よもやま日記

過去の日記へ

文責/市立小樽文学館・玉川薫
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■2月21日
昨夜、「多喜二を語る夕べ」会場を出たところで、彫刻家のミズタニさんに声をかけられ、「ぼくは少しヘンピなところに住んでるので、ふだんは車を使うんですが、きょうはバスできました。バスで街なかに来たときは、一杯やってかえることにしてるんです。タマガワさん、ちょっとつき合いませんか」。
私は、どなたであれ、お店でちょっと一杯、というのが苦手なのですが、昨夜は何となく、いいですね、じゃ、ちょっと、などと。
すると道路の向こうから、ミズタニさんに声がかかる。「おーい、ひさしぶりだねえ」。私も顔をしっているナカモトさん(北広島市で文芸誌を出しておられる)です。「いっしょに行かない?」とミズタニさん。「じゃもひとり電話するから」とナカモトさん。
もひとりの中学校の先生と4人いっしょになり向かった居酒屋が閉まっていたので、「スカンポ」に。とりあえず(よくわからないけど)ビールで乾杯。

私、これまでそれぞれの方にどこかでお世話になったり、多少のことをお手伝いしていたりしていたのですが、お酒はもとより、ゆっくりお話するのははじめて。

みなさんのこれまでのお仕事や、創作のこと、これまでも、昨夜のお話でもよくは分からなかったのですが、それぞれさまざまな職場や地域から発生、あるいは組織された、いわゆるサークル活動に直接、間接にかかわってこられたと拝察。
そのような草の根サークル運動は、政治的な背景があろうとなかろうと、いまでは関わる人も減る一方、すっかりマイナーな存在に。
私自身、そうした活動には正直関心もってこなかったし、ずっと距離をとっておりました。でも、なんだろう。こんな時代、文芸サークル、美術サークル、演劇サークル、そんな熱気が懐かし、いとおし。ビール2杯にギョーザと玉子モヤシと豚キムチ。おなかも心も温まる。

「多喜二を語る夕べ」で、実行委員長、主催者あいさつの後、ステージに呼ばれたゲスト、高名な評論家S氏のあいさつ。「さきほど多喜二の墓前祭にも参加したが、たいへん悲しい思いをした。それがこんなに政党色のつよいものだとは知らなかった。多喜二を小さな政治の枠に押し込めてはいけない。このような墓前祭なら、来年からは決して参加しない」。
私、しばし茫然。

不肖私もこの文学館での仕事の折節、なかば遠慮がちに、けれども時には少し調子を強めて、評論家S氏と同様のことを、特定の、あるいは不特定の皆様に申し上げてもきた。
評論家S氏のいうことはもっとも。それは50年も60年も昔からもっとも。だがしかし、50年も60年も昔から、多喜二祭、墓前祭を続けてこられたのも、S氏から、「こんな政党色の強い」と罵られた(というふうにしか聞こえませんでした)人たち。その人たちとて(私たちがつい思いがちなような)ずっと「一枚岩」だったわけではなかろう。さまざまな葛藤もあったでしょう。私は例えば「中野重治と北海道の人びと」展を通して、そのような「開いたままの傷口とともに」戦後の長い時間を耐えてきた(耐えている)人たちに出会ってきました。
その人たちが多喜二祭を支えてきたことと、多喜二を政治的くびきから解き放つことと、無関係とはいわないが、それぞれに対してていねいに考えていかなければ。これは、まあ自戒ですが。

昨夜の居酒屋ではそんな重苦しい話はなし。「タマガワさん、誰でも寄稿できるような文芸誌、たちあげてよ」。そーですねー。考えてみれば、「いまどき」そんなことができるとしたら、むしろウチぐらいか。お金かからない方法も知らないわけじゃないしね。

「タマガワさん。あんたはね。いつもニコニコしてるけど、どっかとっつき難いとこある」とナカモトさん。
「オレは朝かならず新聞の占い欄をみてね。今のはよく当たるんだよね。きょうのオレの運勢は強運だったからさ、やっぱりこうやってゆっくり話ができた。もうひとり」。もうひとり?
「あそこの古本屋の奥さん。美人だけど、ちょっと冷たいかんじでね。値切りにくいんだよね。それもきょうは思いきってね、あんたは話しかけにくいし値切りにくいって、言った」。そしたら?「行き届かぬところ、おっしゃっていただき、ありがとうございます、って。やっぱ今日の運勢は良かったなあ」。
はっ。私も改めますね。いいなあ、運勢欄で行動決めるって。眼からウロコ、ですね。

