「不登校」の問題  

1 本来ならば、学齢期の子どもはみな学校に通って普通教育を受けているはずなのに、不登校の子どもがいます。これは、社会的に大きな問題です。
 その原因としては、学校(教師)、保護者(親)、子どもたち(友達)、子ども自身(本人)の四つが考えられます。
ここでは、まず学校の「教師と子ども」の問題を考えてみたいと思います。

 学校の問題は、校長を含めた教師集団にあると考えます。しかし、現実に子どもが不登校になるのは、一人の教師が原因になります。教師のどこに問題があるのでしょうか。
 これから取り上げる例は、私の体験(直接と間接)を元にした私の考えです。具体的な事実を指すものではありません。しかし、どこにもありうる例だと考えています。

(1)教師の好みが強くて、子どもが不登校(または学級崩壊)になる例

 教師の好みによって“特定の子どもに目をかける場合”があります。俗に言う「ひいきする」ことです。学級の中では、不公平として子どもたちは嫌っています。ひいきされた本人も、多くの場合、学級のみんなの中では快く思っていません。このこと学級内でわかると、教師とひいきされた本人に対して不信感が生まれます。学級崩壊の要因になります。
 特に、変質的な接し方で子どもに嫌悪感を与える場合があります。それが特定された子どもに対する場合には保護者からの訴えがありますから、すぐに校長の対応が必要です。
 学級の現れ方としては、授業中に教師の言うことを聞かず、話したり出歩いたりする子どもが出てきます。中でも、教師が特定の子どもに強く接するときは危険です。その子は不登校になるおそれがあります。当然、保護者からの訴えがあるはずです。この場合にも校長が対応しなければ解決しません。そして、校長は解決しなければなりません。教師は、学級から離すべきです。
 このように、“特定の子どもに目をかける”教師の接し方で、子どもが不登校になる場合がありますから、保護者の訴えがあった場合には、すぐに対応が必要です。

 このような場合には、保護者の訴えは、該当する教師ではなく、学校長に訴えるべきだと考えています。解決は学校長の責任です。該当する教師が自分を変えるのは容易なことではありません。その間に、多くの子どもに問題が残ります。

(2)教師の教えることが通じないで、不登校(または学級崩壊)になる例

 教師の教えることがはっきりと子どもたちに伝わらないと、学級崩壊や不登校になる子どもが出ることがあります。教師の教科の指導力が問題です。
 授業では、教師がこの時間に「何を教えるか」と言うことと子どもが「何を学んだか」ということが一致することが必要です。「今日はどんなことを勉強してきたの」という問いに対して子どもが「分からない」というのでは、無駄な時間を過ごしたことになります。
 このような時には、子どもは面白くなくなり自分の好きなことを始めるか、つまらない時間を我慢することになります。教師は、好き勝手なことをする子を叱ったり静かに授業に参加するように注意したりしますが、子どもたちは次第に教師の言うことを聞かなくなります。時には、教師と特定の子どもとが対立を起こし、子どもが学校に行くことを嫌がるようになります。多くの子どもたちは授業が面白くないので、学級全体が落ち着かなくなり教師に対する不満が出てきます。教師が一方的にしゃべり、生徒は好き勝手なことをしているという状態になります。このときは、学級崩壊です。
 この場合の教師の指導力とは何でしょうか。教師に学力がないということではなく、「教えることが明確でない」ことです。国語を教えたとか漢字を教えたでは指導したことにはなりません。大事なことは、子どもたちが“その時間”に『何が分かった』『何ができるようになった』かということです。1時間1時間に「教えること」があり、評価が必要です。
 今までの指導要領では、また教科書会社の指導書では、「扱う」内容や方法はあっても指導結果の確認は、テストにまかされていました。従って、多くの教師は「扱うことが、授業をしたことになる」と考えていたと思います。これが、指導力がなくなった原因だと考えます。指導力には、その場で『子どもにどう学習されたか』を評価できる力が必要です。

