[JAPSM/9 Workshop--Afternoon--July 27,1997 at Kanazawa University]

●流行歌のクロス=ジェンダード・パフォーマンスを考える

Cross-Gendered Performance in Japanese Popular Music: Its History and Anatomy

[要旨] 「男の歌」を女性歌手が歌う,あるいは「女の歌」を男性歌手が歌う,CGP(クロス=ジェンダード・パフォーマンス)は,日本の流行歌にしばしば見られるが,ヤノのエンカ研究を唯一の例外として,きちんとした考察が行われることはなかった。この報告では,流行歌におけるCGPの成立の前提条件やその歴史を一瞥したあと,同一化と性的対象化という二つのモメントに注目しながら,聴き手にとってのCGPの歌世界のあり方を検討する。

1)流行歌のクロス=ジェンダード・パフォーマンス(CGP)とは

 「男の歌」を女性歌手が歌う,あるいは「女の歌」を男性歌手が歌うこと

A)歌唱というドラマ(劇)における自己(self)の重層構造

 person---performer(singer)---character

 蒲地法子−−松田聖子−−「あー 私の恋は 南の風に乗って走るわ・・・」という歌の中の「私」

 流行歌は「3分間のドラマ」であり,その多くが主要登場人物=語り手のモノローグによって構成される(またはそうした独白が歌詞の要所に使われる *1)
 一人称がない歌(隠れたナレーターによる語りの歌 *2)もあるし,対話形式の歌もある *3/歌詞の主体(自己)構造に注目したタイポロジー作りが行なわれるべきだろう/ここではとりあえず,流行歌の歌世界を,語り物(義太夫,浪曲,講談など)の入り組んだ構築物の一断片のようなものとして捉えておきたい/語り物は,演者=語り手による「地」の語りと,演者が複数の登場人物に「なって」演ずるセリフの応酬とによって構成されるが,そのうちの後者の,しかもただ一人の登場人物によるモノローグのみを独立させたものが,流行歌の歌世界だといえなくもない

B)ジェンダーによる区分

 person/performer(singer)/character はいずれも社会的な構成物であり,通常,そのそれぞれがジェンダー化されている(つまり,音楽関連パフォーマンスの中で,さまざまな表出を通じてジェンダー・カテゴリーを割り当てられている)
 person/performer の性別クロスももちろんありうるが(美輪(丸山)明宏や梅沢富美男など),それは本報告の主要テーマではない
 singer/character のあいだの性別クロスが成り立つ大前提は,歌の歌詞がジェンダー化されていること(歌詞がジェンダー化されていなければ,ふつう,character=歌の中の語り手のジェンダーは,認知のエコノミーに従って,singer のジェンダーと同じだと理解されるだろう)
 現代日本の話しことばには,音(イントネーション,音韻),形態(終助詞=「わ」「のよ」「ね」「の」等,敬語),語彙(人称代名詞 *4,呼称,感嘆詞,形容詞,副詞,漢語使用,語彙のレパートリー,俗語・卑語),統語や談話レベルの特徴について,ジェンダー的示差性があるとされる *5
 このため,話しことばで書かれた歌詞は,歌の内容(状況設定とそのなかの人間関係の配置)だけでなく,ことば使いのジェンダー的示差性(とくに終助詞や人称代名詞)によって,いわば自動的に「女うた」/「男うた」のどちらかになってしまうことが多い(これは,英語のPMには見られない現象 *6)

C)作劇法上の(dramaturgical)慣行とジェンダーの二分法

 person/performer/character のあいだにジェンダー(およびその他の属性)の一致を求めるかどうかは,文化の問題,あるいは限定していえば作劇法上の慣行の問題
 歌舞伎と宝塚歌劇は,いっぽうで劇に出演する person のジェンダーを縛ると同時に,女形・男役という形で person/performer 間の性別のクロスを自明視する慣行を確立した
 いっぽう,日本の流行歌のCGPは,performer/character の性別の切り離しを問題視しない慣行に支えられている
 この切り離しは演劇空間の中で成立する(cf.ゴフマンのいう keying *7)
 しかも,それはパロディ(cf.コロッケ)や転倒によるジョークとしてではなく,マジ(straight),つまりシリアスな演技として成立している *8
 この切り離しが,ジェンダーの二分法の否定を必ずしも意味しないことにも,要注意
 CGPに似通った概念に,ジェンダー・ベンディング(gender bending)があるが,これは,女/男という二項対立的なジェンダー・アイデンティティのそれぞれに配当されるジェンダーに関わる属性,行動,表出のセットを大幅に組み替えて,ジェンダーの「境界」を動かすという行いを指すと考えられる(cf.ボーイ・ジョージ)
 従って,CGP,ジェンダー・ベンディング,ジェンダーの境界を消す試み(ユニ・セックス化),および,二分法をこえたジェンダーの多数化(そのMAXがn個の性)は,そのモメントに重なり合う部分があるだろうが,とりあえず別の事柄として取り扱う必要があるだろう

