、如何に』と問ひ給へば『只今珍らしき吾妻男をこそ、御覧ぜられ候はんずらめ』とて、からからと笑はれければ」などといふところでも、やはり白いお歯をちらと覗かせてお笑ひになり、

 アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。

 と誰にともなくひとりごとをおつしやつて居られた事もございました。

 ほ、惚れるよね。モーツァルトのピアノコンチェルトみたいだ。
 
 というわけで、私は久方ぶりに学生時代のごとき(いや違うな、講義でときめいたことなんか記憶にないダメ学生でした)高ぶりを覚えたのであります。
 
 また蛇足であり、前にも書いたように思いますが、私は北大文学部のころ、亀井秀雄助教授(当時)の学生ではありませんでした。噂に高い講義を一度だけ聴き、つくづく感心したのですが、「こりゃだめだ。近現代文学なんてよっぽど頭が良いか、よっぽど(恥じらい知らぬほど)鈍いか、じゃなけりゃ堪ったもんじゃない」ということで、ひたすら索引作りの作業に徹する国語学(訓詁学?)へ。
 もっとも間違って近現代やってたら、この年齢になっての幸福な(「文学」との)出会いは望めなかったかも知れないな。

■10月27日
昨夜の小樽商科大学「一日教授会」。今回の趣旨は、学生さん主体の地域おこしの試みということで、3組の発表。

今朝の新聞にレポート記事がありました。記事は簡単だったけれど、学生さんの発表に、厳しい批評もあり、これに対し学生も反論、「教授会らしい」応酬となった、とありました。そうですねー、そこ、ツボだ(「教授会」のイメージの、大学と世間のズレは別にして)。
ただしこの「応酬」があったのは、冒頭発表の佐藤亜美さん「小樽の餅屋」の調査研究について、のみでありまして、「批評」をなさったのは同校元教授、らしいのですが、絵に描いたような旧態依然。それに対して佐藤亜美さん、どこまでも折り目正しく、けれども確かに毅然たる「反論」しておりました。

だいたい、元教授氏、佐藤さんの発表と資料をよく理解していない。理解しようとしていない。
人のことは言えないので、実は私も引っかかりそうになったんだけど、佐藤さんの発表のなかの「小樽は北海道において有数の米の産地であった」というところ。実は、ここ非常に重要。
もいちど佐藤さん手製の報告書(『小樽のお餅屋さんご案内地図』)を、ちゃんと読んでみましょう。

そもそもお餅屋さんがその土地にできるには、「高いお米」、すなわち「餅米」を使用するため、流通を支えるだけの経済力があるかどうか、また(餅米を含む)お米の流通ルートをもっているかどうか、この二つの要素を満たしていることが必要であった。その点、当時、港町として栄え本州からの船が定期的に出入りし、景気がよく、人口も増えつつあった小樽は、お餅屋さんができる要素を満たしていると言えた。
本州からお米を国内輸入できた(お米の流通ルートがあった)小樽は、北海道において、「お米の産地」であった。北海道はもともとお米がとれない土地であったため、お米は本州から海を渡ってくるものだった。そのため、当時、本州におけるお米の産地・お米を酒などに加工する農業の多い土地は、「良い田んぼがたくさんある地」であった。一方北海道では「本州からのお米が荷揚げされる港町」がお米の「産地」であり、酒や餅などの生産地であった。

つまり、当時の「有数の米の産地」の実質的定義が、本州では文字どおり「良い田んぼがたくさんある地」であったが、北海道では「本州からのお米が荷揚げされる港町」すなわち、まさに、小樽であった。
私は目からウロコが落ちました。

佐藤さんの強みは、こういうことを文献から導き出したのではなくて、そのフィールドワークを「私は餅が大好きだ。小樽にはなぜか餅屋がたくさんある。いろんなお店の餅を食べてみたい」という身体的欲望が支えているところであります。

「一日教授会」は、全体として、小樽の観光の質をどう改めていくべきか、という問題意識でまとめようとされておりました。本来のテーマだったはずの、学生がどんなふうに主体的に「街にかかわろう」としているか、それをどう発展させていくか、やや尻窄み。

