彼の事を忘れてしまったのは、いったいいつ頃からだっただろうか。
忘れていた思い出、いや忘れようとして記憶の隅に追いやった思い出がこんな年になって思い出すなんて…。

 そう、あれは私がまだ学び舎に入って間も無い頃だった。
私はあまり人と話す機会が無かった為か、ほとんど学友と話す事などしなかった。

完全な寄宿制、厳しい規律、激しい競争、何も知らない子供にとってはどんなに大変な所だったのだろう。当時の親達はそういった所に我が子を入れるのを自慢にしていた。
入学を許された若者達は、親の期待、地域の期待を背負っていた者が多かったので皆恐ろしいくらいに学業に勤しんでいた。

 私は何を期待された訳でもなく、また、自分が何を学ぼうと言った理由も無くそこで過ごしていた。

 当然学業と言う物も程々にしかしていなかった。今にして思えばあの時にもっと学んでおけば良かったと思う時もある。
そんな毎日がただ過ぎていたある夏、彼は我々の仲間であり、競争相手となった。

 彼の名は何と言っていたっけ?
…………
名前はなかなか思い出せないが、彼の容貌は忘れていたと思っていた今でもはっきりと思い出せる。

明るい金色の髪、目はブルーではなくダークブラウン。顔つきは未だ幼い感じが残るが、今で言う美少年と言うのだろうか?綺麗な顔つきをしていた。

初めて彼を見た時は自分の顔が嫌になった。
顔が良いだけなら別に記憶に残る訳は無かった。そういったものはそこら辺に結構居たし、それを自慢していた者も居た。

大抵は金持ちの坊ちゃんであったし(金持ちの子と言うなら私もそうだったが)、金にものを言わせる嫌な奴が多かった。
まだ付き合うなら地方出身の者達の方が話し易かったし、彼らの方が親切だった。

ちょっと話がずれてしまったようだ。
彼は性格も良かった。皆に優しかったし、とにかく彼と一緒にいることが楽しかった。
色んな事を教えてくれたし、また議論もした。何度か喧嘩もしたが、それで私達の縁が切れると言う事は無かった。

 逆に繋がりが深くなった気がした。それだけ自分の思いを彼にぶつけていたし、彼も私にぶつけていた。

…あぁ、やっと彼の名前を思い出した。彼の名はフィリップ、私は彼をフィルと呼んでいたんだっけ。

フィルは私があの場所に入って5年になった夏にやって来たから17歳ぐらいだったのだろうか?教諭に紹介された時も、静かな奴だった。
普通は入って来れただけでも凄いと興奮したり、逆にあがって何も言えなくなったりしていたのに、彼は平然と名前と編入の理由、家族構成、出身地を言いのけた。

 おかげで誰も質問をする機会を失ってがっかりしたものだ。質問の時に困らせたりしてからかうのが、昔から居る者の礼儀、それで話すきっかけを作ろうとする。学業中心の生活の中でのささやかな教諭に対する抵抗。
それを無残にも絶ち切られてしまった。

 私は皆の反応を見て一人楽しんだものだ。これといった目標も無く過ごしていた私にとっては彼らを観察するのを暇つぶしにしていた。

 私は最初フィルとは全く話をしなかった。教室の中、いつも一人で居た私に、彼の方から話し掛けてきた訳だ。
「いつも一人だけど、話せないの?それとも話す価値が無い奴らと思っているの?」

 とんでもない事を言う奴だった。私は慌てて否定した。
フィルは安心して私の事を聞いてきた。フィルが言うには一人教室に居て、ほとんど話をしていない私が何故話さないか興味を持ったらしい。
周りの学友に聞きまくったが皆理由が判らないとの事なので直接聞きに来たと言う訳だった。

 それから私とフィルは仲良くなった。
相変わらずフィルは誰とでも話し、皆に人気があった。私はフィルとだけ良く話した。何だか彼と話していると気が安らいだり、自分の思っている事をいつのまにか打ち明けさせられていたりしたが不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろもっと話したいと思うくらいだった。

