| C-32c ドイツ プロイセン フリードリヒ2世(大王) GERMAN STATES PRUSSIA=PREUSSEN Friedrich U |
||||
| ----------------------------------------------------------------------------------------------------------- |
||||
![]() |
||||
| 1 THALER 1784 22.2720g / .750Silver / Actual Size 36mm | ||||
| ----------------------------------------------------------------------------------------------------------- | ||||
表面:フリードリヒ2世(大王)の右胸像 銘文 ドイツ語 <FRIDERICUS BORUSSBUM REX> (プロイセン王フリードリヒ) 裏面:武器で装飾された鷲、ミントマーク、額面、年号 銘文 ドイツ語 <EIN REICHS THALER> (1ライヒス・ターレル) 縁 :飾り縁 備考:14ターレル本位(グラウマン本位)によるライヒス・ターレル |
||||
| ----------------------------------------------------------------------------------------------------------- | ||||
当時、貧弱だったプロイセンは不釣合いな大きい軍隊を持っていましたが、膨大な軍事費は「プロイセンの倹約」だけではまかなうことができず、そのため人々はヨーロッパ一高い税金をかけられていました。 父の跡をいだフリードリヒもまた過酷な税金を課しましたが、徴兵制を進め常備軍を強化し官僚組織や法律を整備するなど、軍事的・政治的才能を発揮し、税の徴収のため農村の織物振興や商工業に助成し育成に努め、土地開発を進めるなど、経済的才能も持ち合わせていました。 啓蒙思想家であるヴォルテールを招くなど啓蒙専制君主としての力を発揮する一方、科学アカデミーを再興したり、フルート奏者の彼は自ら作曲を手がけたりと、文学的・音楽的才能にも恵まれた多才な人物でした。 小国プロイセンには不釣合いな大きい軍隊を手にしたフリードリヒ、彼にある野望が生まれたのはオーストリアの継承問題が発端でした。 1740年、神聖ローマ皇帝カール6世は男子の継承者を残さず、家領の永久不分割と女子相続権からなる国事詔書を公布し歿しました。 そのため周辺諸国は、娘マリア・テレジアの王位継承に異議を唱え、承認するかわりに代償を得ようと機会をうかがっていました。 その口火を切ったのがフリードリヒでした。 トルコ戦争をようやく終えたオーストリアはシュレージェンから軍を撤退せさせており、その隙を突いてシュレージェンと西プロイセンに侵入し、あっというまに占領してしまいました。 西プロイセンはプロイセンの飛び地解消のためでしたが、シュレージェンはどうにか相続権を主張することができる小領地がいくつかあるという理由にならないものでした。 プロイセン優位とみたフランスはプロイセンと同盟を結び、バイエルン、ザクセンなどとともにオーストリアに侵攻、テレジアはやむなくシュレージェン占領を認め、プロイセンと単独和解しました。 プロイセンが離脱したおかげで同盟連合国が弱体化し、オーストリアは反転持ち直しました。 しかし、オーストリアはシュレージェンを失ったことを容認していませんでした。 プロイセンがイギリスと同盟を結ぶに至って、オーストリアはそれを容認できないフランスを味方につけ、ロシアとともに3国同盟を結んでプロイセン包囲にかかりました。 イギリスは遠くヨーロッパ以外で戦っていて当てにできないと悟ったフリードリヒは、3つの大国を相手に防衛戦争を決意しました。 7年戦争と呼ばれるこの戦いは、大胆にもプロイセンのザクセンへの攻撃、占領で口火が切られました。 戦い当初はプロイセン軍が各地で勝利を収めましたが、自らの損害も大きく、クネルスドルフの戦いでオーストリア・ロシア連合軍に敗れたのをきっかけに劣勢に転じました。 一時は瀬戸際まで追い込まれ自殺まで考えたフリードリヒでしたが、1761年フランスとスペインの間に結ばれた第3次ブルボン家協約により英国とプロイセンの同盟が破棄され、1762年にはロシア女帝エリザベータが歿し、継いで即位した甥のピョートル3世はフリードリヒ崇拝者で、プロイセンと和平したばかりか攻守同盟まで結びました。 ピョートル3世は廃され、継いで即位した大女帝エカテリーナ2世は戦いを断念、講和の方向へ転じたためオーストリアもまた戦争の継続を断念しました。 フベルトゥスブルクの和約によりザクセンは返されたものの、シュレージェンはプロイセンの領有になりました。 引き分けに終わったこの戦争は、プロイセン以外の国々にはまったく無意味な戦いでした。 得るものがあったのはプロイセンだけで、シュレージェンと、それよりはるかに大きい3大国を相手に戦い抜いたことでした。 強国を相手に戦い抜いたフリードリヒは大王と称され、軍事費ばかりが突出していた小国プロイセンは大国の仲間入りをはたしました。 7年戦争を味わったフリードリヒのその後は意外なものでした。 オーストリア、ロシアとともにポーランド分割を行って領土を広げるなど行いましたが、国外的には慎重で控えめになり、もっぱら内政面に力を注ぎました。 周辺諸国にとっては、強力な軍隊を有するプロイセンが、こちらから手を出さない限り向こうから攻めてくることはないという安心感が生まれ、平穏な時が流れました。 1786年、74歳でこの世を去りましたが、偉大な大王の功績とプロイセン軍の強さはその後も語り伝えられました。 |
||||
| ----------------------------------------------------------------------------------------------------------- | ||||
参考資料 「Standard Catalog of German Coins 第2版」 「世界の大型銀貨 1800〜1945」平木啓一/ジェミニ 「世界貨幣大辞典」平木啓一/ジェミニ 「西洋貨幣史」久光重平/国書刊行会 「ドイツ大型銀貨変遷史」平木悠支/ボナンザ 「ブランデンブルク・プロイセン貨幣史沿革」平木悠支/貨幣研究 「プロイセン王国の貨幣」遠井貞国/収集 「図説・プロイセンの歴史」セバスチャン・ハフナー著・魚住昌良監訳・川口由紀子著/東洋書林 「マリア・テレジアとその時代」江村洋/東京書籍 |
||||
| ----------------------------------------------------------------------------------------------------------- | ||||
| Copyright (C) 2000-2009 AKI Corporation | ||||
| ----------------------------------------------------------------------------------------------------------- |