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絵本 2005/11/2
『だれをのせるの、ユニコーン?』
スティーブン・ランバート(エイドリアン・ミッチェル文 おかだよしえ訳) 評論社 2002年
これも『エリダー』関連でユニコーンの伝説について知りたくて借りてきた絵本。ここでもユニコーンは乙女にしか心を許さない存在として描かれている。作者はコーンウォール在住ということだが、やはりこういうユニコーンなどの物語は、ケルト風味が強いのだろうか。




映画 2005/11/2
「夢のチョコレート工場」
メル・スチュワート監督(DVD) 1971年
今年上映された「チャーリーとチョコレート工場」と同じく、ロアルド・ダールの『チョコレート工場の秘密』を原作とした映画。日本では劇場未公開だったらしい。実は娘はこの映画を原作を知らないとき観ていて、当時(9歳)はネパール滞在中で通っていたアメリカンスクールで、字幕もないので意味のわからないところ、間違って理解していたところもあったらしいのだが、それでもものすごく面白かったと興奮して帰ってきた。娘から「前から、ロー・ダーって面白かったけど、今日観た映画もロー・ダーだった」と聞かされたわたしは、「は?」と面食らってしまった。 そして「チョコレート」という言葉がヒントになって、「ロー・ダー」=「ロアルド・ダール」だと判明したのだった。娘がこの原作を読んだのはもっと後になるが、当時原文で『ヘンリー・シュガーのわくわくする話』を読み、その中の『白鳥』という作品にものすごい衝撃を受けたのだそうだ。以来娘はダールにはずっとひっかかっていたという。わりと最近翻訳でこの「白鳥」を読み、日本語で読んでもなんともすごい話だった、と言っている。わたしも読んだが、ええ〜!という内容だった。ダールの新訳の出版がこの春からはじまっているが、この話の新訳を今から楽しみにしている。

そんな娘がバートン版新作映画を観た後、「昔の映画のほうがよかった」と言ったのでわたしも観る気になって図書館から借りてきた。こんな前に映画化されていたことも驚きだが、今年は翻訳も新訳が出たし、原作も映画も新旧そろったことになる。旧訳の表紙カバーはこの映画の絵が使われている。翻訳のほうは、新訳は読みやすく原作のニュアンスをより正確に伝えているようだが、なんといってもあとがきにある旧訳への失礼な態度が気に入らない。この訳者、映画のパンフレットにまで自画自賛を書き連ねているので、余計腹立たしい。だが翻訳そのものはたしかにいいし挿絵もいいので、くやしいがやはり買ってしまった。

では映画はというと、これがどうにも難しい。先に新作から観たのでどうしても新作のほうが印象が強い。映像もきれいで楽しめた。しかしワンカさんとウンパ・ルンパは旧作のほうがいい。どちらも原作と違うエピソードを入れているが、入れてほしかったエピソードが削られている。どっちもどっちというのが正直な感想だ。これは原作に対する思い入れがありすぎるからで、映画の観方としたらあまりいい姿勢ではないのかもしれない。あくまでも映画としてどうかという点で感想をのべるべきなのだろうが、原作大好きなのだからこれはもう仕方がない。

この旧作の原題は「"WILLY WONKA & THE CHOCOLATE FACTRY"(ウィリー・ワンカとチョコレート工場)」である。原作と同じ「"Charlie and the Chocolate Factory"(チャーリーとチョコレート工場)」をそのまま使った新作との違いは、このタイトルにもあらわれている。つまりこれはワンカさんの映画なのだ。ワンカさんが素晴らしいのだ。原作の「天真爛漫な変なひと」というのとはちょっと違うワンカさん。新作は屈折したアダルトチルドレンとして描いていたので、ジョニデのワンカさんのはじけっぷりが少し中途半端だった。それに対してこちらのワンカさんは登場場面からしてサービス満点で芸達者。 ステッキ振り回してたくみに一行を誘導しながら、歌まで歌う(もともとミュージカルらしく、他の人も歌う。しかしチャーリーのお母さんまで歌ったのは驚いた)そして少し怖く不気味な面もある。(新作ではワンカさん登場前の人形が不気味だったが)楽しそうな中に天才と紙一重の狂気を感じさせる。そして何を考えてるのかつかみどころのなかったワンカさんが、ラスト近くにみせる感情の爆発、怒りと淋しさと、それが一転した喜びとチャーリーに対する優しいまなざし、その表情がとてもいい。チャーリーを抱きしめるワンカさん、「ウンパ・ルンパをまかせられる、正直で心優しい子がほしかった」と言うワンカさん。そんなワンカさんが大好きだ。このワンカさんをみられただけでよかったと思う。