(3)教師が威圧的で、不登校(または学級崩壊)になる例

 教師が威圧的に子どもに接することで、子どもが反発して学級が崩壊したり、不登校になったりする場合があります。
 東京オリンピックの大松監督のように「おれは教師だ。みんな黙ってついてこい。」方式で子どもに接したり、「学校のことは、教師のおれが決める。」と強権的な態度を取ったりした場合には、最初は黙ってついてきた子どもたちも時間が経つと変化してきます。
 考えられる変化は、「面白くない」と思った子どもが、先ず教師の言うことを聞かなくなることです。この子どもに対して、子どもを責めて強制的に従わせようとする場合に反発という形で現れます。授業態度や生活態度の指導をしたとき、小学校では多くは男の子から出ます。それが教科の学習のときに子どもの考えを抑えて教師の考えを押し付けると、学級全体に不満が広がって指導が難しくなります。中学校の部活動の指導でも、同じことです。また、特定の信念で指導する場合にも、同じような危惧があります。
 子どもの反発は、教師に直接反抗する、教師の指導を無視して素直に従わなくなる、弱い子に当たる(いじめる)などの形をとって表れます。また、子ども同士で相談して教師に反乱することもあります。
 このような場合には、当然学級の様子も変わりますので、隣の学級や教師間でも気付きます。また、子どもの様子も代わりますので、家でも変化に気付きます。できるだけ早い時期に改善しない場合には、その状態が当たり前のこととなって子どもに受け入れられてしまいます。そうなると、多くの子どもはやがて無気力になり、別のことに興味を持つようになるおそれがあります。
 改善の方法は、「子どもの話を聞くこと」に尽きます。子どもの気持ちを理解することで、解決方法が生まれてきます。教師が困ったときには、回りの教師に聞いたり、直接学級の子どもたち全員に聞いたりすることがよいと思います。
案外、学級の子どもたちの話を聞くことが、よい解決方法になるかもしれません。

(4)体罰によって、不登校(または学級崩壊)になる例

 体罰は戦前から禁止されていますが、指導と体罰との違いが不明確で、教師は指導と思っても体罰になっている例があります。
 辞書によりますと、体罰は「言う事を聞かなかったり、悪い事をしたりした子供に対して、教育見地から立たせたり、ぶったりりして苦痛を与える罰(新明解国語辞典)」とあります。そして、戦前の小学校令(明治33年)四十七条には「小学校長及教員は教育上必要と認めたるときは児童に懲戒を加ふることを得但し体罰を加ふることを得ず」とあり、戦後は学校教育法11条に「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」とあります。
 このように禁止されている体罰が行われるのは、教師が「子供が言うことを聞かなかったり、悪いことをしたりした」ときに適切な指導ができなかったときに起こるものと考えられます。それは、「指導する立場の教師が、指導される側の子供に対して、感情的に接する場合」が考えられます。教師は、子どもが育つことを目的とするものですから、子どもが離れていくような行為は指導にはならないことになります。
 「子どもが言うことを聞かなかったり、悪いことをしたりしたりした」時に、教師が子どもに対して、「お前が悪いのだ」という接し方を取り続けると、子どもが不登校になったり、学級が荒れたりする場合が出てきます。この関係は、親の虐待と同じです。
 教室に入りたいと言う子どもを、騒がしくなるからといって、教室に入れないことがあります。早く帰りたいという子どもを、用事があるからといって帰さないことがあります。「君の悪いところを直したいから」といって、嫌がる子どもを引き止めて特別に接することがあります。このような場合には、子どもは反発するか離れていきます。
 このように、肉体的な苦痛を与えるだけでなく精神的な苦痛を与えることも体罰と同じです。教師の体罰と親の虐待は同じことだと思います。