佐藤亜美さんの発表は「観光の質の改善」などという漠然とした問題意識から遠い。旧教授がいいつのる「個々の店の経営分析」「将来への展望をひらくための方法論」といった「本学生らしい」使命感も乏しかろう。
でも「小樽の餅は美味い」という〈出会いと確信〉が、佐藤さんをして現存する二十数軒の餅屋を訪ねさせ、そこで「餅屋の歴史」を知り、消えた七十数軒を(インタビューと乏しい文献を探し)復活させる〈小樽の餅屋100軒案内プロジェクト〉に向かわせようとしている。

もいちど佐藤さんの『ご案内地図』をみてみましょう。現存する餅屋さん、おおむね港湾に沿ってはいますがかなり広範囲に広がっています。少なくとも一泊はしないと回り切れませんねー。
「餅屋ツアーをやりましょう」と短絡するつもりはないけど、「堺町で買い物・寿司屋通りで食事・運河で記念写真」の「3時間観光」を改善するために大規模イベントやアミューズメント施設、なんてカビの生えた「提案」より、この一枚の地図のほうがよっぽど未来への希望を呼び覚まさせてくれますが。

蛇足だけれど、佐藤亜美さん、このレポート提出時大学1年、18歳!? えーと、私はあのころ(汗)。

■10月21日
古本リサイクル(ドネーション)コーナーは、ヨコタさんが毎日整理分類してくれて、たいへん見やすくなっております。それは本の売れ行き(ドネーションだけどね)にもつながり、「松本清張コーナーを作ったら、前より動きがよくなりました」と、ヨコタさん、ちょっぴり自慢げ。
私も感謝しつつ、うーん、ここは動きなさそうですねえ、参考書コーナー。
ヨコタさん「そうですね。10年前のものじゃあ、持ってく人いないですね」。
頃合いみて、まとめて処分するしかないかな。

私はJJ's Cafe のカウンターに戻り、ヨコタさんは引き続き本棚の整理。そこへ入ってきた高校生らしき若者とそのご両親。
「へえ、これまだあるんだ。テープ付きでこんなに揃っているなんて」。「けっこう高かったから、ためらっているうちに本屋さんから無くなってしまったんだよ」。「まとめて貰ってもいいんだろうか」。

ヨコタさん、私のところへやってきて「タマガワ副館長、お一人5冊まで、と書いてありますが」。
いやあ、いいですよ。参考書なんて、まとめて持っていっていただけるなんて滅多にないんじゃないだろうか。もう10冊でも20冊でも構いません。

お母様と思しき声「良かったわねえ、あなた声がうわずっているじゃない」。
……参考書ドネーションで、こんなに喜んでくださる方があるなんて。

そもそもお一人5冊まで、というのはね。かつて「古本武闘派オヤジ」と私たちが呼んでいたコワモテ(ったって、ただの本マニアなんだけど)のジイさんがいて、風呂敷持ってきて20冊30冊持っていってしまわれるのでね、それの対抗処置だった。注意の仕方まちがえると、ちょっとドスを利かせたりしてね。そのうち私には何だか妙に親しげになったんだけど、コマリモノに変わりはなかった。
そのうち「武闘派オヤジ」もめっきりここに来ることが少なくなった。来れば困るが、来なきゃ気になる(ちょっぴりね)。

ちょっぴり気にしていたところへ、コージ君情報。「オヤジは『孔子』を読んで心を改め、今は隠居の身だそうです」。……隠居って、何だよ。まあ良かったというべきか。

というわけで、そろそろ外しましょうか。お一人5冊まで。

■10月20日
亀井館長が、「このあいだいただいた古本のなかに、こんなのが混じってました」と、だいじそうにビニール袋に入れたボロボロの小さな冊子をみせてくれました。
兵隊さんの文集のようなものですね。マンガがたっしゃだなあ。彩色までしてあります。こっちのページは流行歌集ですね。青砥さんが興味持ちそうだ。
「兵士はいつも戦闘をしていたわけではない。彼らにとっても戦闘はむしろ非日常の事態です。そのほかに長い日常生活がある。それをどのように過ごすか、大事でないわけはありません。いわゆる戦友会など、会員の高齢、物故でほとんど消滅しているのでしょうが、そうした会で交わされる思い出話も、大半はそうした日常事だったろうと思います」。
父もいわゆる従軍日記、大切にしてました。ちゃんと読んだことないし、亡くなってからどこへしまったか、分からなくなったけど。
「お父さんはいつごろ従軍されたの?」。日中戦争、いわゆる支那事変だと思います。火野葦平の『麦と兵隊』なんかには、ほんとうに親近感を覚えていたようです(私は読んだことないけれど)。
戦友会もずいぶん楽しみにしてました。そういう仲間どうしでないと、どうしても通じない話というか、感情があるようでした。
「いわゆる『昭和史』から欠落して、いや欠落させられた従軍兵士の日常ですね。その人達の人生そのものなのに、それは『なかったこと』にされているといってもいい」。「文学館という場所があってこそ、こうした冊子も拾っていける。拾っていくべきではないでしょうか」。

