お豆富のうんちく、あれこれ!
◎京急蒲田で"豆富屋"を営んで40数年
"豆富"の歴史やその他、さまざまの事に関しての知識があまりにも
ないので、この機会に色々調べて連載していこうと思います。
楽しみにしていて下さい。!!!
尚、このコ−ナ−は、1ヶ月単位で更新(予定)していこうと
思います。楽しみにしていて下さい。
お豆富の歴史
◎"豆富"の歴史に関して、先日、"蒲田図書館"に行って
調べてきました。原文のままなので、理解しずらいかとは
思いますが、頑張って読んで下さい。!!!
お願い
◎文章が長くなってしまった為、興味のある方には、
熟読していただくのは、とても大変だと思いますので、
このペ−ジを開いたままで回線を切断していただいて、
ゆっくり読んでいただくか、
又は、このペ−ジを開いたまま、右クリックして"すべて選択"を選び、
"コピ−"をして後でどこかに"貼付"をして
ゆっくり読んでいただければ幸いです。!!!
第一章 序 章(いつどこで、誰が造り始めたのか?) Updeted 97/05/11
第二章 日本伝来について(いつ頃誰が伝えたのか?)
Updeted97/06/08
第三章 豆富に関する諺(ことわざ)、いろいろ Updeted97/06/08
第四章 豆富と水の結びつき Updeted97/07/06
第五章 京都と江戸の豆腐比較論 Updeted97/08/03
第六章 豆腐の加工品 Updeted97/09/07
第七章 豆腐の名物料理 Updeted97/10/05
「日本うまいもの辞典」 近藤 弘著 ◎東京堂出版より抜粋
◎基礎知識
☆我が国、日本では醤油、味噌、納豆と並んで豆腐は、大豆を使った四代食文化である。
東北アジアの大豆農耕圏の中で、日本列島のみが四種類の大豆文化を持つ。
☆大豆の蛋白質(グロブリンの一種、グリシニン。含疏アミノ酸がやや不足しているが
"アミノ酸組成"は、牛乳の"蛋白質カゼイン"に似ていて、質的にきわめてすぐれている)
を熱湯で取り出し、ニガリ(塩化マグネシウム)、澄まし粉(硫酸カルシウム)などの
凝固剤を加えて、抽出した大豆蛋白質を凝固(固まらせること)させた製品が豆腐。
つまり製造法的に見ると、きわめて科学的な食品である。
◎豆腐の歴史
☆製法がきわめて科学的な豆腐。
何がきっかけで発明されたものか調べてみる。
☆一般には、豆腐は漢の"准南王劉安"(ワイナンオウリセウアン)の発明と
いわれてきた。
"劉安"(リセウアン)は漢の高祖の孫、学問を好み、哲学書「准南子」(エナンジ)は、
彼が幕僚たちとの討論をまとめた書と伝えている。彼はのちに横死する。
彼の才を惜しんでのゆえか、薄幸を惜しんでのゆえか、中国でも豆腐の発明者は
"劉安"(リセウアン)との意見も強い。豆腐には"准南遺品"(ワイナンイヒン)などの
別名がある。
☆しかし、農学書、料理番として名高い六世紀、北魏時代の「斉民要術」の大豆の章にも、
農産加工の章にも、豆腐の名は見当たらない。
「豆腐の名がいつ出るか随分調べました。五代末から宗初期にかけての人、
陶殻の書"清異録"が初見です。」と、篠田統先生(生化学・民族学・すしの研究者と
としても著名な方。元大阪学芸大教授、故人)
☆中国大陸で"腐"とは、固体でもなく、液体でもなく、脳味噌のような、
コロイド状のものをさす。
そこで"腐系"の食物の登場に注目してみる。唐代の詩人、"白楽天"はその晩年に、
"粥"に"酪奬"(今でいえばヨ−グルト)をかけて食べている。
☆唐王朝は、もともと北方の出身である上、"安禄山の乱"で、蒙古族、満州族との
接触も繁くなる。遊牧民族と接した唐代の人々は、当然、乳製品に親しむ。
彼ら漢民族は馬乳・牛乳、を発酵の働きで凝固させたもの、今のチ−ズに近いものを
"乳腐"と名ずけた。"乳腐"に比べて水分の多いものが"酪奬"。
"奬"とは、「おもゆ状のもの」の意味をもつ。
☆"乳腐"、つまり"腐系"の食品に気ずいた唐代の人々は、豆腐を使い"腐系"の食品
即ち"豆腐"を作ろうと努力したことだろう。
事実、中国大陸では大豆を材料とした"臭豆腐"のような発酵食品を数多く
作り上げている。
「私も豆腐の発明は、唐代の中ごろ、八〜九世紀ごろと考えています。」
と、篠田統博士。
第二章 日本伝来について(いつ頃誰が、どうやって伝えたのか?)