(5)子どもの訴えを悪化させて、不登校(または学級崩壊)になる例

 いじめなどの人間関係の問題で、子どもが教師に訴えてくるときがあります。その時に教師の対応によっては問題をこじらせて、子どもが不登校になることがあります。
 子どもが教師に相談に行って、「あなたが悪いのですよ。」と言われたら、次から相談にいく子はいなくなるのではないでしょうか。
「靴や上履きが無くなって困っている。」「ノートや教科書に落書きされて困っている。」「友達から嫌なことを言われて困っている。」「仲間外れをされて困っている。」「いじめを受けて困っている。」など、友達との関係がうまくいかずに困って教師に相談に行きことはよくあります。
ところが、相談に行った後、帰って問題がひどくなったり、別の形で困るようなことが起きたりして、“先生に相談しなければよかった”子どもが思ったときには、もう再び相談には行きにくくなります。
これは、子どもが親に話したときに、親が子どもの話を聞いて学校に相談にいったときにも同じ現象が起きます。やがて、子どもは、先生に話しても駄目だ、親にも話せない、大人と子どもとは違うのだとなってしまうことになっていくでしょう。その結果、不登校になっていったり、引きこもってしまったりすることが考えらます。
子どもが教師に相談に行くときは、よほど困ったときだと思います。当然自分なりの考えで対処したり、友達に相談したりするでしょう。しかし、問題が解決するどころか返って解決が難しくなったと感じたときに教師に相談にいくのではないでしょうか。
このような時には、ゆっくりと子どもの話を聞いて、子どもの気持ちや人間関系の状況を理解することが必要でしょう。忙しくて時間がないからといって、教師の経験だけで考えや応答をする場合には、子どもを追い込むことになる場合があります。

(6)学校外に原因があって、不登校(または学級崩壊)になる例

 学校以外に原因があって、子どもが不登校や欠席をする場合があります。大きくは、地域に原因がある場合、家庭に原因がある場合と本人に原因がある場合が考えられます。
 地域に原因があって子どもが欠席したり不登校になったりする例としては、卒業生との関係、地域の問題になるグループとの関わりによる関係、交通事故などのような突発的な出来事による場合などが考えられます。
 また、家庭に原因があって子どもが欠席したり不登校になったりする例としては、家庭(保護者)の経済的な問題、家庭(保護者)の子どもや学校教育に対する考え方の問題、虐待の問題などが考えられます。
 さらに、子ども本人に原因があって子どもが欠席したり不登校になったりする例としては、身体や心の病気の場合と子どもの考え方による場合とが考えられます。
 学校以外に地域や家庭や本人に原因がある場合でも、不登校の指導は義務教育に責任を持つ学校になります。不登校の問題の解決は、学校教育が責任を持ち、地域や家庭に関わっていくことになります。地域や家庭の力によって不登校を解決しようとする考えは、本末転倒だと言えます。
 では、義務教育である学校が中心になってこの不登校の問題を解決するためには、どのような手立てが考えられるのでしょうか。私は次のように考えます。
 一番に考えなければならないことは、学校が教えなければならないことをしっかりと教え、子どもたちが喜んで学習する学校を作り出すことではないでしょうか。子どもたちが喜んで学校に学習に来る状況を作り出すことが、問題解決の基礎・基本です。
 学校に来て楽しく学習する毎日がなくては、子どもたちの不登校問題の解決はありません。この基礎を作ることができてこそ、問題の解決に取り組むことができると思います。

2、不登校の問題を解決する視点

(1)楽しい学校…分かる授業と子どもの話を聞く

 不登校の問題は、背景に様々な問題が複雑に絡み合っていて解決が難しい問題になっています。しかし、子どもに接する教師の接し方によっては解決の道があると思われます。 と言うのは、不登校の原因多くは、教師にあると思われるからです。
 解決のための最も大きな教師の課題は、「子どもたちが喜んで学校に来る状況」を作り出すことでしょう。そのためには、授業が楽しいことが第一だと思います。
 それには、教師の教えることがはっきりと子どもたちに伝わることです。と同時に、教師の教えがわかり、子どもが「わかる」喜びを感じることが必要です。これは、学習の喜びです。この喜びが、子どもは学校へ来させます。これが楽しい授業です。
 教師はしっかりと教えたつもりでも、全ての子どもには伝わらない場合があります。また、全ての子どもが「わかる」喜びを感じるなどありえないという人もいるでしょう。それほど授業は難しいものだと言うこともできるでしょう。それでも不登校をなくすための教師の解決方法は、楽しい授業の展開にあると思います。
 このような授業を展開するには、子どもの喜びを引き出す「知的な学習」になる授業を常に準備し続けることが必要です。そして、「わかる」喜びを最も感じていない子どもを見つけて、その子が「わかる」喜びを感じるための授業の評価をすることだと思います。その努力を積み重ねる教師の真剣さが子どもに伝わり、子どもが教室に来ることを楽しみにすると思います。
 不登校の問題を解決するもう一つの課題は、「子どもの話すことを真剣に聞いて理解する気持ち」を教師が常に持つことだと思います。子どもの話すことを真実として「わかる」ことです。子どもが「先生にわかってもらえた」と感じることが大切です。不登校の子どもは、「先生に話してもだめだ」と感じている子どもとも言えます。
 学校の授業で「わかる」喜びを感じ、困ったときに先生に話すと「わかってもらえる」と感じる学校生活が、不登校問題の解決方法の基本になると思います。
 「あまりにも現実離れをしている解決法だ」と感じる現在の学校事情が、実は不登校の原因になっているのではないでしょうか。義務教育に不登校はあってはならないことです。