ただ物語の運び方は新作のほうがいいと思う。ラストの余計なエピソードを別にすれば、ほぼ原作どおり。この旧作はチャーリーの父親も登場しないし、子どもたちのつきそいも原作とは違い一人だけだ。またいうことを聞かなかった他の子どもたちは消えていってそれっきり、後のフォローもない。そしてわたしがこの旧作でどうしても納得いかなかったのは、チャーリーとおじいちゃんもまた他の子どもたち同様いいつけを守らなかったことだ。ここは原作にはない。そして最初の契約書をたてに「規則を破った子には何もあげられない」というワンカさんに対して、規則をやぶっておきながら謝りもしなかったおじいちゃんは「詐欺師!」とののしる。契約書にトリックがあったにせよ、規則をやぶったことに対する反省が感じられない。 チャーリーも悲しそうにするだけで謝罪はない。その規則破りも他の子どもたちのようにみんなの目の前で破ったわけではなく、陰でこっそり破ったのだから、むしろ他の子よりタチが悪いとさえいえる。ただまあ、うかれてついってことは誰にもあるし、逆に子どもらしくていいのかもしれないが。 そのあとのチャーリーの誠実な行動による大逆転も、その前のところで首を傾けていたため、どうも釈然としない。ワンカさんは「テストして悪かった」と言うが、そのテストするためにわざと怒らせたのだろうか?つまりおじいちゃんが怒ったのは当たり前?チャーリーたちのあの行為は規則破りではないというのか?どうもそこがわかりにくかった。原作のワンカさんは、ただ一番好きになった子にプレゼントをあげよう、とわくわくしていただけだと思う。こんな策を弄するようなことはしない。ただ上述のようにそのときのワンカさんの表情がとてもいいので、その表情を引き出すため必要な演出だったのだと思えば仕方ないのかもしれない。新作よりこちらのほうが好きと素直に言えないのは、こういう点があるからなのだ。

ウンパ・ルンパは新作ではディープ・ロイ一人をCGで大勢に見せていたが、この旧作は本当に何人かの小さい人たちを使っていた。さすがにCGほどの人数は無理だが、それでも充分たくさんいた。そしてそのウンパ・ルンパの歌と踊りが新作に劣らず絶妙だった。むしろ歌はこちらのほうがいい。この物悲しい「ウンパ、ルンパ〜♪」という旋律が耳から離れなくなってしまった。 映像も30年以上前にしてはとてもきれいだ。チョコレート工場内もとてもよく出来ていた。さすがにチョコレートの滝と川は粘り気が足りずただの茶色い水にしか見えないが、他のお菓子は新作とくらべても遜色ない。エレベーターもちょっとチャチ。でも入り口が出口になる部屋や、だんだん小さくなっていく部屋とか、けっこう工夫が凝らしてあって楽しかった。それと最後にでてくるワンカさんの部屋。部屋の全てのものがどういうわけか、半分なのだ。ワンカさんの奇天烈ぶりがあらわれていておもしろい。
新作はもう始まったときから「ファンタジー色」にあふれていたが、こちらはチョコレート工場内部は別として、あとの描き方はリアルだ。だからチャーリーの貧乏ぶりもよりリアルで、実はそのリアルさが、チャーリーが拾ったお金を届けずにすぐ使ってしまうという、すこし道徳的にどうかと思う点を納得させてくれる。原作でも拾ったお金をそのまま使うチャーリーを咎める気にならずむしろ応援する気になったのは、チャーリーの貧乏ぶりが半端ではなく、もう命があぶないほどやせこけていたところにあった。新作ではチャーリーの貧乏ぶりさえもファンタジーっぽくみえてしまった。(そのかわりチャーリーにたいする家族の深い愛情はとてもよく描かれていたのだが)