 幸いというか全寮制で住む所も部屋は違うが一緒だった。
よく消灯時間を過ぎてお互いの部屋に行き、舎監に見つかって怒られたものだ。
寮の生活も彼と話すようになって楽しくなった。また皆とも話すようになってきたが、それはフィルが一緒に居る時だけだった。
 それでも、寮長は大きな進歩だと変なお祝いをしてくれたっけ。

 フィルと外出許可が出た時に町に行くことは楽しかった。
普段とは違う風景。着飾ったお姉さん方、はたまた女学生。
カフェーのウェイトレスなんか、フィルにぞっこんだったけ。おかげで私は結構ご馳走になったものだ。

 フィルと一緒に居ると色んな人が集まってきた。大人からかなり年下の子供まで。
色んな所の話をしてくれたし、また色んな事を良く知っていた。私はそれを羨ましくも思っていた。
フィルは何でも持っているように私には思えた。才能も人気も。

 フィルの優しさの原因を知ったのはクリスマス休暇の時だった。
私は家に帰りたくない思いで親には寮でパーティがあるからと言って帰らなかった。
寮の3分の2は皆故郷に帰っていたが、中には帰るには近すぎる者や帰るには費用が掛かる理由で残る者が居た。
フィルも費用が掛かるからと思っていたのだが、パーティが終わったイブの夜。

 皆消灯時間が近付いていたので、それぞれの部屋に戻っていった。
私は部屋に戻って会場から持って帰ったお菓子と紅茶を入れていた。
「ちょっといい?」

 ノックの後、扉が開いてフィルがそう言った。
私はどうしたのかと思ったが、いつもの事で話に来たのだと思っていた。
フィルは部屋に入ると私のベッドに座った。そこが彼の定位置でもあったから。

「食べる?」
 私はフィルにお菓子を勧めた。

「いや、要らない。」
 フィルはそう言うと黙っていた。
どう時間を扱って良いか判らなくて、私は何故家に帰らなかったのか聞いてみた。
 フィルは暫く黙ったままだった。その時の彼の顔はとても淋しそうな顔だった。
私が彼と会ってから見てきた顔の中で一番淋しい顔だった。

 フィルは黙って立ちあがると扉を空けて部屋から出て行った。
私には何が何やら判らなかった。怒らせたのか?悲しませたのか?
追いかけるべきか、それとも彼が戻ってくるまで待ってみるのか?

 そんな事を考え、不安になる自分に私は驚いた。
以前の私だったらそういった事があっても何も思わなかっただろうに。

 フィルが何かを持って戻ってきた。
彼は黙ってそれを私に手渡した。私はそれを見つめた。
手紙だ。
消印は10月。差出人は彼の父親のような感じだった。

「読んで良いよ。」
 フィルはそう言った。人の手紙を読んで良いと言われてもそう読めるものじゃない。
私は一旦断った。

「読んで良いから。僕はもう読みたくないんだ。」
 フィルは叫ぶように言った。
私は驚いた。冷静で、何事にも動じないと思っていた彼が目の前で…

 私は手紙を読んだ。彼の実家の近況や、父親の仕事の事、家族の事がなんだか事務的な感じがする文章で書かれていた。
そして最後に、『今年は帰って来なくてよろしい。』

 その一文で彼の表情の理由が判った。
読み終えた私は顔を上げた。フィルと目が合った途端、彼は私に抱きついてきた。

「父さんは僕に帰ってきて欲しくないんだ。いつも僕を避けるように帰るといない。今年はまだ何も言っていないのに帰ってくるなって。10月だよ、10月。休暇が始まるのなんて、その時は2ヶ月も先なのに。」

 私は同じ年代の男が目の前で泣くのを初めて見た。喧嘩して悔しくて泣くのとは違う。
彼の涙は理解されない彼の気持ちに対する涙だ。
 声は出ていなかった。ただ肩を震わせて私に顔を押し付けて泣いていた。

「ごめん。」
 フィルは私から顔を離すとそう言った。

私は
「良いよ、落ち着くまでここにいる?それとも部屋に帰る?」
彼をベッドに座らせながら言っていた。

 フィルはベッドに座ると話し始めた。
私は黙ってフィルの話を聞いていた。彼の色んな事が聞けた。
ほぼ一年ごとに転校を繰りかえし、(その都度レベルが高い学校に行っていたのは凄いが)ほとんど実家に帰れなかったこと。
父親のフィルに対する冷酷なまでの厳しさ。その反動からか、皆に優しく接するようになった事。
フィルは父親から認められたくて頑張っていたんだと気が付いた。