(2)不登校の指導と救済のシステム

 不登校の問題を解決するには、教師が「わかる授業をすること」と「子どもの話を真剣に聞くこと」が基本だと思います。
 しかし、教師の努力にも拘らず、学級が荒れたり親から問題が持ち込まれたりする場合があります。その場合には、担任の対応ですと、担任教師の感情が入って子どもの通知表の評価や評定に跳ね返ることが起きるなどして、かえって問題が解決しにくくなることがあります。そこで、校長が対応することがよいと思われます。
この時に、校長の対応が適切でないと事態が悪化します。
 校長が問題を解決する場合には、事実の把握から入ります。当事者は当然一つの見方や考え方を持っていますから、関係者の話を正確に聞くことが必要です。不明な点があれば、関係者からの確認が必要です。
 事実が確認されたら、対応を考え、対処を決めます。その場合に、関係者全員の納得が得られるような対処をすることは、相当に難しいことです。しかし、問題が発生して解決しなければならない場合には、その時に解決しなければならないのです。解決できない場合には、不登校の問題として表れてきます。
 不登校の問題を解決するためには、校長は事前に問題が起きたことを想定して、対応を考えておくことが必要です。特に教師との関係で問題が起きることを前提にして、校内の人事の中での対応と日常の「わかる授業」の方向付けが課題になります。そのためには、「わかる授業」と「子どもの話を真剣に聞く」ための教師自身の研究や研修と校内の研修会や研究会を欠かすことはできません。
 このような学校の体制を創る中から、問題が起きたときに適切に対応できる校長の指導が生まれてくると考えられます。現在の不登校の問題は、今までの校内の体制の中から生じていることが多いと思われます。
 何としても、義務教育の中では、不登校を解決する必要があります。

(3)分かってあげる

 いじめの問題は、不登校につながりやすい問題です。いや、いじめが原因で不登校になることが多いとも言えるかもしれません。
 「靴がなくなった。」とか「ノートにいたずら書きがしてある。」とか、「自分のいる場所がない。」などと訴えてくることから始まります。
 いじめには、昔から「弱いものいじめ」と「よそ者いじめ」がありました。強い立場のものが弱い立場のものをいじめたり、もとから生活している仲間が新しく入ってくる者をいじめたりすることは、「仲間が作った集団の生活を維持する」上からも自然に起こることかもしれません。その場合には、いじめを受けているものが仲間に入った時には、いじめは解消すると思われます。
 ところが、最近の子どもたちに見られるいじめは、「集団生活の維持」とは違って、個人のストレス解消のためのように思われます。いじめる者といじめられるものとの間には、一人の人間をいじめの対象としているように思われるのです。しかし、いじめる側が集団になっていじめるところは、昔と似たところもあります。
 ストレスの解消のためのいじめには、解決点がないことが問題です。ストレスを解消するためには、相手の「困る、泣く、苦しむなど」の姿を見ることが必要だからです。そのままにしておくと、いじめられた子どもは、体や心に変調をきたします。そして、自衛のために不登校の選択をすることになります。
 いじめられた子どもや親は多くの場合、教師に相談をしています。しかし、関係者を呼んで、「人(友達)が困ることをしてはいけない。」と諭して、「もうしません。」と約束する姿を見て解決したと思って安心することはできません。すっきりするためのいじめで叱られては、返って反発されて、逆にもっと辛い状況になっていることが多いのです。
 難しいことですが、いじめる側にもいじめられる側にもある心の奥底の思いをゆっくりと聞いて「教師がわかってあげて」、それぞれが納得できるような解決が必要なのです。

