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○"TRIAL BY FIRE" JOURNEY
○ソニーレコード(SRCS8153)
○発売中
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* member *
(1981〜1983,1995〜1997)
NEAL SCHON
ニール・ショーン
(Lead Guitar & Vocal)
ROSS VALORY
ロス・ヴァロリー
(Bass & Vocal)
STEVE PERRY
スティーヴ・ペリー
(Lead Vocal)
STEVE SMITH
スティーヴ・スミス
(Drums)
JONATHAN CAIN
ジョナサン・ケイン
(Keyboard, Guitar, & Vocal)
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* Program list *
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Message of love
メッセージ・オヴ・ラヴ(5:35)
One more
ワン・モア(5:28)
When you love a woman
ラヴ・ア・ウーマン(4:08)
If he should break your heart
イフ・ヒー・シュッド・ブレイク・ユア・ハート(4:23)
Forever in blue
フォーエヴァー・イン・ブルー(3:36)
Castles burning
キャッスルズ・バーニング(6:00)
Don't be down on me baby
ドント・ビー・ダウン・オン・ミー・ベイビー(4:02)
Still she cries
スティル・シー・クライズ(5:04)
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Colors of the spirit
カラーズ・オヴ・ザ・スピリット(5:36)
When I think of you
ホエン・アイ・シンク・オヴ・ユー(4:22)
Easy to fall
イージー・トゥ・フォール(5:16)
Can't tame the lion
キャント・テイム・ザ・ライオン(4:30)
I can see it in your eyes
アイ・キャン・シー・イット・イン・ユア・アイズ(4:12)
It's just the rain
イッツ・ジャスト・ザ・レイン(5:14)
Trial by fire
トライアル・バイ・ファイアー(4:40)
Baby I'm leaving you
ベイビー・アイム・リーヴィング・ユー(2:49)
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1996年発表。
1986年リリースの前作 "RAISED ON RADIO"(邦題「レイズド・オン・レイディオ 〜時を駆けて〜」)の制作中、およびそのコンサートツアー前後に起きたメンバー間のトラブルが元となって半ば空中分解めいた状態で活動を停止してしまっていたジャーニーが、最大の成功を収めた1980年代初頭のメンバーを再び集めて作り上げた通算11作目のアルバム。
古今東西、長年に渡って活動を続けているバンドにおける作風の変遷やメンバーの入れ代りは珍しい事ではなく、それはジャーニーにおいても例外ではないようです。彼らの歴史は世の数多の成功者たちのそれと同じく、常に可能性を追求し続ける挑戦の歴史でありました。
再結成アルバムについての解説を始める前に、まずはジャーニーが辿ってきた道程について検証を試みます。
ここではあえてスティーヴ・ペリー氏が加入した直後、つまり "INFINITY" アルバム発表後の情勢に的を絞って記しますので、そこ以前の話については「インフィニティ」の項をご覧下さいませ。
<1978年〜1980年>
最初の変化をもたらしたのは、スティーヴ・ペリーだった。
彼は歌手としての卓抜した実力のみならず、ドラムやベースなど器楽の心得もあり、さらに作曲家としても非凡な才能を有していた。ジャーニーは従来の攻撃的インストゥルメンタル・ナンバーをベースに、こと情感溢れるラヴ・ソングにかけては無類の魅力を発揮するペリーの持ち味を活かしつつドラスティックなバラード・ソングを開発し、それを新たなる作風として加えた。
その最初期のアルバム "INFINITY"(1978年作)はバンド初のシングルヒット曲 "WHEEL IN THE SKY" を生み、初のミリオン・セラーにもなった。彼らはさらに可能性の模索を続け、その後のアルバムでは "LOVIN', TOUCHIN', SQUEEZIN'" のようにブルース・タイプの哀歌を、はてまたパンチの効いた直球勝負のロックンロール "ANY WAY YOU WANI IT" をと様々なスタイルの曲をヒットチャートへ送り込んだ。
ペリーがグレッグ・ロウリーと共に奏でるハーモニーは、バンドに画期的なオリジナリティを与えた。70年代終盤に生み出した楽曲が今日の礎としてバンドにもたらした価値は計り知れない。
<1981年〜>
次の大きな変化は、ジョナサン・ケインの加入だった。
