まずはじめに断っておきますが、小説の書き方なんてものは存在しません。
もっと正確に言えば小説とは決して書くものではありません。能動的に書く
ものではなくて、書かされるものです。小説自身が、作家に、自らの全てを
書き表せと激しく迫ってくるのです。したがって小説を書かされる場合、当
然作家の意思が物語中に入り込む余地なんて微塵もありませんし、それどこ
ろか逆に作家の意思の方を小説が掌握し意のままに操ってしまうことがしば
しばあります。
多くの人は小説は作者が生み出したもので、作者が自由に操ることができる、
と考えているでしょう。しかし実はそうではありません。悲しいことにそうや
って生み出されたモノが小説の名を騙っているのはよくあることですが。そう
やって組み立てられた物語は、いわば箱庭、あるいはミニチュアの街、精巧な
ドールハウスのようなものです。念のために申し上げますが当然それらにも、
模型である自分自身を模型の形で示している場合だってありますが。そうやっ
て生まれたものは、作者の想定したとおりの位置に人物がいて、作者の想定ど
おりの街があり、作者が決めた事件がおき、そして作者が決めた筋書きで解決
する、ただそれだけです。どれだけ精密に、どれだけの印象を書き連ねても、
蝋細工は決して人間になることは出来ないのです。美しい蝋細工を見れば当然
人はそれに何らかの感想を抱く、しかしながら無機質的な応答が生じるに過ぎ
ないのです。
本当の小説と言うものは、作者自身がその内容を決めることなんて出来ませ
ん。もっと言ってしまえば、作者が書き上げる前に既にその小説は存在してい
ます。奇妙な話ですがそうなんです。まるで未来から送られてきた手紙のよう
に、文字がわたしたち作家自身の中に広がり、その物語が一体どういうものな
のかをわたし達に激しく見せつけ、魅了し、自分をどう描いて欲しいのかをア
ピールしてきます。それはさながら、画家が動物の絵を描くときに角を強調す
るとか、鼻を強調するとか、あるいは餌をとる動作を強調するとかそういった
事柄のようなものです。しかし同時に、出会った時点では物語自身が、まだ物
語としての形を持っていない場合もしばしばあります。例えば流れる川のまま
でも充分水ですが、その水を水筒に入れるとかすれば持ち運べる水に変化しま
す。そして、物語はまるで水のように簡単に変化してしまいます。あるときは
氷のように冷たい手を伸ばしわたしの首を締め付け、またあるときは沸騰した
お湯のような熱を吹きつけ、それ自身が怒りを携えわたしに迫ってきます。
尚且つ、ひとたび物語と出会ってしまったら、その出会った物語から逃げ出
すことは許されません。作者がペンを取り『街が火事になった』と書けば、そ
れだけで街に火事が起こるのです。信じがたい話ですが、その火事はわたし達
が完成した小説を読んだときにだけ行くことの出来る世界で実際に発生するの
です。しかも、その火事によって多くの人間が大変な目にあってしまいます。
親を失う子供だって大勢いるでしょう。彼らはこれからの人生をどう歩めばい
いんですか。主人公以外の大勢にだって立派な人生を歩む権利くらいあるだろ
うに、わたしがたった一言書き記すだけで彼らはもう幸せな人生は歩めなくな
るかもしれない。ある高名な魔法使いが主人公の元にやってきて、邪悪な王を
倒す旅に連れ出すとします。主人公はいきなりやってきた魔法使いにそんな重
大な使命を言い渡された重荷で潰れてしまうかもしれません。確かに作者なら
ば、何らかのサポートを出来るかも知れません。しかし、仲間をさらに増やす
とかして主人公の負担を減らしたら、今度はその仲間が追うことになる分をど
うするのかという問題がまた生まれてきます。それらは全て作者である、あな
たやわたしの所為です。つまり、わたしが邪悪な王を倒す物語を書こうとした
ら、わたしはその王を倒す旅を完遂するより他無いのです。そしてそれはとて
も辛い旅です。もしかしたら旅の途中でわたし自身が闇の軍勢にやられて命を
落としてしまうかもしれません。さらに、わたしが物語と共にするなかで、わ
たしが出会い、文字に書き上げた人物はもちろん、文字に現れていない人たち
までもが、作者であるわたしに自分の人生をメチャクチャにされた責任を求め
てきます。それら全てを解決することなんて出来ますか。とても難しいことで
すがそれは出来ます。物語自身が求める唯一のことである物語を書き記すこと
によって。
先ほど作者は物語に全く干渉できないと言った事と矛盾するかのように感じ
られるかもしれませんが。しかしそうでもありません。物語とは作者が書き上
げる前に既にそれがひとつの世界として完成しています。そこには人間がたく