そしてこの旧作では、学校でみんながワンカチョコレートを100個買った、150個買った、と言い合うなか、チャーリーがたった2つしか買えなかったということが、こともあろうに教師から何度も確認されるというエピソードがある。チャーリーの悲しさと、どんなにあのチョコレートを欲しがっているかが、いやおうなく観るものの胸にせまってくる。そして拾ったお金で買ったチョコレートをチャーリーはむさぼり食う。それほどお腹がすいていた、ということをあらわすこのシーンはとてもいい。そしてふと気づいてもうひとつチョコを買い、そのチョコが見事当たりなのだ。新作ではチョコは一つ買うだけで、あっさりとそのチョコが当たる。ここは原作通りの旧作のほうがいい。

そしてこのあとに続く原作のわたしの大好きなエピソードが、新作旧作とも削られている。当たりを引いたチャーリーを大人たちが取り囲む中で、お菓子屋の店主が大人を追い払ってチャーリーに「きみに当たってほんとうによかった。おめでとう」(この部分の翻訳は新旧訳で微妙に違う)という。この言葉をはじめ、チャーリーがお店に来てからのこの人のチャーリーへの接し方がとても愛情あふれていていいのだ。このひとが、この貧乏でいつもお腹をすかせていて骨と皮にやせている男の子のことを、それとなくずっと気にかけていたことがわかる。わたしはこの部分が涙がでるほど好きなのだ。だから新旧作ともこの部分を削っていたのが気に入らない。
いろいろと考えたがやはり結論はでない。ようするに原作が一番好き、ということか。




映画 2005/11/3
「ザ・インタープリター」
シドニー・ポラック監督(DVD)  2002年
思ったよりおもしろかった。初めて撮影を許可されたという国連の内部が見られたのはよかった。あたりまえだけど国連の中は治外法権で、さまざまな国の人が働いていて、さまざまな言語が飛び交っているのだということがよくわかった。 冒頭の場面がとても衝撃的で、これが後に重要な意味を持ってくるが、わたしはひとりの名前は覚えていたがもうひとりの名前は忘れていたため、先が読めなかった。なぜシルヴィアが狙われたのかがよくわからないし、もし偶然シルヴィアが会話を聞かなかったらどうなっていたのか、そこらへん少し説明不足だと思った。 ニコール・キッドマンはきりっとして美しい。長身なのだがあまり圧迫感を感じさせずむしろ可愛く見えた。化粧や服装もさっぱりしていて好感が持てる。美しい人は飾り立てるより、シンプルなほうが美がひきたつと思う。ショーン・ペンとのこころのふれあいも、へたなラブシーンもなく寄り添うだけにとどめたのがよかった。




2005/11/4
『平原の旅 下』
ジーン・アウル(金原瑞人・小林みき訳) 集英社 2005年
「エイラ」シリーズ第4部の最終巻。前巻の終わりで予想していたアッタロアとの対決は、いともあっさりとカタがついてしまった。肩透かしをくらった気分だが、この巻の中心は命の危険さえある氷河越え。その後エイラの妊娠が判明する。しかしよくまあこんなに次々と試練を思いつくものだ。ふたりはまたあらたな氏族の混血青年や、純粋な氏族の長とも出会う。けっこう氏族との遭遇率は高いのに、どうしてジョンダラーはあんなに氏族に免疫がなかったんだろう。そして自分に好意を寄せる女性の気持ちにもまったく気づかないジョンダラー。まったくどうもこの男にはいちいちイライラさせられる。作者は本当にこの男が魅力的だと思っているのだろうか。
そしてラストに今までなぜエイラがクレブの夢を見続けていたのか、その理由が判明する。なるほどつまりジョンダラーの故郷こそエイラが帰るべきところだと、不安がるエイラをクレブが後押ししてくれていたわけだ。なんか都合がよすぎる気がするけど、とりあえずエイラの気がかりが取り除かれたことはよかった。本当はエイラよりジョンダラーのほうに問題があるのだが。以前の旧訳はこの第4部まで出版されていた。エイラの妊娠もあり、たしかにこれで一応のハッピーエンドと考えてもいい。アメリカでは第5部まで発表され、今回の翻訳予定も第5部まではある。現在第6部を執筆中らしいがまだ出版されてないようだし、その翻訳となるとこれまたいつになることか、気の長い話だ。
やはりこの作品は第1部こそが素晴らしい。第1部だけもういちど読みたいなと思う。