■2月19日
NHK朝ドラの「ちりとてちん」。朝ドラのわりに視聴率がいまいちのようですが、視聴率低迷に反比例するごとく、とりわけネット界での評判うなぎのぼり。
あの「2ちゃんねる」でも、記録的スレの伸びらしい。いい、感動した!で終わらず、脚本家が張り巡らせた伏線を根気よくたどりかえしたり、ものすごく細かい洒落を鋭くみつけたり、粘着的アンチ書き込みがワラワラと発生したり、それはいかにも2ちゃん的ですが、そういうマニアックなのとは別に、ていねいにストーリーを追っかけていくブログがつぎつぎ立ちあがっているもよう。

笑えて泣けて、といえばまんま松竹新喜劇ですが、何せ手が込んでいるのと、奥行きが朝ドラにしては深すぎる。視聴率いまいちなのもむべなるかな、だって時計代わりにできないもの。この脚本家、いったい何者?

ヒロインの貫地谷しほりさんはじめ、ライターさんがみごとに立たせたキャラに、キャスティングはまりすぎ。なかでもヒロインの母親役の和久井映見さん、師匠役の渡瀬恒彦さん、ほとんど入神。

師匠(徒然亭草若)が、小浜市での公演の帰りに、ヒロイン(徒然亭若狭)の実家へ立ち寄り、ひとりで留守をしていた母親(糸子)と、ポツリポツリと会話するシーン、晩夏の夕暮れの斜光にヒグラシのすうっと消え入るような蝉時雨。
以下、ブログ「魔女のほうき」さんからコピペさせていただきます。ちりとてブログ数あれど、セリフの応酬そのニュアンスまでていねいに書きとっていらして、すばらし。

ぼちぼち帰るという師匠に、皆にお土産があるからと台所に立つお母ちゃん。
突然、師匠は苦しそうな顔で縁側に這い出し、吐き気を必死にこらえます。

「ほしたらこれ…荷物になりますけど」と言いながら居間に戻ったお母ちゃんは、縁側の師匠の様子に気付き、駆け寄ります。
「師匠さん、どないかしましたか?」(お母ちゃん)
「いや、蜩の脱け殻、落ちてましたんや。」(草若師匠)
と座りなおす師匠。
「そうですか?」(お母ちゃん)
「セミの命は一週間や言いますなぁ。ふ〜怖い怖い。カナカナカナやのうて、コワイコワイコワイ〜って鳴いてんのかもしれまへんな。生きてるのが怖い〜て。」(草若師匠)
「生きていたい〜いう意味ですか?」(お母ちゃん)
「はい、そうです。はぁ、長々とお邪魔しました。」(草若師匠)
「いいえ、またいらしてくださいねぇ。」(お母ちゃん)

「かなかなかな、やのうて、こわいこわいこわいーって鳴いてんのかもしれまへんな。生きてるのが怖いーて」。朝ドラどころか、オールドラマ史上に刻まれた名セリフ、名場面だったかも。

このお母ちゃん、学校の勉強はとんとだめだったタイプですが、天性の洞察力、包容力、ムクの優しさ持っておられる。

師匠が大阪へ帰ってからも、お母ちゃんはひどく気になって、師匠の家に逗留することになります。その師匠は長年の夢だった落語の常打ち小屋を大阪につくるべく日夜奔走している。
以下、再びコピペ。

草若師匠の部屋。
弟子たちに「大阪に常打ち小屋を作りたい」という決心を話して、自分の部屋に戻ってきた師匠は、女将さんの写真の前に座ります。激しい痛みが襲い、その痛みを必死に堪える師匠。
そこへ、師匠を追いかけてきたお母ちゃんが声をかけます。
「師匠、よろしいですか。」(お母ちゃん)
「どうぞ。」(草若師匠)
部屋に入り、障子を閉めるお母ちゃん。

「師匠、入院しなれ。そねしてください。お願いします。」(お母ちゃん)
頭を下げて頼むお母ちゃん。
「奥さん、言いましたやろ。私、やらなあかんことがありますのや。」(草若師匠)
「怖いんですやろ。何かやっとらんと怖いさけぇ、そんな次々動き回ってんやな。」(お母ちゃん)
師匠を見つめるお母ちゃん。目をそらす師匠。
「かないまへんな、奥さんには。」(草若師匠)
……
「その道中の陽気なことぉ〜というフレーズがよう出てきますんや、上方落語には。」(草若師匠)
「ああ…」(お母ちゃん)
「それをきっかけに陽気なお囃子が入る。愛宕山で野がけに行く時も、貧乏長屋の連中が花見に行く時も、死んで地獄へ行く時も、その道中の陽気なこと〜って、おかしおまっしゃろ?
地獄八景亡者戯いうのは、地獄の鬼やら閻魔はんやらを、散々茶化した噺でんねや。昔の人が考えた地獄いうのは、ほ〜んま楽しいとこです。何でそう言う風に考えたか、今やったらようわかりますわ。
死ぬのは怖いこっちゃない〜地獄は楽しいとこやぁ…そう思わな…ちょっとこれ…耐えられまへんで。まともに向き合うたら…こぉうてこぉうて。奥さん、みっともない男やて思いはりますか。」(草若師匠)
「いえ。」(お母ちゃん)
「あの…陽気なお囃子に送られて、地獄までの道中…笑うて歩きたいんです。そやさかい、思い残すことのあれへんようにしたいんです。」(草若師匠)
涙を堪えるお母ちゃん。