☆室町時代中期の作と伝える。
「七十一番職人尽歌合」には、豆腐売りが登場している。
頭にかぶる白い布は、前で結んであるゆえ、今で言えば鉢巻であろう。
黒い衣服を着た豆腐売りの女は、おっとりと"あぐら"をかいて、
道路に細長の低い台を置きその上には、四角の豆腐を、客の側から見て左手には、
すばらしく大きい豆腐を、右手には小さい豆腐を無造作に置く。
空白には「とうふ召せ、奈良よりのぼりて候」と記し
歌に、「月 ふるさとはかべのたとえに"ならどうふ"白きは月のそむけざりけり/恋 恋
すれば苦しかりけり"うち゛どうふ"まめ人の名をいかでとらまし」とある。
☆当時、京の街で売られている豆腐が、はるばる宇治と奈良から女たちに運ばれてきた
ことがわかる。
つまり室町末期のころ、まだ京都の街で豆腐は作られていない。
宇治から京へは約三里(約40キロ)の道のり、女に担がれてくずれもせず届くのだから、
よほで固い豆腐に違いない。(《私見》 どうも"豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ"
という諺はここらへんからきたらしい。
豆腐売りの季節は、冬に限られていた。
豆腐が水に浮かぶ時代は、まだ後の時代のことである。
☆奈良の都は、後に開けた平安京(京都)に比べて、浪華(大阪)、堺の港にははるかに近い。
明の貿易船はもちろん、"南蛮船"(ポルトガル船・スペイン船)、"紅毛船"(オランダ船)も、
室町時代には大阪の南、三里の堺港に入港していた。当時の海外文化は、
堺からまず奈良に入る。都は平安京に移っても、奈良の都には東大寺をはじめ、
数々の大寺院が反映を誇る。豆腐も堺から浪華の港(十五世紀初期には兵庫の港が開き、
明船は兵庫に入る)経由で奈良に入ったであろう。
☆奈良の地に豆腐製造法が渡来した時代は、「私も調べに苦労しました。寿永二年(1183)
奈良春日神社の御供物に登場していました。おそらく豆腐の初見でしょう。」と篠田統
博士寿永二年といえば、平家一族が"安徳帝"を奉じて西海にのがれた時代、
中国大陸では南宋の時代。南宋の時代、港は海に面した抗州に移った。
パウダ−茶(抹茶)文化を日本に輸入した。
"栄西"が、第二回めの入宋を果たしたのは、1187年(文事三年)である。
南宋時代には、中国大陸の"すし文化"は飛躍的に進歩した。
☆唐滅亡の時代は903年、しかし遺唐使は、839年(承和五年)"藤原常嗣"を最後に、
その後は絶えた。平安末期、11〜12世紀に入ると、宋の商人たちは、太宰府、対馬、
能登に渡来し始める。"平清盛"が政権の座に登場して間もなく(1167年〈仁安二年〉
太政大臣となる)、宋(南宋)との交流は活発になる(栄西の第一回入宋は1163年)。
☆日本列島への豆腐渡来の第一期は、南宋(1128〜1279)の時代に入ってのことでは
なっかたか。12世紀、日本列島への豆腐の渡来を、豆腐渡来の第一期とする。
☆豆腐渡来の第二期は、文禄・慶長年間である。"秀吉"の朝鮮出兵、いわゆる文禄
(1592〜93)・慶長(1597〜98)戦いの折り、長曾我部藩(土佐)などは、朝鮮半島から
豆腐を持って帰った。「朝鮮戦争で持って帰ったのは、ここ(土佐)では豆腐だけろねえ。
豆腐の道具も豆腐屋さんも連れて帰ってきた。唐人町をつくり、秋月姓をなのらせて、
三里四方は豆腐の製造を禁止し、専売にしました。持って帰った製品は、豆腐だけろねえ
焼豆腐も厚あげ、がんもどきじゃいうもんは、明治までありませんキに。豆腐の製品は
ここでは油揚げだけでした。油揚げは古くからあった。」と川村源七先生(民族学・
高知県立図書館もと館長、故人)。