(4)学級作り…「子どもたちの力」で解決する

 いじめの問題を解決するためには「子どもの話をよく聞くこと」から始めますが、話を聞けば全て解決するということはありません。カウンセリングのように、話を聞いてもらっている中で解決方法が得られるようなこともあります。しかし、解決方法がわからないままに教師が「よいと思って判断して指導したこと」で結果を悪化させて、不登校にさせてしまうことも多くあります。このことは避けなくてはなりません。
 いじめの問題を解決する方法は、「学級のみんなの考えで解決する」方法を用意することです。それには、「みんなの考えを自由に出し合って物事を解決していく学級作り」が必要です。この学級作りといじめの間には、深い関係があると思います。
 学校に配属されたカウンセラーは子どもの話を聞くことはできますが、聞いた話を他人に話すことはできません。従って、集団の中で起きている問題を解決することはできません。そのために、一部の問題の解決はできますが学級の問題の解決にはなりません。学級の問題は、学級で解決する以外には方法はないのです。
 学級の問題を解決するためには、教師の力は勿論必要です。しかし、教師の力だけでは解決しない問題が多くあります。このような問題を解決するためには、「みんなで自分達の問題を解決する」という学級での指導や『子どもたちの力』がない困難です。この指導が不十分なために、学校でいじめの問題が解決しにくいと思われます。
 いじめの問題を始め、子どもの人間関係から生じる問題を解決するには、日頃から人間関係を良くするための学習や指導が必要です。そのためには、「学級での問題を『子どもたちの力』で解決させる」という学校の指導理念や指導方法が必要になります。
 人間関係を良くするための学習や指導の軽視や不足が、不登校の問題につながっていると思われます。

(5)本音を聞く

 いじめの問題は、「本当のことがわからない」ために指導や解決が困難な問題です。いじめられた子どもが訴えてきた場合にはまだ話が聞けます。しかし、いじめられていると言うことを間接的に聞いて、直接本人にたずねた場合にはなかなか本当の話が聞けないことが多いようです。まして、いじめる側の話を聞くことは一層難しいことです。
 いじめの被害は表面に現れてきますが、いじめの原因は心にあるので表れにくいのです。特に、いじめる側に上下の関係ができている場合には、犯罪にかかわることも出てくることがあり、「本当のことを知ること」は非常に困難になります。
 こうなると、いじめの指導は“もぐらたたき”のようになり、出てきたものを取り上げて出ないようにするだけに終わるおそれがあります。その間に、事態はますます悪化していくことになります。
 しかし、いじめの実態は必ず知っている人がいます。先ず、本人です。そして、その近くにいてみたり聞いたりしている仲間になる人です。指導は、この人たちを頼りにしていくことになります。この人たちが話しやすい状況を、教師が作り出すことが必要です。
 そのためには、学級を話しやすい場にすることから始めます。どんなことでもみんなで自由に話し合い、「話し合ってよかった」という学級にすることが必要です。今までの学級の指導では効率的なことだけを話すのに精一杯な時間しか与えられていなかったので、子どもたちが自由に話し合う時間などつくりことさえ考えられなかったと思います。
 それには、教師が望む効率的な学級を『子どもたちが望む自由な学級』に変えることから始める必要があります。しかし、『子どもたちが望む自由な学級』は、放っておいてはできません。指導の目標と内容と方法と評価が必要です。つまり、このためのきちんとして教育計画が必要だと言うことです。学級や学年、そして学校の中に『子どもたちが望む自由な学級』の指導計画があることが、いじめの指導の出発点だと思います。
 いじめによる不登校の問題をなくしていくためには、子どもたちの心の交流が自由にできる(誰もが認められる)学級を作ることが必要だと思います。いじめの問題は心の問題だと思いますので。