師匠はすでに余命を告知されていたのですが、朝ドラどころか、こんなセリフ書くの許されたの山田太一ほか数名?
「死ぬのは怖いこっちゃないー地獄は楽しいとこやぁ……そう思わな……ちょっとこれ……耐えられまへんで。まともに向き合うたら……こぉうてこぉうて」。

ここで語られはじめているのは、落語とか伝統の本質であり、すなわち美術、文学の本質なのね。
死は(または絶対的に「死」を終点とする「生」は)ちょっとこれ……耐えられまへんで。まともに向き合うたら……こぉうてこぉうて。

先日のお葬式の帰り、参列していた同窓生と喫茶店にたちより、いやでも話題は「死ぬまでに何しよ」なんてことに。「Mさん(別の同窓生)と話してるのよ。いちどは故宮博物館に行ってみたいねえって」。うーむ……。故宮ねえ。私はべつに、海外の有名ミュージアムにどうしても、ってないし、あれがこれが心残り、ってのも、もう、無いかもね……。そりゃじたばたじたばたするだろうけど、じたばたして疲れ果てて、おしまい、かなあ。

なんて話していて思い出したんだけど、死ぬまでに、ってほど力んでいるわけじゃないが、文学館やめるまでに、ってか私の最後の企画展はイメージしてある。
ボーダーレス、バリアフリー、アウトサイダー。国境、性、犯罪、病、「異」常、生死、すべてのバリアを突き崩すもの。「まともに向き合うたら……こぉうてこぉうて」なもの。

旭川の美術館の「アウトサイダーアート展」見にいった娘に聞いてみました。アウトサイダーアートって、いわゆる障害もった人たちの美術?「正規の」美術教育受けてない人たちのアート?
「うーん……、それだけじゃなくてねえ。おおまかにいえば、人のため、じゃなくて、自分のためだけに描かれた作品、かなあ」。

なるほど、それなら私は、その「文学編」をみたことがある。ってか、今でも小樽文学館に展示してある。最初「詩」とだけ表紙に書かれて、のちに「無知の涙」と直されたノートが。無数の漢字の書き取りのすきまから、「死のみ考えた者がいた」という文字が読みとれる絶対的に孤独なノートが。

やっぱりここから始まるのだね。

■2月17日
昨日、大学(北大、国語国文)時代同期だった女性のお葬式にいってきました。おわりに喪主で、故人の夫である大学教授の方がご挨拶をなさっていましたが、私、何も知らなかったことばかりで、驚くと同時に、いろいろと考えさせられてしまいました。

私、大学前半2年間は学校へ通う気力も消滅しかかり、どうにもいけない状態だったのですが、学部へ移ってからは、気安く話せる友人も一人二人はでき、研究室にも顔を出すようになりました。
けれども、亡くなった彼女とはめったに顔をあわせることもなく、たまに顔をあわせても、彼女はどこか飄然としており、研究室にたまっている連中の雑談、雑談のながれのなかでの「文学論」、もすこし熱心っぽい「研究会」などに加わるようすはさらになく、「研究室サロン」的文脈からは、まったくはずれた「アウトサイダー」のように、当時の私はみておりました。

私は彼女にむしろ親近感をいだいておりました。私と同類の(なかばオチコボレ)か、と思っていたからです。ただ私と違ってみえたのは、単位だの成績だのまったく意に介さず、平然として、ぎりぎり卒業できればいいじゃない、ふうな器の大きさでした。

昨日の喪主たる教授のお話ですが、彼女に肺癌がみつかったのが昨年の1月、すでにリンパに転移もしていて手術は不可能、白血球の数値がさがっていて抗癌剤も使えない、という診断を受けた翌日、彼女は予定していたとおり冬のニセコ登山を行ったそうです。もう二十歳ころから本格的な登山をしていたことなども、私はまったく知りませんでした。
癌は3月頃には脳に転移し、放射線治療はたいへんつらいものだったようですが、そのころ彼女は主治医からもって寿命は秋まで、と聞きだし、けれどもそれを夫には告げず、ひそかに覚悟を定めたらしい、とのことでした。じっさい、教授はまだ、彼女と年老いるまで添い遂げるのはもう難しいのかも知れないけれど、あと4、5年は何とか生きてくれるんじゃないか、と思っていらした。