2)ヤノのCGP論

 文化人類学者ヤノの論考(1995)*9 は,日本のPMにおけるCGPの考察の嚆矢であるというだけでなく,本格的なエンカ研究に道を開いたという意味でも,非常に重要なもの(日本のPM研究者は何してたんだよ,ったくもう)

A)エンカとジェンダー/セクシュアリティ

 ヤノは,ことば,音楽的要素,ポーズやジェスチュア,ステージングに見られる様式化された「型」が,エンカの構造化の原則だという
 繰り返しと冗長さを伴う「型」が,エンカにおける感情の喚起(「涙のスペクタクル」)に重要な役割を果たすと指摘
 百曲強のエンカ歌唱の分析 → テクスト(歌詞)レベルの型と,22の唱法上の型(PK=performative Kata)の析出し,歌詞のパタン化された表現およびPKと a)歌手のジェンダーや b)女らしさ/男らしさの結びつきを検討
 いくつかの知見: (1)エンカでは,女らしさ/男らしさはロマンス(およびそれがもたらす「傷」)の周囲に編成される,(2)受動的なものである「女らしさ」は心(cf.「女心」),情け,涙などによって,能動的なものである「男らしさ」は道,強い(しばしばより公共的な)感情(cf.「義理人情」)とその表出の抑制,故郷への帰還のイメージや同性間の連帯(homosociality)などによって定義される,(3)音楽的には,男らしさ(i.e.男うた)は長音階,より早いテンポ,リズム感の強調などと結びつく傾向がある,(4)表出レベルでは,女性歌手のほうがより美学的(美装をする),より theatrical,より performative [つまり,男性歌手のステージアクトの原型は東海林太郎?]

B)CGPと型

 一般に,舞台上のジェンダーIDの表出は,日常[中河のタームによるなら person レベル]のそれに比べて,抽象化・様式化される
 なかんずく,CGPはIDのステレオタイプ化が顕著(米日を問わず)
 日本では,様式化の程度の高い「型」の言語の働きと,日本人の自己(self)/行動が個々の社会的コンテクスト(場面)に埋め込まれる傾向が強いことのために,CGPが容易に行なわれる
 歌は歌手のパーソナルな表現というのが,西欧の歌唱における想定[つまり person/performer/character の間に強い結びつきを想定する作劇論的慣行が西欧にはある]
 このため,英米のPMではシンガー=ソングライターが賛美される傾向があるが,エンカ歌手にはそれが少ない
 ただし,エンカにおいてCGPが常態なわけではない(「男うた」の多くは男性歌手によって歌われる)
 CGPの限界についてみると,(1)a)歌詞レベルのみでのクロスはたやすく許容されるが,(ex.シンデレラ・ガウンを着て「舟歌」を歌う八代亜紀),それに比べて,b)ジェスチュア(「あばれ太鼓」での坂本冬美の太鼓を打つ仕草)やイントネーションのレベル,c)衣装や化粧のレベル(美川憲一,梅沢富美男)でのクロスはより限定されたものである,(2)CGPの許容度の閾値は,パフォーマンスがより演劇的で,舞台が歴史的にもっとも昔に設定されているときに最大になる *10,(3)女性歌手のクロスが「シック,新鮮,セクシー,粋」とされるのに対して,男性歌手のクロスは「センシティヴさと情緒的深み」を示すとされるなど,両性のパーフォーマーのCGPの効果は対照的ではない
 結論としていえば,CGPとクロスしない歌唱とを問わず,型のおかげで歌手と歌を分離して評価することが可能になっており,(1)女性歌手が女性として,表面的資質に焦点をあわせて評価されるのに対して,男性歌手は男性として,内面的資質に焦点をあわせて評価される,また,(2)女うたはそれが表現するセンシティヴィティと情緒性を評価され,男うたはその内面的な精神的強さを評価される