キーボードとギターの扱いに長け、かつ作曲においても優れた才覚を発揮しバンドに新風を吹き込んだ彼の活躍によって、ジャーニーはペリーの加入によって手に入れた成功に勝るとも劣らぬ実績を示した。ケインを擁したジャーニーはグレッグ・ロウリーの引退によって迎えたバンドの危機を退け、"ESCAPE" と "FRONTIERS" (それぞれ1981年、83年の作)のアルバム2作を以ってその存在を世界に知らしめた。
"Separate ways"や "Who's crying now"、"Open arms"、そして "Faithfully" など多数のシングル・ヒットを輩出したジャーニーは「メロディアス・ハード・ロックの名手」たる地位を揺るぎないものとしたのである。
<1983年〜>
83年のツアー終了後、次のアルバムをリリースするまでの約3年の間、映画 "TWO OF A KIND" と "VISION QUEST" の2作に挿入歌を提供した以外は、ジャーニーは公の場での活動をほとんど行わなかった。それぞれの挿入歌……前者が "Ask the lonely"、後者が "Only the young"……も元々は "FRONTIERS" アルバムのために制作された曲であった事から、当時のジャーニーは事実上休止状態にあったと見ることも出来る。ただ、この時の活動休止は単に各メンバーのソロ活動を優先させた故の結果、あるいはバンドの将来を見据えた上での充電期間と見るほうが妥当なようだ。自身初のソロ・アルバム "STREET TALK" をヒットさせ、さらにはミュージシャンのドリーム・チームによるアフリカ難民救済プロジェクト "USA for AFRICA" のチャリティ・アルバムにも参加するなど積極的に活動を進めていたペリーが、その好例であろう。
それまでは毎年概ね1作ずつコンスタントに新しい楽曲集を発表してきたジャーニーだけに、"FRONTIERS" アルバムに次ぐ新作の噂は希望的観測も含めて早い内から話題に上がっていたが、バンドは問題を抱えていた。
母親が危篤となり集中力を欠くペリー、そしてメンバー間の不和。
やがてスミスとヴァロリーはバンドを離れ、ショーンとペリーの不仲も囁かれるようになっていった。
ペリー:
「僕は "STREET TALK" というアルバムを作り、その結果に満足していたし、ジャーニー内部の関係はあまり上手くいっていなかったから、僕にとっては脱退するチャンスだった。ソロ活動に入るには絶好のチャンスだったんだ。だが、当時僕の母は死にかけていて、僕は彼女に尋ねたんだ。”ソロ・アルバムを作るのなら自分のペースで出来るけど、ジャーニーに残るのならそうはいかない。どうしたらいいんだろう?”僕と母はいろいろと話をした。そして彼女は言ったよ。”ジャーニーでやりなさい”だから "RAISED ON RADIO" には”僕の母に捧げる…”と書いたのさ」
(「Burrn!」 ’97年1月号)
86年、ジャーニーはメンバー間の不和や幾多のトラブルに見舞われながらも "RAISED ON RADIO" アルバムを完成させて底力を示し得た。だがツアー最中の1987年1月、心労のためリタイアを決意したペリーと共にそのままバンド自体も活動を休止してしまう。
ペリー:
「最後のツアーでは日本にたどり着けなかった。コースを一通り走り終わった、そんな気がしたよ。あのツアー自体を最後のものにするつもりじゃなかったけど、気づいたら僕らはいつもロードに出続けていて、10年もいっしょにいたんだ。スケジュールは次々に入る、でも僕はほとほといやになってしまった。だからみんなに告げたんだ。先にこのメリーゴーラウンドから降りる、とね。わかってくれるかな。中身が全部なくなってしまったら、もうどうしようもない。'80年代半ば、多くのバンドが外部のソングライターを雇ったり、いっしょに曲作りをしてもらったり、ヒット・レコードのためにプロデューサーを連れてきたりしていた。でも、それがバンドだろうか? 自分に忠実であればそこまでやる必要はないはずだ。自分が信じる音楽に対しては忠実であるべきだ。シーンにとどまりたいなら曲作りはああしろ、ここはああしろ、そんな風に言う奴。僕らにはそんな奴は必要なかった。だから、正直であり続けるために僕は飛び降りた。立ち止まるべきだった。とても疲れていたから」
(「ミュージック・ライフ」 '97年1月号)
ペリー:
「ジャーニーの過酷なツアーの間に僕の母は亡くなった。”一体これは何だ!? もう耐えられない!”と思ったのも無理がないと思わないかい? それ以降、僕は自分の人生にだけ注意を向けることにした。永遠に続くメリーゴーランドから飛び降りたのさ。それを実行するのは簡単じゃないが、僕は生き延びるためにそうする必要があった」
(「Burrn!」 ’97年1月号)
誤解を恐れずに言うならば、当時のペリーの認識は、かつて結成メンバーのグレッグ・ロウリーがバンド脱退時に述べた事と同種のものであるように推察される。
ジャーニーはその結成以来、コンサート・ツアーを活動の中心としてきた。特に "INFINITY" アルバム以降はツアーのために年間のおよそ半分近い日々を充て、なおかつその側ではアルバム制作を並行させるというメジャー・リーガーさながらの過密スケジュールによる活動を続けていたのである。
ホテルと空港とコンサート会場との間を往復する日々に疲れ、ケインに後を任せて引退したロウリー。
バンドが再起を賭けてツアーに臨んだその一方で母親と死別し、祖父を失い、さらにはソロ・アルバムでその名を称えていた恋人との別離も経験し、それでもなおリード・オフ・マンとしてツアーを続けて行かなければならなかったペリー。
