男の鎧−男性性の社会学
(渡辺恒夫編『男性学の挑戦─Yの悲劇?』新曜社 1989年 1-30頁)
1.男性問題の誕生
男性学や男性性の社会学は,知の世界の新顔である。人間イコール男という暗黙の図式が,ほとんど無自覚的にアカデミアを含む社会の諸領域の認識枠組に組みこまれていた時代には,ことさらに男性性(男らしさ)が「問題」として取りあげられる理由はなかった。そうした暗黙の,常識や学問の顔をした男性中心主義に異議を申し立てたのが,フェミニズムだった。運動としての,あるいは知的営為としてのフェミニズムと,女性が主導した(もしくは女性の選択と資本制の選択が一致した結果としての)女性/男性関係の大幅な制度的変化をまってはじめて,少なからぬ数の男性にとって女性との関係が問題を孕むものとして経験され,それが一部の男性にとって「女性問題」を「男性問題」として意識的に捉えなおすきっかけとなった。したがって,男性研究はフェミニズムの理論に多くを負っており,また,英米の男性運動の多くがフェミニズムの同伴者として出発している。
現在ではフェミニズムの運動には多彩な流れがあるが,それは当初は,六〇年代アメリカの黒人の公民権運動などと同じく,近代の理念の枠の外に据え置かれた人びとによる,その理念(とりわけ平等)の実現を求める動きだった。そして,少なくとも「先進産業社会」では,現実の不平等や支配の制度的な根強さとは対照的に,理念のレベルではその要求をめぐる勝負はついているといっていいだろう(注1)。これは,いいかえれば,近代の物差しをあてて女性/男性関係を測るかぎり,多くの男性は,経済財や地位,権力へのアクセスに有利な制度的アレンジメントにもたれかかっているという意味で,好むと好まざるにかかわらず自分が「足を踏んでいる」側にいると認めざるをえないということである。
したがって道義的であろうとすれば,つまり近代の理念に忠実であろうとすれば,男性研究や男性の運動は,自分たちの「加害者性」に焦点をあて,性差別と性支配の廃棄のために男性の「意識を高める」という方向にまず進まざるをえない。しかし,男性運動は,そのような道義と贖罪のポリティクスとしてしか存在しえないわけではない。既存の女性/男性関係をめぐる制度的枠組はじつは,男性自身にとっても抑圧的なものではないだろうか。そうだとすれば,男性は男性問題を,なぜ,またどのようにして男は女を差別・支配・搾取するかという角度からだけでなく,自身の解放の問題として検討することができる。女性解放と男性解放という二つのゴールはもちろん二者択一的なものではない。しかし,二つの志向のあいだに予定調和が保証されているわけでもない(注2)。
いったん男性の自己解放を目標として設定すると,芋づる式にさまざまな問いが出てくる。女性解放と男性解放の関係はどうなるのか。そもそも,男性の解放とは何からの解放なのか。現在の男性の社会的・文化的な在り方は,男性自身にどんな不幸や不利をもたらしているのか。解放の中身は何か。解放のために,男性は何をすればよいのか。男性の解放が男性自身にとって好ましいものだとすれば,どうして多くの男性はそれを認めようせず,「解放されない状態」にしがみつくのか。
男性学や男性性の社会学の背景には,こうした問いかけがある。男性の自己解放の必要性についてのより具体的な訴えかけは,英米ではとりわけ,育児や家事への男性の参加やそれを容易にする制度変革(たとえば男性の産休や育児休暇)を求める運動や,ゲイなどの従来の男性性の押しつけによって被害を蒙る人びとの解放運動,伝統的な男性性がもたらす「病理」についての精神科医のアピールといったかたちで行われ,男性研究の問題意識のあり方に影響を与えてきた。
もちろん,この間の男性/女性関係や家族の変化を,男性解放のきっかけとして理解する人はまだ少ない。数多くの男性が,できることなら女性の反抗と従来の男らしさの「危機」を見て見ぬふりをし,不安や当惑や抑圧感を胸におさめて,従来どおりの男を演じようとしているようにみえる。また,「危機」への対応が自動的に解放への志向に結びつくわけでもない。伊藤(1984,1988)が指摘するように,たとえばマッチョ・タイプのゲイや服装倒錯などのようなかたちで,伝統的な男性性に強迫的にしがみつき,あるいはそこから全面撤退することを通じて,女性との関係から逃れるという危機への反応もあるだろう。