C)いくつかの課題

 以上は圧倒的に重要な考察だが,ヤノの研究は90年代に歌われているエンカが主な対象 → CGP研究はここから,a)その歴史,および,b)エンカ以外の分野でのCGPの検討へと進む必要がある *11
 また,どちらかといえば,オーディエンスを一枚岩的に捉えているように見える(一方では,歌手のファンクラブの調査など,画期的な作業をしているのだが)

3)CGPの歴史

 ◆別掲(末尾)の表を参照のこと

CGPのルーツ

 ヤノはCGPの背景に日本の文化的伝統を見る
 たしかに,スターとしての歌手の背景に歌舞伎の立役や二枚目の伝統を見ることはできるだろうし,また,男女の演者による義太夫や浪曲などの語り物の伝統がCGPにエトスと技法を提供したのも確かだろう(とくに戦後期〜60年代に「歌謡浪曲」を媒介にして浪花節が流行歌に流れこんだことの影響は,今後詳細に検討する必要がある)
 しかし,伝統だけでは説明できない(たとえば,宝塚少女歌劇がモダニズムと「少女」という近代的制度に立脚して成立したことにもみられるように)

A)CGPのルーツ(1945まで)

 CGPは近代の産物: 明治〜昭和初年の流行歌は,俗謡調(○○節)と文語の歌が中心であり,透明なナレーターによる語り(一人称なし)や語り手が一番ごとに替わるものも多く,ことば使いや状況設定のジェンダー示差性は乏しかった
 歴然とした口語・女ことばの流行歌は,昭和初年に,PMがレコード産業を媒介にする時代になって登場した: 佐藤千夜子「愛して頂戴」(S3)の「ねえ ねえ 愛して頂戴ね」,河原喜久恵「ザッツ・オー・ケー」(S5)の「いいのね いいのね 誓ってね」
 この時期に,日本のPMに,ことば使いのレベルでのジェンダー差が確立されたといえよう
 意外にも,戦前期の流行歌には(『新版日本流行歌史』を参照するかぎりでは)CGPは少なく,しかも恋歌となると数えるほどになる
 吉屋信子の少女小説を映画化したものの主題曲や,母ものが目立つ
 文化的伝統がCGPを促すのだとすれば,昔ほどCGPが多いはずだが,オリジナル・ヒット曲を中心に見るかぎり,そうした傾向はまったくみられない

B)戦後期(1945-59)

 この時期にもCGPは少なく,恋歌はさらにわずか
 女性歌手が「少年になって」歌う歌が目立つ/とくに,天才少女歌手であり,映画スターとして両性を演じるアンドロジナス・美空ひばり(鞍馬天狗の杉作少年にもお姫さまにもなれる一種の「リボンの騎士」)のプレゼンスは大きかった

C)脱戦後期(1960-75)

 この時期がCGPの黄金期/恋歌のCGPが大盛況
 女性歌手の和装クロスドレス: 袴姿の畠山みどりと,その後継者たるべく育てられた着流しの水前寺清子,そして書生の服装をして柔道の型を示す「柔」のひばり → 彼女たちのクロス歌唱は,ある意味でCGPの時代を先導するものであったにもかかわらず,すべて恋歌ではなく「男の生きる道」を歌う歌だったことは,注目に値する
 男性歌手による「女心」の歌のヒットの嚆矢は,たぶん1964年の「おんなの宿」(木下八郎): これは(今後ちゃんと調べる必要があるが)女うたの主人公のおミズ系化の傾向と手を携えるもののような気がする(その背景は高度経済成長の副産物としての盛場の繁栄?)
 この時期の最後のほうになって,フォークやロックの要素を取り入れたニューミュージックが台頭するが,ニューミュージックの男性歌手の一部はCGPのラヴ・ソングの伝統を継承した
 これとは対照的に,ニューミュージックの女性シンガー/ソングライターに,CGPがほとんど見られないのは興味深い(イルカは例外的だが,彼女の場合もCGPは自作曲ではない)
 NMの男性歌手によるCGP曲も,主人公がおミズ系的でないところが艶歌と違う(ただし,松山千春のように古い紋切型を下敷きにした歌を書いて歌う歌手もいるが)

D)昭和末から平成へ(1976-)

 おそらく昭和末/平成初頭が大きな切れ目
 バンド・ブーム以降のアーティストにはCGPはきわめて少ない: これは,PMをめぐる作劇法上の想定の西欧化を意味するのでは?(ニューミュージックが音楽構造の西欧化を体現したのに対して,この時期にはさらに表現と自己についての意識の西欧化が起こった,とみるわけね)
 この仮説の弱点は,CGPの黄金期が60年代〜70年代前半だという事実を説明できないこと(モダニズム志向の流行歌が,この時期に「艶歌」という形で一種の本卦還りをしたと考える?)

