| 2003/2/1 |
| 『水底の棺』 中川なをみ(村上豊絵) くもん出版 2002年 |
| 平安末期、河内の国の狭山池は、村の水源でしたが、長い年月の間に堤が崩れ人びとは修復に追われています。小松(焼太)の父は土器作り職人でしたが、息子を親友松に預け村を出て以来消息不明でした。修復工事中に育ての親、松が事故死し、村の厄介者になった8歳の小松にやさしくしてくれるのは幼なじみのゆうだけ。でも10歳の時に小松は人買いに売られ京の都に連れて行かれます。強盗のサスケに拾われしばらく一緒に暮らしますが、やがてそこを逃げ出し奈良の東大寺で働くようになります。東大寺の再興に執念を燃やす重源、その弟子蓮空、宋から来た恵海。さまざまな人とふれあい悩みながら、小松は自分がどう生きるか、何をすべきかを見出していきます。ようやくめぐり会えた最愛のゆうを失った小松は、ふるさとの池の修復に命をかけていどみます。 少年小松の成長を追いながら、歴史的事実、人物を巧みに織り込んで物語が綴られていきます。ここには主人公はじめ、絵に描いたような立派なひとは登場しません。みな心に弱さ醜さを抱え、非常に人間くさく生きています。そこがとても魅力でした。また火の描き方が、東大寺のお水とりや窯の炎など、非常に印象的でした。水と火、これらが人間にとってなくてはならないもの、人の命をつなぐ大切なものだからでしょう。 児童書では珍しく時代もので、しかもファンタジー色がありませんが、とてもおもしろかった。こういう読み物がもっと増えてほしいと思います。 |
| 2003/2/2 |
| 『おぼえていろよ おおきな木』 佐野洋子 講談社 1992年 |
| 大きな木がありました。そのそばに住むおじさんは鳥がうるさいだの、はっぱが落ちるだの、何にでも腹を立て、「おぼえていろよ」といっては木をけとばします。ある日かんしゃくをおこしたおじさんは、とうとう木をきりたおしてしまいました。それからのおじさんの生活は…。 シルヴァスタインの『おおきな木』をベースにした本だと教えていただいて読んだのですが、これはまたすごい!さすがは佐野洋子です。『おおきな木』が全てを与える「無償の愛」をまっこうから描いているのに比べ、こちらは失ってみて初めてその大切さにおじさんが気づくという、少しひねりのきいた話。『おおきな木』にも泣けましたが、こちらのおじさんのちょっとすねた顔や、とうとうこらえきれず泣く姿がかわいくてかわいくて。最後に新芽がでるところに希望を感じるせいもあり、読後感がこちらのほうが明るい。 |
| 2003/2/3 |
| 『きみはサヨナラ族か』 森忠明(かみやしん絵) 金の星社 1975年 |
| 6年生の「ぼく」森幸男は唯一絵だけは得意なものの、下手くそにしか生きていけない自分がなさけなくてしかたがなく、ついに学校から逃げ出すために仮病になることを思いつく。多発性神経炎と診断され、小児科病棟に入院した幸男の生活は―。 自分がきらい、上手くしゃべれない、上手く生きられない、学校に居場所を見いだせない…悩み苦しみ、とうとう学校から逃げ出した主人公の気持ちがとてもよくわかります。一学期が過ぎ夏休みがおわり、結局幸男は学校へもどるのですが、入院中のさまざまな人たちとの出会いと別れにより、自分のこれからのことを前向きに考えるようになっています。 病院で同室だった西方君の死。「ぼくら人間は何のために生まれ、どのように生きればいいか」を考えている有明君。有明君に連れられて行った講演会で知り合った老画家の中林さん。弟子入りを志願した幸男への中林さんの返事がいいです。 「自分には向いていないという学校へ、人間を見るために通って、自分をおとしめている人がいればよく見届け、それを絵にする。それが絵の勉強。