マッキンノン先生の悲劇
58年前の開戦で消えた ロバに乗る慕わしい姿
(北海道新聞1999年12月8日夕刊)
水口忠
昭和16年12月8日太平洋戦争が始まった。この日小樽高商(現商大)のダニエル・ブルック・マッキンノン先生が全く身に覚えのないスパイ容疑で、教壇から特高警察に連行された。
小樽高商は開学以来、実学と外国語教育の徹底を期し、語学はそれぞれの母国語を教える外人講師も多かった。特にマッキンノン先生は、独特の英語教育で学生に愛され、伊藤整の『若い詩人の肖像』には、ユニークな授業の様子が書かれている。
先生はハーバード大学を卒業し、大正6年小樽高商に客員教授として来日した。日本人の妻秦子(しんこ)さんとの間に一男二女をもうけた。
大変動物好きで、官舎からロバのドンキー号で出勤したり、赤いマントのお嬢さんもロバに乗せ街に出かけるなど、「ロバ先生」として市民にも敬愛されていた。
最近、マッキンノン先生が、警察署に拘留されていた頃のことを、K夫人に聞く機会があった。
彼女の父親は小樽警察署に勤務していたが、特高とは別の部署で、スパイ容疑については疑問視し、部下には他の犯罪者とは違うので、十分配慮して接するように指示していた。
取調べのない時には、先生と家族のことなど共通の話題も出るようになってきた。そして、互いに娘がいることがわかり、ぜひ会いたいと希望したそうである。
「私は小学校6年生でした。雪が降っていたのを覚えています。警察の建物に入るのは好きではありませんでした。たまに父にお弁当を届けに行くと、受付のお巡りさんが怖い顔で、子どもが何しに来たといわれるからです。
この日は、父と一緒ですから安心でした。警察署の暗い廊下を通り階段を降りて、厚い鉄の扉を開けて入ると、鉄格子の小さな部屋に、とても窮屈そうに座っているマッキンノンさんがいました。
父は『座っているのは大変です。蒲団をたたんで、その上にかけて話しましょう』といいました。後で聞くと見回りの時には、正座するのが規則だそうです。
先生には、母と入った妙見川近くの、レストランで会いましたし、街でロバに乗っているのを見かけたこともあります。しかし警察で会ったこの時は、髭も伸び随分疲れているように見えました。
マッキンノンさんは、日本語でやさしく
『よく来てくれましたね。ロバにのっていた私を知っていますか』それから学校や、友達のことなど、いろいろ聞かれました。
『私にも三人の子どもがいますが、みんな小樽が大好きです。今は町には出られませんが、一日も早く平和になって、前と同じように友達になってほしいと思います。今日はどうもありがとう』といわれました。
私は高商の偉い先生が、こうして牢屋にいるのは、動物園の檻の中を見ているようで、子ども心になんとなく恥ずかしい思いをしました。また子どもさんの話になると、悲しそうな表情だったのを覚えています。
別れるとき鉄格子の間から、手を握ってくれました。その手がとてもやわらかで、温かだったのが、今でも印象に残っています。そして『お元気でね、また会いましょう』といいました。しかし、それから間もなくどこか別の所に移されたそうで、お会いしたのはこの一回だけでした」
Kさんは、これは戦時中の私的な体験ですが、いつも気になっていたので、今、話ができてほっとしたと語った。
ダニエル先生が小樽で拘束された日、旧制四高(現金沢大学)2年だった長男のリチャード君も、学生寮に特高警察が踏み込み連行され、カナダ人経営の幼稚園に収容された。
彼はサッカー部であったので、部員達は毎日練習後、幼稚園の周囲をランニングしながら何回もまわり、大声で『マッキンノン頑張れ』と励ましたという。
その後は先生と同じく、全国の収容所を転々とし、父と二人の姉とともに交換船で帰国した。しかし日本国籍の妻の秦子さんだけは残され、先生が拘留後二年たち病気で亡くなられた。
戦後、昭和40年高商の教え子たちが、マッキンノン先生を日本にお呼びしようと、募金活動をしていたが、先生はなかなか承諾しなかった。それは25年間の小樽と、戦争中の収容所のことから、「日本に対する自分の感情をはっきり形づくることは、難しい」と考えていたと伝えられている。
昭和42年漸く受け入れられ、二ヶ月にわたり、各地の同窓会(緑丘会)による歓迎を受け、全国を旅行され大変喜んで帰国された。その後、昭和51年に87年の生涯を閉じられた。
長男リチャードさんは、戦後フルブライトの交換学生として来日以来一貫して、能・狂言の研究をすすめてきた。そして世阿弥の研究によりハーバート大学で博士号を取得し、シヤトルのワシントン大学教授となり日本文化や文学を講じられた。また環太平洋問題研究所を設立して所長となられ、日米交流に貢献された。小樽にも平成5年小樽商大の日米交流マッキンノン記念講演会のために、病をおして来日され、「小樽高商と日米関係」と題して話され、小樽中学校の同期生とも何十年ぶりかで懇親を深めた。しかし翌年72歳で亡くなられた。
開戦から58年目の12月8日がまためぐってくる。K夫人の話を聞き、あの日全国であった敵性外国人拘留の悲劇を、これからも語り継いでほしいと考えている。
(小樽市史編纂委員)