11月頃になると、彼女は夫に自分の葬式の仕方についての希望を示したそうです。きのう参列したかぎり、それは決していたずらに個性的でもなく、ごくありふれた自然なお葬式だったのですが、会葬者に好きな歌だったらしい「ふるさと」を歌って送ってほしい、というあたりがささやかな願いだったのかも知れません。
写真も自分で選んだ鳥取大学農学部の研究室時代のもので、夫である教授は「僕自身は彼女が母親らしい優しい表情をみせている別な写真のほうがよかったのだけど」とおっしゃっていました。

ほんとうに私は何も知らなかったのですが、彼女は文学部を卒業し、小樽の女子高校の教師を務めたのですが、どこか得心がいかず、職をなげうち、鳥取大学農学部に入り直し、土壌学の研究をし、北大農学部大学院に移り、博士号を取得した、というのでした。

私が彼女にいだいていたイメージは、真逆のものでありました。なんて真摯、なんて意志強固。そもそも小樽の高校時代、年に200冊の勢いで濫読し、すでに近代以降の文学に失望していたらしい、って、私、心底びっくりです。同類かも、なんて思っていたこと、恥ずかしス。

書いときゃなきゃ、と思ったのは、私の思い違い、人は外観やちょっとお話、ていどじゃ何も分からないものだ、などということではなく、彼女の葬儀参列者への「ご挨拶文」。
早くから、それを自分で書く、と夫である教授には話していたようですが、12月頃になると衰弱も激しく、さすがにそれはできなかったのだろう、と教授は思っていらした。ところが亡くなってから彼女のパソコンをみていたら、5月頃の日付のファイルに、それらしい文章がみつかったというのです。

それには「私は昭和28年○月○日、小樽市石山町の手稲富士と呼ばれる小山のふもとで生まれました」から始まり、家族のこと、小中学校、高校(濫読時代)。大学の卒業論文は「二葉亭四迷論」をテーマにしたが、結局自分でも納得できるものにはできなかった。そんな気持ちのまま小樽の女子高に勤め生徒たちには今でもすまなく思っている。ただ当時の生徒たちを自分はすべて覚えており、彼女たちに精一杯のことを伝えようとは努めたつもりだ。
改行

つまり彼女の生涯のより重要な部分、土壌学への転身、出会い、結婚、こどもたちのこと、登山などについて何一つ触れることの出来ぬまま、電源は切られたのでした。

それは感傷のかけらもなく、過度の思い入れも力みもない、淡々とした「葬儀のご挨拶」にふさわしい文章でした。もう、何にもいえない。おみごとです。

葬儀のさなかに私は、不謹慎といわれても仕方ないことを思いつく。職業病といわれてもしかたありません。この彼女自作の「ご挨拶」をいただきたい。高校時代に「近代に失望する」くらいに本を読んでしまった、文学に見切りをつけて学んだ土壌学を、これから海外で生かしていきたいと考えていたらしい彼女の「断念」と、「ふるさと」への控えめな思い。それが淡々と綴られはじめた、その「ご挨拶」をいただきたい。小樽文学館の企画展「ふるさとの話をしよう」に。

そのことを後日、教授にお願いしてみようと思っています。

■2月14日
ヴァレンタインデー。

とはいっても文学館、しずかなものです(陽気なはずはないか)。
チバさんもいってた。「ヴァレンタインデーって。忘れてたよ!」

古本市おわったし、「初期多喜二をめぐって」講演会もおわったし、「小樽・雪あかりの路」は17日までだけど、ヤマ越えた感、いなめず。

ヴァレンタインデーのチョコプレゼントって、いつから始まったんだろう。私の中学・高校時代はありませんでした。なくてよかった。一喜一憂。私なら、憂憂憂か。超然としてればよろしいのでしょうが、超然とできるタイプでもないんだな、実は。

高校生のころから、「ピーナッツ」を愛読してました。登場人物(イヌ)に、スヌーピーがいるけれど、マンガのタイトルは「ピーナッツ」、主人公はチャーリー・ブラウン。
1969年、月面に降り立ったアポロ・イレブンの直前に月面探査したアポロ10号。その司令船のニックネームが「チャーリー・ブラウン」、無人着陸機のニックネームが「スヌーピー」ってニュース流れたときは、まだ日本人のほとんどが、何それ、って思ってた。