(6)勉強が楽しい

 不登校の問題の解決は、子どもたちにとって「勉強が楽しく、友達と一緒にいるのが楽しい学級」を用意することです。
 子どもたちにとって「勉強が楽しくない」のは、「学習していることがわからないこと」と「評価でだめだと言われること」です。ですから、「学習していることがわかること」と「評価で認められること」が必要です。それには、「全員がわかる学習を計画すること」と「全員が認められる評価をすること」が必要になります。このねらいを持って改正された指導要領が、『ゆとり教育』だと思います。
 「全員がわかる学習を計画すること」というのは、『基礎的・基本的な内容の確実な定着』
と表現されています。今までの学習のように多くの内容を取り上げるのではなく、最も重要な内容を全員に確実に定着させることを要求しています。『一を聞いて十を知る』の『一』を教師が選んで、その『一』を全員に確実に定着させる学習のことです。この『一』を選び出すことが教師にとって非常に難しいことですが、その教師の努力が無いと全員が「勉強が楽しくなること」はできません。
 次に、この「一」を確実に定着できたことを教師が「評価で認めること」が必要です。たとえみんなと同じ時間にできなくても、定着できたときには「認めること」が子どもの大きな喜びと励みになります。通知表で「だめ(△)」と書かれるような通知表でなく、全員が「良くやった(○)」となるような教師の指導や工夫が必要です。
 今までの教育方法では、『ゆとり教育』のねらいの実現は難しいでしょう。現に、『ゆとり教育』では学力がつかないからという理由を挙げて、もとの「詰め込み教育」に戻そうという動きも多く聞かれます。
 「詰め込み教育」では、全員が「勉強が楽しくなること」は考えられません。教師は、「子どもたちの勉強を楽しくする」課題から逃げてはいけないと思います。

(7)友達と一緒が楽しい

 新しい学級で友達と遊ぶのは、子どもたちにとっては新しい出会いのある楽しみです。まして、話し合いが気持ちよく行われる友達に出会うことができれば、翌日の学校への登校はどんなに楽しいことでしょう。少しぐらい体が悪くても、学校へ行きたいものです。
 しかし、いじめにあった場合には、その状況は一変します。反対に学校へ行くのが楽しくなくなります。
 いじめは、友達の嫌がることをやることです。本来は仲間として一緒にいる友達に対するものです。「仲間に入れない」という行動です。
 昔から、「弱い者いじめ」とか「よそ者いじめ」という言葉がありました。いじめの行為の奥底に流れるものは、同じだと思います。強い者を中心とした上下関係の意識と異質の者を受け入れない仲間意識が強く働くことが問題です。学級などの同一集団の中にいるものの中に起こることで、知らないもの同士の間ではいじめは起こりません。その場合には、犯罪になります。
 同一集団の中に起こることですから、いじめの問題は学級の指導にあるといえます。学級がなければ、学級でのいじめはありません。部活で起こるいじめも同じです。特定のグループがなければ、グループ内でのいじめはありません。このことを考えると、学級や部活などいじめが起きた場合には指導者が解決する問題だと思います。
 法律によって子どもたちを集めておく義務教育の学校に、いじめがあってはならないことです。学級や部活でいじめがあっても、子どもの問題として放置しておくことはありえないことだと思います。これは、保護者として最も不信感を持つところです。仕方がないで済ますのではなく、いじめによる不登校の子どもが一人もいない学校にしなければならないと思います。
 学校不信、ニート、少子化などの問題と、軌を一にしているように思えるのです。

(8)教師は人間だ…動物ではない

 「先生(教師)も人間だ。」という言葉は、戦後の教育体制ができてから使われましたが、今は聞かれません。誰もが当たり前なことだと思っているからではないでしょうか。
戦前の教師は、普通の人とは違って「トイレに行かないと思っていた。」という人がいたと聞いています。神格化された天皇の意を受けて教育してきた教師は普通の人とは違った存在として認められていたのでしょう。
「教師も人間だ。」というように、教師も食事もするしトイレにも行くし、過ちもあるでしょう。しかし、教師は子どもたちの指導者です。子どもたちを指導する力がなければ教師ではないでしょう。教師と子どもとの関係は、指導者と学習者との関係です。子どもたちから指導者として信頼されなかった場合には、人間でも教師にはなれない場合があります。まして、人間として非難されるような場合には言うまでもないことでしょう。
 同じ人間である教師が、「教師も人間だ。」という『人間としての教師』になるには何が必要なのでしょうか。人間の中にある人間性と動物性を分けて考えることはどうでしょうか。食べるとか、トイレに行くとか、やりたいことをやるというのは、動物がやることと同じだと考えられます。
 動物と同じでなく、指導者として持っている人間性とは何でしょうか。少なくても人間には『夢』が必要です。『理想』が必要です。その上で、学習者である子どもを指導し育てる『知識と技術』が必要だと思います。教師の持っている『夢や理想』が何であるのか、子どもを指導する『知識や技術』をどのように高めているのかが、「人間である教師」には、子どもや保護者そして社会から求められているのではないかと思うのです。
 「教師も人間だ。」から「教師も動物だ。」となってしまうような状況があります。この教師の問題は、現場教師の最大課題のように思えます。「上意下達」は、動物の「しつけ」のように思えるのです。
『人間としての教師』になるためには、無批判に従うことを求める体制ではなく、目前の学習者である子どもたちから課題を見つけて『夢や理想』と『知識や技術』を高めていく教育現場の体制がよいと思います。
 このことは、不登校の問題と深く関係があると考えています。

