第五回

五丈原の戦い上(234年4月)
 231年の四度目の北伐失敗後、内政の整備に腐心し、対外的には沈黙を保っていた諸葛亮が五度目の北伐を開始した。
諸葛亮率いる蜀軍は斜谷より出撃、魏の領土に侵入した。
木牛や、流馬を用いて、蜀の桟道での物資輸送をスムーズに行おうとした諸葛亮だが、完全に軍需物資を確保することはむりであるため結局のところ現地調達になったようだ。
 魏は、蜀軍の対策を司馬懿に委任し、事態への対処にあたらせた。
前回の北伐で、蜀を撃退した後、魏は司馬懿の指導のもと、上ケイの田野を開墾させるとともに、蜀の侵攻が予想される京兆、天水、南安の地域で武器の製造を振興するなどして、早くから北伐に備えていた。
また、用水路として成国渠(せいこくきょ)を掘削、堤防として臨普陂(りんぷは)を築くなどして、新たに広大な農地を灌漑し、国力充実に多大な努力をはらっていたのだった。
 客観的には、今回の出兵は蜀にとって不利であったが、これ以上出兵を控えていると、魏の国力が充実してしまい、国力の差が出るばかりということで、諸葛亮は出兵を決めた。
 斜谷を出た蜀軍は五丈原に布陣、これを受けて魏の皇帝曹叡は、征蜀護軍秦朗(しんろう)に、歩兵、騎兵合わせて2万の援軍を与え、司馬懿の指揮下にいれて兵力を増強させた。
出兵にあたり
 「渭水の北岸に布陣し、渭水を挟んで蜀軍を迎え撃つべし」
と諸将が進言するのにたいし、司馬懿は
 「兵糧は、渭水の南岸に集積してある。常に輸送に頭を悩ましている蜀軍が最もほしいのは、その兵糧であり、かの地こそ勝敗を分ける要である。」
として大胆にも渭水を渡り、渭水を背にして砦を築くという陣をしき、蜀軍と対峙した。

五丈原の戦い中(234年夏)
 魏、蜀の両軍の対峙状態が続くなか、夏にいたり、ついに戦いの火蓋が切られた。
魏の司馬懿は、斜谷より蜀軍が出陣したという報告を聞き、
「諸葛亮がまことの勇者であれば、武功に進出して山づたいに東に向かうだろう。
だが、もし西に向かって五丈原に布陣するなら何も心配する必要はない」
と諸将に伝え、自信をのぞかせた。
はたして諸葛亮は、五丈原に陣をしいたが蜀軍は、ここから北上して渭水をわたる構えをみせたので、司馬懿は、将軍周当(しゅうとう)を陽遂に駐屯させ、これをおとりとして蜀軍をおびきよせようとする作戦を打った。
しかし、さすがに諸葛亮はその誘いには乗らず、戦闘にはいたらなかった。
 その後、司馬懿は将軍胡遵(こじゅん)と郭淮(かくわい)に命じて陽遂の防備にあたらせると、自らは軍を率いて五丈原に向かった。
 五丈原の手前の積石で遭遇した両軍は、激しい白兵戦を展開したが、ついに決着はつかず、両軍とも自軍の陣地にひきあげた。
 
<戦中の動き>

諸葛亮、屯田制導入
 五丈原での布陣が続く蜀軍は、付近の住民とともに屯田を実行した。
 屯田制には、自分の田地を失った流民たちに、政府が牛を与えて主を失った土地を開墾させる民屯(みんとん)と、兵士が駐屯地において、田地を開墾し、兵糧を自給自足する軍屯(ぐんとん)の二つがあるが、諸葛亮が行ったのは軍屯である。
 諸葛亮の指導が行き届いた蜀軍は、付近の住民とももめごとも起こさず協力し合って屯田策を実行した。

五丈原の戦い下(234年8月)
 司馬懿に決戦を挑んで一気に魏軍をやぶる作戦をたてた諸葛亮に対し、司馬懿はその意図を看破し、
「蜀の最大の弱点は、本国からの物資の輸送にある。
陣を堅く守り持久戦にもちこめば、物資不足の蜀軍は引き上げざるおえない」
と読んで、持久戦にもちこんだ。
 それに対し、諸葛亮は、司馬懿に使者をおくり、その弱腰をなじる手紙を送ったり、女の服や髪飾りの装飾品をおくったり(めめしいやつだという意味)して、挑発作戦にでた。
一時は、この策略が効果を発揮し、魏軍の将の間で、「出兵させるべき」だという声があがり、諸葛亮との交戦ムードが高まった。
 司馬懿は、この声を無視することにより士気がさがることを恐れ、帝に出兵を乞う手紙を使者に持たせて洛陽に送り上奏するという策で、事態の収拾を画策した。
この意図を正確に受け止めた、魏帝曹叡は、交戦を戒める詔勅を辛ピ(しんぴ)に持たせ、魏軍の陣中の司馬懿に送った。
これらの絶妙な連携プレーにより、魏軍は士気を保ったまま、全軍を固めるという理想的な結果を得て、諸葛亮と司馬懿の第一ラウンドは、司馬懿の圧勝という形になった。
 蜀は、その後も魏に対してことあるごとに挑発を繰り返したが、司馬懿が静観したまま動かず、八月まで両軍のにらみ合いが続いた。
 そんななかで、過労により蜀の丞相諸葛亮が急逝した。
司馬懿は、この時期、諸葛亮からの使者と会見した折、諸葛亮の睡眠時間、食事内容、仕事ぶりなどをくわしく聞いたという。
使者は
 「諸葛公は、朝早くにおきて、夜中に就寝し、鞭20回以上の刑罰には必ず立ち会われます。
食事は、数升に過ぎません」
と諸葛亮の精励ぶりを得意げに話したが、司馬懿はそれを聞き
 「諸葛亮の体はもつまい。」
と死を予言していたとも言われている。
 諸葛亮死去の報を受けると、魏軍は直ちに蜀軍を追撃したが、諸葛亮の指導が行き渡っている蜀軍は姜維(きょうい)らを指揮としてあくまでも魏軍に立ち向かう強い姿勢をみせたので、司馬懿は用心して兵を引いた。
これが
 「死せる(諸葛亮)孔明、生きる(司馬懿)仲達を走らす」
である。
死してなおも整然と自軍を退却させた手際と五丈原に残された蜀の陣を視察した司馬懿は、
 「ああ、見事なるかな諸葛亮、これはまさに天下の奇才なり」
といい、亡き宿敵、諸葛亮の死を惜しんだという。