☆周知のように、豆腐は秀吉の朝鮮出兵のおり、岡部治部太夫が"かの地"で覚えてきたゆえ
"おかべ"と言うとの俗説が生まれた。この俗説の誕生は、江戸時代に入ってのことで
ある。他国はともかくも、土佐への豆腐の輸入は、"長曾我部元親(もとちか)"
(1539〜99)の時代。元親は文禄の役のおり、と理解してよかろう。
文禄の役のおりの豆腐渡来が、いつか"岡部物語"になったのかもしれない。
第三章 豆富に関する諺、いろいろ
「とうふの本」 阿部 孤柳・辻重光共著 ◎柴田書店より抜粋
☆豆腐は売れず粕が売れる→肝心の事は進行せず、どうでも構わぬ事ばかり進む。
☆豆腐も煮れば締まる→締まりのない人も苦労をすれば、しっかり者になるたとえ。
☆豆腐に鎹(かすがい)→"糠に釘"の意味
☆豆腐で歯を傷める→あり得ない事のたとえ。
第四章 豆富と水の結びつき
「日本うまいもの辞典」 近藤 弘著 ◎東京堂出版より抜粋
☆室町時代の中期ごろには、京都の人の手には、豆富作りの技術は渡っていない。
と前に述べた。(「七一番職人尽歌合」は室町時代中期の作と伝える。七一の職業を
選び、それぞれに面白い絵がついていて、各職業に因んだ月と恋いの歌を
二首ずつのせ、互いに似かよっている職業ごとに対をつくり、競争させる形式で
まとめている。豆腐売りは第三七番だが、素麺売りと対になっている。なお当時の
職人の解釈は、今日いう職人に比べ幅がひろい。農夫も、商人も、弓とりも、
食べもの売りでは、ところ天売りも職人に含まれていた。)
☆これも一部で前述したが、「御湯殿の上の日記」には、文明九年(1477)から
長享二年(1488)にかけての一二年間に四四回の豆腐が天皇家に献上されていた。
「そのうち10月が6回、11月に32回、12月が4回でっせえ。11月に集中しています。」
と篠田博士。12年間に44回ゆえ、平均すれば何に4回に満たない。
11月は、旧暦では冬至の月、間もなく小寒の季節に入る。宮中への豆腐献上が寒に近い
時季に集中している事実は、15世紀のころには、豆腐の作り方がまだ京都人の手に
渡っていなかったことを示していよう。
☆京都での田楽の初見は、「南北朝の貞和六年(1350・北朝年号)に京都祇園神社の
記録が私の知る限りの初見です。」と篠田博士。「京都では、四条流包丁書」
(延徳元年〈1489〉にも「厨事類記(正安二年〈1300〉にも、豆腐料理は記されていない。
初見は「大草家料理番」(天文一九年〈1550〉です。」と篠田博士
☆その「大草家料理番」に登場する豆腐料理は、うどん豆腐、あん豆腐、とや豆腐の三種。
◇うどん豆腐は、細く切って湯煮した豆腐を山椒・胡麻を薬味に使い、醤油で食べる。
◇あん豆腐は、湯煮した豆腐に葛溜りをかけて、上置にはケシ・山椒の粉・クルミの実
を使う。
◇とや豆腐は、少し火どって水出しで煮る。薬味は山椒の粉。
☆八坂神社の西側に祇園豆腐で名をはせた豆腐茶屋が出来たのは、
慶長年間(1596〜1615)のこと。豆腐茶屋の成立には、まず第一に、年間を通じ
豆腐製造の技術を要求する。年間を通じ豆腐をつくるためには、豆腐を保存する手段の
開発が必要である。夏期に豆腐保存は流水(冷水)の中に沈めるに限る。
豆腐茶屋が成立したころに、京都人は豆腐を冷水に沈める保存法を発見したことであろう
つまり、京都人が豆腐製造技術を手中におさめた時代は、「御湯殿の上の日記」に豆腐が
登場し始めた一五世紀末から、豆腐茶屋の出来た一六世紀末の間であろう。
今、祇園豆腐の二軒茶屋(のちに、家康が在世中に、東側一軒出来たゆえ、土地の人は
二軒茶屋と呼ぶ。)のうち東の流れをくむ中村楼は、豆腐料理の粋を維持している。