(9)教師は人間だ…過ちがあれば改める

子どもや保護者からの訴えがあったときのた対応の仕方は重要です。そのときに、教師や学校が事実を隠して教師が正しかったとするストーリーを作ったり、子どもを脅したり、事実を隠したり、犯人を捜すなどの責任を転嫁する行為は、教師不信や学校不信を招きます。そして、このことが不登校を生み出すことにもなります。
 子どもや保護者から問題となることの訴えがあった時には、先ず事実関係を正しく把握することです。そして、訴えが出された子どもなり保護者に事実の確認をすることが必要です。一方的に、調べた結果を述べて結論を出したり、早急に対処したりすることはかえって問題を混乱させることになると思います。
 特に同僚の教師や校内の教員に関することですと、どうしても不都合な点は隠して教師や学校には問題が無かったようにしようとすることがあります。その結果、納得できない子どもや保護者は、表面上は引き下がっても教師や学校に対する不信感を残すことになるでしょう。時には、直接教師や学校と対立して、問題化することもあります。
 教師も人間です。「過ち」もあります。その「過ち」が、時には教師不信や学校不信を招いて、子どもの不登校につながるおそれもあります。しかし、対応の仕方によっては「禍を転じて福となす」というように、それが基になって学校や教師に対する信頼感を増すこともできます。
 教師や学校が子どもや保護者から信頼されるには、第一に子どもや保護者の「気持ち(心)」を大事にすることだと思います。子どもや保護者の言葉を正確に受け止めることと丁寧に応対することでしょう。次に大切なことは、「事実」です。判断は事実を確認しあった後で、共に納得できるようなものにすることが必要です。
 学校や教師の対応は、子どもや保護者の心に何時までも残ります。また、すぐに地域の人々に伝わります。学校や教師の「過ち」の改めかたが学校の信頼につながるようになれば、不登校の問題も少しずつ解決していくようになると思います。

(10)教師は人間だ…子どもも人間だ

 教師は「子どもを型にはめ込もうとする」か「人間としての共感をもとに成長を促そうとする」かのどちらかの立場をとります。勿論、前者には、教師と子どもとの間には違いがあります。教える立場と教えられる立場です。
 「教師も人間だ」というのは、後者のような気がします。目の前にいる子どもも教える立場にある教師(自分)も同じ人間なのだということです。同じ人間だが、先に生まれたから「先生」というのだと教えてくれた教師がいました。
 この「同じ人間だ」という気持ちは、教育の根底に置く必要があると思います。そして、少し先に生まれて経験の多い教師が、経験の少ない子どもたちに人間としての「生き方」を共感しながら、人間性を高めていくことが教育ではないでしょうか。
 国語や算数や体育などの授業を進めるときにも、また、子どもが失敗したときに再び過ちを犯さないように話すときにも、「同じ人間だ」という気持ちで子どもに接すると、子どもの気持ちがわかってくるように思えます。子どもの気持ちがわかってくれば、先に生まれた部分の経験がこうせい後生(後から生まれた人)に役立つと思います。それだけでなく、先生も同じ人間として後生から学ぶことも少なくないと思います。時代は、常に新しく変わっていますから。
 コンピュータが発達つした現代は、後生から多くの先生が学んでいます。これは、何もコンピュータに限らず、「同じ人間だ」という気持ちで接すれば、教師も人間(子ども)から学ぶことも多いと思います。このように考えてみると、「教師も人間だ」という言葉は限りなく「生き方」を教えてくれる言葉のように思えます。
 子ども(後生)も先生も「同じ人間だ」ということを出発点として、日々の学校生活を充実させていくことができないものかと思いました。