久しぶりにこうしたことを書くのですが、私は亀井秀雄氏が小樽文学館の館長に就いてくれたことを、いまさらのようにありがたく思います。
昔、同僚の木ノ内さん(故人)と話し合ったことも思い出される。私たちはこんなふうに話し合った。
オレたちは生意気だ。そのオレたちが迎える館長は、オレたちが逆立ちしても敵わない(学識は無論だけれど、何よりも『人格』において)人でありたい、そうでなければならない。ところで、そんな人が(この地に)いるだろうか。……いるじゃないか!

私たちは間違わなかった。そんなふうに(亡くなった木ノ内さんともども)胸を張れます。

■10月19日
さきほどまで、「夢喫茶」で鵜沼けい子さんのコンサート。
前回は、6月だったのですね。

今回も、全きマイペース。朗読の合間のギターの弾き語りとハモニカで鵜沼ワールド全開です。
「せっかくピアノ(先日獲得したグランド・ピアノね)あるのですから、お弾きになりませんか?」とタケウチさんが声を掛けてくれたらしい。そのピアノが意外に(失礼!)上手。いや、歌もハモニカも得も言われぬ味があるのですよ(言えば言うほど失礼に輪を掛けてる気がす)。

もっともメインメニューの朗読。前回も思ったのですが、選ばれる作品が素晴らしい。
今夜のプログラムは、伊集院静「秋野―とんぼ」、魚住陽子「秋の指輪」の二本立て。とりわけ魚住陽子
私、恥ずかしながらこの作家、知りませんでした。4冊しか本出してなくて、今usedでしか手に入らないんじゃん。

電話のたびに素っ気なく、心ここにあらぬような恋人。彼女に突然ねだられる茨の実のように赤い指輪。ひと月ぶりの再会。別人のように白く痩せた女。ぎこちない会話。錆び付いた観覧車。差し出した指輪を奪い取るようにした彼女は観覧車の窓から。

絶句する結末。それにしても白い女の掌に載せられた茨の実のような指輪の何という美しさ。

思わずAmazonで「ショッピングカートに入れる」ボタンをポチッと押しそうになりましたが、えっ、usedで新刊のときより高いの?
きっとあれね、そんなに知る人いないのに、知ってる人はのめり込む作家なんだな。
ボタンを押すの踏みとどまり、念のために小樽図書館サイトの「本をさがします」ページを。これまた、ちょっと意外(ごめんなさい)。4冊のうち、3冊ありますが。

うーん、どうしようかなあ。「試し読み」するまでもなく惚れ込みそうな作家。

そうだ!11月3日まで待ってみよう。年に一度、小樽文学館名物大古本市ね。私の知らないお蔵出し1万5千冊が待ち構えているはず。ボランティアさんが次々と積み上げてくださるはず。出てくりゃ私の人生大当たり。出なければ。

「ありがとうございました。今度は4月に。いいですか?」
えっ?あっ。こ、こちらこそ。どうぞよろしく。ほんとに冬とおりこして春になればいいですね。

鵜沼けい子さん。不思議な人だ。

■10月10日
本日は祝日の振替で休館日なのですが、夜、ジャズのコンサートがありますので、午前中から「出勤」。
館は閉まっていますからヒマのはず、ですが、電話が鳴れば出る、取材が飛び込めば応じる、お客様も……、「東京から来たのに、ねえ」(冷静になれば、東京からであろうと、アラスカからであろうと、隣から、であろうと同じですが)と言われれば、玄関でお引き取りいただくわけには、いかないんだな。いいですよ、散らかってますが。