さんいて、多くの人が笑いあい、泣き合い、時に罵りあい、様々なものをつく
り、売り、食べ、それぞれがおのおのの生活を送っています。さて、あなたは
今自分が生きている世界をどうやって知覚しましたか。最初に知覚したのは記
憶があるかどうかは別にして母親から生まれた瞬間でしょう。じゃああなたが
知覚する以前に世界は存在しましたか。それは当然。ならば作者がその物語を
知覚する前にも最初から物語世界が存在しているのも当然じゃないですか。物
語そのものの全体性に干渉することは出来ません、一個人がどう足掻いてもど
うにかできることじゃありません。しかし、わたしが書き記せばそれだけ何か、
まるで、見えない何かが操っているかのように多くの人間が集まり、わたしで
すら想定出来ない、物語自身が、その内部にいる人間達が起しうる事件がおき、
そしてそれを解決するべくわたしは全人生を賭けなければいけない。
それは、わたしたちが生きている世界で運命と呼んでいるものに近いかもし
れません。いわば、小説を書くとは物語の内包する運命的要素に干渉すること
と言えるかもしれません。しかし、それもよくよく考えると当然です。例えば
わたしたちが仲間内で楽しく遊んでいるとしましょう。そこに別の街からやっ
てきた流れ者をどういう経緯かは別にして仲間に加えたとします。仲間内での
雰囲気は変わるでしょう。前まで注文をとらなかったメニューも頼むようにな
るかもしれません。その流れ者が異性ならば恋だって起こるでしょう。人が増
えればそれだけで流動が起こる、それは当然のことなのです。物語とは作家が
いる世界の外側にある現実です。これは作家と言う枠組みを大きく逸脱した範
囲に物語が枠組みを有していることからも理解出来るのですが、しかし作家の
内部にのみ物語が存在していると頑なに信じている人には決して理解出来ない
でしょう。ならば何故物語を読むことで作者以外の人間もその世界に行くこと
ができるのかが全く持って疑問ですけどね。話を元に戻します。物語は私達に
外部から働きかける能力を有しています。しかし、内部にいるわたしたちは、
その強力な物語に対して大した影響力を有していないでしょう。そして、しま
いには物語は自分自身を乱した異端分子を排除しようとするとか、あるいは単
に作家が物語と仲が悪くなっただけかもしれませんが、物語が作家に牙を剥き
ます。そのおぞましい姿を見たとき、多くの人間はそれだけで全てを断念して
しまうことでしょう。だからって、やはり途中で物語を書くことを放棄するこ
とは許されません。何故なら、物語と言う立派な世界をそこまで狂わせてしま
ったのは作家なんですから。そして、そうやって牙を剥く物語に勝利し、生き
残る方法はやはり書ききることです。盾を構え、剣を構え、そして物語に挑む
のです。ただしこの場合の武具は紙とペンですけどね。作家は物語に殺されな
いように全ての力を振り絞って、腕をもがれようがどうしようが物語を描きき
らないといけないのです。彼らにはごまかしは通用しません。自分自身の本当
の気持ちを見せ付けないと、物語に相対することすら出来ないでしょう。
また、小説を書ききるとは安易に結末まで文字を並べることでは決してあり
ません。また、表現を工夫して盛り上げるところは盛り上げるとかして体裁を
整えることでもありません。何故なら、小説を書かされるという行為は、わた
しが直前に書いた単語が次の単語を指し示しているのだから。そして、その指
し示された単語を書くと既にその単語は次にこの単語を書けとわたしに伝えて
くるのです。そこには作家が表現を工夫する余地など微塵もありません。完全
な連続性、それはまるで小説を読む際に読み手自身に生じる単語の意味の流動、
つまり物語の流れのように、既にそこには一連の文字の流れが存在しているの
です。
多くの人が想定している小説の書き方なんてものを守っても、小説自身に出会
うことすら出来ないでしょう。仮に出会えたとしても、そういう書き方をして
いる人間は小説に喰われて、魂すらも失ってしまうかもしれません。小説を描
くとは恐ろしいことです。多くの人は作者が小説の人物を作り、世界を作り、
文字を決定していると思っているのに、実際は全くの逆、小説自身がその姿を
決定してしまっているのですから。あまつさえ、作者の姿の方を変えようとそ
れらは巧みに迫ってきます。ただ、その小説自身も出会う人によって姿を変え
てしまうでしょう。虹色の表皮を持ったそれは、薄明かりの中ですら無限に姿
を変えてしまうのです。
by エコー=クラウディア
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