2005/11/8
『喪の女王2』
須賀しのぶ 集英社コバルト文庫 2005年
「流血女神伝」最終章。前作であまりにあっさりカリエが出産したので、それはないだろうと少々気に入らなかった。だって赤ちゃんがあんなポコっと産まれるなんて!?でもサルベーンの言葉を聞いて、なるほど女神の意思が働いているなら尋常な出産ではないだろうと納得した。 そして事態は思いがけない方向へ進んでいく。なんといってもグラーシカが悲痛。あんなに頑張っているのに報われないなんて。なんとかしてあげてほしいが、以前カリエが見た夢では悲劇が待っている予感がする。高邁な理想だけでは改革は無理なのだろうか。そして兄夫妻の屍を乗り越えて、ミュカがルトヴィアを治めるようになるのだろうか。このユリ・スカナ編も長くなりそう。とにかく早く続きが読みたい。
あとがきで著者が『帝国の娘』を読み返して、はじめて読者がカリエの相手がエドだと思い込んだ気持ちがわかった、と書いていた。本当にそうだよ!てっきりあの二人が結ばれるもんだと思ってたら『砂の覇王』であんなオッサン(バルアン)に。いやいや、少女小説なのにカリエの初体験とか、強要されての望まぬ妊娠とか書いてるんだもの、そんな程度で驚いていてはいけないのだ。




2005/11/9
『緋色の研究』
アーサー・コナン・ドイル(大久保康雄訳)  早川文庫 1983年
ホームズってほんとにむかつく男だ。ミステリーとしてもなんだかなあ。とにかくホームズの素晴らしさを強調しているのだろうが、かえってそれが鼻につく。別に二部構成にしなくてもいいのだが、実はその第二部の犯人の経歴の部分が一番おもしろかった。またそこに書かれているモルモン教について調べるきっかけにもなった。モルモン教という名前は聞いたことはあったが、キリスト教の一派くらいだろうと思っていた。ソルトレークシティへ移住するモルモン教徒たちの描写がでてくるが、あの冬季オリンピックがひらかれた都市にそんな歴史があったなんて驚いた。




