目次
2. インターネット上の公開とは、著作権法上どのような行為と看做されるか
5.1. 多数の著者の論文より鳴る論文集としてのみ発表されている論文の場合
本論の目的は、既に雑誌・書籍の形で出版された学術論文を、著作者自らが、インターネット上において、自身のホームページなどにその論文をアップロードし、無償で頒布(1)することが、著作権法上どのような問題を孕んでいるか、ということに関する現在の議論を俯瞰することにある。
このようなことに私が関心を持ったのは、現在、減り続ける読書人口、出版界の不況などということがよく言われることに鑑み、それでは、そもそもそれほど出版社の利益になっているとも考えられない学術論文を、雑誌・書籍の形で刊行し続ける意味は、一体どこにあるのか、という問題意識があったからである。
また、学術論文のみに対象を絞ったのは、書き手である学者が、普通は大学などで職を得ており、著作権からの収入がなくても生きていけると思われることに加えて、インターネットを通して広く論文を公開することで、第三者からの批評などを受け取りやすくなり、学問の発展に寄与することがあると考えたからだ(もっとも、広く公開されたことによって愚昧な質問が増え、それによって寧ろ学問の発展が滞るという可能性も考えられなくはないが)。
もちろん、現在においても、印刷された出版物に対する敬意は強く、アカデミズムの世界では、例えば、紀要論文を何本発表しているか、および、書籍を何冊出版しているか、などということが、学者自身の評判に大きく関わってくることは了解している。
さらに言うならば、そうしたことが、出世の規準の一つになっていることも、了解しているつもりである(2)。
つまり、まだまだ、雑誌・書籍の形で論文を発表するインセンティヴは存在するのだ(もちろん、これだけが雑誌・書籍の形で論文を発表するインセンティヴではないかも知れないが、どうも、最も主要なインセンティヴは、これなのではないかと思われる)。
さて、しかしながら、そもそも学術研究とは、そのようなインセンティヴによって行われるものであったろうか。
そうではないはずだ。学術研究とは、本来、自分の研究を広く公開し、第三者が自由に使ったり吟味したりするのを通して、発展していくものではなかったか(3)。そうであれば、権威主義的志向や金銭欲から、出版を重視するのは、いささか莫迦げていると言えよう。
確かに、雑誌・書籍の形における論文の発表は、これまでは頒布の形態として、最もポピュラーなものであった。それゆえ、著作権法は雑誌・書籍による出版を中心に定められたのだし(4)、そもそも著作権という概念が必要とされたのも、広範な頒布が、印刷機の登場によって可能になり、海賊版業者から正当な出版者の利益を守るためであった(5)。
だが、現在、広範な頒布を可能にするものとして、雑誌や書籍といった印刷物による頒布が最も効率的だと言い得るだろうか。寧ろ、インターネットの方が、その役割には適しているのではないだろうか(6)。
そもそも、インターネットの前身であるARPAネットは、学術機関を結びつけ、ネットワークを介して研究業績を交換し合う、という目的で作られた(7)。
今や、どの大学にも、インターネットに接続したパソコンはあるが、全ての本が、大学図書館に納められているわけではない。海外をも視野に入れれば、インターネットを使った方が、遥かに効率よく、論文を多数の人の目に触れさせることができると言えよう。
それでは、以下、そうしたインターネットによる論文公開を巡る、著作権法上の問題点を見ていくことにしよう。
まず、インターネット上で論文を公開するという行為が、著作権法上どのような行為であると看做されるのかを押さえておきたい。
著作権法によると、インターネット上で論文を公開するという行為は、論文を「送信可能化」するという行為であると思われる(8)。電子出版という言葉を耳にすることがあるが、著作権法上、インターネット上で有償であれ無償であれ、文章を公開することは出版とは言われない(9)。
しかし、中には「電子出版権」なるものを想定し、契約書にそうした権利を設定してもらうようにしている出版社もある(10)。こうした状況もあるので、次に著作権法の定める出版権というものを見てみることにしよう。
一般的に、著作権というのは著作者の持つ権利であるから、著作をどのような形で頒布するかは、著作者が自由に決めてよいとされる(11)。だが、そうはいかない例がある。それが、出版権に関する問題である。
出版権について見る前に、まず出版許諾というものについて見てみることにしよう。
正確に言うと、出版許諾なるものについて、著作権法は何も定めていない。したがって、一般的な出版契約のことを、出版許諾と解してよい。
