高井戸小学校時代の思い出
辛かったこと 嬉しかったことで 今の児童・教諭にも知って欲しいこと 最終更新2004年10月27日
寺子屋で始まった小学生生活
これは、私たち1945年入学児童だけの経験です。空襲が激しくなる時期で、学校は軍隊が使っていたと思います。上高井戸一丁目にある長泉寺の本堂で、コクゴ(ヨミカタか)教科書にある「アカイ
アカイ アサヒ
アサヒ」を習ったのが最初でした。尋常高等小学校2年生(今の中2)までをHS先生一人で回って教えていました。
授業が始まって1時間くらいで警戒警報が鳴って下校になり、道の途中で空襲警報が鳴って、あわてて帰宅する毎日でした。
高井戸小学校の寺子屋は、高井戸東四丁目にある松林寺にもあったそうです。
当時、甲州街道を走る戦車にまじるトラックか゜、鮮やかな飛行機の翼をいくつも積んで走っているのを、見かけたことがあります。父は、あれは木でできていて、敵の偵察機に、日本はこんなに飛行機があるぞと見せるためのものだと、強そうに言っていました。
終戦翌日の疎開
病身だった母が防空壕から床へ戻って来て驚きました。機銃掃射の弾丸が、枕もとの壁に食い込んでいたのです。こんなに危なくては住めないと、疎開を決め、父は退職しました。家財道具を福島県内へ送ったら、玉音放送があり、戦争が終わったことを知りました。負けたという意識はなく、終戦にほっとしました。
終戦の翌日、8月16日から疎開先に住みました。ジープを連ねて乗り込んできた進駐軍の隊列を、カーテンをずらして覗き、たいしたものだと感じました。校舎内での初めての授業では、音楽で「ウミハヒロイナ・・・」を習ったことだけを覚えています。母に連れられて歩くと、阿武隈川へと落ちる広い水面のはるかな対岸に沿って、柿の実が熟れて映えていました。
だんだん寒くなり、風邪がちの私を診た医者から、ここにとどめておくと死んでしまうと言われ、疎開生活を3箇月でやめて、貨物列車で杉並の家へ戻って来ました。
高井戸復帰
1945年12月初めころに高井戸小学校児童となりました。1年生は3学級で、1学級40人くらいでした。東南端にある講堂の北側に沿った教室は、無着色の古びた木造平屋でした。あぶらやさん(オオゼキの場所にあった教科書販売店)から、公立移管時にに寄贈されたものでしょうか。わが1組は男子だけ、2組は男女混成、3組は女子だけでした。担任であるY先生の配慮で、S君の隣に席が与えられました。初日に毛筆の授業があり、「一二」と書く学習で、彼と私のが、良くできているとして紹介されました。
講堂で全校集会があると、「皇居に向かって最敬礼!!」の号令のもと、西向きから東に回れ右して、深く頭を垂た後、君が代を斉唱しました。それらを、今日からはしないと告げられたのが、間もなくでした。
学校給食が始まったころ
3学期の初日はY先生は見えず、2組と合同でした。教師が皆に「お正月でいくつ(数え年で何歳)になったの」と尋ね、私は「8つ」と答えました。他のみんなの答えは、大声なのに聞き取れません。教師は「そう、9つですね」と言い、早生まれは、結果的にでしょうが、無視されました。
学校給食が始まったのは、その翌月でしょうか。初期は、進駐軍から送られた缶詰の鮭を主材にした澄まし汁でした。当時は、庶民の手には入らないもので、遠くからも分かるその香りは、忘れられません。調理も配膳も、奉仕のお母さん方が手伝ってくださったようです。
2年生の教科書は、先輩からのお下がりに墨塗りをしたものでした。
登校拒否かも
2年生(あるいは1年生か)の2月ころに、木で状差しを作りました。自分が風邪がちのうえ、病身の母を手伝うこともあって、3月はほとんど登校せず、終業式も行きませんでした。翌日だったか、Y先生か゜、私の状差しと表彰状を持って、家に来てくれました。表彰は、家事手伝いについてでした。こうした温かさがなかったら、新学期から登校拒否に陥っていたかもしれません。
いじめ(差別)
