敗戦と戦後の種子島
敗戦と戦中の種子島
鹿児島に到着した種子島私学校同盟は、それぞれ各隊に振り分けられ、2月15日(旧正月3日)前日から降り続く大雪の中、陸軍大将西郷隆盛を先頭に、私学校党15,000人は上京のため鹿児島を出発し、一路熊本へ向かった。熊本城下、植木、阿蘇で薩軍は官軍と戦端を開いた。しかし薩軍の勢いは続かず、新式銃を装備した官軍の軍勢に次第におされ、人吉まで撤退した。戦線の立て直しを余儀なくされた西郷軍は、宮崎・延岡へと東進北上したが、その後も各戦闘で敗北を重ね、日毎敗色は濃くなっていった。8月17日、敗戦を認めた西郷隆盛は、長井(延岡の北)から南九州の山岳を駆け抜けて鹿児島へ引き返し、残った372人の軍勢で城山に陣を張り、最後の一戦に臨んだ。9月24日未明官軍の総攻撃を受け、隆盛の自決を最後に西南戦争は幕を閉じた。薩軍の戦死者7,000人の内、種子島人の戦死は108人であった。
九州各地で戦いが続いていた頃、種子島に残った人々は日夜神仏に参拝し、戦勝と家人の無事を祈願し、家業も疎かになっていた。街中では三味線や太鼓を叩き廻りながら気勢を盛んにする様子も見られた。そして戦士を送り出した家族たちは、鹿児島から船で負傷者が着くと、次は自分の身内の番ではないかと恐々とした思いで日々を過ごしていた。
官軍の勢いが増し、薩軍が衰退する頃、種子島内でも薩軍からの要請に応じて銃器やその補修をする鉄砲鍛冶を送り出す者、薩軍を賊軍として官軍に味方する者の争いが始まりだした。特に八月末に県官吏が出張所を開設してからは、私学校同盟と政府の役人に味方する者との争いは、刃を交える寸前までの不穏な情況となっていた。
招魂碑の建立
西南戦争が終わり、明治10年10月、種子島に警部、巡査30人が来島し、薩軍に参加した者を警視派出所に呼び出し、各々から帰順書を提出させた。その後明治11年2月、戦役で分隊長以上の6名の者は長崎裁判所に召され、1年から2年の懲役を言い渡された。
明治12年11月になり、生還者及び遺族から、戦没者の霊を慰めるため招魂碑建設の議がおこり、翌13年2月に西之表港にそそぐ玉川のほとりに玉川招魂碑が建立された。