さまざまな光、さまざまな人を、どこまでも追いかけていってほしい」 今まで読んできた森作品と少し雰囲気が違いました。今までの作品だと、ぐわっと心をわしづかみされて重く響いてきたものが、この作品ではやや軽く感じられます。短編と長篇の違いかもしれません。でも素直な文章で読みやすく、主人公の内面がていねいに描いてあり、主人公と同じように悩み考えさせられました。初版が1975年ということですから、もう28年も前にこんな作品があったなんて驚きです。 この題名に覚えがあったので調べたら、この作品を原作にした少年ドラマシリーズがありました。観てはいなかったのですが、題名だけが強く印象に残ったのだと思います。 |
| 2003/2/4 |
| 『記憶の国の王女』 ロデリック・タウンリー(布施由紀子訳) 徳間書店 2002年 |
| シルヴィはおとぎ話「とてもすてきな大きなこと」のヒロイン。でもこのお話は読まれなくなってずいぶん経ち、何も起こらない毎日にシルヴィはうんざり。ある日ようやく読者がやってきて、シルヴィはじめ登場人物は忙しく動き回ります。このお話を気に入ってくれた読者クレアが本を開いたまま眠った時、おてんばで冒険好きのシルヴィはクレアの夢の中に飛び込んでしまいます。 「本が開くぞー」という掛け声で、いっせいに登場人物が本の内容を演じていく。読者がページを繰るごとに、忙しくそのページまで飛んでいったり、駆け戻ったり、その様子がおもしろかった。シルヴィがクレアの夢の中に入っていくのは、予想外の展開でした。 本は読者があってこそ存在するものだということ、たとえ失われても読者が覚えている限りその心の中で生きていられるということなど、物語の本質ともいえることが語られています。 |
| 2003/2/6 |
| 『くまって、いいにおい』 ゆもとかずみ(ほりかわりまこ絵) 徳間書店 2000年 |
| 森の奥にいいにおいのするくまが住んでいて、森の動物たちはみんなくまのところへ悩みをうちあけにやってきます。くまのにおいにつつまれていると気持ちが落ち着くのです。でもみんなの悩みをきいてばかりいたくまは疲れてきました。自分だって元気ないときもある…。こんなにおいなくなればいい、と思っていたくまは、きつねが発明したくすりを飲んでにおいを消してしまいます。 かわいい話だけど、ちょっとほろにがく、せつない気持ちになった。ひとって自分勝手なもんだけど、それでも思いやるこころは持っている。これからもくまはみんなの悩みをきいてやり、ときに嫌になり、また思い直し、そうやってずっと続いていくんだろうなあ。 なんだか悩みの相談ばかり受けていた自分の若いときが思い出されて、くまに声をかけたくなりました。よしよし、ほどほどでいいんだよ、たまには休んだっていいし。頼られるばかりじゃ疲れるから、自分も頼れる相手がほしいよね。ともだちって一方的なものじゃないはずだから。 |
| 2003/2/10 |
| 『シベリアの馬ジャンパー』 ニコラス・カラーシニコフ(田嶋陽子訳) ぬぷん児童図書出版 1978年 |
| 1911年シベリア、バイカル湖の近くの村で、子馬が生まれます。生まれた子馬はジャンパーと名づけられ、愛情をかけられすくすくと育ちます。やがて戦争がはじまり、ジャンパーは軍馬として徴用され戦地に赴きます。ジャンパーは次々代わる主人とともにいろんな戦争を経験し、最後に生まれ故郷の村に帰り、平和な余生をおくることになります。 最初の「まえがき」を読むと、この話は実話のようです。作者はこのなかで「わたしはジャンパーだけでなく、たくさんの馬たちにも、心の底から感謝の気持ちをささげたいと思います。その馬たちは、なにもわからないまま、文句ひとついわないで人間がひきおこしたいたましい運命にまきこまれ、人間といっしょに苦しんできたからです。」