そんなこんなであっちいったり、こっちに来たりしている間にJJ's Cafe に小母様達がお入りになる。コーヒーならお入れしますが。「ジャスミン茶が飲みたいの。お休みなのにすみませんね。でも(ドネーションのブタの貯金箱に)お金入れちゃったしねえ」。……。チバさんに携帯電話入れて日本茶の場所と入れ方たずねます(情けなし)。

小樽商大百年史編纂室のヒライさんからメールいただいている。「『小樽探見日和』に何か出すようにいわれてるんですが」「いろんなものありすぎて、何を出していいのか」「ごく最近、応援団の下駄とか寄贈されたのですけれど」。下駄?なるほど、下駄は応援団のシンボルか。応援団は大学のシンボルか(昔の話ね)。
下駄、いいですね。でも応援「団」てぐらいだから、下駄一足では寂しいような気がす。「そうですか?いろんなものがあるから、見に来てください」。

あたふたあたふたして、お約束の時間、大幅に遅くなり4時30分過ぎにやっと小樽商大へ。
「これが下駄です」。!。超巨大。「団長が履くヤツです。団員のはこちら、フツウの下駄ですね」。なるほど、これはすごい存在感。一個で応援団そのものね。こちらの箱に入っているのが団員の衣装か。想像してたとおり、クリーニングしても……原状復帰ムリそうな。それにしても、下駄以上に重要な(団の命たる)団旗らしきものが見当たらず。「ここに大小の旗らしきものがあります」。いや、そんな小さな箱には収まらないでしょう。

私、大学生時代に全国の大学応援団の応援合戦というものを見物したことがあります。「花の応援団」という愉快なマンガが読まれていまして、興味ひかれた。
団旗かかげる旗手、だいじょうぶかしらん、と心配になるぐらいか細い小柄な団員。案の定、屋内で風もないのにあっちよろめき、こっちにフラつき。
つまりその頃でさえ、すでにアナクロ、時代遅れ。人気あるのはマンガだけ。それも時代にはぐれた哀愁ともなう面白さ。

私は、当時からそんなアナクロ嫌いだった(マンガは好きだったけど)。寮生活のバンカラ、なんてのも嫌いだった。OBが肩組んで「都ぞ弥生」なんて、身震いした。優越感とコンプレックス、二度ほどひっくり返した程度のシンプルな甘え(同時代、末期状態だった学生運動も今思えば7割方がアナクロ応援団と似たようなもの。一見カッコ良いだけに、こっちのほうが救いがたいか)。

団旗見当たらないですね。「だいたい応援団のもの、何にも残っていないって聞いてたんですよ。それが閉めたっきりになっていた部屋、ほかに使うことになって開けてみたら、こんなのが残ってた」「応援団のもの、保存しようとは誰も思わなかったようですね。北大の応援団のOBの方で個人的にとっておられた方がいて。その方が小樽商大の応援団のものも廃棄されるのを引き取られたらしい」「ひょっとしたら団旗もその方経由で北大博物館に」。!。まさかね。

今も昔も私が嫌悪する甘えと一体のアナクロニズム(箱のなかに埃まみれの黒ヘルが転がっていました。応援団とは不倶戴天のはずですが)。
ただ。こうなってみると何だか哀しい。こうなってみると、こんなアナクロこそが「大学」と称する機関の唯一の存在証明だったのか知らん、なんて思ってしまう。

そいや、死んだ親父も「いい歌やな。『都ぞ弥生』」って言ってたな。大学見たがっていたけれど、いちども連れていってやれなかったな。

考えてみれば、私のなかの「大学」も、「羊群声無く牧舎に帰り 手稲のいただき黄昏こめぬ」以上でも以下でも無かったか。

■10月8日
ミュージアムは地域と連携すべし、と言い、その地域は抽象ではなく、まずミュージアムの立地する地域、すなわちご近所であろう、と言い、その地域(ご近所)と文学館をへだつ塀はすでに崩壊しつつあるのだ、と見得を切り、まずは指呼の間にある商店街(都通り、サンモール一番街、花園銀座街)との提携を、とアジり(「日記」でね)、でも実際のところほとんど何もしてませんでした(汗)。
気が小さいからね。人見知りしますからね。体力衰えてるし。

