プチ・フォワイエ
なかなかすっきりしない天候が続きます。新しい年度になり一カ月経つと様々なことに忙殺されそうになっていたことに気がつきました。
忙しかった5月ですが、この5月を聖母月として聖母への崇敬に当てていることはご存じのことと思います。
この聖母月を振り返ると、忙しさに振り回されてしまいました。しかし、その締めくくりの時期に、はたと我に返らされることがありました。 というのは、忙しくもあり、体調もぱっとしない中で、ふと違和を感じたのです。
生活の中にふと漂う違和感。何かおかしい、しかし、何がおかしいのかと思っていると、とても簡単なことでした。非常に単純で、根幹的なこと。
あ、祈ってない。
神と共にいない。いわんやここにいない。「 生きているのに死んでいる。 」気がつけば、私は何をしていたのだろう?空虚な思いにさいなまれました。 あーあ。とふと見渡すと、講座のために準備したマリア様の本が目に止まりました。「 おとめマリアのロザリオ 」そう今月は聖母月、聖母マリアに対する崇敬を大切に思う月。なぁるほど。
自分の理解を超える目の前の現実。自分の許容量を超えそうなたくさんの出来事。それをどうにか「 いなそう 」として「 祈り 」を忘れたわたし。究極的に理解を超えるものに対し「 お言葉どおり、この身に成りますように。 」と応えた聖母マリア。
この世に起こること、すべてを神は福音に善用してくださる。
しばしば、罪概念を植え付けたと誤認される聖アウグスティヌスは、「 神は悪をも善用なさる方 」と言っています。
自分自身の弱さ、目の前の現実を善悪に定め、悟ったような気持ちになろうとして、悪循環に陥る。そんな人間の弱さを熟知した聖アウグスティヌスは、ただただ、こう言いたかったのかもしれません。
「 わたしはおもい、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん。罪深いわたしのために、神に祈ってください 」と。
この誤魔化しようのない自らの限界、強がろうとする小ささ。いと小さき者であるからこそ、聖母にならって、小さき者が、いと高きまことの親である神に賛美と感謝を捧げる。
偉大な聖人たちは、いつも回心とともに「 賛美と感謝 」と共にいたのです。