巨星、五丈原に墜つ
諸葛亮の急死により五回の北伐は失敗に終わる。

諸葛亮死す
 蜀の丞相諸葛亮が、激務や心労からの病気により54歳で死去した。
諸葛亮は、魏の諸葛誕、呉の諸葛謹らの同族である。
父諸葛圭の死後、叔父諸葛豊にひきとられ、叔父の死後、襄陽の西で自耕しつつ学業にはげみ、徐庶(じょしょ)らと交わり、「臥龍(がりょう)」と称された。
 207年、徐庶に紹介された劉備から、「三顧の礼」をもって迎えられた。
このとき開陳されたのが「天下三分の計」で、以後劉備と「水魚の交わり」を結ぶことになる。
 208年、曹操が南征を開始すると、呉の孫権のもとに派遣され、弁をふるって、曹操軍に対抗すべく同盟関係を設立され、赤壁での勝利を導き出した。
こうして荊州南部にはじめて本拠地を得た劉備が、211年、蜀に入ると、二年後張飛、趙雲らと三方から後続部隊を率いて攻め上り、214年ついに蜀の都成都を開城させた。
 221年、曹丕(そうひ)が魏王朝を立てたのに対抗して、劉備が蜀で漢帝を称して蜀漢王朝を建てると、丞相の位にのぼった。
 231年、白帝城で重態に陥った劉備から、
「もし息子が、補佐するにあたいするなら助けてやってくれ
あたいしないのならば、君が自ら国を継いでくれ」
といわれ、17歳の劉禅を守りたて蜀の経営に専心した。
 235年、南方の鎮定におもむき、南蛮王孟獲(もうかく)を「七たび捕らえて七たび放つ」(七縦七擒)策をとって南方異民族の人心を掌握した。
こうして後顧の憂いをたった上で、227年、魏征討に着手した。
 この後の五回目の北伐の陣中において、後任に蒋エン(しょうえん)と費イ(ひい)を指名して陣中に没した。
 宰相としての諸葛亮は、人民を愛撫しつつ、一方では人民の守るべき規範を示し、官職を整理し、法律、制度に基づいて誠心誠意公平な政治を心がけ、賞罰のけじめを明確につけた。
このため、国中のあらゆるものが、諸葛亮を恐れる反面、親愛の情を寄せたといわれる。

解説
三顧の礼
 劉備が諸葛亮を軍師に迎える際に、若造に対し、自ら三度訪れて礼をつくしたこと。

天下三分の計
 中国の国土を三つにわり、魏の曹操、呉の孫権とし、のこりの蜀を劉備が征し、呉と協力し強大な魏を討った後、呉を併合し、最終的に統一するという計。

<戦後の動き>

魏延(ぎえん)斬られる
 陣中において、絶えず現場サイドとして諸葛亮と意見を対立させていた魏延が、
「天下の大事をたった一人の人間が死んだだけで決めるとはなにごとぞ。
わしが生きているではないか。
わしがみずから軍を率いて賊を討つ」
とし、諸葛亮の遺言に従って退却する軍を阻止する暴挙にでた。
 魏延の反乱軍と正規軍があわや戦うかと思われたそのとき、無当監何平が
「丞相が亡くなられ、その体がまだ冷たくもなってならないうちに、お前たちはどうしてそのようなことを平然とおこなえるのだ」
と一喝したため、魏延の暴挙に不満を持っていた反乱兵たちは戦線を離脱し、魏延は平北将軍馬岱(ばたい)の手により斬首された。
諸葛亮は、死ぬ間際「魏延には気をつけよ」と言い残していた。
 『三国志演義』によると、諸葛亮は、死の間際に
「魏延が反乱を起こしたときは、この錦の袋をあけよ。」
と楊儀に錦の袋をたくしていた。
 魏延は馬岱とともに反乱を起こした、楊儀は錦の袋をあけ、そこにあった書にしたがって戦いをおこなった。
攻め寄せてくる魏延に対し、城門をすべてあけさせた楊儀は姜維とともに手勢二千をもって迎え出た。
そして、楊儀は魏延に向かい
「魏延よ、丞相は生前、おまえが反乱をおこすことを予見していたぞ。
『おれを殺すものがあるか』と三回さけべ。
そうすれば、漢中をおまえにやろう」
と叫んだ。
魏延は
「諸葛亮が死んだいま、この俺にかなうやつはいないぞ。
三回でも三万回でも叫んでやろう。
『おれを殺すものがあるか』―」
と三回くりかえした。
すると
「わたしが殺してやる!!」
という声とともに振り返った魏延は、馬岱の一刀により真っ二つにされた。
 馬岱は諸葛亮が、反乱をおこすことを予見し、あらかじめ魏延の側につけておいたのであった。
三回叫ばせるのは魏延を斬る合図だったのである。

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