司祭のお話 てくむ 2009年4月号ご復活号
カンボジアとユートピア
主任司祭 小林敬三
最近新聞でカンボジアの旧ポル・ポト派指導者の裁判がようやく始まったという報道があった。自国民が殺し合う内戦が終わって、かれこれ15年も経ってからのことだ。戦争終了直後にカンボジアに行ったときのことを思い出した。
首都プノンペンに着くと、銃をもつ兵士達がいたる所にいて、暗く、緊張の色が濃かった。プノンペンはカンボジアの首都と言っても、観光的に観るところはあまりない。もしあるとすれば、戦争の傷跡である拷問校舎、また虐殺記念館だろう。ある高校の校舎を改造して拷問部屋を多数設け、そこで用いられた種々の残虐な器具、悲惨な写真などもそこに展示されていた。拷問部屋から10kmも離れたところには虐殺現場の丘があり、そこに殺された人の骸骨が何十メートルも積み上げられた記念館となっていた。
そもそも社会主義、共産主義を標榜するポル・ポト派は、なぜ、そしてどういう人を虐殺したか。まず彼らは人間をおよそ二つに分けた。農民労働者と、資本家だ。農民労働者こそ人間の本来のあり方、人民の味方ということで、一時彼らはプノンペンの人間すべてを農村に移住させ、人間改造のため肉体労働に従事させた。
また一方、資本家といわれる人たちは殺された。農民労働者以外はすべて資本家と、その一味。特に、教育を受けたインテリは人民の敵。「教育を受けた」ということは、時間と金があったから。時間と金があったということは、資本家。従って、メガネをかけた人は教育を受けた印。真っ先に殺されたそうである。
虐殺記念館の、ここで殺された人々の骸骨がうず高く積まれた記念碑の前で考えた。すべての人間が平等で、一部の人による搾取というものがない社会を目指そうという理想を掲げ、その実現のため努力することはよいことだ。しかし、そういう理想郷は、ユートピアだ。<ユートピア>とは、語源的には「どこにもそんな所はない」という意味だ。
この世にどこにもないユートピアを求めすぎると、人間は過激になりやすい。人間は罪人だから、お互いにエゴがむき出しになる。なかなか理想郷が実現せず、気ばかりはやるからいらだつ。疑心暗鬼が生じ、密告が奨励される。その結果、とかく自分たちが批判していた現状よりもっとひどい状態になりやすい。
特に人は、なにかイデオロギーにとらわれると、精神的に硬直しやすく、弾力性を失い、大局から物事が見れず、自分勝手な思い込みに振り回されやすい。人間として余裕がないから、自分の立場を客観視できないので、ユーモアのない非人間的集団になり下がる。ポル・ポト派も、そしてかつて日本中を震撼とさせた日本の連合赤軍たちの、あの悲惨残虐なる結末を思い出せばよい。
思うに、この世に理想郷に近いものがあるとするなら、それは合理的な世界ではない。(学生というものは学問するもの。大方学問は理性で真理を探究する。ゆえに学生は合理性というものに無意識に信奉するところがあるのではないか)。
この世は罪ある人間から成り立っている以上、いかなる意味でも完全な世界ではない。この世に理想郷に近いものがあるとすれば、それは不完全さがすぐさま認識される世界、そして争いがうま味をもって解決される世界だ。そのために不可欠なのが、主イエスの説く、まさに「愛と赦し」なのである。