でもそういうときは勇猛果敢な人に便乗する!
「アンタ高い所飛ぶ選手だかんよ」「うんと高く飛ぶ選手だかんね」「オイラも背中に乗っけてもらって……」「飛ぶ」(by ペコ「ピンポン」松本大洋)

まもなく始まる企画展「町旅のすすめ〜小樽探見日和」。企画は札幌篠路高校図書館部員というか、何といってもそれを率いる塚田敏信先生。スイッチ入ったら誰も止めるスベを知らない削岩機みたいな方。
もっともテレビやマンガに出てくる熱血教師とまるで逆。しゃべる暇あれば、出向いて行かれます。率いられる生徒さんも、おそらく最初はしぶしぶ、しょうがないなーもー、であろうかと想像しますが、先生がポイントつかんでおられるので、生徒もはまる。工藤書店さんも丸文書店さんもつくづく感心しておられたそうな。「あんなに熱心に話を聞いてくれる高校生なんて、いまどき……」。
その高校生達が集めてきた古いアルバムやカバン(それさえ相当の時代物)に納まっている書類、って大丈夫?それ。何だか、ご商売に関係する重要なものなんじゃないですか。

きょうはその塚田先生、田村先生とご一緒し、サンモール一番街バッグのアカイシ専務さんを訪ねます。
いまや小樽の小学生のシンボルとして全国に名を轟かす(らしい)ナップサック。そのナップサックにも30年の歴史あり。30年を隔てた新旧2種のナップサック。その背に燦然たる(というものではないけれど)校章。それも29校分(閉校2校を含む)揃ってるんですね。おもしろすぎますが。

そのほかお二人が(一部私随行)本日数時間で訪ねたお店、かき集めてこられた品物、列挙いたしましょう。

京の湯さん(髪洗札、印半纏、ホーロー看板、焼き印、木桶)、ニュー三幸さん(祝50周年カップ)、三ツ野薬局さん(大きな温度計)、新海金物店さん(昭和30年頃の包装紙、新年に配った竹の定規、値札)、喫茶店つどいさん(マッチ)、メガネのタカダさん(メガネケース、ボールペン)、岩永時計店さん(明治29年小樽新聞に載せた広告)、米華堂さん(菓子箱の蓋)、新倉屋さん(手拭い、ポスター、のぼり、のれん)、翁屋さん(歩いていたら玄関に貼り紙。何と間もなく50数年にわたったお店を閉店なさるそうな。あわてて飛び込み、「翁屋昆布せんべい」のサンプルや看板をお借りすることに)、吉田金物店さん(焼き印)、石川屋さん(写真)、一福さん(おかもち、のれん、写真、電話料金箱、そろばん、そばちょこ、半纏、写真、配達用自転車!)
もう、連鎖爆発状態?

サンモール一番街アカイシさんでは、商店街の歳末商店街大売り出し抽選会につかう「ガラポン」までお借りだし。今は三角くじとかスクラッチカードで、お客様も黙々と。でも、何といってもガラガラ、チーン、はい赤玉!大当たり!カランカラーン!でしょう。
「やりましょうよ。文学館でガラガラポン」。

うーむ。文学館と街をへだてる塀は、暴走削岩機(いや、じつに穏やかに、ゆったりお話しなさる先生ですよ)で、ベルリンの壁よりあっけなく崩壊することになりそうだ。

■10月4日
昨夜の山中恒さんの講演会、大成功でした。
準備不足のなかで声をお掛けした方々のお働きも得て、入場者60人。
お話も、おそらく小樽ならでは、たいへん和やかな雰囲気が会場に漂いました。「研修室」ではなくて、展示室にパイプ椅子を並べてやったのも良かったと思います。

お客様も皆満足されたと思いますが、私には特別の感慨がありました。

あまり詳細にわたることは書きませんが、実はこの3年ほど文学館(私、というべきかも知れませんが)と山中さんのあいだに多少の「わだかまり」があった。「わだかまり」が機関、あるいは人と人の間に存在するなんてのは言葉のあやに過ぎないから、正確には、私のなかにあった、というべきですが。
それは私のだらしなさと甘えに起因したことであることは間違いないのですが、わずかながら私の「言い分」もあった。その「言い分」は実際に口には出せぬまま、私のなかで時に膨らんだり、薄らいだりしながらも、消滅することはなかった。そして、勝手な想像に過ぎませんが、山中さんにも「それ」はあったのではないか、と思われる。