谷川俊太郎さんの翻訳本が出たばっかりで、私すっかりはまりました。勉強ダメ、スポーツだめ(少年野球の監督兼ピッチャーやってるけど、勝ったことないんじゃなかろうか)、凧あげさえダメ。劣等感のかたまりのようなチャーリー・ブラウン。
そのチャーリー・ブラウンにとって、一年にいちどの淡い希望と、確実な失望の日。2月14日。かれは朝から晩まで郵便箱のかたわらに立ち続けます。雪がふろうが、風が吹こうが。チョコではなく、カードを贈るという習慣なのですね。
かれが思いを寄せるのは赤毛の女の子(マンガ中には一度も出てきません)。朝からずっと立ちつづけ、夢想におちいるチャーリー・ブラウン。「ヴァレンタインカードに、彼女がこう書いていたら、どうだろう。ああ書いていたらどうだろう。チャーリー・ブラウン、私はずっと前からあなたのことが……。だめだ、アタマがヘンになってきたらしい」と、夕闇せまって溜め息つきつつ家に入るのが、毎年毎年毎年の2月14日であります。スヌーピーはひたすら冷たいしね。

チャーリー・ブラウンにどっぷり感情移入しながらも、よかった。その当時、日本でまだそんな習慣なくて。あったらマンガに感情移入ですまなかったですねー。ほんとに酷だな。2月14日。

いまの私?カンケーあるわけないじゃない。フフ(って自分でもキモチわるいなー)。

■2月10日
きょうは「雪あかりの古本市」。まずまずのんきにダラダラと繁盛しております。
もう4時半ですが、午後7時までの長丁場。テンションはりつめてもながつづきしない。
いいかんじに、だれてきたんじゃないかしら。

少しぼんやりしておりましたら、突然、ノーマ・フィールドさん。「タマガワさん、ながいあいだ大切なものを」。何だったかな。ああ、そうだ。これ。不思議だな。このごろ、これのことを何となく思っていた。父の命日も近いが、何年になるだろう、とか、90歳を越えて、けっきょくまた福井を離れ、兄のもとにもどった母のこととか、それはときどきは思い返したりする。

NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」というのを、おもしろくみているのですが、これは大阪のほかに小浜(福井県若狭地方)をおもな舞台にしているので、主人公もその家族も福井弁を話します。知らぬ人がみれば、福井の方言っておもしろいなあ、とご覧になるでしょうが、あれはだいぶちがう。福井といっても福井市など越前地方と、小浜など若狭地方とはだいぶ言葉もちがうから、ここがちがう、とは言い切れないのですが、少なくとも鯖江(福井市の隣)出身という設定の母親の言葉は福井弁とはだいぶちがう。和久井映見さん好演なので、小さなこと突っ込むつもりは毛頭ないけれど。
ドラマ始まるまえに、公式ホームページみてたら役者さんが福井弁に大苦労、と出てましたから、方言指導の先生も、ある程度で妥協しちゃったんでしょう。

たしかに福井弁、やっかい。これを文字(シナリオ)にしたり、まして肉声で再現するなど至難の業。けれども、その至難を至高の芸術に結晶させた奇跡のテープがこの世に存在するのですね。それが、ノーマさんがさきほど返してくださった、このテープ。

拙文失礼。
これ、にからんで私が書いた文章(以前、北海道文学館報に載せていただいたもの)が、ありますので、この場で再掲させていただきます。これが私の「ふるさとの話をしよう」かな。
以下、長文注意です。