☆時代は下るが、二代目市川団十朗は、「老のたしなみ」のなかで「水・水菜・女・染物
みやす針寺に黒木・松茸)と数えた。寛保二年(1742)のことである。
☆京都に限らず、名亭は必ず名井戸を持っている。冷蔵庫のない時代、井戸は唯一の
保存場所でもあった。井戸水と豆腐の結びつきは、豆腐料理は秋冷、冬の候との束縛から
解放して、年中の料理に張ってさせた。豆腐料理に四季感を与えてくれたのも、井戸水と
豆腐の結びつきが原点である。
☆京都人は、京の豆腐を自慢して止まない。「春は花 いざ見にごんせ東山 色香あらそう
夜桜や 浮かれて浮かれて 粋も不粋も 物堅い二本さしても軟こう祇園豆腐の二軒茶屋」
と、「京の四季」には歌う。
第五章 京都と江戸の豆腐比較論
「日本うまいもの辞典」 近藤 弘著 ◎東京堂出版より抜粋
☆江戸では、水と豆腐の結びつきは、京都に比べて、はるかに遅れた。
「珍客に見えてとうふを縄に下げ」と、江戸の川柳子は『柳多留』第14篇(安永八年〈1779〉)
の春に詠んでいた。一八世紀末のころ、江戸の庶民にとって、豆腐は珍客へのもてなし
料理に欠かせぬもの。しかし、その豆腐も縄にぶら下げる豆腐と分かる。
☆喜多川守貞は、その著『守貞漫稿』の中で、「今製京坂柔カニテ色白ク美味也江戸剛クシテ
色潔白ナラズ味劣レリ然モ京坂ニ絹漉豆腐ト伝ハ特ニ柔ニテ同価也キヌコシニ非ザルモ
特運ニハ器中水を蓄え浮ベテ振ザルヤウニ携ヘザレバ忽チ壊レ損ズ江戸ハ水ナクテモ
崩ルゝ事稀也江戸ニモ汲豆腐ト伝バ柔カ也京坂普通製ニ似タリ蓋キヌコシ常ニ有レえクミ
豆腐別製也需アレバ製レえ」と、京坂の豆腐に比べ、江戸の豆腐に手厳しい批判を
下している。喜多川守貞は、浪華(大阪)に生まれた人、天保八年(1837)、北川家を継ぎ、
江戸深川に住まう。彼は天保八年から、江戸生活の見聞録を広く記し、『守貞漫稿』を
残してくれた(出版は嘉永六年〈1853〉)。守貞の父から、一九世紀、天保八年以降の
時代でも、江戸の豆腐は、水と結びついていないことが分かる。
☆豆腐の進化には、少なくとも二つの条件が必要である。
第一に文化・パトロンの存在。奈良では、大寺院などが豆腐文化の支持者になった。
山国の京都では、京都の人々が豆腐を好んだ。
第二に風土的条件である。江戸のように、四季の魚介類豊かな、江戸湾をひかえた
文字どうり江戸前に富む風土の中では、蛋白食の面から豆腐をさして要求しない。
調べてみると、鹿児島、長崎、高知など海に面した都会でも、豆腐料理はさして
進化していない
☆京都対江戸の都市性格は、風土的にみても片方は豆腐受け入り圏的な環境、片方は、
非豆腐圏的環境といえる。
☆大阪で『豆腐百珍』が出版されたのは天明四年、江戸で出版された『余録』を加えると、
この時代には、三百種の豆腐料理があった。
☆江戸の料理書に豆腐料理の登場する初見は、『料理物語』(寛永二十年〈1643〉)であろう。
その青物え部に、「たうふ汁。でんがく。うどん。ふわふわ。こほり(凍豆腐のこと)。伊勢だうふ。 六条。茶や。雉焼。同うば。汁。茶菓子。煮物いろいろ。」と記す。"同うば"の"うば"は
湯葉のこと。"汁、茶菓子、煮物いろいろ"は、"湯葉料理"である。『料理物語』の豆腐料理は、
"ふわふわ"にしても、"伊勢だうふ、六条"、にしても、その後の江戸の豆腐料理に比べて
はるかにすぐれている。"ふわふわ、伊勢だうふ、うどん"の名から察すると、上方の豆腐料理
をそのまま写したのであろう。
☆「伊勢だうふ」は、時代は少々逆だが『豆腐百珍続編』にいう"五瀬(いせ)豆腐"にそっくりの
製品である。その"五瀬豆腐"は、豆腐、鯛の身、"おろしいも"の三品を別々によくすり、