と書いています。突然わけもわからず戦地に連れて行かれた馬たち。馬ばかりでなく従軍する兵士たちも、本当は生まれ故郷で土を耕していた人たちでした。あらそいをひきおこす愚かな人間への怒りが読みとれます。 ジャンパーの飼い主親子が「馬も人間と同じでやさしくしてやればよく育つ」と話し合っていますが、その言葉通り愛情いっぱいに育てられたジャンパーでしたが、そのため突然戦地に連れて行かれる場面ではいたましく思えました。この作品は人間の側からだけでなく、ジャンパー自身の視点から多く描かれています。やんちゃな子ども時代、たくましく育ち独り立ちするころ、なにもわからず戦場で駆け回ったころ、その時々のジャンパーの気持ちがとてもていねいに描かれているので、ひきこまれてしまいます。こころが通いあうと、馬も人間も関係ないんだなあ、とあたたかい気持ちになれました。 訳者の名前に見覚えあるなあと思っていたら、本当にあの田嶋陽子さんでした。児童書の翻訳もしていらしたとは、知りませんでした。 |
| 2003/2/12 |
| 『光をはこぶ娘』 O.R.メリング(井辻朱美訳) 講談社 2002年 |
| アイルランドの少女ダーナは父ゲイブリエルが故郷カナダへ帰る予定であることを知らされ、激しく動揺します。アイルランドで生まれ育ったダーナにとって、3歳のとき失踪した母親がどこかにいるかもしれないこの土地を離れることは耐えられないことでした。そんなとき森で妖精の貴婦人オナーに会い、妖精王の上王からルーフ王へのことづてを頼まれます。この使命をはたせば母親に会える―そう信じたダーナは妖精たちの世界へ旅立ちます。 初めて読んだケルトの話がメリングの『妖精王の月』でしたが、最初はあまりにも日常的に妖精が現れる世界にとまどいました。その後『歌う石』『ドルイドの歌』『夏の王』と読んできて、この妖精ファンタジー世界にもだいぶ慣れてきました。メリングの作品を読むときにいつも思うのは、妖精事典をそばにおいて読んだらさぞ楽しいだろうなということです。ケルト神話についてもっと知っていればもっと楽しめるのにとも思います。 今回は妖精世界と現実世界のふれあいが、環境破壊や森林保護など現実的な問題に絡めて描かれているせいで、より身近に感じられました。『夏の王』に登場したオナーの、まだ妖精になりきっていない様子がおもしろかった。 |
| 2003/2/14 |
| 『星兎』 寮美千子 パロル舎 1999年 |
| ぼくがうさぎとはじめて会ったのは、春の風の強い日だった―。ショッピングモールで目が合った瞬間からはじまる、ユーリとうさぎの不思議なお話。 帯に「宇宙一せつない、物語。」とあるけれど、宇宙一はよけいな気がしますが、たしかにせつない物語ではあります。雰囲気が長野まゆみに似ています。長野まゆみほど鋭くはなく、もっとやわらかい感じです。空の青さを表す「永遠が見えてしまいそうな、青」という言葉に惹かれます。そしてなにより装丁がすてき。さすがパロル舎。 |
| 2003/2/17 |
| 『極北の犬トヨン』 ニコライ・カラーシニコフ(高杉一郎訳) 学研 1968年 |
| 第1革命後のロシア、政治犯として北シベリアへ送られる途中の「わたし」は吹雪にあい、護送のコサック兵と一緒にグランという裕福な猟師の家で、3日間休みをとることになります。グランの家には家族に大切にされている年老いた犬トヨンがいました。グランはトヨンの物語を語り始めます。 腕はいいが運の悪い猟師だったグランは、ある冬隣人(といっても50km離れた)の老人の死を看取り、孫のダーンと生まれたばかりの子犬トヨンをひきとることになります。優れた猟犬だった母親の血をひいたトヨンは、グランの適切な訓練もあり、優秀な猟犬に育ったばかりでなく、何度も家族の危機を救い、グランの家族の一員としてなくてはならぬ存在になっていきました。 