出版許諾というのは、単に「出版してもよい」という許可を出版社に与えるだけのものであるから、他の出版社から、形を変えて出版されても、その出版社に対して訴えを起こすことはできない。
例えば、多数の著者からなる論文集に論文を寄稿する時には、後に自身の論文のみをまとめて単行本化することが考えられるため、出版社には出版許諾のみを与える(というより、出版権を設定しない、という方が正確である)ということがほとんどである。
出版社側も、多数の著者による論文集に収録された論文のうち幾つかが、他社から単行本の形で出版されたとしても、論文集の価値はあまり減じられないので、それでよしとするわけだ。
だが、これが単一の著者による単行本だったとすれば、出版許諾だけで充分とは言えない。自社から出版した単行本が、他社から文庫化されてしまえば、自社の売り上げの妨げとなる場合が大いにあり得るからだ。それを防止するために制定されたのが、出版権であった。
そもそも、現在のような出版権規定が著作権法に導入されたのは、1934年のことである。これは、昭和初期の円本ブームの頃、幾種類もの文学全集に、同一作品が収録されるということが相次ぎ、それによって、売り上げが共食いの状態になってしまった出版社が、二度とそのようなことが起こらぬように、ということで法制化されたものであった(12)。
出版権の法的効力とは、特定の出版社に、いかなる形態における出版であれ、独占的に出版する権利を許諾する、というもので(13)、著作者によって設定されて初めて効力を持つ。
簡単に言うと、この出版権を設定された出版社以外は、その作品を、オリジナルとして出版するのはもちろん、文庫や全集に収録することも許可されない、ということである(14)。
だが、出版社側からの要望で法制化されたにも関わらず、この出版権の設定に対して、出版社はそれほど積極的でないのが日本の実状と言える。それどころか、出版許諾に関する契約書すら、取り交わさないことが多いという(15)。
ここには、出版社と著作者の信頼関係があるのだから、そうしたものは不要だとする雰囲気が強く影響しているらしい。また、契約がなされた場合であっても、出版権の設定というものを細かく行っていない、単に出版許諾であるのか、それとも出版権を設定しているのかがわかりにくい契約というものもあるという。
出版許諾と出版権に関しては了解して頂けたろうか。
それでは、よく聞く電子出版権やデジタル化権なるものが、著作権法上、認められるものであるのか、また、認められるのであればどういう権利であるのかを見てみることにしよう。
結論から言うと、電子出版権やデジタル化権というものは認められない。電子出版権から見ていこう。
電子出版権が認められない第一の理由としては、先にも述べたように、インターネットなどで文章を公表することが、有償であると無償であるとを問わず、「出版」とは言われないということがある(16)。
つまり、「電子出版」という言葉は、著作権法上では成立し得ないのだ。法律上で成立しない権利を有していると主張しても、裁判所がその権利を認めることはない。
それどころか、インターネット送信に関する権利だと思われる「公衆送信権」を定めた著作権法第23条によると、「著作者は、その著作物について、公衆送信(自動公衆送信の場合にあっては、送信可能化を含む。)を行う権利を専有」(著作権法第23条第1項)し、また、「著作者は、公衆送信されるその著作物を受信装置を用いて公に伝達する権利を専有する」(同23条第2項)。
これだけで、電子出版権なる奇矯なものが成立しないのは了解して頂けたろうが、もう一つ述べておきたいことがある。それは、出版権が、分けることのできない権利であるということだ。
もし、出版権を分離可能なものとして捉えると、「電子出版権」以外にも、「文庫出版権」や「全集出版権」なるものが成立し得ることになってしまう。これでは、出版権を設定する意味など全くない。出版権とは、出版に関する権利を排他的に占有するために設定されるものであるから、上記のように分けることは不可能なのだ。
であるから、仮にインターネット上における文書の公表を、「出版」だと看做しても(そんなことはあり得ないが)、それは、「出版」だと看做された時点で、出版権者に出版権が設定されていることになるわけであり、出版権を持たない第三者(著作者を含む)が、新たに「電子出版権」のみを獲得することは不可能である。
このように、電子出版権というものは、どのように考えても、成立不可能なものなのである。
では次に、デジタル化権というものについても見てみることにする。
そもそも、デジタル化権とは、デジタル・コピー作成を許諾されたということと同義であって、著作権法上、特にデジタル化権なるものについて定めはない。したがって、今のところ、出版許諾と出版権のような違いが、「デジタル・コピー作成許諾」と、「デジタル化権」の間にあるというわけではない。