合わせて、なおまたすり卵の白身を加え杉の箱にしき布して入れ、箱ながら湯煮して
よきほどに切って鳥味噌をかけ、すり胡麻、山椒をおく。
☆『料理物語』には、「たうふ」の項の外に、"納豆汁、博奕汁、あつめ汁、須弥山汁、観世汁、
鯉の観世汁"など"汁物"が名を連ねる。
"博奕汁"は、賽の目に切った豆腐を入れた味噌汁。
"須弥山汁"は、具の豆腐と菜とを細かく切って入れた味噌汁。
"だし入り"とわざわざ断ってある。
☆上方のように、"昆布だし"や"鰹節一番だし"、"二番だし"など、
"だし"をとることが苦手の江戸っ子、
そのころにやっと鰹節か煮干か昆布を手にしはじめたのであろうか。
『料理物語』に"田楽"が顔を見せぬ点にも興味がわく。納豆汁はともかくも、
豆腐のサイコロ切に名ずけて"博奕汁"、具の豆腐と菜を細かく切って入れて
"須弥山汁"など、料理と呼ぶには、気がひける。
☆『料理物語』の豆腐料理に比べて『大草家料理書』に登場した豆腐料理は、
"うどん豆腐"にしても"とや豆腐"、"あん豆腐"にしても、はるかに料理性が高い。
☆『大草家料理書』(1550)の時代から「茶屋」時代(1596〜1625)までは約50年。
豆腐が茶屋に登場し、京都人を楽しませた「茶屋」時代から数えると、300種もの豆腐料理を
数えた『百珍』時代(1782〜84)まで、ほぼ190年。京都の豆腐料理は、ある時代から
爆発的に発展したものであろう。寛永20年(1634)の『料理物語』には、「たうふ汁。でんがく
うどん。ふわふわ。こほり(凍り)。伊勢だうふ。六条。茶や。雉焼。」と九種の料理が登場する、
と前に記した。このうち、伊勢豆腐の作り方は、前述したように『豆腐百珍』とまったく
同じである。奇妙なことに、『寛永料理物語』に記した伊勢豆腐のような手の込んだ
豆腐料理は、江戸の料理書には、その後姿を見せない。
"伊勢豆腐"を、その時代、京都に存在した五瀬豆腐を記したものと考えるゆえんである。
恐らくは『寛永料理物語』の時代、京都には手の込んだ豆腐料理が誕生しはじめた時代で
あったろう。京都に豆腐料理が発達しはじめた時代を、『寛永料理物語』の時代と考える。
☆『寛永料理物語』の時代から、天明『豆腐百珍』の時代にかけて、約140年ほどの間に、
京都には300種の豆腐料理が開花した、考えてよかろう。その田楽が江戸の茶屋のメニュ−
に登場した時代は、なぜかずっと遅れて宝暦(1741〜64)のころ、真崎稲荷の
田楽茶屋だった京都・祇園豆腐の時代に遅れること、約150年である。
☆ともあれ京都の豆腐料理は17世紀18世紀(『百珍』時代)にかけて、爆発的に進歩していた
「江戸の水は、そう悪いとは思いませんねえ。玉川の水はよかったと聞いていますし、
お茶の水の水など、名水の名は残っているし。うちだって戦前まで、井戸水がよかった。」と
お鷹匠仕事「玉ひで」七代目の山田耕路さん。江戸幕府は、玉川上水など上水道に
力を注いだ。山国京都ニハ」比較にならぬが、江戸の水はそう悪くない。
しかし、江戸では15世紀末の料理書に豆腐料理が登場したものの、
その後、見るべき豆腐料理は江戸に育っていない。
江戸は蛋白質的にみて、やはり非豆腐的風土である。
☆京都の豆腐が水に浮かんだ時代にも、江戸の豆腐は縄にぶら下がっていた。
京都に田楽を名物にした茶屋が誕生(慶長年間〈1596〜1615〉)してのち、江戸では
遅れること150年、宝暦6〜7年(1756〜57)のころに田楽茶屋が真崎稲荷の境内に
誕生する。京都では、天明2〜4年(1774〜76)、18世紀のころには、300種ほどの
豆腐料理を数えることができた。江戸では19世紀に入っても(『守貞漫稿』は、