原題『TOYON,a dog of the North and his people』のとおり、トヨンと人びとのお話です。自然描写、日常生活、訓練の様子などとてもくわしく、極北の地の自然の厳しさに圧倒されます。でもその地でも人びとは自然に対する畏怖をもちつつ、受け継がれた知恵でたくましく暮らしています。その生活を支えるためになくてはならない存在が犬であり、犬と人間との強い絆が描かれています。このトヨンが、すごく有能で献身的でかわいい。こんな犬なら飼ってみたいと思ってしまいました。こんな厳しい自然のなかでは、人間も犬もたくましく、お互いに信頼関係で結ばれていてこそ、生き抜いていけるのでしょう。厳しい生活ですが悲壮感はなく、前向きで明るい雰囲気なので、楽しく読むことができました。シベリアでのこれからの流刑生活を思い暗い気持ちでいた「わたし」が、素朴で親切な人びとにふれ、荒涼とした印象のツンドラにも生命があることを実感し、希望を見出す最後がとてもよかった。自然の厳しさ偉大さ、極北の地に生きる人々の姿に感動しました。読後感はさわやかで、こころが暖かく元気になります。 ここでは『シベリアの馬ジャンパー』のように戦争に対する批判的な言葉はでてきません。どちらも人間と深い絆で結ばれた動物ですが、ジャンパーが軍馬として活躍したのに比べ、トヨンは猟犬としてひたすら家族のためにつくした、という違いのせいでしょう。また『ジャンパー』では主に馬であるジャンパーの視点から語られていましたが、『トヨン』は人間の視点から描かれています。そして物語の語り手は最初と最後が流刑者である「わたし」で、物語の主要部分がグランの思い出というつくりになっています。どちらも作者が本当に経験した実話として描かれています。 昨年読んだ完訳版(同訳者、1997年、徳間書店)と内容の大きな違いはありませんでした。完訳版では、表記の違い、言葉の順序の入れ替えや、不適切な言葉の言い換えなどが、主に変っていた点でした。この最初の学研版は1968年が初版です。 作者の略歴は訳者あとがきにありますが、かなり変ったというか、波乱万丈ではないかと思います。帝政ロシア時代末期に生まれ、ナロードニキ運動に加わり、1905年の第1革命にも参加、シベリアへ5年の刑期で流刑となり(この流刑地へ行く途中が、この物語の発端)第1次世界大戦勃発のため刑期を1年残して恩赦となり、志願して従軍します。1917年の革命、国内戦争を戦いますが、メンシェビキ的な彼の考えはボルシェビキ政権下では容れられなかったらしく、1924年に中国のハルビンに移り、そこからアメリカへ亡命し1930年にアメリカの市民権を得ます。職を転々としたあと作家として成功します。日本では『シベリアの馬ジャンパー』(1944年、日本では1978年)『極北の犬トヨン』(1950年)しか翻訳されていません。 訳者高杉一郎さんについては、ピアスの『トムは真夜中の庭で』などを訳している児童書の翻訳者だとばかり思っていました。それがこの『トヨン』のあとがきで、シベリア抑留経験があり、その記憶からもこの作品が忘れがたい作品だと述べているのを読んで、興味を持って少し調べてみました。児童書の翻訳作品とは別に、シベリア抑留体験をまとめた『極光のかげに』を1950年に出版し、その後も『スターリン体験』『シベリアに眠る日本人』『征きて還りし兵の記憶』などを書かれているそうです。またエスペランティストでもあり、『ザメンホフの家族たち』という本も出版されていました。『極光のかげに』の刊行当時、スターリン批判だと酷評されたこともあるそうで、アメリカへ亡命せざるを得なかったカラーシニコフに同情と共感を覚えたのかな、と勝手に想像してみたりしています。 参照 2002/3/20 |