互いに、耐えがたい苦痛を伴う立場であったと見るに如くはなかろう。
ペリー:
「要するに、僕達は”バンドの宿命”というヤツを辿ったのさ。つまり、みんなでバンドをやり始めて、しばらく一緒にやって、そして解散するという、よくあるパターンだ。それは、いわば創作過程のサイクルのようなもので、心に響く音楽を作ろうとするあまり、たぶん僕達はお互いの心をいささかねじ曲げてしまったんだと思う。それがある時期、全員にとって耐え難いものとなってしまった。それが、解散理由の1つでもあったと思う。何しろ僕達は、10年近く一緒にバンドをやっていたんだからね。早い話が、やるだけのことはやってしまったんだよ。音楽的にもね。とにかく、あれだけやれば、充分だった」
(「 GUITAR 」 '97年1月号)
彼らは当時流行のコンセプチュアル・プロモーション・ヴィデオの影響力に頼る事なく、それまで通りライヴ・ショウ主体での活動を続けた。
さまざまな困難がバンドを取り巻く状況にあって、しかし結果的に "RAISED ON RADIO" アルバムは彼らに希望の光明を残すものとなった。この年のツアーは彼らとしては比較的短期(およそ4ヶ月と思われる)で終了したものの、その間に行われた50数回ものショウの傍らで、ジャーニーは最終的には6曲ものシングル・ヒットをチャートへ送り込むことに成功していたのである。
<1987年〜>
やがて、ジャーニーのメンバーはそれぞれのアプローチでミュージシャンとしての活動を再開した。
ジョナサン・ケインはジャーニーの直前に参加していたザ・ベイビーズの元メンバーと合流し、ショーンを擁してバッド・イングリッシュを結成した。ロス・ヴァロリーはケヴィン・カルファント(現トゥー・ファイアーズ)らとTHE VUを、そして後にはジャーニー以来の仲間であったスティーヴ・スミスとグレッグ・ロウリーらを伴ってザ・ストームを結成した。時期は多少前後するが、マイケル・ボルトンがショーンやケインらジャーニー・ファミリーと共演したソロ・アルバム "THE HUNGER" (邦題:「いざないの夜」)をリリースした事もあった。
彼らがジャーニーをサスペンドしつつ活動する様子に懐疑的な見解を抱く者は、口々に「再結成の可能性なし」と示唆したが、それはバンド・メンバーたちの本意を喝破したものではなかった。
ケイン:
「僕らはこのでっかくて素晴らしいハーリー・ダヴィッドスンを手放したくはなかった。僕らのカスタム製なのにガレージに眠ってるだけなんだ。ニールと僕はまだ乗れると思っていた。だが問題は誰がキーを持っているかだった」
(ボックス・セット解説書)
世の懐疑主義者たちに対して最も効果的な反証となったのは、バンド不在のままリリースされたベスト・アルバム "JOURNEY'S GREATEST HITS" のリリースだった。このアルバムは新曲なしの焼き直し版ながらもアルバムチャートを10位まで駆け上がる異例の好成績を残し、バンドの人気が衰えていない事を証明した。その後もバンドの年代記的意味合いを持ったボックス・セット "TIME3" や、日本国内だけの企画盤ではあったがバラード選集 "JOURNEY THE BALLADE" などもリリースされ、静かながらも市場での再評価が続いていった。
<1994年〜>
ペリー:
「ジャーニーを辞めてしまった後、僕はあまりにも疲れていたからしばらくは本当に何もしなかった。そのまま音楽そのものをやめて、引退してしまうことを考えたりもしたんだ。友だちといっしょにときどき曲を書いたりしてはいたけど、何年もの間、レコードは作りたくないままだったしね。燃えつきてしまって、音楽に近づくのもスタジオに入るのも耐えられないほどだった…。」
(「ミュージック・ライフ」 ’97年1月号)
90年代の半ばに差しかかった頃、現役メンバーの中ではそれまで唯一沈黙を守っていたペリーが10年ぶり2作目となるソロ・アルバム "FOR THE LOVE OF STRANGE MEDICINE"(邦題:「ストレンジ・メディスン」)をリリースし、それとほぼ時を同じくしてライヴでの演奏活動を再開した。
ペリー:
「何故戻ってきたのか? 何故レコードを創るのか? 別に自分の健康を考えてのインターバルじゃないんだ。売れる為、お金のためにやってる訳じゃない。自分には曲を創って歌うことしか出来ないんだ。やめた時もあった。それは自分が再び歌うべきかどうか判らなかったからなんだ。レコードを創るべきか、それについて何について書けばいいのか判らなかった。レコードを創る時期だからといって創ったんじゃない。何も書くことがないから書かなかった。何かについて歌える時が来るまでずっと待ってたんだ。そして、自分の心の中に正直に言える何かができるまで6年間もかかってしまった。でも、今は本当にそれで良かったと思ってるよ」
(1998年にリリースされた彼のベスト・ソロ・アルバムの日本語版ライナーに収められたコメント)
彼はソロ・ツアーの最中、時にはステージ・セットにジャーニーの曲を含ませる事もあったようだ。かつてジャーニーから離れる決断を下し、自らバンドを休止させた彼の真意が公に示されるのはこの後の事なのだが、一般には再びジャーニーのヴォーカリストとして現役復帰を望むペリーの意向を具体的に示したものとして、彼の行動はファンの期待を弥が上にも高めた。
ペリー:
「あのツアーは、当初は僕にとって大きなチャレンジだったんだ。"STREET TALK" と "FOR THE LOVE OF STRANGE MEDICINE" という2枚のソロ・アルバムをベースに、昔から好きで歌いたかったのだけど、ジャーニー時代には歌う機会がなかったマーヴィン・ゲイやサム・クックなんかの名曲もカヴァーしたりして、そういう意味ではあのソロ・ツアーは楽しかったし、忘れられない思い出にもなっている。それとは別に、僕がジャーニー時代の曲も歌うと、みんなが驚いて、そして喜んでくれたのも憶えているよ。きっと僕のソロ・ツアーということで、ジャーニー時代の曲をやるとは、みんな思っていなかったんだろうね。だけど、僕が書いた曲でもあるんだから、他のメンバーがあちこちでジャーニーのヒット曲をプレイしているのなら、僕もいくつかやってやろうじゃないかと、最初はそんな気持ちだったんだ。でも、そのうち僕は…何だか昔が懐かしく思えてきたんだよ。ジャーニーで歌っていた時代がね。いろいろあったけど、それでもジャーニーで過ごした時間が、今までの僕の人生で大きな位置を占めていたのは事実だからね」
(「 GUITAR 」 '97年1月号)
しかし、好事魔多し。ペリーは肺の病を患ってしまい、再び療養の日々へと連れ戻される。それに伴ってソロ・ツアーは打ち切りとなり、ジャーニー在籍時代の1983年春以来約13年ぶりと期待されていた日本での公演も中止となってしまった。
ペリー:
「東海岸を廻っている最中に僕は左の肺をウィルスにやられちまって、ダウンした。ほら、2年前の、東海岸を酷い雪嵐が襲った時だよ。抗生物質を摂り続けても回復の兆しがないんで、しばらく迷ったけど、結局ツアーはキャンセルすることにした。結果的には回復するのに4ヶ月以上必要としたから、キャンセルしたのは正解だったよ」
(「Burrn!」 ’97年1月号)
ペリー:
「信じて欲しい。あのときのツアーをキャンセルしたくはなかった。ツアーを楽しめるようになっていたからね。その病気、肺気腫の療養中に、実はジャーニーのアルバム制作の提案があったんだ。潮時かな、そう思った」
(「ミュージック・ライフ」 ’97年1月号)
療養生活の中で、ペリーは凍結されたままになっていたジャーニーの可能性に再び思いを馳せてゆく。
ペリー:
「ソニー・ミュージックの人間から当時僕のマネジャーだったボブ・カヴァロのところに電話があって、ジャーニー再結成の可能性を打診してきたんだよ。病気をしている間、僕はずっと考えていたんだ。何がどうなるかなんて分からないから、あまり具合が悪くならないうちに…、人生とは全く予想のつかないものだから、可能だと思えるうちに考えておいた方がいいんじゃないかと、そんな風に考えて、それで僕は彼らと会って、もう一度”夢”を語り合うことにしたんだよ。”夢”があれば、”音楽”もある」
(「 GUITAR 」 '97年1月号)
ペリー:
「病気で2〜3ヶ月ベッドにいたから、人生についてじっくりと考える時間が出来たわけだ。過去の様々な問題に関して、僕の正しい点と相手の正しい点、僕の誤った点と相手の誤った点を検討することも出来た。こういう結果になるんだったら、もっと早くそうすればよかったと思うよ。僕達は若返ることは出来ないんだから…。そんなわけで、僕はジョンに電話を掛けたのさ」
(「Burrn!」 ’97年1月号)
ジャーニーはペリーのリタイアに起因して活動を停止したが、復活のために最初に行動を開始したのもまたペリーだった。別々の道を旅していた仲間たちとの再集結を願い、彼はまずジョナサン・ケインにコンタクトを図った。
ペリー:
「マネージメントなどは通したくなかったから、直接ジョンの家にかけたんだ。(中略)出ていったのは僕だから、僕がひとりずつに会っていったほうがいいと思った。ジョンとはあまり具体的にではなく、ジャーニーが復活してどんなことができるか、夢について語り合った」
(「ミュージック・ライフ」 ’97年1月号)
ケイン:
「そもそもは、去年の7月か8月ごろに、スティーヴ・ペリーが僕に電話してきたんだ。確か彼はソロ・ツアー中だったと思うんだけど、その時の電話でスティーヴは僕に、”もしよかったら、また一緒に何かやらないか?”って打診してきたんだよ。彼は明言を避けていたけど、要するに”ジャーニー再結成”をほのめかす様な感じでね。何となくスティーヴは、僕がその計画に乗ってくれるかどうか、最後まで確信を持てないでいたようだったな。だけど、その2年くらい前から、実はスティーヴの都合さえつけば、僕たちはいつでも動き出せる状態にあったんだ。そして、そのキーマンとなる本人からの電話だったので、最初は僕たちふたりで会って話をして、それからニールに話したんだ」
(「 KEYBOARD MAGAZINE 」 '97年1月号)
「鍵」を持つペリーがジャーニー復活へ向けて動き出し、彼が申し入れた和解を受けた他のメンバーは、おそらくは待ち侘びていたのであろう「時」へ向けて運命の歯車を回した。
インタヴュアー:
「スティーヴのソロ活動に対して、フラストレーションを感じていた時期もあったと言われましたが、ちょうど彼が2年前に音楽活動を再開した頃、あなたは”ジャーニー再結成”の計画をアメリカのギター雑誌のインタビューでぶちまけていますね」
ショーン:
「ああ、ちょうど僕がフラストレーションを感じていた頃のインタビューだね。あの当時、僕らはみんな、スティーヴがもう一度やる気になってくれるのをずっと待ち続けていたんだけど、彼はソロ・ツアーに出っぱなしで、しかも、その時のセット・リストにはジャーニーの曲を並べていたんだ。彼がジャーニーのヴォーカリストであったことは事実だけど、その時の彼のやり方が、僕にはどうしてもフェアなやり方だとは思えなかったんだよ。彼のソロ・ツアーなのに、コンサート告知のための彼のラジオ・スポットではジャーニーの曲が使われていたんだ。自分のソロ・ツアーなんだから、自分のアルバムからの曲を使うべきじゃないかと思ったんだよ。それで、ちょっと反発してやろうと思ったんだ。彼がそういうつもりなら、僕達だってやってやるさとね。だけど、そういう風に考えているうちに、それが愚かなことだと気づいて、やめたんだ。でも、そうしたら、ある日、スティーヴから電話をもらって、”また一緒にやらないか?”と彼が言うんだよ。しかもその時彼は、”ソロ・ツアーで、ジャーニーの曲をステージでやると、観客が大いに湧いて、ワイルドに盛り上がるんだけど、ふと後ろを振り向けば、違うプレイヤーがギターを弾いてるんで、凄く妙な気分だった”とも言うから、僕もこう言い返してやったんだ。”ああ、やっと妙な気分になってくれたか”とね(笑)」
(「 GUITAR 」 '97年1月号)
過去と和解し、1年余の制作期間を経て生み出された "TRIAL BY FIRE" アルバムにおいて、ジャーニーは「夢よもう一度」と願うファンの多くが想い描いていたであろう黄金時代そのままのバンド・ラインナップで復活した。新たなる時代へ向けて生み出された再結成第1弾アルバムは完全新作の楽曲集として市場にその姿を現し、メロディアス・ハード系ロック・バンドが斜陽の時代を迎えて久しい1990年代終盤のヒットチャートにおいて初登場にして3位を記録した。さらには年間チャートでも92位へ食い込み、「ジャーニー再結成の可能性は皆無」という世の多くの批評家たちの邪推をものの見事に打ち破ってバンドの再生に成功したのである。
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ショーン:
「ただ出て行ってグレイテスト・ヒッツ・ツアーをやるほうが俺達にはずっと簡単だったろうけどね。ライヴを録音して、スタジオに入って2〜3の新曲をやるだけのほうがさ。他の連中がやっているのはそういうことだ。俺はなんとしても、最初から最後まで新しくレコードを作りたかった。俺達は本当に戻ってきた、と皆に判らせたかったんだ」
(「Burrn!」 ’97年1月号)
"TRIAL BY FIRE" アルバムは、およそ10年の時を経て再び集結したメンバーが新たに創造した16の楽曲(後述)を以って世に示されました。
曲作りからレコーディングに至るプロセスはメンバーの意向によりかつてのままに行われ、スティーヴ・ペリー氏、ニール・ショーン氏、そしてジョナサン・ケイン氏の3人が中心となって作曲にあたり、およそ2ヶ月の時間を掛けて50曲近い試案を手がけたとされています。その後にロス・ヴァロリー氏とスティーヴ・スミス氏の2人を迎えてスタジオへ入り、2週間程度のリハーサルを経てレコーディングが始まったようです。
彼らが再結成を果たすまでの間に流れたおよそ10年もの年月は聴取者側の需要を大きく変容させ、その変化はジャーニーが全盛を誇った70年代終盤〜80年代初頭のものとは大幅に異なる情勢を世にもたらしていました。つまり、彼らが開拓し、後に「メロディアス・ハード」等々と広く呼称されるに至ったカテゴリーの音楽は、メイン・ストリームから遠ざかってしまっていたのです。
「そうした時流に於いて往年の人気バンドが新しい一歩を踏み出すとしたら、それはいかなる姿なりや?」
古くからのファンがもっとも注視していた点は、恐らくその辺りでしょう。
以下、非公式ファンサイト主催者であるところの小生個人の見立てではありますが、各楽曲の解説をさせて頂きます。参考までに是非ご覧下さい。
#01. MESSAGE OF LOVE
メッセージ・オヴ・ラヴ
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連綿と培ってきた独自のメロディアス・ハード路線のうち、特に80年代初期の風味を強く押し出しつつ繰り広げられるオープニング曲。
ショーン氏が、そしてケイン氏が、かつてヒットさせた同系列の曲("SEPARATE WAYS"、あるいは"ASK THE LONELY"など)を彷彿とさせるフレーズをあえて各所に織り交ぜつつ繰り広げる中盤〜終盤あたりの展開は、メンバー各員が「ジャーニーの音楽」の姿を確かめているように、そして、かつバンドの特色と作風をストレートに表現した「挨拶代わり」の曲として新しい世代への訴求を試みているようにも聴こえます。
あるいは、題名そのままに、復活を待ち詫びていたファンへ向けて「ただいま!」と率直に示したメッセージなのかも知れません。
ストリングスが奏でる哀しげなイントロと、ペリー氏の雄叫びにも似た歌声とが印象的な曲。因みに、このアルバムにおける弦楽パートのアレンジはデイヴィッド・キャンベル氏。
中盤からエンディングにかけてペリー氏の演奏からバトンタッチしたショーン氏が猛然と弾きまくるかと思えば、それとパワーを競い合うかのようにスミス氏のドラムが轟き、さらには両者の手綱を引き締めるようにヴァロリー氏のベース・ギターが緊迫感溢れる演奏を披露している、というその曲調は、西洋の幻想戦記物語を想起させる重厚な歌詞も相俟って、ジャーニー独特の叙情性を従来よりも激しく徹底的に追求したかのような様式美の体現が伺えます。