このことは、出版権の存在しなかった時代、そのことによって問題が起きたのと同様の問題が、これから起き得る可能性を示唆している。が、そのことはここでは措こう。
上記のことからわかるのは、著作者以外の第三者が、デジタル化権を有していたとしても、それは許諾に過ぎないということである。
そうであれば、著作者がその著作物をデジタル化し、インターネット上で無償で公表したところで、デジタル化権を有しているという理由から訴えることはできない(17)。それはあくまで許諾にすぎず、著作権の一部を譲渡したわけではないからだ。
それでは、次に、インターネット上で論文を無償で公表することに対して、現実的な障害となり得る、「契約に伴う信義則上の付随義務」について見ていくことにしよう。
全ての著作者は、出版社の利益を不当に害しない信義則上の付随義務を負っていると考えられる。
信義則とは、「信義誠実の原則」の略称であり、私法上、権利の行使や義務の履行にあたり、社会生活を営む者として、相手方の信頼や期待を裏切らないように誠意をもって行動することを求める法理のことである(18)。
この例で言うと、既に印刷物として刊行された著作を、インターネット上において無償で公表することは、出版社の利益を不当に害するとされ、この信義則上の付随義務に反すると考えられる(19)。
先に述べたデジタル化権に関することだが、例えば、単独名義の著書に対するデジタル・コピー許諾を得た者は、この「信義則上の付随義務」を拠り所として、著作者を訴えることができると思われる。
出版許諾の場合、出版社が出版許諾のみでよしとするのは、複数の著者から寄せられた論文よりなる論文集を刊行する時で、それであれば、中の論文が公表されても、出版社にそれほどの被害はなかったからであった。
しかし、デジタル・コピー許諾の場合、それでよしとするのは、デジタル化権と言われるような独占的な権利が著作権法上は存在しないからである。したがって、複数の著者から寄せられた論文よりなる論文集のみならず、単独の著者の文章からなる著作物のデジタル・コピー許諾を受けている、ということも大いに考えられる。
この場合、その著作を、著者が無償で公表してしまえば、デジタル・コピーを許諾された者は不利益を被ることが予想されるから、「信義則上の付随義務」を根拠として、著作者を訴えることができるだろう。
上記の信義則上の付随義務を考えると、著作者が既に刊行された単行本の中身を、自身のホームページで無償で公表するのはおよそ不可能である。だが、自身の(あるいは他人の)論文を、ホームページ上で公表する学者もいる。これは一体、なぜだろうか。考えられる理由が四つほどあるので、それに関しても述べておこう。
まず、出版物として刊行された形態が、多数の著者の論文からなる論文集であるということが推察できる。
これであれば、3.1.で述べたように、単独の著者が、他の出版社から自身の論文をまとめて出版するということがしばしば問題なく行われているのと同じく、元出版社の利益を不当に害するというほどのものにはならないので、問題にならないことが多い。
同様の理由で、自身のホームページで論文をまとめて公開しても、問題とされないのであろう。このような、多数の著者よりなる論文集から、自身の論文のみを抜粋してホームページで公開するという例は、多数見られる(20)。
そして、実際に様々なホームページを見てみた結果、これ以外のケースで、論文を公開しているケースは存在しないようである。つまり、単独の名義で既に出版された論文を、ホームページ上で公開している例は、少なくとも国内にはないように思われる。
次に、著作者が死んで50年が経ち、著作権が切れている場合。これは著作者本人が死んでいるのだから、著作者によってインターネット上にアップロードされることはない。しかし、著作権が切れてしまっていれば、誰でもその文章をアップロードすることが可能である。しかも、著作者ではないから、出版社に対する信義則上の付随義務に悩まされることもない。
これをうまく利用したのが、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)であり、また、プロジェクト・グーテンベルク(http://promo.net/pg/)や、プロジェクト杉田玄白(http://www.genpaku.org/)である。
第三に、著作者が、特殊な形態の著作権を設定しているものが挙げられる。その一つに「コピーレフト」と呼ばれる形で提唱されているものがある。この著作権概念は、かなり新しいもので、リチャード・ストールマンやGNUプロジェクトが先頭に立って推進している。
