☆輝☆の見た世界戦!!No.3
昭和57年(1982年)〜昭和58年(1983年)
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| 海外でタイトル奪取に成功した三原正の世界の初防衛戦でこの年の世界戦は幕をあけました。 初めて見る三原正に期待を寄せてテレビを見つめた☆輝☆少年でしたが結果は挑戦者10位のデビー・ムーアに本場重量級の層の厚さをまざまざと見せ付けられる結果となりました。 また2月に行われたもう一試合はハングリーの伝説といわれた石井幸喜が敵地韓国で日本に馴染みの深い金に挑みいきなりダウンを奪いましたがそれ以降は体力差が出て8Rに力尽きました。 もともとジュニア・フライ級で世界挑戦を考えていたようですが金からオファーがあったため千載一遇のチャンスと世界に挑んだようですが2階級上の体格差は世界のリングではやっぱりきつかったようです。 また長年日本のホープと言われ続けてきた亀田昭雄が敵地で恐ろしく強かったアーロン・プロイヤーに挑戦しKO負けを喫しタイトル奪取ならず。 例のごとく海外での試合のためテレビ中継はなく王者が王者だっただけにあまり期待もされていませんでしたが無敵の王者からダウンを奪って見せたり日本男児の意気込みをアメリカの地で見せてきたようです。 4月には日本人が毎週世界戦で勝つなんて喜ばしいできごともありました。 最初に登場した渡嘉敷勝男は世界奪取の時と打って変わってメキシコのルペ・マデラの前に大苦戦 なんとか判定で勝つのは勝ったのですが丁度協栄ジムを巡る「毒入りオレンジ」事件が世間を騒がし、やっぱり・・・なんて雰囲気もファンの間に漂ったことも否めません。 その空気を吹き飛ばしたのが次に登場したナニワの星渡辺二郎 前年のWBC挑戦で一回りも二回りも成長した渡辺は以前ジュニア・フライ級で具志堅用高への指名挑戦者として来日したこともある王者パナマのラファエル・ペドロサをまったく相手にせずKOこそならなかったものの危なげなく大阪の悲願を叶えてくれました。 そして4月3番目に世界のリングに上がった友利正は老獪なイラリオ・サパタをKOして王者となったメキシコの強打者アマド・ウルスア相手に圧倒的不利の予想を覆す果敢なファイトで判定をものにし見事世界のベルトを腰に巻いて見せました。 この年の友利のボクシング人生はまさに激動で、4月にウルスアからタイトルを獲り7月にかつて日本の中島成雄からタイトルを持ち去ったパナマのイラリオ・サパタに中島が喫したような試合展開でタイトルを失い11月の再戦ではこれも中島と同じ展開で再戦では滅法強いサパタの前にほぼ一方的に打ちのめされて敗北を喫し引退しました。 友利は年齢も若かったし度胸とセンスがよかっただけにもう一回がんばってくれると信じていたのですが、どうやら達成感の後に喫した納得の出来ない敗北と再戦で喫したバッティングによるカットなど若い友利には受けいらない部分が多々あったようですね。 そんななか渡嘉敷と渡辺は防衛回数を2とし安定政権が見えてきました。 特に☆輝☆少年の一番ボクシングに熱い時期でもあってこの二人はヒーローでした。 渡辺二郎の初防衛戦は試合巧者の元王者バラスだけに不利な予想もありまして緊張しましたが最後は果敢に打撃戦に引きずり込みTKO勝ちを呼び込みました。 そんなヒーローの勇ましい姿を見つめながらますますボクサーに憧れる☆輝☆少年でした。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ★輝★少年は大人の階段を昇り高校3年生になっていました。 この年は二人のヒーローのうち渡嘉敷勝男が相性がよほど悪かったのかルペ・マデラ相手の再戦でまたも大苦戦の末分の悪い内容でドロー 2度までも同じような内容で勝てなかったマデラ陣営は猛抗議の末3度目の対決は即実現しました。 