帰路
青い風が吹き抜け、緑の草むらが揺れる。
リンは、キアランの城下町から少し外れた丘の上から、頭の上の方で
一つに束ねた髪を、風に揺らしながら景色を見下ろす。
城下町の方ではなく、反対の草むらの方を……。
キアランはそれなりに大きな街ではあったが、少し郊外に出れば牧場などが多く
リンが生まれ育った草原には及びもつかないが、やや広い草の海が広がる。
リンは時折、その丘に来て、いずれ帰るつもりのサカの草原へと思いを馳せていた。
──今は、まだ老い先短いであろう祖父の傍に付いていてやりたい。
リンが、今、キアランに残っているのは、完全に祖父の為だけであった。
いや、今キアランに存在しているのは、リンの肉体だけであって、意識はずっと草原に
在ると言って良かった。
ふと、リンの目線の先にある牧場で、一人の牧童が馬を御しているのが目に入った。
牧場の多いこの辺りでは、特に珍しい光景ではなかったが、遠目で見てもかなり馬の
扱いに優れた者である事が分かった。まるで、サカの民のように……。
──いや、彼の纏う衣装から見ても、どうやらサカの民らしい。
世の中が一応の平和を取り戻し、傭兵を請け負う事が多かったサカの民も、近頃は
そのもう一つの特技を活かして、牧場などで雇われ仕事をする事が多いらしいとは
聞いていた。彼も、そういったサカの民の一人なのであろう。
だが、単に同族であるからという理由ではなく、リンは思わず彼に駆け寄って行った。
それは、見覚えのある顔だった──。リンにとって、決して忘れようの無い……。
「──ラス?ラスなの?」
「リン……か」
「どうして、まだキアランに……。
てっきり、草原に帰ったものだとばかり、思っていたわ」
リンは、息を弾ませながら、率直に疑問をぶつける。
が、それよりも、ラスは、例え元はサカの出身とは言え、キアランの公女であるリンが
一人で郊外に来ている事の方が、にわかには信じられなかった。
「お前こそ、どうしてこんなところに、一人で……。供の一人も連れていない様だが……」
「だって、私は一人になりたくて……」言い掛けて、頭を振る。
「いいえ、私の事はどうでもいいのよ。
ラスこそ、クトラ族に帰らなくていいの?」
ラスは、僅か4歳で一族を離れ、以来孤独の中を生きてきた。だが、戦も終わり、堂々と
大手を振って一族の元に帰れるはず、いや、とっくに帰っているものだと信じていた。
草原に、一族の元に帰れば、ラスはその長い孤独の旅に終止符を打てるのだ。
しかも、ラスはクトラ族の族長の息子であるという。
皆、どれほど彼の帰りを待ちわびているか……。
リンの真摯な瞳に見つめられ、詰問された為にラスは思わずたじろいでしまった。
感情を殆ど表に出さない彼にとって、それは、ほんの僅かな動きであったが……。
その僅かな動きを見逃さなかったリンは、「何かあるのね?」と更に詰め寄ったが、
正直、ラスには今此処にいる理由、草原に帰らない理由をすんなりとは言えなかった。
リンに、言いたくなかったのではない。
自分の気持ちを、何と上手く言って伝えればいいのか、分からなかった。
「ちょっと待ってくれ、……落ち着いてくれ、リン……」リンの両肩を自分の両手で押さえ
彼女を落ち着かせようとしながら、ラスは自分自身の気持ちも落ち着かせようと、必死だった。
「……リン、お前はキアランに来て、急にキアラン候が自分の祖父だと言われてどう思った?