父のこと、中野重治展のこと 玉川 薫

 父は六年前の二月十五日に事故で死んだ。近くの昔からの商売仲間の八百屋の主人が寝たきりになっていて、父はその店の仕入れを手伝ってやっており、注文書を取りに行くところだったらしい。家の前の道路を横断しようとしていて、オートバイにはねられたのだ。寒い夜で、冷たい道路の上にしばらく横たわっており、病院に運ばれて、そこで死んだ。
 父は、福井の農家に生まれた。父は農家の三男であり、田畑を嗣ぐこともなく、高等小学校を卒業してすぐに働きに出て、母と見合いし、結婚し、戦争に行き、重傷を負ったが生きて帰ってきて、終戦後「町」に出てきて、八百屋を始めた。ずっと小さな八百屋だったが、父なりに工夫をし、努力をして、私を含め三人の子どもを育てた。
 母は、もともと「町」育ちであり、母の父親はサラリーマンでそこそこの暮らしぶりだったらしいが、早くに死なれ、苦労をしたらしい。それでも高等女学校を出て、小学校の教師などもしていた。どのような経緯で、父と結婚することになったのか詳しく知らないのだが、田舎育ちの教育のない父といっしょになるのは、母にとっては不本意なことであり、結婚してしばらく暮らした父の実家の田舎の生活は、母にとってガマンできぬほどのものであり、場末の「町」へ出て始めた小さな八百屋のカミさんという仕事も、プライドの高い母には泣きたくなるようなものだったらしい。母は、私たちが物心つくころから、父のいないところでよくそのようなことをこぼした。
 父は本など読まなかった。テレビドラマも少し筋が込み入ったものは、「スッポンカッポンわからん」といってスイッチを切った。青江三奈と小柳ルミ子が好きだった。五木ひろしは福井出身だから、もちろん大のひいきだった。阪神タイガースのファンだったが、ふがいない負け方をすることが多く、「何てだらしないんや」といって途中でスイッチを切ったり、またつけたりしていた。
 子どものなかでいちばん下の私は、小さいころ病弱であり、神経過敏であり、「弱虫」だった。ジフテリアや「自家中毒」で入院をしたことがあり、病院の食事を食べたくないという私に、父は家から海苔の佃煮を持ってきたり、醤油を持ってきたりした。保育園で年長の子どもにいじめられたらしいと聞くと、すぐに飛んでいってねじ込んだ。
 八百屋という仕事は早朝から晩まで休むヒマなどない仕事なのだが、小学校の授業参観には必ず父が来た。男親が来るのは珍しかった。私は小学校の時分は勉強が良くできたので、自慢だったのだろうと思う。私は、そういう父が、恥ずかしくてしょうがなかった。
 授業で家の職業をいうときがあった。私は、一瞬口ごもり、「食料品店」といった。後ろで「八百屋やろ」と、クラスメートのクスクス笑う声があった。私は赤くなった。
 うちは豊かではなかったが、学研の学習雑誌を買ってもらっており、とくにその付録が楽しみで、月一回届けられるのが待ち遠しく、私は、発売日のあたりには家の前で、ずっと向こうのほうを眺めていた。そんな私をみて、父はしばしば、その学習雑誌の配達をしているおじさんの家まで、まだ出ていないのかどうか聞きに行き、家に届けられる前に貰ってきたりしていた。私は嬉しかったが、父にありがとうなどといった覚えはない。
 その父が死んでから六年になる。死ぬ少し前、正月に福井に帰ったときに、父は私と女房に戦争へ行ったときの話をした。子どもの頃から、父はときどきその話をしたが、私も兄や姉も耳を傾けることなどなかったと思う。正月にいったときには、その戦争の話を久しぶりにした。長く詳しく話をし、私と女房も耳を傾けた。父は戦争から帰って八百屋を始めて苦労をした話もした。そして、自分は自分なりに一生懸命生きてきたと思う、思い残すことも何もないけれど、あまり丈夫じゃないばあちゃんを一人残すことはできない。ばあちゃんは気は強いけれど一人で生きていける人じゃないから、などというような話をした。私たちは黙って聞いていた。
 事故の知らせを聞いたのは、それから一カ月ほどたった頃だった。
 母は初めは一人でも大丈夫だといっていたが、案の定すぐ体調を崩した。結局、埼玉にいる兄の家へいくことになり、福井の家は無人になった。
 母は今年八十四歳になった。父のことを、偉かった、よく働いた人だった、などという。でも、ここいらの(埼玉の)人たちは皆上品で親切で、福井の人たちとは大違いだ、などという。あいかわらず、自分の方の親類には帝大出の医者や軍人がたくさんいて、でもみんな早死にをして、家も傾き、私も思いがけない苦労をすることになってしまった、などという話をする。
 母は年齢にしては頭もはっきりしており、本も私などよりよく読んでいる。先日、兄が埼玉の図書館から借りてきた中野重治の「梨の花」という小説を宇野重吉が朗読したカセットテープを聞いた、という話をしていた。中野重治という作家は、福井の田舎の生まれである。「梨の花」は自分の少年時代の話をもとにした名作といわれている。小説に出てくる会話は、福井の典型的な田舎の言葉である。同じ福井出身で中野重治をこよなく尊敬し、芸名も野という字と、重という字を貰ったのだ、という宇野重吉はその福井の田舎の言葉を微妙なイントネーションもアクセントも正確に声にすることができる。
 母は、こういった。私は、福井の言葉がいやでしょうがなかった。とくに田舎の言葉は粗野で下品でねちねちとしていて、いやでしょうがなかった。でも、この朗読で、ひさしぶりで福井の田舎の言葉を聞いた。それがこんなに美しい、奥ゆかしい言葉だったというのが初めてわかった。母は、そのカセットを兄にダビングしてもらい、今でもときどき聞いているという。
 私が勤めている小樽文学館で、今年の夏「中野重治と北海道の人々」という展覧会をすることになった。昨年暮れ亡くなった小笠原克小樽文学館長は、この中野重治という作家を最も尊敬していた。その中野重治は、小林多喜二や小熊秀雄など知られた作家や無名の人々も含め、北海道出身の作家や労働者にある特別の感情を持っていた。表現の上手下手といったこと以前の、根源的な人間の姿というものを重ねていたように思う。
 その「中野重治と北海道の人々」という展覧会を私が企画し、準備し、実施する。その展覧会には、福井のこと、北海道のこと、小笠原館長のこと、母のこと、父のこと、私自身のことがすべて重なってくるだろう、と思っている。
(『北海道文学館報』2001年6月、だったかな)