私としてはこの曲を聴いた当初、歌詞とペリー氏のヴォーカルで「新たなるジャーニー」を、そしてショーン氏が後半の独演にて披露している必殺の3連譜のあたりで「蘇ったジャーニー」を体感して小躍りしておりました。
#「ギターソロキタ――ヽ(゚∀゚)ノ―ヽ( ゚∀)―( ゚)ノ―ヽ( )ノ―ヽ(゚ )―ヽ(∀゚ )ノ―ヽ(゚∀゚)ノ――!!」
#03. WHEN YOU LOVE A WOMAN
ラヴ・ア・ウーマン
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ジャーニーのもうひとつの十八番であるところのバラード曲。ファーストシングルとしてバラードを選んだのは"Who's crying now"以来。
シャウトの多い先頭2曲とは打って変わってしっとりとしたこの曲において、ペリー氏は本来の持ち味を活かして優しい歌声を存分に披露しています。曲調に合わせて様々な歌唱法を使い分けられるその柔軟性は、彼の歌手としての魅力と実力の高さを実証していると言えるでしょう。
#04. IF HE SHOULD BREAK YOUR HEART
イフ・ヒー・シュッド・ブレイク・ユア・ハート
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恋に破れた男の切なさを題材とした曲。
どちらかというとペリー氏のソロアルバムで参見されそうな雰囲気ですが、そこにショーン隊長のギターが組み合わさる事でジャーニーの曲としての存在感が際立っているようにも見受けられます。
悲恋物語風な歌詞を持ちつつもやけに爽やかで、同種の哀歌でありながらややもすると物騒な感がある往年のヒット曲"Lovin', touchin', squeezin'"よりも意図的にアンニュイな雰囲気を込めたような作風が印象的。かの曲とは好対照を成すものとして楽しめそうです。
#05. FOREVER IN BLUE
フォーエヴァー・イン・ブルー
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メロディアス・ハード・ロックとラヴ・ソングとが軽妙なメロディに乗って融合した、絶頂期の作風をストレートに昇華させたような快作。
随所に取り入れたコーラスがギターと交互に掛け合いつつ奏でるハーモニーは、今やこのバンドのみが成し得る名人芸ではないかと考えます。"RAISED ON RADIO"アルバムにおいて積極的に用いられたとおぼしきAOR風味の真の結実がここにあるような気が個人的にはするのですが……如何でしょうか?
#06. CASTLES BURNING
キャッスルズ・バーニング
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結成時〜70年代終盤あたりの楽曲(特に"Lady luck"とか)によく見られた、厚みのある男くさい雰囲気を醸し出しているメタリック・チューン。
ショーン隊長とケイン氏がバッド・イングリッシュ在籍時代に培ったセンスがそのまま活かされているようにも見受けられますが、その中でも特に驚くべきはペリー氏の歌い方かもしれません。得意のメロウなハイトーンを封じ、ややもすると獣じみた感じの荒々しい唱法に徹しているあたりは興味深いところです。
#07. DON'T BE DOWN ON ME BABY
ドント・ビー・ダウン・オン・ミー・ベイビー
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バンドの特色であるところの叙情性をかすかに漂わせつつも、極めて穏やかに始終する曲。
かつての"Stay awhile"を想起させるようなストリングスの伴奏がヴォーカルと融和したこの曲もまた「ジャーニーらしい音楽」と言えましょう。
"ESCAPE" アルバム以降のジャーニーは、とかく「産業ロック」あるいは「ダイナ・ロック」といったネガティヴな意味の強い合言葉によって世の批評家各位から叩かれ続けていたように見受けられます。日本では古来より「出る杭は打たれる」という寒い諺が知られている事ですし、そもそも世の中には悪口のための悪口しか言えないような奴も少なからず居るので、批評家の戯言は大目に見ましょう。……私としては、感情論が世を牛耳ることのないよう祈ってはいますが。
愚痴の類はさておきつ……。
かつて、ケイン氏は "TIME3" のライナーにこんなコメントを寄せていました。
「男は眠っててもラヴ・ソングが書けるものさ」
このコメント自体は別の曲に対して述べられていたものですが、氏は現時点においてジャーニー最大のヒット曲であるところの"Open arms"(HOT100 で6週連続1位)の原作者としてバンドに参画し、後にパワー・バラードの傑作"Faithfully"を生み出した人物であるがゆえ、含蓄のあるコメントとして特筆に価すると考えます。
#08. STILL SHE CRIES
スティル・シー・クライズ
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往年のヒット曲 "Who's crying now" に対する返し唄的な雰囲気の曲です。
2曲目や6曲目とは別のバンドかと錯覚させるほど物憂げな曲調は、同じバラード・ソングでありながらもかつての "I'm cryin" や "Lovin' you is easy" のように激しく感情をあらわにするパワー系とは対照的。