すぐに、会った事もないキアラン候の事を、自分の肉親として受け入れられたのか?」
突然、話題を変えられた様に感じたが、ラスはそうやって誤魔化すような性格ではない。
何か意図があるのだと思って、リンは真剣に答えた。
「そうね……、確かに最初は驚いたわ。自分は生粋のサカの民だと思っていたし、今でも
気持ちの上ではそう思っている。
でも、両親も、一族の皆も失って、自分は本当に一人ぼっちなんだと思って暮らしていたから、
私に、おじい様がいて、しかも生きていらっしゃるという事が、素直に嬉しかった。
お母様の若い頃のお話なども、おじい様から聞かせてもらえたし、
おじい様が私の中にお母様の面影を見ていらっしゃる事も、自然と感じとれたの。
だから、徐々にではあるけど、お会いするのは初めてでも、血の繋がりを感じる事が
出来たのだと思う。
今では、たった一人の肉親として、最期までお側に付いていて差し上げたいと思ってるわ。
お母様や、お父様が出来なかった分も……ね」
リンの迷いない言葉を聞き、ラスは、そうか……と呟いて、黙り込んでしまった。
「ラス、どうしたの?何かあったのなら、私には話して……」
ラスとは、あのリキア同盟での行軍の最中に、お互い孤独を知るもの同士として
共感する部分がある事を知った。以来、リンには彼にしか話せない相談ごとなどを
交わしてきたつもりだった。でも、ラスは違ったのだろうか──?
何があっても、自分には打ち明けて欲しい。
例え理解出来なくても、一緒に悩んであげたい。
最初から、何も話して貰えないなんて、そんなのは辛い……──
そんな風に思いを巡らせているうちに、リンには知らずにこみ上げてくるものがあった。
大きな青碧の瞳が潤んで、零れ落ちそうになる。
次の瞬間、リンは誤魔化すようにラスの懐へ顔を埋めるように、抱きついた。
「……リン、俺は……」
ラスは、リンの長い髪を優しく撫で付けながら、そっとその身を抱きしめた。
「俺が、草原へ、クトラ族の元へ帰れないでいる理由は、お前には分からないかもしれない」
リンは、無言でラスの胸の中で頷く。
「……それでも、話して……いいか?」
リンは更に強く頷いた。
「俺は、正直言って、怖いんだ……。クトラ族の元へ、帰るのが──」
ラスは、ぽつりぽつりと話し始めた。
「俺がクトラ族を出た時は、まだ4つにもなっていなかった。
物心ついたかどうかの年頃で、生きていくだけで精一杯だった状況下で、ただ呪い師が
言った言葉だけを何度も頭の中で反芻させて……。
そうして15年も一人で旅をしているうちに、皮肉な事に呪い師の言葉だけは忘れなかったが
一族の皆の事、親戚の事、自分に弟や妹はいたのか、いや、両親の顔ですら
全て忘れてしまった……──。
草原に帰っても、誰も知っている者がいないんだ……。
──どんな顔をして帰っていいのかも分からない」
いや、問題はそこではないんだ……と呟いてラスはリンを抱きしめる腕に、微かに力を入れる。
「一族の者は俺を覚えているだろう。だが、俺は……一族の者の顔や名前も覚えていない。
誰も、知る者がいない故郷に帰っても、
そこにあるのはやはり孤独でしかないのではないかと……。
一人で旅を始めた時も、孤独である事がつらかった……だが、一人でいる事の
孤独には、もう慣れたつもりだ。
だが、周囲に人が、しかも家族や兄弟や親戚達がいる──その中での孤独には
俺は、耐えられる自信が無い──」
リンは、ラスの胸元からそっと顔を上げて、ラスの顔を見つめた。
その大きな瞳を、更に大きく見開かせて……。
リン自身も、自分に祖父がいると知った時は、驚いたし戸惑いもあった。
だが、それでも祖父を受け入れられたのは、自分に残された家族が、その祖父ただ一人だけで
あったからだ。だが、見覚えのない両親、兄弟、親戚──全てを急に家族として受け入れろと
言われたら、果たして出来るだろうか──?