2005/11/14
『エリダー』
アラン・ガーナー(龍口直太郎訳)  評論社 1968年
ローランドたち4人の兄妹は、マンチェスターの取り壊し中の古い教会から、ヴァイオリン弾きの老人に導かれ異世界<エリダー>に入り込む。老人はマリブロンと名乗り、暗黒の闇に滅ぼされそうな<エリダー>を救ってほしいと頼む。子どもたちは闇の勢力に奪われた宝を取り返し、それを現実の世界に持ち帰り守ることになった。しかしそれ以来子どもたちの家ではさまざまな奇妙な出来事が起こり始め、次第に<エリダー>の闇の勢力が現実の世界に近づいてくる。宝を守りきり、予言通りフィンドホーンの歌で<エリダー>を救うことはできるのだろうか。
前2作と違って異世界と現実の世界がはっきり分かれているので読みやすい。以前読んだ時もそういう印象を受けた。だが今回は意外なことに非常に怖い印象を受けた。物語の大部分の舞台はタイトルの<エリダー>ではなく現実社会なのだが、そのことが現実的な怖さをもたらす。次第に近づく<エリダー>の気配におびえるローランド。しかも彼の他のきょうだいたちは<エリダー>のことを夢の中のこととして片付けようとして、ローランドと対立する。ローランドは<エリダー>が夢ではないと証明するために、<エリダー>との境界を兄たちの前に現出させてしまい、その結果ますます窮地に追い込まれてしまう。このときまでローランドに同情していたわたしは、「忘れていれば(エリダーを)なかったことにできて、みんな安全になると思ったのに」「おまえ(ローランド)は自分が正しいことを証明しようとして夢中なんだ」という兄の言い分にも、なるほどこれは年長者の分別だったのか、とうなずける思いがした。 彼らは忘れてしまったのではなく、<エリダー>にかかわることに本能的な怖さを感じて、何とかそれを回避しようとしていたのだ。そしてローランドと真剣に話し合わなかったために危機を迎えてしまったことを反省する。この兄弟の確執も深く考えるとなかなか興味深い。結局彼らもローランドと協力しなんとか<エリダー>を救おうとする。エリダーの危機は現実社会の危機でもあり、逃れられないことであることを理解したからだ。ここには作者ガーナーがこれまでの作品でも描いてきたように、現実の世界にたいする警鐘があらわれていると思う。
作者の言いたいことはわかる。だが相変わらずラストの放り投げたような唐突な終わり方といい、この作品では特に冒頭の子どもたちの設定が非常につかみにくい。それはまるで神話のようで、作者が神話をもとに創作していることがこんなところで納得できてしまった。そして現実社会で<エリダー>の干渉を受けるときの現象を「静電気」という言葉で説明していることに非常に違和感を覚えた。作者はここで科学的というかSF風な味付けをしたかったのだろうか。それがとても収まりが悪く物語の統一感を損ねているように感じられた。「静電気」のかわりに「磁場」とすればまだ説得力があったかもしれない。
訳者のあとがきで、この作品のもとになったのは、スコットランドの古い民謡「若者ローランド」とユニコーン伝説だという。調べてみるとジェイコブズの『ジャックと豆のつる イギリスの民話選』(岩波書店)のなかの「けだかい若者ローランド」という話が、ほんとうにこの作品の冒頭にそっくりだった。またユニコーンについては、スコットランド王家の紋章に使われていること、それに対してイングランド王家の紋章にはライオンが使われ、統合されてからのイギリス王家の紋章にはユニコーンとライオンが使われていることをはじめて知った。このようにわたしにとってガーナーの作品は、作品のもとになった話を知ることのほうがむしろ作品そのものよりおもしろく感じるという、ちょっと複雑なものとなっている。
またフィンドホーンとは何か作中でも最初明かされてなく、のちにユニコーンのことだとわかるが、ではフィンドホーンとは何だろう。登場するユニコーンの名前なのか、それともユニコーンの別名なのか。ここでネット検索して興味深いことを発見した。スコットランドにフィンドホーンという村が存在し、その村のはずれに「フィンドホーン共同体」というスピリチュアルな共同体があるらしく、そこを通称「フィンドホーン」というらしい。へええ〜と思っていたら読売新聞朝刊に連載されている池澤夏樹の小説『光の指で触れよ』に似たような施設が描かれていた。そこでは施設の名は「ユニコーニア」でその名前の由来をこう説明している。「このすぐ隣にある村の名がスコットランドの言葉で一角獣を意味するものだった。そして、このコミュニティが作られた時、同じ一角獣を表すユニコーンというラテン系の言葉が選ばれた」(読売新聞平成17年12月10日 連載第146回より)
結局フィンドホーンの意味は分からなかったし、なんだか話が精神世界のほうへ流れていきそうだが、ガーナーの作品を読むとどうしてもこういうふうに調べたくなってくるから厄介だ。だがおかげで『マビノギオン』(今年のベスト入り)を読むことができたので、こういう読み方をする作品もまたいいものだと思っている。

この作品は異世界へ行く子どもたちの冒険話という点で『ナルニア国物語』に似ているという声をよく聞く。たしかに似ているが、それにしても『ナルニア』はわくわくするような気分で読んだのに、これは暗く重い。(実は『ナルニア』も暗くて怖いという人がいて、とてもびっくりした。)神宮輝夫さんが『童話への招待』(NHK出版 1970年)でこのふたつの作品をを対比させて書いているので書き抜いてみる。
「ナルニアの物語には、人間の未来への確信がある」「『ナルニア国物語』に比べ『エリダー』は最初から悲劇的だ」「幻想性の高い一種の気迫にみちたこの空想の物語には、とにかく、現実的な切迫感がある」「人間の未来への絶対の確信も感じとれない。感じられるのは必死の努力である。そしてそこがこの作品を緊張度の高い迫力ある傑作にしている」
神宮輝夫さんが意外なほどこの『エリダー』を評価しているので驚いた。そしてこのあとに神宮さんは「(ファンタジーは)本質的に、ひじょうにリアルなものであることをおぼえておく必要がある。だから、空想の世界をあつかっているとはいえ、ほとんどのすぐれた作品は、リアリスティックな作品よりはるかにリアリスティックである」と書かれていて、これには目からウロコの思いだった。ファンタジーや児童文学の奥深さをあらためて思いしらされた。