詳しくは、GNUのホームページ(http://www.gnu.org/)を参照されたいが、骨子だけ簡略に述べておくと、コピーレフトとは、その対象となっている著作物を配布する際に、その著作物の使用、変更、再配布を認める、という形で配布しなくてはならない、ということである。
このコピーレフトの考え方は、コンピュータ・ソフトウェアに対する著作権として生じてきたので、「変更を認める」という一文があるが、これを文書に適用する際には、この「変更を認める」という部分が「変更しない限りにおいて」となっていることが多い。
つまり、「本文に一切変更を加えず、この著作権表示を残す限り、この文章全体をいかなる媒体においてもコピーおよび配布することを許可する」という著作権表示がされているものが多いのだ(21)。
こうした立場は、フリーソフトおよびオープンソフト・ソフトウェア運動に関係する人たちの多くに認められるもので、例えば、エリック・レイモンドによる有名な論文、『伽藍とバザール』などは、こうした著作権設定の下にホームページで公開されており、印刷物として出版されている『伽藍とバザール』にも、「本文に一切変更を加えず、この著作権表示を残す限り、この文章全体をいかなる媒体においてもコピーおよび配布することを許可する」という表記がある。
出版社は、それを了解した上で出版しているのだから、インターネット上で公開しても、信義則上の付随義務が問題とされることはない。
そして、第四に、これは当然であるが、印刷物としては未発表のものが挙げられる。そもそも、未発表の著作物に関しては、著作者に公表権がある(22)。したがって、それを自身のホームページで公開するという決定には、誰も文句をつけられない。
例えば、インターネット上で既に公表されている文章を、印刷物として出版したいとして、出版社が申し出たとしても、先にインターネット上で公開するというのを著作者が決めて発表している限り、信義則上の付随義務に則って、インターネット上から、著作物の削除を求める訴えを起こすことはできない。出版社は、既に公表されているという事実を了承した上で、出版契約を結んだとされるからだ。
これまで見たように、二、三の例外があるとは言え、既に出版されてしまった単独著者による著作物を、インターネット上で公開するのは、著作者本人によるものであっても、可能ではない。
確かに、印刷物が広く行き渡るようになって以来、著作物を海賊版や著作者人格権の侵害から守り、文化の発展に貢献してきた出版社の利益は尊重されて然るべきであろう。
だが一方で、電子メディアという新たなテクノロジーの発展により、広範な頒布、著作物・著作者人格権の保護、文化の発展という著作権法の目的(23)を果たすのにより適当だと思われる媒体が登場しつつあるのも事実である。
特に、学術論文となると、印刷部数が限られるために定価は高くなり、それによってますます読者は減り、読者がいないためにますます部数が減るという悪循環の中にある。絶版になってしまった本など、よほどのことがない限り、再版はされない。そうした状況が、本当に学術の発展のためになっていると言えるであろうか。
私には、そうは思えない。初めに書いたように、学術論文を書く人の多くは、その著作ではなく、他から収入を得ている。そうであれば尚更、学術論文を、もっと広く公開すべきなのではないだろうか。
そのような状況は、初めに述べたように、第三者が自由に使ったり吟味したりすることが可能になるということであり、学問の発展にも寄与するところ大であると思われる。
だが、現実的にはそのようなことが起こるかどうかはわからない。電子テクノロジーの発達は、そうした広範な頒布を可能にする一方で、これまでよりも厳しい制限を課すことも可能にする。
著作権の問題に関して言えば、ローレンス・レッシグが、その著書『CODE』で言ったように、これまで取りっぱぐれていたような人たちからも、著作料を徴収することが可能になるだろう(24)。
また、出版権のように独占的な権利を持つデジタル化権というものが法制化される可能性もある。そのようにして、これまで以上に細かく料金を請求されるというのが、最も現実的なシナリオなのかもしれない。
ただし、ローレンス・レッシグが同書で述べたように、それはこれからの可能性にすぎないのであって、どのような方向に向けるかは、われわれが考えなくてはならない問題である。
抛っておけば、これまで以上に細かく料金を課されることになるだろうが、それを防ごうとすることは、今の段階であれば可能だ。その可能性の一端が、5.2.以降で考察した、例外に見え隠れしているように思えるが、どのような方向に持っていくべきかを判断するには、更なる議論が必要とされるはずだ。
