| 発表 | 1942(昭和17)年11月20日 (九月中旬の企画発表より、6回の選定会議を行い、 11月18日深更に選定委員が百首を決定、翌日情報局の検閲を経て、二十日発表) |
| 立案 | 日本文学報国会 |
| 後援 | 情報局 |
| 賛助 | 大政翼賛会 |
| 協力 | 東京日日新聞・大阪毎日新聞(資料提供) |
| 目的 | 大東亜戦争一周年記念、聖戦下の国民精神作興 |
| 選定委員 (文学会委嘱) |
佐佐木信綱 斎藤茂吉 北原白秋(1942・11・2没) 尾上柴舟 窪田空穂 太田水穂 土屋文明 折口信夫 吉植庄亮 斎藤瀏 松村栄一 川田順 |
| 選定顧問 | 川面隆二(内閣情報局第五部長) 井上司朗(内閣情報局第五部長第三課長) 相川勝六(大政翼賛会実践局長) 高橋健二(大政翼賛会文化部長) 生悦住求馬(文部省社会教育局長) 大岡保三(文部省社会教育局国語課長) 谷萩那華雄(陸軍省報道部長) 平出英夫(海軍省報道部長) 関正雄(日本放送協会業務局長) 久松潜一(東京帝国大学文学部教授) 平泉澄(東京帝国大学文学部教授) 徳富蘇峰(日本文学報国会会長) 下村海南(日本文学報国会理事) |
| 幹事 | 久米正雄(文学会事務局長) 甲賀三郎(文学会総務部長) |
| 準備委員 | 文学会短歌部門幹事 |
| 協力者 | 辻善之助 井野部茂雄 |
| 選定方針の要項 | 一、万葉集以降幕末までの歌の中より選ぶこと。すははち、万葉集以前の記紀の歌は採らぬこと。幕末に作られた歌でも、作者が明治改元以後まで生存したならば採らぬこと。 一、臣下の作と限定すること。 一、なるべく一般に理解し易い歌を採ること。これは勿論程度の問題で、判然と決めることは出来ない。 一、おなじく愛国の精神を歌つたものでも、なるべく健やかで、朗らかで、積極性のあるものを採ること。例へば、志士獄中の作といふやうなるものは、なるべく避けること。これも程度の問題ではある。 一、作者の判明せる歌に限つて採り、よみ人知らずの作は割愛すること。 一、小倉百人一首の歌は除外すること。 一、「愛国」の意義は広狭いづれにも解せられるが、或る程度まで広く解して、親子の愛情や夫婦の相和の歌なども採ることにした。これは家族主義の国家に於ける愛として、当然のことと思ふ。又、国土愛の自然諷詠もまじへて宜しいことにした。百首の単調を破るためにも、これは宜しいであらう。例へば桜花や富嶽の歌など。 一、文学会短歌部門の幹事諸氏から提出した資料、東日、大毎両新聞社が一般から募集した資料(世人がいかなる古歌を愛国歌として愛誦せるかを、これによつて知る)などを重要の参考物とすること勿論である。乍併、右に拘束されず、選定委員各自が、自分の最も善しと信じた古歌をも持出して会議に問ふこと。これは苟も選定委員会である以上もちろんの事だ。 一、作者の名としては世間に通じ易きものを記すこと。作者によつては、通称以外にも諱・字・雅号など種々持つているので、かように定めた。 一、百首の配列は時代順にすること。 |
| 概要 | 万葉時代の歌(23首)、元寇及び吉野朝悲歌(7首)、幕末志士の歌(約20首)が三つの頂点をなしている。 「愛国歌を選ぶ以上、作者の人物を考慮したことも勿論だ。口先ばかりの愛国歌やいかがわしい人物の作は採らなかつた。真の愛国者、愛国の事実を体験した人、武には限らず文によつて尽くした人、自分の職域に於いて国家に貢献した人、等々といふやうに考慮を払った。但、上代の人で伝記不明の人の幾人か入選したのは、やむを得ない。 老若共に国家に尽くさねばならぬ。依つて、尾張浜主の如き百十余歳の人や、森迫親正の如き十余歳の人を採るやうにも注意した。婦人は大切の要素なるゆゑ、見落とさぬやうに努めた。又、増産を喫緊時とする聖戦下のことだから、農業に関する歌は勿論、鉱業や漁業などに関係ある歌も、採るやうに留意した。」(川田 順) |
| 当時の評価 | ・・・・かくの如くにして選定せられた万葉集の歌は二十三首ばかりである。して見れば百人一首中の約四分の一を占め、従来の小倉百人一首に万葉歌人のものとして入つてゐる和歌の数首に過ぎないのに比して、非常なる相違と謂はねばならない。 これは取りも直さず、皇国民一般の心理を反映したものと解釈すべく、あからさまに愛国云々とは云はれぬものでも、純真にして一こくなる上代皇国民の心の精華としての万葉集が、一般に親しまれる大気(ママ)運に向ひつつあることを立証するものである。同時に大東亜戦争大勝利のさきがけをなすものとして、歓喜至極である。(斎藤茂吉・朝日新聞・1942/11/21) 文学報国会の「愛国百人一首」の選定は相当の成功であった。 従来の「小倉百人一首」は、内容的にいっても文学的にいっても、あまりに低調なものが多いのである。定家卿の時代は日本の歌道の衰頽期であり、万葉集の真摯豪壮な歌調は退けられ、末梢的な感情や技巧の歌が尊重された時代である。 とにかく、恋歌が二十九首あるのだから驚くの外はない。 もっとも、百人一首を弄んだ青年男女などは、歌詞の意味などは分からなかったから、歌詞から影響を受ける場合などは、案外少なかったかも知れない。 「愛国百人一首」は、万葉集から二十三首選ばれている。 が、自分のごとく、日本の歌は万葉集につきていると思うものにとっては、五十首でも多しと思わないであろう。 とにかく、一人一首という制限のために、憶良や家持の他の名歌が洩れていることは残念である。 しかし、今まで世に知られない名歌や勤皇志士の歌の多くが、選定されたことは、いかにも嬉しいことである。ことに伴林光平の歌が、いちばん投票の多かったことなど会心の事である。(菊池寛・話の屑籠・1943年1月) |
| 注釈書 | 「定本愛国百人一首解説」(大日本文学報国会) 「愛国百人一首註釈」(川田 順) 「愛国百人一首物語」(松村英一) 「愛国百人一首絵巻」(梅田章) 「愛国百人一首」(窪田空穂) 「愛国百人一首帖」(大澤竹胎) 書道の手本 |
| 戦後の評価 | ・・・・結局は狭義の愛国歌が主として撰ばれた。文学報国会では「歌がるた」を作ったり、解釈本を出版したりして普及につとめた。・・・このように大がかりなものであったにもかかわらず、これは戦時中にもさして行われず、まして敗戦後は霧消してしまって、今日誰一人かえりみるものもなくなってしまっている。(木俣 修・昭和短歌史) |
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