映画 2005/11/15
「007ゴールデン・アイ」
マーティン・キャンベル監督(DVD) 1995年
うわ、つまんねえ〜と何度画面に向かって叫んだことか。「007」ってこんなつまんない映画だったのか?ストーリーも何もなく、とにかくジェームズ・ボンドが無駄に派手に暴れまくってるだけのような。もともとショーン・ビーン目当てだったので、別にいいけど。そのショーンは相変わらず悪役だけど、若くてきれい。彼は正面からよりちょっと斜めからみた顔がめちゃくちゃ美しい。顔でかいけど。そして今より体も引き締まって美しかった。
「007」の映画はショーン・コネリー版しか観てないが、このピアーズ・ブロスナンもなかなかハンサムだ。冒頭のバンジー・ジャンプは迫力あった。ファムケ・ヤンセンはボンド・ガールかと思っていたが、これがとんでもない強烈な敵役。とても「X-MEN」の理知的美人と同じ人とは思えない怪演で、一番印象に残った。




映画 2005/11/22
「リベリオン」
カート・ウィマー監督(DVD) 2002年
ショーン・ビーンが出ているのと、「バットマン・ビギンズ」のクリスチャン・ベールが主演ということに興味惹かれて観た。期待してなかったのに、これが意外とおもしろかったのだ。公開時期が「マトリックス・リローデット」「レボリューションズ」と同じ年なのだが、あちらよりよほど出来がいい。
ショーンの出番は最初の方、主役クリスチャン・ベールの相棒としてと連れ立って現れる。このときの二人の表情の違いがおもしろい。ベールが無表情というよりものすごくテンションの高い危なそうな顔しているのに対して、ショーンは少々人がよさそうな弱々しさを漂わせている。映画の舞台となっている近未来世界において感情を持つことは禁止されているのだが、彼にはそれが芽生えていることが伺える表情で、結局はそれがばれて反逆者として射殺されてしまう。本当にただそれだけの出番だったが、主人公に影響を与える重要な役どころで、その死に方もいつもと違って無様ではない。いつもジタバタみっともなく(実はそこがかわいいのだが)あがいているのに、ここでは死の前の表情がとてもいい。詩集を片手に、死を覚悟した男の静かで凛とした佇まいが素敵だった。本来美形の彼だからこういう姿もよく似合う。そして彼の死から物語は動き始める。
感情が抑制された近未来世界という設定そのものは、わりとありきたりで先の展開も読める。それでもとてもおもしろかったのは、主役のベールの演技と無駄のないストーリー展開にあると思う。登場時の無表情(ぎりぎりテンパッてる顔のままガチっと固まってる)が、次第に感情を芽生えさせていくにつれ変わってくる。上司や同僚にいつそれがばれるか、そして彼の反逆がいつはじまるかと息をつまらせながら観ていた。感情を持つようになった主人公が犬に対してちょっと困ったような顔をするところや、思わず笑顔がこぼれる瞬間がとてもかわいい。その抑えに抑えていた感情をついに爆発させる場面はすごかった。
そしてうわさの「ガン・カタ」。最初何のことかと思っていたが、字幕によると「銃型」つまり銃と東洋武術を合体させたようなまったく新しいアクションらしい。誰が考えたのかこの格闘技、一歩間違えたらギャグになりそうなのに、主人公のポーズがピタリピタリと小気味よく決まり、そのポーズにベールの表情がこれまた見事にハマり、とにかくかっこいい。しかしこれはベールがやるからかっこいいのであり、集団で練習している姿はラジオ体操みたいでかっこ悪かった。
無敵で孤高の戦士である主人公の戦いが終わり、人類の未来に希望がみえたところで映画は終わる。ラストの主人公の静かなまなざしと子どもたちの表情もとてもよかった。間違っても「マトリックス」のように続編など作らないでほしい。

「バットマン・ビギンズ」も今年観た映画のうちではかなり気にいってるし、クリスチャン・ベールの映画はこの2本観ただけだが、かなり肌に合うようだ。この人の顔はほんとに不思議な顔だが、特典映像を見てびっくりした。素の顔はなんだか緊張感がなくホニャっとしている。はっきりいって不細工に見えた。まるで糊で固めたようなギンギン顔のときはともかく、感情が芽生えてからの顔さえ素の顔とは程遠かった。演技とはいえあれほど緊張感に満ちた顔で全編撮っていたということに驚かされた。プロだから当たり前なのだろうが、それでもあまりの落差にあっけにとられた。そして服を着ているときは気がつかないのだが、ランニング姿でのものすごい筋肉にもびっくりした。腕の太さも胸板の厚さも半端ではない。そのくせ手の指は意外と細くて長い(ここは好印象のポイント高し)。そしてこの体を「マシニスト」で極限まで絞っておいて、「バットマン・ビギンズ」でまた元に戻したという、まったくそのプロ根性には恐れ入る。
再鑑賞 2006/1/2