ただ、その際に忘れられてならないのが、著作権法が制定された際の、そもそもの目的である。そうした、法律制定者たちのもともとの思惑を、現在の文脈に置き換えて考えることが、これからの議論の核になるだろう(25)。
註
(1)著作権法上における「頒布」の定義は次の通り。
(2)紀要論文や本の出版状況が、アカデミズムの世界で出世に堅く結びついているというのは、例えば、小説ではあるが、筒井康隆『文学部唯野教授』岩波書店、1990、p. 14などに描かれている。
(3)もちろん、この見解は、かなり理想主義的である。アカデミズムとの類似が語られることの多いハッカー界においても、「名声」というのは個人に対する評価基準であると共に、労働へのインセンティヴになっているとも言われる(エリック・S・レイモンド『ノウアスフィアの開墾』第8章参照)。その名声を重視し過ぎるあまり、論文を盗作するなどということは、よくあることのようだ(この点に関しては、筒井康隆『文学部唯野教授』を参照されたい)。
(4)イギリスにおいて、印刷物に関する著作権に相当するような権利の保護を出版者に対して与えたのは1557年のことであるが(白田秀彰『コピーライトの史的展開』<知的財産研究叢書2>、信山社、1998、p. 29参照)、実演、レコード、コンピュータ・プログラムなどに対する著作権──つまり、著作隣接権という概念──を認めるようになったのは、レコードが登場してからのことである。
(5)著作権法の定義に従うならば、インターネットにおいて論文を公開し、公衆の目に触れるようにすることを、「頒布」とは言わない。「頒布」の定義については註1を参照されたいが、つまり、「頒布」とはハードコピーの譲渡/貸与を前提としているので、インターネットにおいて公開することは、「頒布」と看做されないのである。したがって、この論文でも、以下、インターネットにおける公開を、「頒布」とは言わない。
(6)山本順一『電子時代の著作権』勉誠出版、1999、pp. 26〜30および、白田秀彰、op. cit., 参照。
(7)このことは、インターネットの歴史を書いた本であればどれにでも書いてあるだろうが、一例として、橋本典明『メディアの考古学』工業調査会、1993のp. 205以下にある、ロバート・テイラーに関する部分を挙げておく。
(8)「送信可能化」の定義は次の通り。
(9)「出版」という語は、著作権法上、極めて限定された意味しか持っていない。
(10)日本国内における電子出版を一手に手掛けると言っても過言ではない、株式会社ボイジャーの代表取締役である萩野正昭氏の談による。契約書は未確認。
(11)著作権法第18条および斉藤博『著作権法』有斐閣、2000、p. 139参照。
(12)美作太郎『著作権と出版権──いま何が問題か──』日本エディタースクール出版部、1981、pp. 135〜136参照。なお、出版権に関しては、本文これ以下の記述も同書に依るところが極めて大きい。
(13)「出版権者は、設定行為で定めるところにより、頒布の目的をもって、その出版権の目的である著作物を原作のまま印刷その他の機械的又は化学的方法により文書又は図画として複製する権利を専有する」(著作権法第80条第1項)(強調は引用者による)。
(14)出版許諾を著作者から受け、加えて他社から同じ本を出さないという排他的契約を結んでいても、出版権を設定されていなければ、出版社は不利益を被ることがある。
(15)美作太郎、op. cit., p. 137。
(16)本文第2章で見たように、インターネット上で論文を公表することは、著作権法上、「送信可能化」するという行為だと看做される。
(17)ただ、この点に関して注意が必要なのは、本文第4章で触れる「信義則上の付随義務」を果たしていない、と看做される場合があることである。このことは、本文第4章で詳しく述べる。
(19)この点に関して、積極的に解しているのが、斉藤博・半田正夫編『著作権判例百選[第3版]』別冊ジュリスト157号、有斐閣、2001、p. 101である。ちなみに、註14のような例に対して、信義則上の付随義務からB社に刊行差し止めを求めることはできない。
(20)例えば、東京大学社会情報学研究所のホームページ(http://www.isics.u-tokyo.ac.jp/)から、研究者個人のリンクを辿っていけば、そうした例を幾つか見つけることができるだろう。海外であれば、ポール・クルーグマンのホームページ(http://web.mit.edu/krugman/www/)などがそれに該当する。
(21)GNUホームページ(http://www.gnu.org/)にある多数の文章の著作権表示および、コピーレフトやGNU GPLに関する文章(http://www.gnu.org/philosophy/philosophy.ja.html)を見よ。