天保8年〈1837〉より執筆)、"水がなくてもくずれることまれなり"という
剛健なる豆腐が幅をきかせていた。
☆豆腐料理に見る、京都対江戸の差は、
第一に風土的なもの、と前に指摘した。
「江戸湾でとれる魚は、40種じゃきかないよ。エビ、カニ、イカ、ウナギ、アナゴ、コハダ、フグ
シラウオ、カジキ、タイ、カレイ、と並べるだけで大変だ。貝だって、ハマグリ、アカガイ、
もちろんアサリ。豆腐は冷ややっこと湯ドウフに味噌汁の具で結構」と
町山清旦那(東京魚市場大口卸協同組合理事長)。
第二に、江戸っ子気質を考えて見る。
ある時期、江戸っ子は初鰹に熱狂した。其角(1661〜1707)は、「藤咲ひて鰹食ふ日を
かぞえけり」と詠んだ。ころころはまだ初鰹熱狂の初期である。文化9年(1812)魚河岸に
入荷した最初の鰹船の積んだ初鰹に、中村歌右衛門は三両の値をつけた、と伝える。
その時代、初鰹の値を米価をもとに換算すると、1匹20万円はどの値になろう。しかし、
この初鰹熱狂時代は、文政年間(1818〜30)の初期には突然止んでしまう。
☆約100年ほど続いた初鰹熱狂時代に、江戸っ子の開発した初鰹料理は、調味料は味噌か酢
薬味は大根おろしか、辛子だった。つまり、鰹の田楽風さしみに、薬味は大根おろしか辛子
――、と考えればよい。食に対する江戸っ子気質は、一品、一点主義とでもいえるような
法則性があらわである。京都の食文化構造は、一品、多種類主義とでもいえよう。
風土的要因と、気質とは両輪のような間柄ではあるが、食文化に見る
京都気質と江戸気質とは、日本列島の両極といえよう。鰹料理も今、東京には、見るべき
ものが伝わっていない。豆腐料理も町山清さんが言うように、冬の湯豆腐、夏の冷奴以外に
見るべきものが少ない。
第六章 豆腐の加工品
「日本うまいもの辞典」 近藤 弘著 ◎東京堂出版より抜粋
☆加工の仕方で分類してみる。
@直火で加工するもの。(例・焼豆腐、ちくわ豆腐)
A油で揚げるもの。 (例・油揚、厚揚、ひりゅうず〔ひろうず、俗に言うがんもどき])
B乾燥品 (例・高野豆腐〔凍み豆腐〕、六条豆腐)
C特殊な加工品。 (例・ギセ豆腐)
D微生物を使った加工品(例・豆腐よう)
Eおから
以上の加工品のうち、"ギセ豆腐"と"豆腐よう"と"六条豆腐"の作り方を説明しておく。
☆ギセ豆腐
"擬製豆腐"と書く。京都の精進料理に登場する豆腐の加工品である。
ゆでた豆腐をしぼり、調味してのち、調味した人参、木茸、青豆、麻の実などを加え、
つなぎに生卵を入れて良くかきまぜて蒸しあげてつくる。
☆六条豆腐
現在では、修験道で名高い"出羽三山"の、その一つ羽黒山に近い店で
一軒だけ造っている。"飴色"というか、"べっ甲色"というか、半透明のすばらしく固い豆腐。
はじめ塩を振って豆腐の水分を除き、継ぎに日に干しあげて乾燥する、と伝えている。
"羽黒山伏"が"峯歩き"の折りの"携行食品"の一つ。今、私たちは、"カンナ"か"小刀"
で薄くけずり、"吸物"の具などに使うが、その昔、修験者たちは、薄くけずり、
水にひたしでもして、"峯歩き"のおりの食料は、修験者にとっては最高の"口伝"
(口伝えの記録。文字には決して記さない。芭蕉も「惣而此(ソウジテコノ〉
山中の微細(ミサイ〉、行者の法式(ハフシキ〉として他言することを禁ず。
よりて筆をとどめて記さず」と『奥の細道』羽黒山の項に記す)。
"六条豆腐"を修験者たちが、どう食べたものか、今では、その"口伝"も絶えた。
☆豆腐よう
◎沖縄独特の加工品である。
豆腐を三センチ角ほどに切り、
@そのまま蒸すか、塩をまぶして蒸す。