■2月9日
昼ぐらいからボチボチ、のつもりで呑気に構えていたところ、朝から明日の古本市の準備開始です。
「去年は雪あかりの路のボランティアの人たちと交錯して、テーブルとか上へあげるのたいへんだったでしょ。混雑しないうちにやっとかないと」。なるほどねえ。私、去年のことよく覚えてないからなあ。

ボランティアさん三々五々あつまり古本を会場に運びあげ、棚やテーブルに本ならべ、やってるうちにちテンションあがり気味。ウチのボランティアさんには珍しくプチ・エキサイト。
やや遠くでみていれば、うーん、やっぱリーダー不在はいなめない。コージ君にかわるリーダー未だ確立せず。
どんなリーダーかというと、誰よりも滞在時間ながく、だれよりも本好きで、その上でがんばりすぎない、ことが大事なのを誰よりも知ってる人。そんな人だったら若かろうが年いってようが、誰でもいうこと聞いちゃうんだね。「こーしたほうが、いーんじゃないすか」で、みんな納得してしまう。

しょうがない、ここは私が。って、私自身にリーダーシップなんかないじゃん。小学校のときの通知簿にも書かれてたじゃん。どっちにしても、私がガリガリしきるのはまちがってるでしょう。やっぱりボランティアの意気はさがります。

みてれば、プチ・エキサイトしながらも、じょじょに仕事はきれいに納まっていく。

きょうは「大人のための読み聞かせ・名作の時間」もありましたからね。それをはさんで限られた時間内での作業だから、気もせく。ナーバスにもなる。わるくない。
申し合わせたように、朗読が始まったら作業も一時中止、エキサイトしてたボランティアさんも静まりかえります。

朗読にみんな聞き入ってるときに、案内ボランティアのマカベさんが、勢いよくドア開けて、「障害ある人たちのグループ19人。カフェで休ませてね!」ありゃりゃ、間がわるいなあ。どうしようか、と思う間もなく、作業中止してたボランティアさん、「朗読、まもなくおわるけど、今は物音たてられないから、下の部屋で休んでいってください。コーヒーもっていきますから」。そのうちお一人が、すっと私のそばにきて、「タマガワさん、ドネーションのブタの貯金箱も下に持ってきますか」。ええ、お願いします。皆さん、よろこんで小銭いれてくださるでしょ。

うーむ。案ずるより生むがやすし。やっぱり私が前面に出る必要なし。ニューリーダーもおのずとできあがっていくでしょう。

追記;向田邦子の「鮒」って、すごいですねえ。「家族団欒」の無味無臭、無害の幸福が、夫が捨てた女が置いていったフナのグロテスク、生臭さでベロベロにめくれあがっていく。男の身勝手、小心、妻の残酷、こどもの侮蔑。

ぜひ皆様、お越しください。小樽文学館が月一回お届けする「大人のための読み聞かせ 名作の時間」。ちょっとやみつきになるかも。次回は3月15日です。

■2月8日
午前中は「榎本武揚没後百年記念事業」の記者会見。私は「榎本武揚と歴史小説」とややムリヤリ文学展に仕立てた展示会担当で、事業の中核と委員長にはいわれたが、ぜんたいのお祭のなかでは所詮ジミ。
榎本武揚の美髯にちなんだヒゲ・コンテストのほうがずっと盛り上がるだろうし、それでいい。

3、4人でボソボソやってた実行委員会もいつのまにか百数十人規模になったんですね。民間の若い人たちが動きだすと、やっぱりすごいな。展覧会もだいじだけれど、みんなの願いはほんとはその先。小樽に榎本武揚の銅像たてること。
それもよくわかる。銅像たたなかったら、展覧会やって何になる。今は、私も半ばそう思う。昔なら、銅像たててどうすんだ、なんてナナメにひねくれてただろうけど。