なぜ,男性は変化に抵抗するのか。マルクス主義フェミニズム流に答えるなら,それは,自分たちの利益を守るためということになるだろう。男性は,家父長制(家族および企業組織のなかでの男性支配の仕組み)を通じて得られる種々の既得権益を失いたくないし,人口の半分を占める女性が労働市場の選別メカニズムのなかで対等な競争相手となり,競争が二倍に激化することを恐れているというわけだ。そうした抵抗の動機が存在することは間違いないが,しかし,それは男性の抵抗の説明として唯一のものではない。男性の内面の「弱さ」に注目し,抵抗をより深層から説明しようと試みる精神分析の新しい流れがある。鎧兜に身を固め,片手にファロスの槍をもち,脆弱なアイデンティティを守るために懸命に身構えているというのが,そのアプローチが描く男性のイメージである。こうした精神分析的な視点は,歴史や社会階層への目配りさえ怠らなければ,男の鎧の解体精査におおいに役だつだろう。
男性性の社会学(sociology of masculinity)というラベルはたぶん,社会学の性差研究や性別役割理論,リベラル派の男性学の流れを再検討し,それを批判的に構成し直そうとしたキャリガンら(Carrigan,Connell and Lee,1985)の造語である。従来の社会学には,男性性にとくに的を絞った研究の蓄積はない。しかし,その理論と概念のストックのなかには,先に挙げたような男性問題をめぐる基本的な問いに,答える助けになりそうなものがある。たとえば,官僚制や合理化,あるいはもっと巨視的なエリアスの「文明化の過程」のような理論によって男の鎧を歴史のなかに位置づけることができるし,ゴフマンやエスノメソドロジストなどのミクロ社会学は,女性/男性間の非対称な地位・権力関係やそれを「説明」するイデオロギー,さらにその根底にある性別についての文化的な信念が日常の具体的な相互作用のなかで確認され,再生産される現場に目を向けさせてくれる。それらをつなぎあわせたところから,Yの悲劇〓「男性問題」への新たなアプローチとしての,男性性の社会学が生まれる可能性がある。
2.男性の抵抗の舞台裏
男の鎧は,文化的な構築物である。それは,仕事の組織や家族,恋愛や宗教,国家,言語などのさまざまな制度と,それを日常の営みのなかで現実化する実践の方法(または儀礼)のなかにはめこまれ,そうした実践によって不断に作りだされてゆく。一口に男らしさといわれるものを腑わけするために,まず性別(ジェンダー)にまつわる概念の交通整理をしておこう。ケスラーとマッケンナ(Kessler and McKenna,1978)の提案にしたがって,性別に関する現象を,性別帰属,性別アイデンティティ,性別役割に区分すると見通しがよい。
性別帰属は,その社会固有の方法(エスノメソッド)にそって行われる個人への性別の割り当てであり,われわれの社会では性器が性別帰属のおもな基準になる。ただし,日常のやりとりのなかでわれわれがおたがいの性器を確認しあうことは稀だから,通常,われわれは見かけの観察や会話から得た証拠によって他人に性別と「文化的性器」を帰属させ,同時に帰属させた性別にそってその人の見かけや言動を意味づけ,理解する。性別帰属という現象の背後には,「自然で不変な二つのジェンダー」についての強固な文化的諸仮定がある(Garfinkel,1967,山崎,1985)。ケスラーらが指摘するとおり,「生物学的」な女/男の二分法も,じつはこの文化的仮定の産物である(注3)。性別アイデンティティは性別についての個人の自己認識,つまり「自分の性別は何であると感じるか」という問いへの答えであり,性別役割は男/女の性別を割り当てられた個人に「その性別に合った」ものとして期待される行動のパタンである。性別役割には,しぐさや表情,ことば使いや化粧・服装などの一般性の高い表出的行動から「仕事の世界」と家庭への(そして「仕事の世界」と家庭のそれぞれの内部での)性別分業まで,さまざまなものが含まれる。