#09. COLORS OF THE SPIRIT
カラーズ・オヴ・ザ・スピリット
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どことなく大自然の匂いを感じさせるような序奏から、「セクショナリズムを打破していこう」といった意味合いのメッセージを含めて展開される、ジャーニーならではの情感溢れるアンセム。
この曲には「命あるものは皆、生まれた地や境遇の違いを超えて結び合える筈だ」という想いが込められているように感じられます。序盤とクライマックスで轟く "We are one, We are one....." というペリー氏のシャウトが、再結成に賭けるメンバー各位の意気込みのほどを象徴しているかのようでもあります。
#10. WHEN I THINK OF YOU
ホエン・アイ・シンク・オヴ・ユー
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再び、静かに奏でられるラヴ・ソング。
当節の日本では「優しさ」を求める人々が増えていて、それを叶えるものを時に「癒し系」と称して尊ぶ傾向に在るようです。
総意としては気まぐれであり続けている大衆。
そして、自らの作品を以って世に真価を問うにあたり、どこか特定の方向性へと作風を絞るか、あるいは多様性を維持するか、といった具合に取捨選択を絶え間なく繰り返しているクリエイター各位。
かような背景を鑑みると、「激しさ」と「安らぎ」という相反する要望をともに叶えられるバンドはきわめて稀有な存在であると言えましょう。
「それ」を実現し得たジャーニーを、私はR&Rにおける新たな可能性の開拓者として称える事に吝かではありません。
#11. EASY TO FALL
イージー・トゥ・フォール
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メロウさを称えた曲を前トラックに据え、そのムードを受け継ぎつつ聴衆を盛り上げてゆく……という、叙情性においては随一の辣腕を誇るジャーニーが、パワー・バラードの真骨頂的展開を遺憾なく発揮したかのような感動的一曲。
かつての"Little girl"や"Winds of march"にも通じるであろうその作風は、メンバー各員が「ジャーニーが創ってきた音楽」そのものを楽しんでいるように見受けられます。
#12. CAN'T TAME THE LION
キャント・テイム・ザ・ライオン
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このアルバム自体があたかもライヴ・セッションのひとつであるかのように、突如として聴衆を駆り立てるように繰り広げられる、流れるようなリズムと高揚感を欠かさないテンポが印象的なナンバー。かつての"La do da"にも通じそう。
もともとライヴ・バンドとして銘を成したジャーニーを象徴するような、コンサート会場での唱和に適した軽快さを有していると言えるでしょう。
#13. I CAN SEE IT IN YOUR EYES
アイ・キャン・シー・イット・イン・ユア・アイズ
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日本版アルバムにのみ追加された曲です。
ドラムの合図で曲が始まるやいなや全員いきなり暴れ出すという、良い意味でジャーニーらしからぬ粗暴な曲調が逆に魅力的でさえある曲。裏メロを交えたギターのリフが曲全体にクールなメリハリを与えており、この曲と同種のワイルドさを有していたかつての "Keep on runnin'" や "Backtalk" よりもさらに激しくアピールしまくっている再結成エナジー絶好調のナンバーです。
個人的には、毎回バラエティ豊かなスタイルで楽曲集を生み出してきた彼らだけに、もしかしたら「試しにグランジっぽい曲もやってみようぜ?」といった趣でこの曲を作ったのかもしれないなあ、と感じていたりする。
それはさておき……。
ジャーニーは1980年に来日した際、コンサートのみならず映画「夢、夢のあと」のためのサントラ制作にも着手し、日本市場へ寄せる関心の高さをアピールしていました。が、当時すでに「同郷出身」のボストンが日本での人気を確立していた背景もあり、当時の日本におけるジャーニーの存在はさながらボストンの影に隠れたものだったようです。彼らをボストンのメンバーと見間違えた日本の音楽ファン(の一部)がサインを求めて彼らの元に殺到した、という笑えない逸話も残されています。
翌年、ジャーニーは通算8作目のオリジナルアルバム "ESCAPE" が全米チャートで1位を獲得するヒットを収めました。続く "FRONTIERS"アルバムは前作を超えるには記録上至らずも、それでも聴衆の期待に足る堅調なセールスを記録し、その最中に日本武道館において行われた来日コンサートは満員御礼の大成功で終わりました。初来日公演がお世辞にも成功とは言えない状態だった事を鑑みると、彼らの日本市場における活動の成果はこの段階で大きく実を結んだと言えるでしょう。当時のステージでペリー氏が観客に向けて贈った日本語のメッセージは、そういう意味で非常に印象的です。
"Kokoro kara doumo arigatou, Tokyo!"