4)歌世界へのアプローチ〜聴き手の立場から

A)同一化・対象化とCGP

歌が声楽的要素を加味されたモノローグ劇であるとすれば,聞き手(もしくは観客)の,その劇の語り手兼主人公である character に対するオリエンテーションを,大きく二つに区分することができるだろう
 同一化(character と自分を重ねあわせること)と対象化(character のそれとペアをなすIDカテゴリーに自分をあてはめること)がそれである *12/こうしたオリエンテーションを通じて,歌の世界は聞き手にとってダイレクトに relevent なものになる
 対象化は,つねにロマンスを構成する女-男の軸にそって行なわれるとは限らない(親-子や同性の仲間といった軸にそった対象化もありうる):しかし,近年の流行歌の多くが,ジェンダー的/性的な対象化を当て込んで作られていることも争えまい
 いっぽうで,歌手=performer に対しても同一化と対象化がありうる
 とすれば,CGPは,(1)聞き手が performer と character に別のオリエーテンションを持つ機会を与え,鑑賞実践を豊富化させる「一粒で二度おいしい」慣行かもしれない,また,(2)パフォーマンスを通じて送られる矛盾するメッセージにクラクラ感を与える devise であるかもしれない

B)PM鑑賞のジェンダー関連マトリクス

 上記の二種の同一化・対象化のパタンを併せて表にする(ただし,複雑化を避けるため,聞き手をヘテロセクシュアルに限り,非性的な対象化も考慮の外に置く)

 [聞き手][歌手][キャラクター][聞き手のオリエンテーション]
同一化(歌手&キャラに)
対象化(歌手&キャラを)
3 →CG1対象化(キャラを)
同一化(歌手に)
4 →CG1同一化(キャラに)
対象化(歌手を)
対象化(歌手&キャラを)
同一化(歌手&キャラに)
7 →CG2対象化(歌手を)
同一化(キャラに)
8 →CG2同一化(歌手に)
対象化(キャラに)


C)二つの事例

◇水前寺清子「いっぽんどっこの歌」(星野哲郎作詞)

ぼろは着てても こころの錦
どんな花より きれいだぜ
若いときゃ 二度ない
どんとやれ 男なら
人のやれない ことをやれ
 ●これは,男が男に「男らしく生きろ」と呼びかける歌
 水前寺清子は着流しの若い女性歌手で,歌い方も「女らしく」はない
 ヤノの考察によるなら,水前寺は表面的資質(外見)をもってその「シックさ,新鮮さ,セクシーさ,粋」を評価されることになる/つまり,7)の歌手への対象化(とせいぜい8)の歌手への同一化)が聞き手のオリエンテーションの軸,ということなる
 しかし,報告者の同時代体験はそれを諒としない
 水前寺は男性ファンを7)のキャラクターへの同一化を通じて確保し,「援歌」歌いとしてその位置を確保した/出だしの一行のツカミとしての効果は大きい/「そうだ」と思った男の聞き手は多いかっただろう/この歌の歌い手が恰幅のよい立役タイプの男性歌手だったとしたら,この歌は「成功者による後進への訓示」の匂いを放ち,同じだけの同一化を獲得しなかっただろう/ユニセックスな見かけの着流しの女性歌手によるCGPには,それなりの効果があったと思われる → 仮説:CGPは歌のキャラクターを純化する

◇美川憲一「釧路の夜」(宇佐英雄作詞)

貴方のつめたい そのひとみ
なぜに私を いじめるの
やさしく抱いて ほしいのに
女心も 知らないで
貴方がにくい 貴方がにくい
 ●若い頃の美川は美男子であり,しかもビロードのような低い声の持ち主だった(今でもそう?−失礼)
 この歌は,女性ファンに 4)の同一化と対象化を同時に許しただろうと思われる
 逆に,男性の聞き手がこの歌唱へのオリエンテーションを(審美的ではなくジェンダー関連的な形で)設定するのは困難だろう
 ただ一つ,「女性に同一化し,『泣き』に共感する」というオリエンテーションの可能性はあるが,それは,「男性は女うたを歌うことで,男性に禁じられている感情表出を行なう機会を得る」という,本報告ではあえて扱わなかったCGPについての仮説に基づくものなので,ここでは,これ以上論究しない

