司祭のお話 てくむ 2009年2月号
最初の一撃ビッグバン!誰が?
主任司祭 小林敬三
昨年の秋、私たち日本人にとってすばらしい出来事があった。ノーベル賞に日本人が4人も受賞したというニュースだ。
思い返せば60年前、私が小学生の頃のことだ。日米戦争で日本が負けて、日本人は自信を失い、毎日の食料にもこと欠き、日本全体が意気消沈していた。その時まさに世界一のノーベル賞を、日本人の湯川秀樹博士(物理学)が初めて受賞した。そのニュースに、日本中がパッと明るくなった記憶がある。
聞くところによると、今回の物理学関係の受賞理由は電子を構成する基本の粒子が6種類あると発見したことだそうだ。専門家たちにとり、これは大変な発見らしい。ただ一つ、私はその報道を見ていて、実は個人的に多少違和感を覚えた。長年の学者の研究努力によって科学上の大きな発見がなされた事は讃えるべき、すばらしいことだ。しかし「発見した」とおおよろこびするには、やや一面的過ぎないか。
そもそもそれらの物質を最初に造った神のみ業に、関係者はまったく触れてない。一番小さい要素を発見したと言っても、そもそもその物質がこの世に「ある」ということに、誰もが不思議に思わず、当たり前と思っていることに私はいささか驚くのだ。
微細の世界。一方、天空の極大の世界。私たちは太陽系の地球に生きている。そしてこの太陽系と同様の星の集団が何億集まっているのが銀河であるという。宇宙にはこの銀河がなんと更に10億あるそうだ。これほど大きなものから小さなクォークまで、すべてを創造されたのは神なのである。この宇宙は永遠の昔から存在していたのではなく、生まれた瞬間がある。その最初の一撃を<ビッグバン>と言う。約140億年前、このビッグバンの一撃で宇宙が生まれたと、現代の天体物理学では言う。ではこのビッグバンは、だれがなんのためにやったのか?これは天体学者には分からない。哲学や神学の領域に入ってくる。
ものが起こる時には原因があり、その結果がある。例えば、運転していてガードレールに当たってしまった時、脇見したという不注意が原因で事故は起きたとする。しかし脇見は第二原因で、第一原因はクルマだ。クルマは様々な素材でできている。その素材をずっとたどっていくと、神様が造られたものであることが分かる。すると真の第一原因とは、実は神様のことなのだ。現に旧約聖書の最初には、
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」。 こうして、光があった」(創世記1・1-3)
まさにビッグバンである。神様あってこそのこの世だ。神様の創造のみ業があってこそ、人間も存在し、動物も存在し、あらゆるものが存在する。すべての出来事には、第一原因である神がその根元にある。その第一原因を無視して、人間が新たに初めて発見したかのようによろこぶのは、私には抵抗感があるのである。
「いかに人間の科学が発達しても、人間の知り得ることは大海からバケツ一杯の水を汲み出すに過ぎない」
(パスカル/17世紀。物理学者、哲学者)
大海とは、未知の世界のことだ。いかに科学が発達しても、人間の知り得ることは実にほんのわずかのもの、たかが知れている。物事の「いま」に現れている現象の背後にある、第一原因の神、創造主である神にいつも頭を垂れ、常に謙虚に、神の創造のみ業を誉め讃えながら、お互いに歩んで行きたい。
創造主である神は、私たち罪人(つみびと)の人間の救いのために、尊い神の御独り子イエス・キリストを遣わし、救い主イエスの十字架の出来事と復活を通して、人間に真の救いと天国への道をお開き下さった。この事実の信仰に生きることこそ、どんなこの世の新しい発見よりも、何事にも変え難い、我々がそれに命をかけてよいほどの、すばらしい真理である。
「人生は短くない。我々が短くしているのである」
(セネカ)
小事にこだわり、振り回され、人生を短くしているのである。
信仰とは、人生の大事と小事の混同をもとに戻すことだ。大事を大事とし、小事を小事とすることが福音なのである。大事を大事とした殉教者たちは信仰を守り、命を捧げた。そして福者の栄を勝ち得たのである。