A蒸した豆腐を目の荒い"ミ−ジョ−キ−"(平らなザル)に広げて陰干しする。
冬は二〜三日夏は四〜五日。箸で裏返しながら乾してゆくと、
表面がねばねばしてきて、色は褐色に変わってくる。
「こころところが大切なの。豆腐を腐らせては駄目。お箸もザルもきれいに洗って、
充分に日に干したものを使います。」と"与那嶺カナ"さん(花ずみのおかみ
那覇料理の名手だった。故人)
B粘りの出てきた豆腐は"泡盛"で粘りっ気のとれるまで幾度も洗い(夏は特に幾度も洗う
「泡盛はちょっと温めておいたものを使う。」と、カナさん。
C洗った豆腐を「もち米、泡盛、中国産の紅麹をまぜ合わせ、こうじが柔らかくなったころ、
すり鉢で、丁寧にすりつぶし、塩と少々の砂糖で味付けした中に、泡盛で洗った豆腐
Bを入れて漬け込むの。」とカナさん。器は、カメかガラスびん。栓をして密閉して熟成
させる。「夏なら二ヶ月、冬なら三ヶ月で馴れます。半年目ぐらいが食べごろね。」
とカナさん
"台湾"では、長期間味噌に漬け込み、"クモノスカビ"か何かを繁殖させた
発酵豆腐があった。濃い褐色をしていて、固さはチ−ズに近く、貴重な食物だった。
その味わいを今でも覚えているが、カナさんの豆腐ようは、淡い甘さで、
泡盛の香りと味わいに紅麹の発酵した味わいが加わり、豆腐加工品の傑作中の
傑作だった。そのころ「ほんとうの豆腐ようを作れる人は、少なくなりました。」と
カナさんの話だった。
第七章 豆腐の名物料理
「日本うまいもの辞典」 近藤 弘著 ◎東京堂出版より抜粋
◎豆腐祭の豆腐料理
☆山形県東田川郡櫛引村の"王祗祭"(二月一日から二日にかけて、夜を徹して行われる)
で、文字どうり夜を徹して行われる演能は、"黒川能"(国指定無形文化財)の名で世に
通っている。この祭、別名を"豆腐祭"と呼ぶ。祭の10日前(一月20日)には豆腐あぶりが
始まる。大豆にして10俵ほどの豆腐を作り、杉串に刺した1万3000本ほどの豆腐を
3日間、大きな炉であぶり続けて、焼豆腐をつくる。
@作った焼豆腐、行きの上にひろげて凍らせて、凍豆腐を作る。
A祭の当日、八升炊きの大鍋をいくつも並べ、凍み豆腐を放り込み上座(祭は、村を
上座、下座に分けて行う)では、味噌味で煮て、二番汁をつけて食べる。
B下座では、前もって塩煮しておいた凍豆腐に、熱い二番汁をつけて食べる。ここでいう
二番汁とは、山椒の香りの強い醤油汁である。
☆夜を徹しての黒川能演能の中休みに、役者衆は舞台で食事をとるが、その食事のメニュ−
の主役が、上述の豆腐料理。演能の夜、村人たちも役者衆も一晩で一万3000〜4000
本の豆腐田楽料理を食べてしまう。大鍋の中には、たばねて入れた、と感ずるほどに
牛蒡を入れる。「ダシのようなものダス。」と村人が教えてくれた。大鍋の生んだ独特な味
それが豆腐祭の豆腐料理である。味噌味、塩味が浸みて、ゴボウの味と香りの生きた
凍焼豆腐の独特の味わいと二番汁の山椒の香りがまことによく似合う豆腐料理である
これほど多量の豆腐料理作りは、日本列島で他に類がない。
◎土佐の湯豆腐
☆「豆腐を一丁ごとに大きな鍋に入れて煮いますろ。煮いたらふくれて浮き上がって
きますろ。それをとり出しておいて、タイ、イトヨリなど焼いた身をすり鉢でよくすって、
醤油を入れて混ぜて、タレにして豆腐にかけて食べました。うまいもんでごわした。
湯豆腐と言いました。」と川村源七先生(民族学・郷土史研究者。元高知県立図書館長
故人)明治40年(1908)前後まで、土佐で湯豆腐といえば、そんなイゴッソウな湯豆腐
だった。もちろん冬の料理。大鍋料理である。「1丁5銭でごわした。」と川村源七先生
土佐流湯豆腐を再現してみたが、確かにうまい。