D) フェミニズムとCGP

 CGPは基本的には,ジェンダーの二分法を前提としているという意味で,保守的な性格を持つ/それが,ジェンダー・イデオロギーにそった型(紋切型表現)を援用しているときは,ますますそうである
 しかし,たとえば水前寺のようなCGPについて,女性の聞き手が歌手(performer) に同一化する場合は,どうだろうか/それは,とくにそれがクロス・ドレシングや男性的唱法を伴って歌われるとき,暗黙のうちに女性ファンに,「キャラクターの男性のように振る舞ってもいい」というメッセージを送り,ジェンダー・ベンディングを促さないだろうか
 もちろん,ニューミュージックの時代以来,女性は自ら歌を書くようになり,歌における「女性らしさ」の定義過程に直接参加するようになった
 それとともに,従来の紋切型の女性像はノスタルジアの領域に追いやられ,女性歌手のCGPの「解放的意義」は薄らいだのかもしれない
 さらに,若い女性作家やマンガ家の描く会話に示されるように,話しことばのジェンダー差が縮小しつつあるとすれば,*13 CGPそのものもそのうちには,ノスタルジアの産物になってしまうのかもしれない


・・注・・・・

    1. ex.)「馬鹿だな 馬鹿だな だまされちゃって/夜が冷たい 新宿の女」(藤圭子「新宿の女」)
    2.  たとえば「あばれ太鼓」「踊るポンポコリン」「コーヒー・ルンバ」。歌曲や民謡にはこうした歌が多いが,流行歌では少ない。
    3.  デュエット曲は当然,こうした形をとることが多い。歌手が一人でこうした形式の歌を歌った珍しい例に,太田裕美「木綿のハンカチーフ」(松本隆作詞)がある。
    4.  流行歌に出てくる口語の一人称のうち主なものとして,A)あたし・あたい/B)わたし/C)ぼく・おれ・おいら といったところが挙げられよう。A)B)が女性の語り手,B)C)が男性の語り手を表示する。つまり,両義的なB)を選ばないかぎり,一人称を使ったとたんに,その歌詞はジェンダー化される。
    5.  金田一春彦,林大,柴田武編『日本語百科大事典』(大修館書店 1988)の「女性語」の項による。このうち音レベルの示差性は,character/歌詞ではなく,singerのほうに帰属されるだろう。また,統語レベルの特徴(言い切らない表現,繰り返し表現,倒置構文のような)は,歌詞という限定された言語表現ではあまり意味をなさないだろう。つまり,歌詞のジェンダー化にあたっては,ここでいう形態と語彙が主要な役割を果たすと考えられる。余談だが,こうした事柄をいまだに,ことばのジェンダー的示差性ではなく女性語の問題として概念化するところに,国語学というものの度しがたさを見るのは,私だけではあるまい。なお,形態のうちの終助詞についていえば,今に至る女性の「テヨダワことば」が一般化し,「中流女性のことば」として認知されるようになったのは,明治二十年代のことだという(遠藤織枝『女のことばの文化史』学陽書房 1997)
    6. 試みに,『ジャズ詩大全 1-10』(村尾陸男著 中央アート出版社 1990-94)所収のいわゆるジャズ・スタンダードの歌詞400曲を通覧してみたが,内容から「男うた」/「女うた」として同定できるものは少数で,ほとんどは無修正かせいぜい人称代名詞や表現に微調整を施す程度で,両性の歌手によって歌い手と同じジェンダーの主人公の歌として歌われているものだった。英語では一人称・二人称にジェンダーによる差がなく,三人称の her/him がどちらも一音節なため(押韻が問題になることはあるにせよ),人称の手直しは簡単なのである。ただし,ビリー・ホリデイで有名な「My Man」のような歌は,歌詞の内容もさりながら,man/woman の音節数の違いも,歌詞のジェンダー調整を困難にしている。同様な理由で(スタンダードではないが),タミー・ワイネットの「Stand By Your Man」,ペギー・リーの「I'm a Woman」,ボー・ディドリーの「I'm a Man」なども,ジェンダー化された歌だということができよう。こうした歌を別のジェンダーの歌手が歌えばCGPになるわけだが,寡聞にしてそうした例は知らない。
    7.  なお,「Love for Sale」という有名スタンダードは,内容的には娼婦の歌らしいのだが,女性歌手だけでなく,男性歌手(メル・トーメなど)によっても歌われている。それが一種のCGPかどうかは,検討すべき課題だ。
       上記のスタンダード歌詞集には対訳がついていいるが,訳した村尾は,歌詞を日本語にする過程でジェンダーを付与する作業をしたことを明らかにしている(「言語における性」 1巻 p.22ほか)。これは,英文邦訳に携わる多くの人が体験することだろう。それだけ,日本語の話しことばはジェンダー的示差性が高いのである。
    8.  E.Goffmanr.Fame Analysis.Harper & Row.1974.
    9.  カラオケ歌唱,およびTVの歌謡番組での歌手による他の歌手のカラオケ的カヴァーは,しばしばマジとパロディの線上に位置し,いっそう複雑な主体の重層構造を伴うと思われるが,これも本報告では取り扱わない。
    10.  C.R.Yano.Shaping Tears of a Nation: An Ethnography of Emotion in Japanese Popular Song.A Dissertation Submitted to the Graduate Division of the Hawaii University.1995.
    11.  これは performer レベルでのクロスの話だが,非常に興味深い論点である。和服のクロスドレス(歌舞伎の女形や梅沢富美男)は,洋装のクロスドレス(美輪明宏)ほどには逸脱的でないということを示唆するからだ。クロスドレスに関しては,渡辺恒夫(『脱男性の時代』勁草書房 1986)も指摘するとおり,近代においては男性の女装のほうが女性の男装より逸脱的だといえる。梅沢は,彼らの劇団のステージの時代劇や踊りのセクションで女装するのであり,洋装の「歌謡ショー」のセクションでは「男に戻る」。
    12.  エンカ自体についても,黄金期の1960年代〜70年代前半と,マーケット的見地からその死滅を予測される(麻生香太郎『ブレイク進化論』情報センター出版局 1997)90年代では,そのあり方に違いがあるかもしれない。
    13.  たとえば,一人の部屋で中島みゆきの「悪女」を聞く独身OLは,たぶん歌の語り手に同一化するだろうし,逆に,ラジオから流れる岩崎宏美の「聖母たちの子守歌」に心の慰めを感じた男性の多くは,語り手を恋人のようなものとして対象化し,歌の主人公から「さあ 眠りなさい/疲れきった体を 投げだして」と話しかけられる位置に身を置いただろう。
    14.  遠藤の前掲書には,活字化されるとジェンダー差がない会話の事例が,吉本ばななの小説等から抜粋されている。マンガの例としては,岡崎京子『私は貴兄のオモチャなの』(祥伝社 1995)を挙げておく(きょんちゃんの復活を切に祈る!)