男性は支配的,競争的,感情抑制的な傾きの強い性別役割行動を通じて「強固な自我の境界」をかろうじて守ってはいるが,その性別アイデンティティはじつは女性よりも不安定であり,またそうした「男らしい」性別役割にひそむ矛盾がもたらす役割葛藤に悩まされてもいる。これが,精神分析が描きだす新しい男性像である。渡辺は『脱男性の時代』(1986a)で,生物学的にも精神分析学的にも男性は女性から派生すると指摘し,性別倒錯(トランスセクシャリズム)が男性に多いことなどの例証をあげて,深層心理レベルでは「男であること」は「女であること」より多くの問題をはらんでいると説いた。渡辺の「根源的異性羨望」(つまり男性の女性への生殖コンプレックス)を説明原理とする壮大な深層史観に賛同できるかどうかはともかく,前エディプス期における母親からの分離の問題が男性の性別アイデンティティの確立を女性よりむつかしくするという,フロイトをひっくり返した彼の議論は当を得ているとおもわれる。
対象−関係理論の流れをくむフェミニスト精神分析学者のチョドロウ(Chodrow,1978)にそっていえば,母親に育児が任せられている産業社会の核家族では,女性は幼児期に母親への同一化と共感を維持したまま性別アイデンティティを確立する。そのため女性の自我の境界は比較的弱くなり,他者の欲求に感情移入をしやすくなる。いっぽう男性は,幼児期に性別アイデンティティを確立するにあたって,母親からの心理的分離を強いられる。父親が働きにでて家庭にいないため,男の子は,母親からの分離と母親に不在の父親に代わる性的対象とみなされることとを契機にして,性別アイデンティティを確立する。父親という具体的な性別役割のモデルが育児に携わらないために,男の子は「男らしさ」についての文化的なステレオタイプへの同一化を通じて,性別役割を身につけざるをえない。ステレオタイプとはつまりは理念であり,いくら追い求めても,生身の人間はそれに到達できない。母親からの分離を強いられ,抽象的な「男らしさ」を追い求めつづけるなかで,男性は自我の境界を強固なものにし,親密さを回避するようになってゆく。
しかし,このようなハードな男性像には,ソフトな裏面がある。クレイブ(Craib,1987)は,チョドロウを補足して,男性には「がき大将」と「坊や」の心理的二面性があるとする。幼い男の子は母親から心理的に分離したのちも,しばらくは物理的に母親に依存するが,その間に抑圧された心理的依存の欲求を無意識のうちに物理的依存の欲求に置きかえる。このために以後,平生は,女性(最初は母,次に妻)に身のまわりの面倒をみてもらうというかたちで,男性の感情的依存の問題は処理される。しかし,共感や親密さの経験が抑圧された依存欲求を呼びさましそうになると,男性は「男らしさ」が脅かされていると感じ,防衛機制を作動させ,親密さを拒む。そして,文化的なステレオタイプの鎧を脱ぎ捨てたときには,男性は,依存的な赤ん坊と,依存を許さない他者(母親→社会)への怒りにみちた男児のあいだを行きつ戻りつする。米英ほどには自立とマチズモ(男性性崇拝主義)が文化的に強調されず,母子の分離の過程が割合にぬるま湯的であるともいわれる日本社会に,以上のような議論がそのままあてはまるかどうかは,留保しておきたい。とはいえ,男性が鎧に固執し武装解除に抵抗する理由の説明としては,これは,かなりのリアリティをもっている。
3.男の鎧の仕組みと歴史
なぜ男が鎧を着るのかという問いには,それが防衛機制の一環になるからという精神分析学の答え以外に,それがそのメタファーの本来の意味どおり競争や闘争の際にプラクティカルな防具になるからという答えもあるし,それが女性(および自分より地位が低い男性)を支配するための儀礼的な道具になるからという答えもある。そのいずれもが,鎧の働きの一側面に触れていると,筆者は考える。しかし,「男らしい」性別役割行動を鎧の譬えで一括したままで,抽象的に話をすすめすぎたようだ。もうすこし具体的にいうと,男の鎧とはいったい何なのか。
多様で重層的な男性の性別役割の現れを概観するために,とりあえずそれを,(1)身体,(2)表出と態度,(3)地位と所有物(プロパティ),(4)言語の四つのレベルに分けてみてみたい。もちろんこれは,きっちりとした実体的区分ではなく,あくまで男性性を分析的に吟味観察するための足がかりにすぎない。
