軍国少年だった

 現在小樽市立文学館では特別展『子どもたちの戦争体験』を開催中である。私にとっての戦争体験は満州事変当時はまだ3,4歳で記憶はない。昭和12年にはじまったシナ事変からである。6月11日に始まった特別展は市民の関心も高く、貴重な資料や情報が寄せられているようである。これを機会に限られた私の戦争体験を書いてみた。  小学校に入学したのは昭和11年4月、その年10月には北海道で陸軍大演習があり天皇の行幸があった。小樽にも立ち寄られ全市の小・中学生学校が市内内各地で整列してお迎えした。 北手宮小学校1年生であったが、北海製罐工場を視察される天皇の歓迎に、月見橋近くに随分前から並んでお迎えした。数日前には同じ時刻に同じ場所で予行練習があっ。しかし実際に天皇のお顔は見えず、乗っていたであろう乗用車を見ただけだった。もっとも同じような車が何台か通過したので、どの車かさえわからなかった。と言うのは車が近づくと「最敬礼」の号令で頭を深々と下げ「直れ」で上げてみると、自動車は過ぎ去っていた。

お帰りになるまで待っていて、また最敬礼をするのでやはり見えなかった。最近のように日の丸の旗を振って歓迎するのとは話がちがう。小学校1年生にまで天皇陛下は大御神(おおみかみ?)であると,徹底してアマテラスオオミカミ以来続く万世一系の天皇の神格化を教えていた。

 さて翌年7月に、小樽では花園公園と埠頭で北海道大博覧会が開かれ大変賑わっていたが、同じころシナ事変と言う名称で中国と戦争が始まった。やがて子ども心にも急に戦時体制が強化されたように感じられた。日常生活や学校の行事や授業でも徐々に戦争へ駆り立てられた。しかし戦争の善悪を判断できるわけでなく、日本軍の情勢が不利になっても、ただただ政府(大本営)の勝利を強調する報道だけであった。いくら退却が続いても撤退という言葉で、最後には神風が吹き日本は勝利すると信じこまされていた。

 小学4年生の途中で父の会社の関係で奥沢小学校に転校したが、北手宮でやっていた相撲が好きで、引き続き相撲部で遅くまで練習していた。指導の高谷先生はが師範学校卒業後海軍の経験があるので、よく軍艦の話などを聞いていた。そして小樽には海洋少年団があり先生も指導していると話された。それを聞いて5年になって入団した。憧れだった水兵帽とセーラーは貸与され白いキャハンは母に作ってもらい、それらをつけると姿だけは少年水兵の誕生となった。月2回だったと思うが、日曜日に稲穂小学校に集合し訓練があった。すでに入団していた先輩と新入団員は幾つかのクラスがあった。最初は服装のことから海軍式の敬礼、整列、行進など基本的なことが中心で、小型の銃を担いで行進や、銃の分解整備などもした。 海軍らしい事では手旗信号やモールス信号などに一番時間をかけて教えられた。海でのボート訓練もあったが、それは上級班の団員で我々にはそうした機会がはなかった。 一回だけだったが、日露戦争で東郷平八郎元帥がロシア艦隊を破った、5月27日の海軍記念日に、小樽に入港していた駆逐艦に乗船し小樽港から積丹沖まで往復し、艦内では軍人さんに随分歓迎されたことを覚えている。

 6年に進級した4月になり、これまでの「小学校」から戦時下の健全な国民を育成する「国民学校」と改称されたのが特筆される。この年全国規模の作文(当時は綴方といっていた)コンクールがあり学級全員が書かされた。私の作品がを担任の竹谷先生に随分とほめられたが、たまたまテーマにあっていたに過ぎないと思っていた。内容は東郷元帥のことを中心に海洋少年団体験のことなどを書いたものだった。それが市内の優秀作品数点に選ばれ北海ホテル(当時小樽にはでは越中屋ホテルと2つのみ)で表彰式があり先生と参加したた。式後洋食がでたがナイフとフォ―クを使ったこともなく、隣の竹谷先生のしぐさをまね、言われるままナプキンを敷き食べてはいたが、緊張のあまりか味は勿論献立もまったく覚えていない。その後花園町の松竹座に招待され映画「風の又三郎」を鑑賞したが、あの冒頭の嵐の音が今でも印象に残っている。宮沢賢治というと今でもあの場面を思い出す。それに比較し北海ホテルの料理はすっかり記憶から消えている。東郷平八郎元帥礼賛はまさしく私は軍国少年だった。

  やはり6年生の昭和16年12月8日連合国に宣戦布告し太平洋戦争開戦となった。翌年国民学校初等科を終了し、(卒業とはいわず6年の初等科のあと、高等2年を終えて卒業と変わった)旧制の小樽中学校に入学した。戦時一色で2年生になると英語は敵性語であるとの理由で時間が急減した。また授業を取りやめ勤労動員が次第に多くなってきた。小樽にあった陸軍の補給廠の作業で、千島列島やアリューシャン列島に送る砲弾や糧秣などを市内の倉庫や洞穴(明治・大正時代に小樽軟石を掘り出したあと)に格納したり運び出す作業に従事した。また出征した農家の人手不足を補うための地方の農家に援農に行ったり、各種の工場や日高山奥のクローム鉱山へも動員された。もっとも戦争を身近に感じたのは、全校朝会で陸軍・海軍への志願が勧誘されたことである。多くの友人たちが陸海軍の学校に入校、入隊して行った。やがて戦況はだんだん追い詰められ、ついに4年生の昭和20年8月15日敗戦となった。ふりかえると小学校・中学校を通じてすべてが戦時中の学校生活であった。

最近のイラクへの自衛隊派遣を決定した政治家・官僚たち、そして日の丸を振って見送る人たちの何割の人が過去の戦争の悲劇を知っているのであろうかか、最近のなしくずしに戦時体制に組み込まれていく政治のあり方には疑問がある。かけがえのない平和を希求して立ち上がった日本国ではなかったのか。(上の画像はアメリカ軍の飛行機から撒かれた伝単ー宣伝ビラ) 《⇒雑記帳》