展覧会はともかく、銅像たてるにはお金がかかります。そこで募金。北海製缶(小林多喜二「工場細胞」のモデル企業ね)ご提供のミニドラム缶みたいな「募金缶」にちょっと笑ったけれど、もちろん笑うのはおおまちがい。みんな真剣です。
「募金缶」だけでお金あつまるはずはないから、大中小の企業商店にご寄金をお願いいたします。そのリストみて驚いた。ハエのアタマみたいな小さな文字でびっしり、何枚も。小樽にこんなに企業やお店があったんだ。これは?「今まで、いろんなイベントで何らかのご協力をいただいた会社です」と実行委員会事務局長。へえ〜。やせてもかれても、これが商都小樽の底力?
「とはいえこのご時世。ひとくち1万円でも5千円でもご寄金つのるのは、なみたいていのことではありません。そこで各部会長の方々にも会社まわりを割り当てさせていただきました」。

そうかあ。私も募金缶もって(もっていかなくてもいいけど)会社まわりしなきゃいかんか。こういう場面で、人間の社会における「実力」が試されるのですね。「エノモトタケアキ」が何者かくどくど言い立てる「ブンガクカンフクカンチョウ」なる人物に5千円でも寄金を託そうなどという会社がこの世に存在するのかしら。

「学芸員の社会における役割」なんて、などすみっこでひねくれてるのも、悪くはないけれど、たまには銅像たてる、なんて実にわかりやすい社会貢献のための貧者の一灯、がんばってみようね。

■2月5日
立春。暦の上、とはいえ春。名のみ、とはいえ春。

きょうは函館。日が陰り、雪がちらつき、風が舞えば、それは寒いが、ときおり日が射す。陽射しのきらめきが、おもいがけないほど強い。
冬が終わった。春が、めぐる季節がきょうから始まった。そう思おうね。

きょうの用事は、秋と冬のあいだやっていた啄木展の資料のご返却。函館市中央図書館・函館啄木会と函館市文学館。つまり秋と冬にさようなら。

文学館を出たのが昼過ぎ。博物館へ行く前に、ご飯を食べましょう。末広町の、この辺にあの食堂があったはず。初めて入ったのは20年ほども前だったろうか。ラーメン屋みたいな名前だったし、サンプルも薄汚れた感じだったのに、びっくりするくらい美味しかったんだね、洋食が。
あとで知りました。昔から有名なお店だったらしい。
すぐみつかったきょうは三度目。注文はオムライス。
昔聞いたことがある。初めて入った店で迷ったら、オムライスをたのめばいい。オムライスなんてどこの店でも似たり寄ったりだから。って、とんでもないです。上手な美味しいオムライスを作れるお店、至極まれなり。私3軒しか知らない。ひとつめ、ここ。ふたつめ西荻の何とかって食堂。ここもサンプル薄汚れた小さなお店だった。みっつめ、小樽文学館の近くにあった(ほんとは今でもあるのだけれど内装もメニューもすっかりかわってしまった)ビヤホールのオムライス。完璧だった。なくなってから、それに気がついた。

お店を出るときに確かめる。青柳町の博物館は左の方へまっすぐ行けばいいんですよね。
「あお……やなぎちょうですか?」へ?何だか心許ないおねえさん。奥さんを呼びに行く。
「あおやぎちょうは十字街へ戻って谷地頭向かう二つ目の電停ですよ。博物館は無くなったんじゃないの?」。いや、図書館は新しくなって移転しましたが、博物館はまだ青柳町です。って私が教えてどうする。函館の方って、地元のことに無頓着?

前にも書きましたが、古びたとはいえ、市立函館博物館。その品格、侵しがたし。そんな博物館にはそこにふさわしい学芸員がおられる。
佐藤智雄さん。とつとつとお話しになるが、聞いているだけで元気でてくる。
話は榎本武揚展。さすがのリストアップですね。「とうてい展示しきれないから、どう絞り込もうかと」。図録は?「印刷費がありません!(きっぱり)」。実行委員会は帆船に専念されるようですね。「小樽にもいくんでしょう?」小樽は帆船呼ぶ予算はない、って聞きました。「スポン」スッポン?「いやスポンサーがついたらしい」。ああ、そうでしたか。「だから小樽の皆さんは、出船入船送り迎えしてくださるだけでいい。こんな風にたもとを抑えて、ですね」。あははは、たもとを、ね。

ということで、向かうは榎本武揚展(何で文学館で?は、おいおいと)。視線は6月ね、秋・冬は、もう振り返らないのね。