| 2003/2/20 |
| 『アネイリンの歌 ケルトの戦の物語』 ローズマリ・サトクリフ(本間裕子訳) 小峰書店 2002年 |
| 紀元600年ごろのブリテン、アーサー王の統一が崩れ、各地でケルト系の王とサクソン系の王が争っていた時代。ケルトのゴドディンの王マナゾクの命により、300人の兵士がサクソン人との戦いに赴きます。壮絶な戦いの末生きて還ったのはただ一人。今に伝わるイギリス最古の叙事詩『ゴドディン』。吟遊詩人アネイリンがり竪琴にのせてうたい、語り継がれてきたこの物語を、サトクリフが創作した少年プロスパーの目をとおして、あらたに描き出した作品。 主人公の少年プロスパーと奴隷ながらも親友であるコンは、マナゾク王の招集に応えてゴルシン王子の従者として故郷を後にします。これ以降は各地からの寄せ集めである軍勢が、1年間訓練をしながら絆を深めていく過程が綴られ、いよいよ進軍、戦闘場面へと続いていきます。戦いの場面は迫力あり、一時的な勝利の後、来ない援軍を虚しく待ち、ついに死を覚悟して突入する兵士たちの様子は壮絶でした。生き残ったのはわずかカナン一人。先にゴルシンが戦死したため、プロスパーは今は彼に仕えていました。 プロスパーも生き残ってるのになぜ一人なのか。それはアネイリンの歌に従者は除かれていたから。アネイリン自身もこの戦いを歌に残すため、突入前にコンや数名の従者とともに戦地を逃れています。だからうたわれていない従者も含めれば、300人の何倍もの数の若者が、この戦闘で命を失ったことになります。アネイリンの歌はこの若者たちへの挽歌であり、プロスパーの目をとおして戦いを見てきた読者の胸にも切なく迫ります。特に生き残ったカナンが王の裏切り(援軍を断っていた)を知った時の姿は痛々しい。こころにも大きな傷をうけたカナンでしたが、ブリテンを去りコンスタンチンノープルを目指すことになり、プロスパーもついて行くことになります。サクソンの侵入により衰退していくブリテン。アネイリンの歌によせて、滅びゆく古きブリテンへの限りない哀切の気持ちがこめられているような作品です。 読み始めてすぐ、プロスパーの故郷での日々に惹きこまれてしまいました。彼とコン、それに親戚の少女リネットとの3人で過ごす少年たちの日々。とてもみずみずしく美しく、森で白い雄ジカに出会うところなどでは、静謐な森のたたずまいが目にうかびそうで、敬虔な気持ちにさえなりました。この3人の日々があまりにすばらしかったので、最後にプロスパーがカナンについて行く決心をしたときは、少しさびしい思いがしました。もういちど3人の森で遊ぶ姿が見たかった。 |
| 2003/2/21 |
| 『闇の女王にささげる歌』 ローズマリー・サトクリフ(乾侑美子訳) 評論社 2002年 |
| ローマのブリテン支配に抗して民族の誇りをかけて戦った、ケルトの伝説の女王、イケニ族のブーディカの物語。 今まで読んできたサトクリフのローマン・ブリテン4部作のなかで、どうも納得いかなかったのが、常にローマ側から描かれ、ケルト民族やサクソン人を「蛮族」と呼んでいたことでした。この作品でようやくケルト側からの物語を読むことができました。このブーディカの名は『第九軍団のワシ」』にボーディッカとして出てきました。イギリス人ならだれでも知っている有名な女性らしいです。またイケニ族については『ケルトの白馬』の主人公がそうですし、『第九軍団のワシ』でもマーカスの隣人の少女がイケニ族でした。本文の第1章のカットに使われているのは『ケルトの白馬』で描かれたあの「アフィントンの白馬」です。またこの作品中に第九軍団の「ワシ」がケルト族に奪われた事件がでてきますが、これは年代的にもう少しあとの事件だったのではないかと、首をかしげてしまいました。 