(「心からどうもありがとう、東京!」)
当時を知るメンバーの全てが再び集結した "TRIAL BY FIRE"アルバムにおいて日本だけのボーナストラックとして加えられたこの "I can see it in your eyes" は、きっと彼らの「心からの」プレゼントなのかもしれません。
そう思うと、かれこれ10数年来彼らに憧れ続けている僕としては胸が轟く思いです。
*補足*
かのメッセージはベストアルバム "GREATEST HITS LIVE"の
2曲目の最後あたりで聴く事が出来ます。
#14. IT'S JUST THE RAIN
イッツ・ジャスト・ザ・レイン
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ライヴ・ステージを髣髴とさせるような高揚感あふれる曲の応酬から一変して、まるで夢から醒めたかのようにしみじみと演奏される曲。
ペリー氏がソロ・プロジェクトの時に培ったエッセンスを再び漂わせつつ、やや低めの声で淡々と歌い上げているのが印象的です。
#15. TRIAL BY FIRE
トライアル・バイ・ファイアー
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時にはハードに、またある時には甘く切なく、はてまたその複合……と、様々なスタイルを披露しつつ繰り広げてられてきた楽曲集の最後を飾るのは、アルバム名をそのまま冠した小曲です。
前のトラックから雨音を引き継いで始まる優し気なギターの音色に乗って、ペリー氏のヴォーカルが最後の余韻を感じさせます。まるでサーカスの一座が去った後のような、寂しいけれど心温まる曲。
そして……………………………。
#16. BABY I'M LEAVING YOU [ hidden track ]
ベイビー・アイム・リーヴィング・ユー
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ネタバレ失敬。
制作者各位の意図によりおよそ17秒の空白を置いて始まる隠しトラック、真のラストナンバーです。
ちょっぴりレゲエ風味で組み上げられたこの曲調は、ジャーニーとしては恐らく初めての試みでしょう。ショーン氏のコメントによると当初は「"Walks like a lady" をジャズっぽくしたような曲」を想定していたそうですが、プロデュースを務めたケヴィン・シャーリー氏の「レゲエにしてみたら?」という提案が気に入り、「面白そうだからやってみようぜ」とばかりに裏拍にアクセントの効いたラテン系リズムで結い上げた模様。
しっとり締めくくった直前のトラックとは対照的な暢気さを称えつつ、このアルバムは幕を引きます。
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このアルバムの制作においてメンバーが第一義としていたのは、何よりもまず「”ジャーニーの音楽”そのものの再生」だったのではなかろうか、と私は考えています。
日本版CDの襷に記された「ジャーニー”誕生”」というキャッチコピーは、彼らが辿ってきた再生への道程をより印象的に訴求するにあたってこの上なく的確なレトリックであったと言えましょう。曲目紹介の冒頭で引用したショーン隊長のコメント通り、彼らは時流に迎合するのではなくあくまでも今まで通りの姿でステージに戻る道を選んだ、という事なのでしょう。
"TRIAL BY FIRE" が残したセールス記録は、バンドに歴史的な成功をもたらした "ESCAPE" と "FRONTIERS" に次ぐ好成績にあたるのですが、往年の彼らの活動において年中行事のひとつであったコンサート・ツアーは、ペリー氏の健康上の理由によって延期を告げたまま立ち消えになってしまいました。この事は、バンドの完全復活を以ってシーンへ試みようとしていた訴求が消化不良の状態になってしまったという点で悔やまれてなりません。
#オフ中に行った岩山登山において負傷、との説あり。<ペリー氏
その後、ジャーニーはこの次のアルバム "ARRIVAL" の制作前にペリー氏とスミス氏に代わる新メンバーを迎え入れ、実質的には新しいバンドとして活動を再開する事となった訳で、今回紹介したこの "TRIAL BY FIRE" というアルバムは結果的には「今までのジャーニー」を象徴する存在になったと言えるでしょう。
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* 後記 *
では、本音で……。
"RAISED ON RADIO" アルバムとそのツアー後、メンバー各位が別々のバンドやソロで活動をしている様子や、彼らが時として「ジャーニーは過去のバンドである」と取れそうなコメントを残している様子(おそらくは再結成を望む意向の裏返し、もしくはその当時手掛けていたプロジェクトのほうに専念していたからなのかもしれませんが)を巷の媒体を通じて把握していた僕自身としては、80年代後半からの約10年間におけるジャーニー関連の雑感というと「苛立ち」の一言に尽きます。
あの頃から、僕はずっと待っていました。彼らの再結成を。
巷のラジオ局がどこも似たような番組ばかり放送するようになっていく様子に呆れ(時流の悪影響かFM東京の「ワールド・オヴ・エレガンス」と「歌謡バラエティ」が終了してしまった時は、個人的には最悪の痛打を浴びた気分でした)、どこの局も御座成のジングル(今時も性懲りもなく使ってるけど「じょじょじょじょじょ」っていうアレ」)とメロディの欠落した”どんつく音”ばかり掛けるようになっていく様子に毒づき、でも世の中にはそれを好む人のほうが多いのだろうと考え直してある種の諦めを受け入れてみたり、さもなくばTVで毎月入れ替わり立ち代わり現れる一過性のバンドを冷めた目で見る癖がついてしまった自分が時々厭になったり、おのれに対するみっともなさを自覚しつつも、それでもジャーニーに関する話題を求めてかたっぱしから音楽雑誌に目を通してみたり……。
だから、この"TRIAL BY FIRE"アルバムを初めて聴いた時、頭の側では過去のいろいろな記憶や感情が蘇っていました。そして、ずっと待ち侘びていた「音」がそばに在る事に悦びを感じ、それを噛み締めている内に、かつての苛立ちはどこかへと消え去っていました。1996年10月のその日は今でも忘れられない大切な思い出となっています。
*文中で表記したヒットチャートの順位は主に「ビルボード」誌のデータを元にしています。
* Special thanks *
Senapy 様
Keisuke Ichihashi 様
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