(22)著作権法第18条および斉藤博『著作権法』有斐閣、2000、p. 139参照。ちなみに、著作権法では、「発行」と「公表」を別の意味で使っている。発行とは、頒布を前提とするものであるから、つまり、ハードコピーを譲渡/貸与することである(著作権法第3条参照)。
(23)Ibid., pp. 49〜52および著作権法第1条参照。ただし、インターネットによる公表を、著作権法上「頒布」と言わないのは、註5で述べた通り。
(24)ローレンス・レッシグ『CODE:インターネット上の合法・違法・プライバシー』柏木亮二・山形浩生訳、翔泳社、2001、第10章参照。
(25)これは、ローレンス・レッシグが、前掲書第9章で「翻訳」と述べた行為のことである。
参考文献一覧(作者50音順)
石黒一憲『国際知的財産権──サイバースペース vs. リアル・ワールド』NTT出版、1998
マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫、1989
公文俊平『文明の進化と情報化』NTT出版、2001
アルフィ・コーン『競争社会をこえて』山本啓・真水康樹訳、法政大学出版局、1994
アルフィ・コーン『報酬主義をこえて』田中英史訳、2001
斉藤博『著作権法』有斐閣、2000
斉藤博・半田正夫編『著作権判例百選[第3版]』別冊ジュリスト157号、有斐閣、2001
白田秀彰『コピーライトの史的展開』<知的財産研究叢書2>、信山社、1998
筒井康隆『文学部唯野教授』岩波書店、1990。1992年に発行された、同時代ライブラリー版も参照した。
筒井康隆『笑犬樓よりの眺望』新潮社、1994
富樫康明『インターネット時代の著作権』日本地域社会研究所、2000
永瀬唯『疾走のメトロポリス』、INAX、1993
橋本典明『メディアの考古学』工業調査会、1993
ペッカ・ヒマネン、リーナス・トーヴァルズ、マニュエル・カステル『リナックスの革命 ハッカー倫理とネット社会の精神』安原和見・山形浩生訳、河出書房新社、2001
美作太郎『著作権と出版権──いま何が問題か──』日本エディタースクール出版部、1981
山形浩生『新教養主義宣言』晶文社、1999
山形浩生『山形道場』イースト・プレス、2001
山本順一『電子時代の著作権』勉誠出版、1999
エリック・S・レイモンド『伽藍とバザール』山形浩生訳、2000。
エリック・S・レイモンド『ノウアスフィアの開墾』山形浩生訳、2000。
エリック・S・レイモンド『魔法のおなべ』山形浩生・田宮まや訳、1999。
エリック・S・レイモンド『ハッカーの逆襲』稲葉祐之訳、1999。
エリック・レイモンド編『ハッカーズ大辞典』福崎俊博訳、アスキー、1995
ローレンス・レッシグ『CODE:インターネット上の合法・違法・プライバシー』柏木亮二・山形浩生訳、翔泳社、2001
「有償であるか又は無償であるかを問わず、複製物を公衆に譲渡し、又は貸与することをいい、映画の著作物又は映画の著作物において複製されている著作物にあっては、これらの著作物を公衆に提示することを目的として当該映画の著作物の複製物を譲渡し、又は貸与することを含むものとする」(著作権法第2条第1項)。以下、この論文でも、この定義に従うこととする。
「次のいずれかに掲げる行為により自動公衆送信し得るようにすることをいう。
イ 公衆の用に供されている電気通信回線に接続している自動公衆送信装置(公衆の用に供する電気通信回線に接続することにより、その記録媒体のうち自動公衆送信の用に供する部分(以下この号において「公衆送信用記録媒体」という。)に記録され、又は当該装置に入力される情報を自動公衆送信する機能を有する装置をいう。以下同じ。)の公衆送信用記録媒体に情報を記録し、情報が記録された記録媒体を当該自動公衆送信装置の公衆送信用記録媒体として加え、若しくは情報が記録された記録媒体を当該自動公衆送信装置の公衆送信用記録媒体に変換し、又は当該自動公衆送信装置に情報を入力すること。
ロ その公衆送信用記録媒体に情報が記録され、又は当該自動公衆送信装置に情報が入力されている自動公衆送信装置について、公衆の用に供されている電気通信回線への接続(配線、自動公衆送信装置の始動、送受信用プログラムの起動その他の一連の行為により行われる場合には、当該一連の行為のうち最後のものをいう。)を行うこと」(著作権法第2条第1項)。
「自動公衆送信」の定義は次の通り。
「公衆送信のうち、公衆からの求めに応じ自動的に行うもの(放送又は有線放送に該当するものを除く。)をいう」(同2条第1項)。
また、「公衆送信」の定義は次の通り。