この四つのうち,「女/男の性別区分は自然で不変なもの」という常識にそって,もっとも自明視されやすいのが,「男らしい」身体の存在である。骨格や生殖器官,第二次性徴などについて,ヒトに生物学的な性的二型性がみられることは確かだが,しかしそれは社会的に増幅される。男女の選択的マッチング(女性は自分より背が高い男性を,男性は自分より背が低い女性を恋愛や結婚の相手に選ぶという傾向)のようなはっきりした社会的アレンジメントを通じてだけでなく,性別に規定された慣習的な身体活動を通じても,体の性差は形成される。スポーツのトレーニングのような意識的に身体を作る活動や,仕事や家庭での性別分業などの日常行動の繰り返しを通じて,性別役割は筋肉や体格,運動能力の発達に影響を与える。三島由紀夫のボティビルディングで鍛えた筋肉は,きわめて文化的な鎧だったということができる。
われわれが他者のパーソナリティのイメージを組み立て,それに「男らしさ」や「女らしさ」を帰属させるとき,表情や声のトーン,姿勢やしぐさ,対人距離のとり方や身体的接触,匂い,衣服や化粧など,その人の非言語的表出に頼る部分が大きい。この非言語的コミュニケーションの分野でも,男は鎧を着る。もしくは,着せられる。「脱エロス化」(渡辺,1986a)の絵解きのような,くすんだ色調の背広とネクタイのファッションはその象徴といえるが,表出と交流を抑制する男性役割の現れはそれにとどまらない。
たとえば男性は,他者に触ることはあっても,触られることは少ない(Major,1981)。一般に女性より幅を強調した姿勢をとり,その動きはより激しく外向的だ(David and Weitz,1981)。会話の際には女性ほど相手を見ず(LaFrance,1981),うなずきやあいずちの量も少ない。さらに,パーソンズの表現を借りるなら,女/男のあいだには表出的役割と用具的役割の性別分業がみられる(Parsons and Bales,1955)。用具的役割を配当されがちな男性は,それに沿って感情表出を抑制することを期待され,その期待にかなり応えている。万やむをえず感情が「あふれ出す」場合にも,男性に表出が許されるのは,怒りや憤りのような強さや攻撃性を示す感情である。逆に女性は攻撃的感情をのぞく感情一般の豊かな表出を期待されており,事実,女性は相互作用時によくほほ笑む。こうした表出行動のスタイルの差の結果として,女性は同性からも異性からも,より暖かい非言語的反応を引きだす(Davis and Weitz,1981)。こうした表出行動の性差は,パーソンズが考察した家族内分業の範囲をこえ,企業組織内にもちこまれて利用される。
性別と非言語的行動の関わりをみるときには,性別の次元が地位の次元と交差していることに注意する必要がある。非言語的行動の性差には,地位とは無関係の純粋な性差と,一般的な地位と権力の上下関係の現れ,そして男性/女性間に固有の上下関係の表現(いわゆる「性のポリティクス」)の三種があるとおもわれる。たとえば,相手の発話への割りこみ(江原他,1984)やタッチング(Major,1981)のような広い意味でのテリトリー侵犯行動は,男性から女性に対してだけでなく,上位者から下位者に対してしばしば行われる(タッチングについていえば,上司が部下の肩を叩き,野球の監督が選手のお尻を叩くというように)。姿勢や身体の位置関係による地位ディスプレイについても,同じことがいえる。いっぽう,手つなぎや腕くみのようなタイ(結合)・サイン(カップルであることを示すサイン)(Goffman,1979)や男性中心で非対称的なある種の性交渉のパタンなどは,女性と男性間に固有の地位/権力関係を表示し,再生産する。さらに,男女の行動の差は,認知と解釈を通じて増幅される。タッチングや指さし,接近などの優位を示すジェスチュアは,男性が行った場合には優位や支配を示すものとして,女性が行った場合は性的メッセージを示すものとして知覚されやすい(Henley and Hermon,1985)。つまり,男性であるという性別帰属自体が,男性に後光のように地位と権力の鎧を着せる(注4)。