●別表 流行歌におけるCGP



1.戦前期(1931-1945)

2.戦後期(1945-59)

3.脱戦後期(1960-75)

4.昭和末から平成へ(1976-94)

・・[追記]・・・


 *『新版 日本流行歌史』には収録されていないが,ニュー・ミュージック以降の時期において,松山千春(「かざぐるま」「旅立ち」「銀の雨」「初恋」「白い花」「恋」),小椋佳(「泣かせて」),来生たかお(姉の来生えつこ作詞・「マイ・ラグジュアリー・ナイト」「シングル・ナイト」「セカンド・ラヴ」「スローモーション」「とめどなく」),飛鳥涼(「伝わりますか」「予感」),チューブ(「さよならイエスターデイ」「ガラスのメモリーズ」)といったビッグネームが,女性の歌をけっこう歌っている。
 さらに,BOROの「大阪で生まれた女」,円広志の「夢想花」,谷村新二「22歳」,葛城ユキ「ヒーロー」,五十嵐浩晃「恋はディープ・パープル」あたりは,CGPのヒットとして落とせないところだろう。山下達郎にも,例外的なTVドラマの主題歌ものの「エンドレス・ゲーム」がある。また,上のリストに登場したアーティストについても,とりあえず,かぐや姫の「赤ちょうちん」,南こうせつの「夢一夜」,さだまさしの「雨やどり」,イルカの「なごり雪」,因幡晃の「夕映えを待ちながら」「忍冬(すいかずら)」あたりは補遺しておきたい。

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