物語はブーディカの少女時代からはじまり、女王になり、結婚し子どもも生まれた幸せな日々を経て、夫の死後ローマの支配に対し民族の誇りと尊厳をかけて戦い、ついに敗れて自ら毒を飲むまでの一生が、女王つきの竪琴弾きカドワンにより語られていきます。読みながらブーディカの一生を、その時代の空気もそのままに、自分も体験した気分になりました。 またカドワンの語りとは別に、ところどころはさまれるローマ軍の若い将官アグリコラが故郷の母親に書いた手紙により、ローマ軍側から見たこの事件が描かれます。このアグリコラは公平な人物だったらしく、このブーディカの事件を「属州長官のイケニ族へのあつかいが大きな原因だった」と綴っています。また「もし自分がブリテンの総督になるとしたら、こういう荒療治を引き受けずにすませたいものです」と書いてあることから、このときイケニ族や他のケルト部族に対して徹底的な虐殺があったことが読み取れます。著者や訳者のあとがきによると、彼はのちに本当に総督となったようです。そして訳者あとがきに紹介されている、アグリコラの娘婿の歴史家タキトゥスが書き留めた、ローマ支配についてのケルト民族の言葉、「彼らは破壊と、殺戮と、略奪を、偽って<支配>と呼び、荒涼たる世界をつくりあげたとき、それをごまかして<平和>と呼ぶ」まさしくこれがローマ側が「蛮族」と呼んだ、彼らケルト民族側からみた真実であったと思います。 |
| 2003/2/23 |
| 『ダークホルムの闇の君』 ダイアナ・ウィン・ジョーンズ(浅羽莢子訳) 創元推理文庫 2002年 |
| 魔法世界ダークホルムは、人間世界の資産家チェズニー氏に40年前から観光地化されています。毎年人間世界から観光団がやってきて、RPGのような冒険を実際にダークホルムで行っていくため、町も畑も荒れ放題。持ちまわりで悪の魔王「闇の君」に選ばれた魔術師は、大変な苦労をすることになる。今年はこの「闇の君」にへっぽこ魔術師ダークが選ばれてしまいます。いつも変てこな動物ばかり生み出しているダークと、家族たちの奮闘が始まります。 ダイアナ・ウィン・ジョーンズらしく相変わらずにぎやかなお話です。魔法世界のほうが人間たちに荒らされ、魔術師たちが困っているというのが何ともおかしい。魔法世界側も人間側もいつも少なからず犠牲者が出るというところ、特に観光団には何人か必ず「捨て石」と呼ばれる殺される人間が交じっていること(邪魔な人間をここで抹殺できる)など、この著者らしいシビアな世界です。 そしてなんとも個性的で魅力的なダーク一家。どこか抜けてるダーク、有能な魔女の妻マーラ、詩人志望の娘ショーナ、魔術の才能に恵まれた息子ブレイドに加えて、ダークによって作り出されたしゃべる5人のグリフィンたち。このグリフィンたちは、みんなダーク夫妻の子どもとして育てられ、各自家事も分担してます。この一家が降って沸いた災難にどう立ち向かうかが焦点ですが、予定外の出来事が次々おこり、事態は混乱するばかり。この混乱が最後にはちゃんと収束するのが著者の持ち味ですが、今回は登場人物も多く今までで一番ややこしく感じました。あまりのややこしさにちょっともたついて、いつものように一気に読むことができませんでした。でもはらはらするうちに、ちゃんと最後には意外な事実も判明し、魔法世界やダーク一家に平和がもどってきます。それぞれ悩みや問題を抱えながら、家族のために力を合わせて頑張る子どもたち(グリフィンも含めて)がよかった。 |