こうした地位と権力の鎧は,先に述べた男性の「親密さへのおそれ」を抜きに考えても,インフォーマルで親密な関係を作りだそうとするとき,ハンディになる。親しい「つきあい」は,各種の個人のテリトリーを互いに侵しあうことなしには成立しない(Goffman,1971)。そして,対称的・互酬的なやり方で相手を自分のテリトリー内に招き入れることと,社会的距離を保ち,一方的なテリトリー侵入権の行使や優位を示すジェスチャーによって上位者としての面子を維持することとが,トレード・オフの関係にあることは明らかだ。しかも,地位と権力のガードを外したとしても,男性は,感情に性別役割の枷をかけられている。人は,好意や共感や感謝や尊敬を他者に向けて表出し,ホクシールド(Hochschild,1983)のことばを借りるなら「感情の贈り物」を交換することを通じて,親密さを作りだし確認しあう。感情表出の抑制に馴れ親しんだ男性には,この互酬的な社交ゲームのもとでが乏しい。さらに,地位のバリアーが小さいほぼ同位の男どうしのつきあいでは,キャラクター・コンテスト(地位と面子の賭かった競争; Goffman,1967)の力学が,親密な関係の発展を阻む。こうした事情が,男性は女性に比べて親しい友達をもちにくいという事実(McGill,1986,Sherrod,1987)の背後にあると考えられる。
地位とプロパティ(所有物・所有権)は男性にとって,ある意味では孤独と感情の抑圧との代償ともいえる。男性は鎧のように組織や肩書きや規則を着,さまざまなプロパティを着こむ。それが,多くの男性の性別役割アイデンティティの重要な支柱になっている。男性が「男をあげ」たり「たて」たりすることに関わるプロパティとして,肩書きや金銭や財産と並ぶものに,性的な所有権(Collins,1985)がある。われわれの社会では,男女のカップル間での性的プロパティ(相手との性交渉の権利の占有)は,男性に寛容なダブル・スタンダードを伴っているとはいえ,男女双方に認められている。しかし,男性が「男の世界」での地位ゲームで成果をあげて地位と物質的なプロパティを確保し,それを基盤にして女性の豊かな表出性(〓「愛」)と「美」(あるいはフェイス・ヴァリュー; Lakoff and Scherr,1984)と女性への性的なアクセス権とを勝ちとるという伝統的(とはいえじつは近代的)な性別役割のシナリオに固執すればするほど,性的プロパティは,男性が面子とアイデンティティを維持するための重要な手段になる。こうした構図を渡辺(1986a)は「所有のエロス」と呼ぶが,所有のエロスは,男性のナルシシズムを男性自身の身体性から引き離すだけでなく,オセローの悲劇が暗示するように,しばしば嫉妬妄想と女性への暴力の温床となる。
財や地位だけでなく,ことばとそれを通じて形づくられる知もまた男の鎧として働く。男ことばと書きことばと「公」の仕事の世界のことばを等号で結ぶことはできないが,この三つが大きく重なりあうこともまたたしかである。「公」領域のことばには,男性の共同主観を映すことば,管理職や専門職の集団の符牒,そして「理性」のことばという三つの側面がある。従来公領域を動かしてきたのはおもに男性であったため,その領域で使われることばには当然男性本位のものの見方が深く浸透している(Spender,1985)。また,専門職の世界のとりわけ書きことばによくみられる横文字や漢語やビッグ・ワードのオン・パレードには,書き手・語り手が自分の専門家集団でのメンバーシップを確認するための儀礼であるとともに,自分とその仲間集団に地位を付与し,その存在を神秘化するための戦略であるという一面もある。とはいえもちろん,公領域のことばがすべて呪術的なはったりだとはいえない。論理性,「客観」性,抽象性,「感情中立」性…といった,近代型の仕事の組織(官僚制)の活動の基軸の一つとなる思考のかたちを,それはある程度映している。