映画 2005/11/25
「秘密の花園」
アニエスカ・ホランド監督(DVD) 1993年
これも児童文学の名作。「点子ちゃんとアントン」の感動よふたたび、と期待したが、残念ながらやはり及ばなかった。原作との変更はむしろ「点子ちゃん」より少ないのに、どうしてだろう、どうもしっくりこなかった。
イギリスの荒野(ムア)の風景や、イギリスの貴族の屋敷や、荒れた花園が美しく息を吹き返す様子が見られたのはよかったし、子どもたちはメアリもディッコンもコリンも本当にそれぞれイメージにぴったりだった。だからとてもおもしろくなりそうだったのに、どうも「ちょっとちがう」という感覚が最後まで残った。
物語の大筋はメアリとコリンという家族の愛情に恵まれなかった子供が、花園の再生とともに心と体の健康を取り戻すということだから、このふたりに焦点があたるのは当然だし、時間の制約があるので仕方ないことだと思う。ふたりとも原作から抜け出したようで申し分ない。だが、ディッコンと彼の母親という重要な登場人物の出番が大幅に削られ(母親は姿もみせない)のはどうしても納得できない。デッコンもほんとうに原作そのままなのにもったいない。たぶんマーサにその母親の役割を兼ねさせているのだと思うが、わたしはあのおかあさんがとても好きだったので残念だった。
そのかわりコリン坊ちゃんが大活躍する。どさくさにまぎれてメアリにプロポーズはするわ、夜中にメアリの部屋に忍んでくるわ、とどめに怪しげな黒魔術で父親を呼び寄せる。いや最初のふたつはなかなかおもしろいエピソードで、うまくコリンらしさを出しているなあと感心したのだが、黒魔術だけはいただけない。あそこは子供らしい発想で「魔法」ごっこをしてただけなのに。そしてその魔法が父親にも作用したのだが、それはうれしい魔法だったはずだ。父親が妻を夢に見たのも、あんな怖い夢ではなくもっと明るい雰囲気だったはず。あれじゃあホラーみたいだ。こういう処理の仕方がどうもしっくりこない点で、この部分がなければたぶんかなり好評価になっていたはずなのに残念だ。
もちろん感動した点もいっぱいある。そのなかでもディッコンの姉マーサとメドロックさん(マギー・スミス)のコンビがとてもいい。このふたりも適役。ラストちかく、屋敷の主人に怒られて嘆くメルドリックさんに、マーサがそっと寄り添うシーン。最初はマーサの手を邪険に払ったメドロックさんだけど、そのうち傍にすわったマーサの肩に頭を傾け「マーサ」とつぶやき、その背をやさしくマーサがなでる。このふたりの寄り添う後姿にはジーンときた。要するに荒野と花園とお屋敷と配役はとても気に入った映画だった。




2005/11/26
『百光年ハネムーン』
梶尾真治 出版芸術社 1995年
短編集。なつかしい「おもいでエマノン」が収録されている。おもに時間旅行をテーマにした、オチがほっとするものが多い中、「玲子の箱宇宙」がいちばんダークで印象に残った。




2005/11/27
『笛吹き男とサクセス塾の秘密』
はやみねかおる 講談社青い鳥文庫 2004年
そろそろこのシリーズも飽きたかなあと思っていたが、久しぶりに読んでけっこう面白かった。




2005/11/27
『マライアおばさん』
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ(田中薫子訳) 徳間書店 2003年
ものすごくパワフルで毒気のあるおばさん。こんな人が近くにいたらいっぺんで胃が悪くなりそう。これほど強烈でなくても似たような困った人はどこかにいそうだ。『魔女集会通り26番地』のグエンダリンといい、児童書でこんな強烈な人を登場させるなんて、相変わらずこの作者はすごい。




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