「公衆によって直接受信されることを目的として無線通信又は有線電気通信の送信(有線電気通信設備で、その一の部分の設置の場所が他の部分の設置の場所と同一の構内(その構内が二以上の者の占有に属している場合には、同一の者の占有に属する区域内)にあるものによる送信(プログラムの著作物の送信を除く。)を除く。)を行うことをいう」(同2条第1項)。
念のため、「放送」、「有線放送」の定義も書いておく。「放送」とは、「公衆によって直接受信されることを目的として無線通信の送信を行なうことをい」(同2条第1項)い、「有線放送」とは「有線送信のうち、公衆によって同一の内容の送信が同時に受信されることを目的として行うものをいう」(同2条第1項)。
著作権法第80条の出版権に関する条文を見ると、「頒布の目的をもって、(中略)著作物を原作のまま印刷その他の機械的又は化学的方法により文書又は図画として複製する」(著作権法第80条第1項)ことが、すなわち出版だと解されている。
つまり、伝統的な「印刷製本」が念頭に置かれているわけであり、出版とは、印刷製本を伴ったハードコピーの頒布を前提としているのである。
この条文を読むと、出版権者が「出版」に関する権利を占有するわけであるから、著者自身による出版も認められないのではないかと思われる。
だが、インターネット上で論文を公開することが「出版」と看做されないのは、先にも述べた通りであるし、出版権自体も、特に定めがない限りは、3年で無効になるとされている(著作権法第80条第2項参照)。
なぜなら、出版権が設定されていない場合、A社が刊行した本を、B社が文庫として出した時に、A社にできるのは、著作者に対して、契約不履行として訴えでることだけであって、B社に対して、刊行差し止めや回収を訴えることはできないからだ。
こうなると、著作者を訴えた場合でも、著作者から得られる賠償金はわずかであり、著作者との関係も悪くなるので、A社としては、泣き寝入りするほかなくなる、というのが現実のようである(美作太郎、op. cit., pp. 138〜139参照)。
もう少し新しいデータとしては、筒井康隆『笑犬樓よりの眺望』、新潮社、1994に収録されている「編集者は作家と契約書を取交すべし」というものがある。その文自体は1986年に書かれたものであるが、作家という、出版契約に直接携わる立場の人間から語られており、大変に説得力がある。
だが、如何せんデータが古いので、もう一つ、先にも述べたボイジャー社代表取締役の萩野正昭氏が、15年以上が経った現在でも、出版界のこの体質はあまり改善されていないと言っていたことを、付け加えておく。
しかし、出版権とは、著作権法第21条の「複製権」に関する権利であって、著作権法第23条に定められている「公衆送信権」に関するものではない。
ちなみに、CD-ROM形式の発行に関しては、まだよくわからないらしい。ただ、学界でも出版界でも、これを出版とは看做しておらず、したがって出版権も及ばないとしているようだ(東京大学社会情報学研究所の駒田助手から伺った話による)。
信義則上の付随義務を問われるのは、あくまで著作者自身であり、だからこそ、出版権の法制化が必要とされたのである。また、インターネット上で公表する際、これが有償であれば、出版社の利益を不当に害すると判断されない場合もあるだろう。
これに対して、「公表」はもう少し広い意味を持ち、「発行」の他、「上演、演奏、上映、公衆送信、口述若しくは展示の方法で公衆に掲示」することや、「送信可能化」することをも含む(同4条参照)。
参考ホームページ一覧(順不同)
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
The Official Paul Krugman Web Page(http://web.mit.edu/krugman/www/)
著作権法(http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/freetexts/copyrightLaw/)
橋爪大三郎研究室(http://www2.valdes.titech.ac.jp/~hashizm/)
プロジェクト杉田玄白(http://www.genpaku.org/)
プロジェクトメカ杉田玄白(http://www1.odn.ne.jp/~cad53300/caw/mecha_sugi/main.htm)
プロジェクト・グーテンベルク(http://promo.net/pg/)
Hotwired Japan(http://www.hotwired.co.jp/)
山形浩生の公式ページ(http://www.post1.com/~hiyori13/)