| はづきメモ>躁が通常テンションなジョーンズ作品のなかでも、いまだかつてここまでとっちらかった話がほかにあっただろうか! というわけで、けっこう読むのに時間がかかってしまいました。まず登場人物が不親切に多い! しかもだれもが脇役とはいえない! そして世界観説明が不親切にすくない! てか、まったくのゼロといってもよい! ジョーンズ作品の多くに共通する(クレストマンシー4部作がわかりやすい)、パラレルワールドの設定がわかっていないと、なぁにがなにやらぁ。わかっていても、「え、これでいいのか? どうなってんだ?」ってかんじで話が読み手をぶんまわしてくださいます。 気持ち悪くなったのは、電車の揺れが100%の原因とはいえまい。うーいー。…じつはちょっくら目まぐるしすぎて、後半にはいるまではひたすらげっそりしてました。体調悪かったせいかも。で、あいかわらず、どうやって収集つけんのこのこんぐらがりっぷり!と物語は混沌の極みへ。そこからの急転直下の落としぐあいは、もうさすがジョーンズです。おもしろかった! そして毎回毎回、佐竹美保さんの表紙はすばらしいな。 |
| 2003/2/25 |
| 『友だちは無駄である』 佐野洋子 筑摩書房(ちくまプリマーブックス) 1988年 |
| 友だちというか、人とのかかわりを、谷川俊太郎との対談やエッセイで綴ってあります。子供時代の思い出、自分の子どものことで泣き出すところなど、共感を覚えるところがたくさんありました。 「友だちというものは無駄な時をともについやすもの」―そうかあ、なるほど。損得勘定抜きで付き合うのが友だちなんだし、ちょっと驚く題名の由来がこれなんだ。 「人格者じゃないから寛大、自分勝手だから、それを許してほしくて人の自分勝手も許す、下心見え見えの寛大」―ああこれはわたしそのもの。 |
| 2003/2/27 |
| 『街の灯』 北村薫 文藝春秋 2003年 |
| 昭和のはじめ、士族の花村家に令嬢の英子つきの運転手として別宮(べっく)みつ子がやってきます。彼女をベッキーさんと呼ぶようになった英子は、身近に起こる謎を解明していくようになります。 英子の一人称「わたし」で話がすすみます。今までの北村さんの探偵コンビと違う点は、両方とも女性であること。それと謎を解くのはお嬢様(正真正銘のお嬢様!)の英子ですが、彼女にさりげない示唆を与えるのがベッキーさんであり、事実上の探偵はベッキーさんではないかということ。このベッキーさんがなんとも魅力的。あの時代に女性ながら車の運転をするのさえ驚きなのに、武道の心得もあるらしく家に押しかけた国士気取りの暴漢を撃退します。このベッキーさんについてはまだまだ謎があり、これから徐々に明かされていくのではないかと思います。つまりこのシリーズまだまだ続くようで、とても楽しみです。 謎解きのおもしろさというより、ベッキーさんをはじめ登場人物のおもしろさと昭和7、8年ごろの日本の世情を描いているのに興味をひかれます。北村さんの作風には案外この時代は合っているような気がします。 そしてこの謎解きのスタイルにクリスティの『クイン氏の事件簿』を思い出しました。創元推理文庫で学生時代読んだこの短編集は、とても不思議な雰囲気を持っていました。今手元にないので正確に分からないのですが、クイン氏も自分から推理するわけではなく、彼に事件の思い出を話しているうちに、もう一人の探偵役の人がいろいろな事件の謎をあらためて違う視点で見るようになり謎を解明していく、というお話でした。クイン氏自身謎めいた存在で、どこからか現れては去って行き、たしか最後に消えてしまったかどうかする、とても不思議な存在でした。この最後はちょっと怖かった思い出があります。 |
| 2003/2/28 |
| 『あれも嫌い これも好き』 佐野洋子 朝日新聞社 2000年 |
| 佐野洋子さんのエッセイは軽妙でいながら鋭く、笑ったりしみじみしたりほっとしたり、読み終えたあとは心にしんと残るものがあります。父親とうなぎの話、洋ちゃんの話、ホスピスの話など印象に残りました。 |