フェミニストの一部を批判して文芸批評家のヒースがいうように,本来的に女性的/男性的な言語や知が存在するというのは誤解だ(Heath,1982)。女性が,自己中心的な子どもの段階からの「脱中心化」による離陸が不十分なために男型の「かしこさ」を獲得しにくい(上野,1986)のは,いうまでもなく女性を「私」領域〓家庭に囲いこむ制度(これはいまや崩壊しつつあるが)があるからである。女性的な私領域のことばと男性的な公領域のことばとは,おおまかにいえば,バーンスタイン(Bernstein,1971)の制限コードと精密コード,岡本夏木(1985)の一次的ことばと二次的ことばに対応する。前者は小集団でのフェイス・トゥ・フェイス(顔をつきあわせて)の社会関係の文脈に依存した言語であり,後者はそうした関係の文脈から離れた抽象的,「客観的」な言語である。官僚制組織の中心部に組みこまれていないという意味では,バーンスタインが関係依存的なことば(制限コード)を主に使うと指摘した英国の労働者階級と,「専業主婦」の女性やアメリカ黒人のようなマイノリティ集団は似通った社会的位置にあるといえる。「リクツをいう女は可愛くない」というたぐいの性別役割の枷によって抽象的な言語の使用を縛られ,脱中心化が不十分なままであことは,公領域に進出しようとする女性にとってハンディになるだろう。逆に,公領域を動かす男性のほうは,抽象的な言語を肥大させるために関係オンチになりやすく,「ことばの疎外」(岡本)にさらされやすいと考えられる。
こうして多様な男性役割の現れを吟味してみると,そこには複数の男性性のモデル(ステレオタイプ)が含まれていることが分かる(注5)。われわれの常識はたとえば,筋肉の鎧を着た運動選手タイプと「リクツ」と専門知識で武装した専門職タイプ,大企業に君臨する経営者タイプを区別する。男性のイメージは階級や年齢,エスニシティなどの社会の下位集団によって異なるし,また時代とともに変わってゆく。こうした多様な男性性のモデルのうちのごく少数が,それを担う集団に有利な制度的アレンジメントを後盾に文化的なヘゲモニーを確立し,広く愛される男性像となると,キャリガンらは指摘する(Carrigan et al.,1985)。男性像の変遷は,ある意味ではヘゲモニーをもつ男性像の変遷であり,「男らしさの危機」とはじつは,社会の構造変動のためにヘゲモニーをもつ男性像にそった行動がむつかしくなったり,その男性像の魅力が薄れたりすることである。キンメルによれば,英米での現在の男性性の「危機」は,近世以降では王政復古期,今世紀初頭に次いで三度目のものである(Kimmel,1987)。「危機」の時代は文化〓政治的な攻防の時代であり,女性の運動が制度化された性差別の解体へむけて前進する好機であるだけでなく,男性にとってもヘゲモニーをもつ男性像をより自己抑圧的でないものにとりかえる好機である。
「男らしさ」のモデルはなぜ変わるのか。これに答えることは,男性性の社会学の重要課題の一つである。近代化の過程で筋肉労働と戦争活動が大幅に機械に肩代わりされたことや,大家族の前近代型家父長制が衰退し,恋愛(配偶者の自由市場での選択)が結婚の前提になったことも,ヘゲモニーをもつ男性像の変化に大きな影響を与えただろう。しかし,男性性の変化を理解するためには,大きな歴史的枠組としてはエリアスのいう「文明化の過程」,より短期的なものとしては近代型の官僚制組織の社会のさまざまな領域への拡大とそれにつづく大衆消費社会化に目を向ける必要があるとおもわれる。こうした「抑圧仮説」(Scheff,1987)の立場からの男性性の歴史の研究の可能性を示すために,以下に粗雑なスケッチを試みる。
文明化は,国家が組織化され,貢租や肉体的暴力が独占化,集権化したときに始まる(Elias,1969)。礼儀作法やスポーツ(Elias,1983)の発達が象徴するように,社会に遍在していた暴力が一点に集中し,人びとのあいだの相互依存のネットワークが広がるにつれて,人びとの感情や行動への自己規制は強化・細分化されてゆく。資本制と近代国家の二人三脚と足並みを揃えた社会の官僚制化の結果,職場〓公領域が家族から分離し,公領域内では感情や行動の規制と,行動に際しての「長期的視野の強制」がますますすすめられる。また,官僚制組織は,ホワイトカラーの男性のモデルとブルーカラーの男性のモデルを分化させる基盤にもなる。男性は感情と欲望の制御にたけているため重要な仕事にむいており,より自然に近い女性はそれができないから従属的位置にとどまるべきだ(「男が文化で,女は自然」)とするプロテスタント文化の理性主義(Seidler,1987)は,おそらく「合理的」な官僚制組織の職業倫理と親和性が高いものだった。荒っぽい言い方をするなら,「たえず戦う準備を整えて感情を高ぶらせている戦士」(Elias,1969)から宮廷貴族へ(日本でいえば戦国武士から「盃の殿様」や「元祿御畳奉行」へ),そして新興ブルジョアジーを経て「オーガニゼーション・マン」(White,1956)へと,ヘゲモニーをもつ男性像の重心は移行してきたといえよう。「制度的家族から友愛家族へ」の移行,つまり私領域〓家族のなかに閉じこめられた「愛」や団欒の強調は,この変遷の後半部分(官僚制化)と表裏一体のものである。