今回のご講演の話も、実は急なことであり、私は正直申し上げ一瞬躊躇いたしました。
けれども、すぐにお願いしたいとお伝えした。ほとんど消えかかっているとは言え、消滅はしていない「わだかまり」。ほんの小さなシミのようなものであっても、今これをそのままにしては後悔することになる、と直感したからでもあります。

昨夜のお話の後、いったん席に戻られた山中さんが、再び立って私と握手してくださった。
こうしたことも決して珍しい風景ではないのでしょうが、私には特別のことでありました。
実に、実に、安堵した。ほんとうに嬉しく、良かったと思った。

私的な感情を連ねていると思われるかも知れませんが、私は、私のなかにこの文学館がある、と考えているのではない。この文学館のなかに私がある、と考えている。
私が、文学館とは不思議な場所だ、と思うなら、それは間違いなく「文学館とは不思議な場所」なのであります。

もうだいぶ前のことになった「中城ふみ子展」。あのときには生前の中城を知る人たちも大勢来てくださった。そのお一人(男性ですが)が呟かれた「私は、きょう初めて中城という女性と和解できた、と思いました」という言葉、私はずっと忘れることができない。

文学館とは不思議な場所、それは、私の確信、ではなくて、「事実」なのであります。

■10月1日
鎌倉文学散歩のチラシを作り、10月2日から受付開始です。
文学散歩と言えば「鎌倉」。

「小樽文学館」もけっして響きはわるくありませんが、「鎌倉文学館」には負けます。
旧前田侯爵別邸、いまは秋の薔薇の花盛りだそうな。
旧郵政省小樽貯金局のウチは白樺の葉が黄ばみ始めておりますが、やっぱり負けるな。

とは言え、正直申し上げ、私は鎌倉、ピンとこない。これまで行った文学散歩、たとえば津軽、たとえば盛岡・花巻、たとえば北関東、たとえば池袋、あるいは荻窪、当然福井・金沢、韓国・木浦でさえイメージありありと浮かんだ。どこを目指し、どこをたどればよりディープになりうるか、見当がつきました。

けれども鎌倉。典雅なる鎌倉文士。ああ、ごめんなさい。私のうちなるヒンコンが生理的にうぶげを逆立てはじめるのです。

それで必死にイメージかきたててみる。あらゆる記憶をまさぐってみる。
「七里ヶ浜の磯づたい 稲村ヶ崎名勝の 剣投ぜし古戦場」「極楽寺坂越えゆけば 長谷観音の堂近く ろーざの大仏おわします」

今考えればへんな家だったのかも知れないが、ちっぽけな八百屋のカミさんになった私の母は元小学教師、だったからかどうか、文部省唱歌が大好きで私たち子供にしょっちゅう歌わせた。それが今でも口を突く。こどものころは想像もしなかったが、農家生まれで小学校しか出てなかった父は、そんな女房や子供たちみてて何思っていたろう。

それでも、文部省唱歌のおかげで、おぼろげに鎌倉の風景と歴史(というほどじゃないけど)が浮かび来る。「ろーざの大仏」が「露座の大仏」だってわかったのは、だいぶあとでしたが。
「建長円覚古寺の歴史は長き」あれ?あと思いだせない。

大急ぎで中学・高校の日本史復習すればよろしいのですが、そのばしのぎで左脳を働かせてもしょうがない。イメージの喚起こそ急がれる。
そこで私はこれ取り寄せた。もっと具体的にこれ、さらにこれ(爆)。

やっぱり立原正秋くらいは読んでおくべきかなあ(鎌倉文士といえば立原正秋しか思い浮かばないのは何故)。
皆さん、不安におちいらないでくださいね。事前講座「近代の源実朝」を用意して構えている亀井館長も亀井志乃さんも同行してくださる予定、さらに現地のシルバーボランティアさんのガイド、とても楽しみです。品良く上等、とびっきりの「鎌倉文学散歩」になることは、お約束です。