◎沖縄の豆腐料理
☆チャンプル
沖縄を代表する家庭料理の一つ。強火で熱した支那鍋にラ−ドを入れ、水気を切った
豆腐を手で握りつぶすような感じでちぎって鍋に入れ、表面が狐色に変わる程度に
いため、かつお節、塩でうす味をつけ、その中にモヤシを放り込んで手早くいため、
少々の醤油で味を整えれば、"マ−ミナ(豆の菜の意味)・チャンプル−"。
薄切りにしたゴ−ヤ−(にがうり)を入れれば"ゴ−ヤ−.チャンプル−"。
チリピラ(ニラ)を入れれば"チリピラ・チャンプラ−"。
「チャ−ラナイ・イリなさい(ジャツ、ジャツと炒って仕上げるのがコツ。」と与那嶺カナさん
("花ずみ"のおかみ。那覇料理の名手だった。故人)チャンプル−は、熱いうちに食べる
料理。かつお節の代わりに豚肉をサイコロ切りにして入れてもうまい。
中国の豆腐料理は日本人にもなじみの深い"麻婆(マ−ボ−)豆腐"のように、"腐"の
味わいを楽しむものが多いが、"チャンプル−"は中国大陸の"腐系料理"である。
☆ンスナバ−・ンプシ−
「ここ(沖縄)では、豆腐(または豚肉)と季節の野菜を、豚のダシと味噌で煮込んだ料理を
ンプシ−と言います。」と与那嶺カナさん。
@豆腐は丸ごと水洗いして水を切っておく。
Aンスナバ−(ふだん草)は、ゆでておく。
B鍋に豚だしと赤味噌を入れ、火にかけて煮たってきたら、
Cふだん草と、手っで大きくちぎった豆腐を入れて煮立たせてのち、弱火で二、三〇分
煮る。「材料が柔らかく煮えたころ、味をもう一度見て仕上げるます。柔らかく煮込む
のがコツ。野菜あ"ハンダマ−"(水前寺菜)もよく、"チブル"(夕顔)、"シブイ"(冬瓜)
も使います。」とカナさん。
☆イドツ(炒り豆腐)
鹿児島
@豆腐は水切りをしておく(マナ板の上に豆腐を置き、すだれを置き、その上から適当な
重しをかけるとよい)
A大根、人参、コンニャクは、薄切りにしておく。
Bキクラゲは水にもどし、線切りににしておく。
C油鍋を火にかけて熱くして、油をたらし、「豆腐は手でちぎって入れます。
豆腐がコロコロにになるほど炒めて、少し油を足し、大根、人参、コンニャク、キクラゲ
を入れて炒めます。全部を炒めたところで、砂糖、油、塩、うす口醤油で味つけして、
ちょっとさし水し、落しブタをして知るがなくなるまでトロ火で煮つめれば、
出来上がり。」と、石神千代乃さん(薩摩郷土料理研究家)。
イツドを、チャンプル−が薩摩の風土に適応したものと見る。Cまでの調理法は、
チャンプル−に瓜二つである。ただし、沖縄でアンダ−(油)といえばラ−ドをさす。
鹿児島で油といえば菜種油をさす場合が多い。
☆菜めし田楽
○愛知県豊橋市きく宗。豊橋市が吉田の宿として栄えたころ、
田楽は吉田の宿の名物だった味噌は岡崎の八丁味噌。タレは、やや甘みのある
八丁味噌に砂糖と鰹節を加えゆっくりと馴れるまで煮込んでおく。
「豆腐はやや硬めにつくらせておく」とそのころまだ調理場に立っていた三代目、
太田宗一郎さん(68才、昭和三六年当時)味噌の薬味は、木の実、冬はユズ。
菜めしの"菜"は、大根の葉。七月から一二月までは、生葉を使う。
塩味をつけた大根葉は細かく刻み、炊き上がった飯と混ぜる。
冬場から六月までは、乾燥した葉を使う。
「香りは、千葉の方がよろしい。」と宗一郎さん。八丁味噌を使った田楽は、
ここだのもの。八丁味噌のタレに独特なコロイド性と、ちょっと、アクの強いような
香りと味とが、田楽に合い、その田楽が、不思議に塩味の菜飯によく似合う。
菜飯と田楽との組み合わせも、「きく宗」だけのもの。
◎いかがでしたか??
以上をもって終了いたします。御愛続誠にありがとうございました。