しかし現在,こうした単線的な抑圧仮説の範囲をこえて事態は展開しているようにみえる。大衆消費とサーヴィス化の時代の訪れとともに,ホワイトカラーの職務はウェーバー流の冷静で合理的な官僚のイメージに収まりきらなくなってきた。ミルズは『ホワイトカラー』(Mills,1951)で,セールスマンは商品だけでなく自分のパーソナリティを売ると述べたが,パーソナリティの販売とは感情表出を売ることでもある(Hochschild,1983)。セールスマンだけでなく,管理職,専門職から労働者まで,「人を扱う」職場と仕事はおそらく増えつづけており,そこでは不適切な感情を抑圧するだけでなく,顧客に好まれる感情を積極的に作りだして提供することが,仕事の本質の一部とみなされている。従来,「企業内の家父長制」にそって「ほほえみ」を求められる企業内の部署(受けつけや窓口,売り場など)は女性に割りあてられる傾向が強かった。しかし,サーヴィス資本主義化の進行とともに,男性が販売・サーヴィス部門の現場のような,感情労働が必要な部署に配置されることも増えてゆく。いっぽうにコンピューター化,OA化の結果,ますます身体性を欠いたヘッド(合理的!)な職場ができると同時に,他方では多くの男性が,仕事上の表出的役割をわりあてられて「愛想よく」なってゆく。TVのCMで愛敬たっぷりに笑って,売り子兼消費生活のヒーロー役をこなす男性スターやタレントたちは,パソコンのまえに釘づけの少年たちと並んで,「男らしさ」の行く末を占うための重要な指標になるとおもわれる。
事態の経緯がこうであるとすれば,「さよならターザン」(Franks,1984)というスローガンの限界は明らかだ。筋肉やタフそうな表出や古典的な男性優位主義のイデオロギーを支柱にしてなりたつ男性モデルは,ブルーカラーの世界のものであり,それはいまや周辺的な位置におかれている。マッチョ・タイプの男が,フィクションやスポーツの世界や「下層」の下位文化の外で,広く支持されることはありそうにない。「ターザンより,やさしくて知的な男のほうが好き」という女性のことばは,往々にして「ベン・ケーシー」,つまりサーヴィス化・消費社会化とフェミニズムの攻勢を受けとめて手直しされたアッパー・ミドルクラス(専門職,管理職)の男性像への好意の表明であるだろう。じつはそうした男性像こそが,現在の「危機」をのりきって新たにヘゲモニーをもちつつある男性性のモデルである(Carrigan et al.,1985)とするなら,そうした男性性をまな板にのせ,それが他者(女性および他のタイプの男性)と本人にとってどのように支配的,抑圧的であるかを吟味することが,フェミニズムにとってもメンズ・リブにとっても重要な課題になるだろう。
4.男性の自己解放とアンドロジニー
男性は鎧を着こんだとき,つまり従来の「男らしさ」を通じて権力と所有とアイデンティティの安定を確保したとき,どのようなコストを支払うのか。先にみたように,従来の男性役割は男性を孤独にし,各種の地位ゲームに巻きこんで心の傷や不安を与え,しかも感情表出に枷をかけてその傷や不安についてのカタルシスの途を狭める。とりわけ,地位ゲームと近代の主流の男性性がタブー化した同性愛への恐れとのために,
ゲームと近代の主流の男性性によってタブー化された同性愛への恐れとが男どうしの友(愛)情を育ちにくくし,それが男性の社会生活の質を貧しくしている。さらに,男性は身体や服装の「美」をめぐるナルチシズムを大幅に断念させられ(ただし「男の化粧」や花柄男物下着の出現に象徴されるように,サーヴィス化・消費社会化の進行とともにこれについては変化の兆しもみえるが),育児や料理,裁縫,手芸など女性役割の側に配分されるさまざまな活動から得られる楽しみを放棄させられる。しかも,男性役割と結びつけられた地位や権力やプロパティはすべての男性に均等に配分されているわけではないから,「男であること」を通じて多くの男性は社会のハイアラーキィ(階級組織)に組みこまれ,従属的な位置に置かれる。