(11)通知表を利用して指導しない

 子どもを自分の意に従わせようとして、通知表を使う場合があると聞きます。「教師の言うことを聞かなかったり、態度が悪いからと言ったりして通知表の成績を落とす」ということです。子どもだけでなく、保護者の言動までも通知表に影響するというのです。
 このことがあったがために、進学できなかったり、通知表に不信感を持ったりした卒業生の話を聞きます。教師にはそのような考えがなくても、卒業生や子どもたちの受け止め方の中に被害意識を生じるようなことがあれば、教育には大きなマイナスです。
 このように評価が原因になって、教師や学校に不信感を抱いたり、自分の気持ちを閉ざしてしまったりして不登校になることがないとはいえません。
 「評価を使って子どもを指導する」ということは、教育の場では主客転倒であって考えられないことです。もともと評価は、指導の結果が現れたものです。しかし、評価が進学の資料になる現在では、「評価を使って子どもを指導する」ことも行われるかもしれませんが、邪道です。評価が指導の効果をもたらすというのは、『認められたり、褒められたり』したときに自信を持ったり意欲を持ったりすることができるからだと思います。
 通知表に教師の私意が現れることは、「子どものため」と思っても子どもにはなかなか理解できないことだと思います。また、それが教師の意思表示だとしても問題です。「今回は評価を悪くして、次回の君の発奮を期待する」といっても肯定はできません。教師の意志は、指導の段階に現れることが必要だからです。まして教師の悪意として子どもや保護者が受け止めたとしたら、すぐに誤解を解く必要があります。不登校になる場合もあります。
 指導と評価は一体のものです。指導があって、評価があるものです。現在の通知表は、指導の内容がわかりにくくなっています。指導よりもテストの結果が評価になっていることにも原因があるのでしょう。
 テストを使わないで評価ができる教師が、本当に指導ができる教師ではないかと思うのです。『よく指導して、子どもを認める教師』が望まれているように思います。

(12)体罰や脅しで指導しない

 悪い事を止めさせるために脅したり、怠け心をおこさせないために恐い思いをさせたりすることも指導の一つと考えている向きもあります。体罰や脅しが指導となるのでしょうか。特にリーダーである校長の考え方は、学校全体に影響を与えます。
 脅しや体罰を受けた子どもの心への影響を考えると、果たしてどれだけの教育的な効果があったかは分かりません。一時的に言うことを聞かせる効果はあったかもしれませんが、それが心の傷になって残ったり反感を持たせたりということもあります。
 教師が、子どもに学習させることと、子どもに教えることと、子どもに自分の考えを伝えることと、子どもを自分の思うように動かすこととは、当然同じではないと思います。 このことは、『子どもが過ちを犯したとき』に違いが明らかになりように思います。
 例えば、子どもが“万引き”や“悪ふざけ”をしてしまった場合に教師はどのような接し方をすればよいのでしょうか。再び“万引き”や“悪ふざけ”をしないように「脅す」のは、教師として適切な接し方かどうかです。私は、教師という立場にある者であれば、非常に不適切な接し方だと考えています。教師と子どもの関係は、強い者と弱い者との関係にあります。相手が弱いから「脅す」という行為が成立したのです。これは、自分の強い立場を利用して弱いものを動かしたことになり、本質的には相手が強い場合には避ける「弱い者いじめ」と同じです。教師自身が自分では自覚できないで、これが正しいやり方だと子どもたちに教えているようなものです。つまり、教師が「いじめ」を教えているようなものだと、私には感じられるのです。
 また、「教えたり、考えを伝えたりすること」は大切なことですが、それが絶対に正しいことだと思ってしまうと独善になる場合があります。後で後悔することも出てきます。
 『子どもが過ちを犯したとき』には、“過ち”を通して『子どもに学習させること』が教師としては最も大事な接し方だと思います。そのためには、事実関係を正確に把握し、関わった人達の思いを理解し、今後どうするかを『一緒に考えること』ではないでしょうか。