その3度目の対決はマデラの負傷により世界戦では日本初の負傷判定でマデラが王座獲得に成功しました。 しかし当初はドローと発表された後で負傷判定によりそれまでの採点で勝敗を決めるというアナウンスに変更されマデラに勝利を告げられると場内は騒然とし試合内容よりもその負傷判定と言う当時日本では馴染みがなかった方法で試合続行不可能と判断された方が勝ってしまうということに納得できない観客が会場内で騒ぎを起こす事態を呼びました。 ☆輝☆少年も4Rも終了していないのに負傷判定というやり方はどこか釈然としない部分が残りました。 そして遺恨を含んだ4度目の対決は即実現する運びとなり4度激戦となりましたが後半ボディー攻撃に活路を見出した王者となったマデラが今度こそ明白なカタチで渡嘉敷を下しました。 また渡辺二郎の方はイバネス戦では快心のKO勝利を見せてくれましたが、ラミレス戦では不運にも1R3度のダウンを与えたにもかかわらずレフリーが3度目をダウンと判断せず1RKO勝ちを逃した渡辺はその後もダウンを追加するもラミレスの脅威のスタミナの前に大苦戦、最後は立っているのが精一杯という状態で判定に逃げ込みました。 その次の相手韓国の権は元IBFの世界王者で日本では放映されませんでしたが後の世界王者川島郭志のお兄さん川島志伸をいとも簡単に血祭りにあげているボクサーでした。 そんな強いイメージで迎えた挑戦者でしたがとにかく荒っぽいコリアンファイターで反則技のオンパレード、渡辺もその展開に巻き込まれ流血の末遂には負傷判定になりました。 権は本当に酷いボクシングで「最後にKOで勝てば俺のもの」みたいな感じで反則を減点後もやめなかったり、こんな内容では判定では到底減点が響いて勝ち負けという内容ではなく失格になってもおかしくない試合でした。 2試合続けて苦戦を強いられた渡辺に多少不安は残りましたがとにかく☆輝☆少年の最後に残ったカリスマは王者のまま年を越せることになりました。 またこの年関西最大級ホープ、赤井英和が七夕の夜母校近大のリングで世界戦にのぞみました。 もちろん立派な戦績でこの時を迎えた赤井でしたが、対戦相手が「?」の部分も多く日本タイトル、東洋タイトルを飛び越えての世界挑戦ということもありボクシングファンの中で赤井の実力を疑問視する人も多かった。 ☆輝☆少年はやはり関西人赤井英和の強打に魅せられた部類の人種で相手が老雄ブルース・カリーということもあり、赤井の豪打爆発!を期待したんですがやっぱり世界は甘くない。 必要以上に固さの見える赤井は初回からバティングにより出血し、ベテラン王者の前で経験不足を露呈 スタミナ不足なのか大舞台での疲労なのかはたまた容易な相手とばっかり対戦してきて悪い癖になっていたのかガードは下がり顎は上がりてんでばらばらな動き それでも5Rには王者をダウン(判定はスリップ)させ見せ場は作ったが、最後は眠るようにマットに沈んだ。 7月7日7RにKOしてフィバーだ!と試合前公約していた赤井が自らその7Rに沈んだのはほんま彼らしい。 赤井の他にもこの年日本最大のホープと言われた帝拳ジムの穂積秀一が王者サントス・ラシアルに挑み、フライ級とは思えない胸板から繰り出される力強い王者のパンチの前にひ弱さだけを露呈してリングに沈み、エディさんの愛弟子村田英次郎が4度目の挑戦で悲願の世界タイトル奪取を狙ったが安定王者となった宿敵ジェフ・チャンドラーの前に子ども扱いにされKO負け 東洋では無敵な男も最後まで世界には届かずリングを去っていった。 この年高校3年生の☆輝☆少年は大学受験を控え熱心に受験勉強に励んでいた!そんなわけはなく(笑) そこは思春期の少年ボクシングの女神以外のホンモノの女性に夢中になっていました(笑) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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