大陸から引き上げてきた人もいて、クラスの人数は増えていきました。その一人にT君がいました。彼は、他の児童にはほとんど遊んでもらえず、私とは仲良しでした。こういうことがあったと、ある人に最近話したら、感心されてしまいました。
また、担任から、もともと大陸の方が多い地域の母親から、自分は日本語を読めないが、娘には・・・と泣かれたとの話を聞き、驚きました。
ひどいと思ったのは、I君への暴力でした。栄養失調なのか、ひどく小柄な転入児でした。講堂で踏んだり蹴ったりされ、まるでサッカーボールのように丸くなって転がされていました。その後、I君の姿を見なくなりました。夢だったのでしょうか。
私は、運動神経・反射神経で劣等感を持ち、休み時間も皆とは遊べない子供でしたが、いじめなれた記憶はありません。
音痴は歌うな
2年生か3年生の時でした。講堂に大勢で立って斉唱していました。となりのS君が小声で、「君は調子っぱずれだ。それが耳に入ると、自分が歌うのまでおかしくなってしまうから、声を出すな」と言ってきました。残念ながら、そうに違いないと思いました。以後、今日まで、それを守っています。
一度だけ教師にウソを
3年生のころ、理科室から顕微鏡が盗まれ、怪しい者を見た児童は挙手を、とのことで手を上げてしまいました。挙手した児童を集めて何回も、聞き取りがありました。そのたびに、唐草模様で大きな風呂敷包みを背負った男が荻窪街道(今の環状8号)を南に歩くのを、登校の途中で見たと言いました。実は、その日は見た記憶がなかったのですが、そういう景色は、普通のことでした。ですから、ウソとの意識は薄いものでした。しかし忘れられないこととして、反省すべきこととして、いつまでも残っているのです。
担任教諭に疎んじられたと感じたことも
広い器と狭い器、どちらで計っても、雨量(水の高さ)に差はないと思いませんか。N君は広い方が雨量は多いと言い、私は高さの問題だから同じだと言いました。担任教諭は、どちらが正しいとは断言せず、なんとなく彼を立てているように見えました。
補習でアチーブメントテストをやっていました。前回の成績発表で、「クラスで100点をとったのはアノコ」と言ってくれましたが、名前を思い出せませんでした。
卒業後、何回か賀状を出しましたが、返信は一度ももらえませんでした。
これらのことを、亡くなる少し前のクラス会でO(S)さんに話したら、理解してくれました。
学校に活気が
1947年の教育基本法施行により、中学校までが義務化され、増沢先生などが中学校教諭として転出しました。過渡的に小学校を使うことになって2部授業が行われ、早番(午前)と遅番(午後)がありました。中学生は、講堂西側の、比較的新しい平屋教室も使っていて、高井戸中学校ができた後は、私たちの学年が入りました。補習授業後、冬季は懐中電灯で足元を照らし、時には人の顔を下から照らしたりしながら下校しました。5年生から、教科書の表紙がカラー印刷になり、喜びました。卒業時児童数は、1クラス60人を超えていましが、学校に活気がありました。教育委員会法施行中でした。
短距離より長距離が
小学校体育では、短距離ビリの記憶しかありません。走ることをはじめ体育は不得手なもの、との思い込みができ上がっていました。ところが、大学バドミントン部トレーニングて゜、長距離走では、それほど人後に落ちないことに気づきました。いろいろの可能性を、小学校教育で引き出して欲しいと思っています。
学校付近を描いた絵画
最初に書いたS先生は叔父にあたり、西荻窪から通い、図工科教師で、好んで描いた睡蓮の油絵が、教員室に掲げてありました。神田川を少し下った場所に池があり、アメリカザリガニを釣って食料の足しにしました。そこに睡蓮が咲いていたかは思い出せないのですが、そこで描いたものかと思います。
やはり図工科教師で望月先生は、6年生の時は1組の担任でした。氏が当時の高井戸駅から東・南方向(担任児童がいた窪田屋豆腐店東側)を描いた絵が、駅すぐ南の、こかね堂高井戸せんべい店に展示してあります。