いつのまにか私とフィルはベッドの中で話をしていた。
冬の最中、消灯時間が過ぎて暖房が効いているはずも無い。
お互いが身を寄り添いあっていると暖かかった。

 私はフィルの話を聞いて自分の考えを話した。フィルが自分にだけ打ち明けてくれた事が信じられなかったし、たまたまだったのか。
それを確かめたくて話した。
 ふと気が付くとフィルは私のベッドの中で寝ていた。
寝顔は物凄く子供らしく可愛い。普段の明るくクールな感じからは思いもつかない表情だった。
 私はフィルの寝顔を見て、彼の横で寝ることにした。
いつになく暖かく充実した眠りのとれた夜だった。

 それからのフィルと私は、前よりも話すようになった。
また行動するのも一緒になることが多くなった。

 そして突然フィルは居なくなった。

居なくなる前、私はフィルと大喧嘩をしていた。何が原因だったか…

 彼の捜索が全校を挙げて行われた。初日は何も手がかりがなかった。
官憲が事情聴取する。教諭は私達に協力と思い出した事をすべて話すよう言われた。
私は彼と喧嘩した事は言わなかった。単なる意見の食い違いと思っていたからだ。

 2日目、変化が現れた。
誰かが私とフィルの言い争っているところを見たらしい。私はまた官憲に呼ばれた。
色々と聞かれた。何故黙っていたかとか、思い当たる場所は無いかとか。

 黙っていた事はいつもの事と思って別に気にしていなかったと説明した。
思い当たる場所はあらかた教えた。一つだけ除いて。

 状況は芳しくなかった。私も他の仲間も思いつく場所に行って探した。
町の方にも行って捜したりもした。2日目から通常通り授業が再開されていたから終わってからの少しの時間だけであったが。

 3日目
 私は授業を抜け出してフィルを捜した。あれぐらいの事で居なくなるような彼じゃない。
それだけお互いを理解していた。そう私は思っていた。

 まさかと思ったが、官憲にも話さなかった、良く二人で過ごした町外れの廃墟に行ってみた。
行って見てもそう変わりは無いように思えた。

 中に入って地下室へ行く階段を思い出した。前の住人が残していったらしいアンティークがあった場所。
アンティークに囲まれて二人で良く話した。フィルの実家にはこういった物が沢山あるとかそんな他愛も無い話しをよくした所。

 扉は半分開いていた。

 中を覗き込んだが真っ暗で、何も見えない。
階段を降りると何かの塊があった。彼が蹲っているかと思い声を掛けた。

「フィル?」

 返事は無かった。そして私はそこから逃げ出した。

ただ私は怖かったのだ。別に逃げる必要も無かったし、慌てずに誰かを呼べば良かったのに…

 それから一週間、私は2つ先の村の老夫婦のお世話になった。
滅多に客人が来ないのと、孫が私ぐらいらしく親切に泊めてくれた。
そして、教諭と官憲がそこに迎えに来た。

官憲に連れて行かれて尋問された。
何度も私が殺したと言われた。
そのうちもうどうでも良いような感じになってきた。

 でもその度にフィルの顔が思い出されて、頑張れた。

結局フィルが一人で買い物をした後あの廃墟の方に歩いていったという証言と検死の結果階段から落ちて後頭部を強打した事が死因と判った為釈放された。

 私は無事に復学できたが、もうそこでは学びたくなくて転校した。
フィルの思い出があまりにも私には辛かった。後悔が何度と無く私を苛んだ。

事件の後、家族がフィルの部屋を片付けに来た時に、私あての手紙があったらしい。
私はその存在を知らずに転校していた。

 今、その手紙が私の手の中にある。
昨日私の部屋に2通置かれていた。
誰が置いていったのだろう?私の名前だけが書かれた手紙。
字を見て何故か懐かしくそして切なく思った。

中を読んでその意味がやっと判った気がする。

 今度彼の実家に行こう。そして彼の家族と彼の思い出を語ろう。
家族にも打ち明けなかった彼の気持ちを伝えに。