──血の繋がった家族なのだから、一緒に暮らしていればそのうち上手くやっていけるようになる
そんな、気休めのような言葉は、ラスには言いたくなかった。
仮に表面上は上手くいくかも知れない。だが、、同じ孤独を知る者として、殆ど覚えていない
家族達の中で孤独を覚えずに生きていけるとは、リンにも思えなかった。
何しろ、15年余り一人で旅を続けていたという事は、15年もの間家族と全くコミュニケーションを
とっていなかったとも言えるからだ。
ラスは、リンの青碧の瞳を見返して言う。
「俺が、キアランに留まったのは、キアラン候の元にお前が留まっていると知っていたからだ。
単なるサカの傭兵とキアランの公女。容易に逢う事は叶わないと、分かってはいた。
それでも、お前の近くにいるのだと思えば孤独ではなかった……」
「私も……」言い掛けて、リンははっとする。
祖父であるキアラン候が亡くなったら、自分にはもうキアランに居る理由は無い。
草原に帰ろう……そう、心に決めていた。
だが、草原に戻ってどうするつもりだったか、深くは考えていなかった──いや、
深く考えていないつもりだった。
だが、今、ラスの言葉を聞いて、気が付いてしまった。
リンが、草原に帰りたい何よりの理由は、生まれ故郷だからとか、思い出がいろいろあるとか、
都会暮らしよりも草原での暮らしの方が、性に合っているとか、そういう事ではないのだと──。
──草原に帰れば、ラスがいる
勿論、いつかは草原には帰るつもりでいた。だが、ラスがいるのだと思っていなければ、こんなにも
逸る気持ちにはならなかったであろう。
「ラス、私は……。
あなたの辛い気持ちも分かるわ。勿論、全てを理解しているとは、言えないけれど……でも、
それでも、私はあなたに、クトラ族の元に帰って欲しい。
草原に……居て欲しいの」
「……リン?」
「私は、おじい様が亡くなられたら、草原に帰るつもりなの……」
ラスの表情に、微かに動揺が走る。
「──何を言って……。第一、キアラン領はどうするつもりだ?」
「キアランは、オスティアに統治をお任せするつもりよ。
一応、簡単にではあるけれど、ヘクトル……いえ、オスティア候にはもう話はしてあるの。
キアランの民には悪いけど、私には、キアランを治めるなんてそんな大任はとても無理だし、
ここでの暮らしも、嫌と言う訳ではないけれど、私には向かないわ。
それに、何よりも私は、草原で暮らしたい──」
言って、リンはラスの顔を見つめる。
「だから、あなたには草原に居て欲しいの」
そう続けるリンは、ラスの顔を正面からしっかりと青碧の瞳に捕らえ、眩しいほどの笑顔を向けた。
だが、その瞳には、先ほど溢れかけた水分がまだ僅かに残っている。
「──私は、必ず草原に帰るから。
だから、草原で待っていて……。
私、必ずクトラ族のところへ、ラスに逢いに行くわ」
ラスは無言でリンの顔を見つめ返した。
「私もあなたと同じなのよ、ラス。
あなたの側に居られれば、孤独じゃないわ。でも、草原に戻っても、ラスが居なければ、
孤独だわ……だから……、だから……」
表情は笑顔を保とうとしてはいたが、次第にリンの瞳に溜まる水分の量が増してくる。
「……分かった。
草原に帰ろう。お前の為に──」
言って、ゆっくりとリンの身体を抱き寄せる。
「草原で、お前を待っている……」
草の上を、緩やかに風が駆け抜け、二人の服を、髪をなびかせる。
二人の身体を、撫ぜるように──。
end
2004/09/05
〜あとがき〜
他の人はどう感じているのかちょっと分かんないんですけど、私はずっと4つの時から一人で旅をしていた
というラスが、戦、と言うか自分の役目が終ったからって、すんなり草原(クトラ族の所)に帰れるのか?
という疑問が、ずっとありまして……。
もし、自分だったら、絶対に帰れない──いや、もう、マジで無理……って思うんですよ。
何と言うか、物心つくかどうかっていう時期に離れた家族に今更会ってどうする?みたいな。寧ろ、もう、
家族とも思えないと思うんですが。家族としての愛情とか、愛着は持てない、と言うか。
なので、自分なりにラスが草原に戻る理由のようなものが欲しかったのです。
ただ単に役目が終ったので故郷に帰るというのではなく、ちゃんとした意味付けをしたかった。
なので、これは私自身が納得する為に書いた様なものですね(^_^;)
実は、後日談的に草原で再開した後の二人のエピソードなんかも、ちょっと考えていたりしたのですが、
単なる蛇足になりそうだったので、結局そこまでは書きませんでした。
ちなみに、この話は頭の中ではかなり漫画にする事を想定して練っていた為に、小説にした場合の
ラストをちゃんと考えてませんでした。その事に途中で気付き、最後の何行かで無茶苦茶詰まりました。
つー訳で、本当は漫画で描きたかったストーリーです。
タイトルの「帰路」は「岐路」にも掛けてあったりします。正直、どっちにしようか悩みました(^_^;)