男性の解放とは基本的には,従来の男性役割と,それを組みこみ再生産するさまざまな制度とを変えることである。それは,長期的にみれば近代の理念(およびたぶん資本制の要請)にそって否応なくすすんでいくだろう女/男の「平等化」に,男性がアンドロジナス(両性具有)化することでよりスムーズに適応するための方途でもあるが,それ以上のものでもある。先にみたように,近代の高度に組織された産業社会が男性の抑圧を高めるものであるとすれば,女性が「男なみ」になり,男性と同じような権力をもち同じような抑圧を引きうければハッピー・エンドになるとはいえない。仕事の領域で,家庭で,そしてその二つの外の「第三空間」で,対等な人づきあいと自由な表出の楽しみを回復しようとするとき,男性解放運動は究極的には,ハイアラーキィ的・競争的な近代〓産業社会の枠を作り変えることを目指さざるをえない。
いうまでもなく女性だけでなく男性の解放のためにも,従来の性別役割の範囲からのクロスオーヴァー(「性別越境運動」)が,さまざまな領域で女/男の双方から行われる必要がある。「家」制度のような前近代型の家父長制がおおむね解体しつつあるいま,男性の自己アイデンティティを支え,それにシンボリックな優位を付与する主要な制度は,仕事の世界の官僚制である。したがって,そこでの表出的秩序をめぐる攻防戦が,女性と男性の解放にとって戦略的に重要なものになる。渡辺(1986a)は秘密クラブでの男性の女装を,男性にナルチシズムを回復させる性別越境運動の一環として位置づけたが,橋本(1982)が指摘するとおり,女装趣味は第三空間に封じこめられた性別越境であり,むしろ職場での男性の服装上の抑圧を補完する役割さえ果たしてしまう。
女性が「フェミニン・リーダーシップ」などとおだてられて「男なみ」のスーパー・ウーマンとして男の職場に入ってくるのではなく,「女のまま」で入ってきて職場の表出的(および機能的)秩序を撹乱すれば,男性はそれとタイ・アップして表出的なオートノミーを広げ,職場でより楽に,かつきれいになるきっかけをつかむことができる。渡辺に倣って服装を例にとれば,『モモ』の灰色の男たちの寄り合いをおもわせる会議の雰囲気は,彩り豊かな服を着た女性が(ただしお茶汲みではなく正式のメンバーとして)席につけば,いくらか変わるだろう。それを突破孔にして,公的な場所で男性がドブネズミの準制服を強制されないように,またたとえば橋本(1984)が提案するように夏場に半ズボンを穿けるようするといったことが,男性の解放にとって,秘密クラブでの性別越境より大きな(そして現時点ではより「過激」な)ことなのである。感情表出やことばやしぐさのレベルでも,同じことがいえる。
「平等化」への男性の抵抗の舞台裏について先に考えたが,男性の「弱さ」を強調する心理学的な理論には,落し穴がある。マチズモの鎧はアイデンティティが弱い男性が心理的平衡を保つためには不可欠のものであり,女性がそれに挑戦して男性を追いつめてはいけないという,性別についての保守的な議論(「男の人ってかわいそうなんだから,たててあげなきゃ」)が往々にしてそこから導きだされる。男性にとって必要なのは,そうした「母性的」な思いやりではなく成熟である。女性にとってフェミニズムが「女こども」からおとなの女への成熟のための方途であったのと同じように,メンズ・リヴは男性が自分のなかの依存の欲求の抑圧と変形を認め,強迫的に鎧にしがみつかずにそれに対処できるようになるための「成熟のセラピー」でなければならない。このセラピーを通じて,男性は自分の鎧ではなくその中身をよりよく愛せるようになり,その結果,ヘゲモニーをもつ男性性による他の男性性の支配と抑圧を作りだす社会心理の磁場も弱まるだろう。
最後に,しばしば女/男の解放と等号で結んで語られるアンドロジニーのイメージについてふれたい。性別越境,アンドロジニー,服装倒錯,性別倒錯,性転換といった概念は,自然で不変な二つの性別の存在をめぐるわれわれの社会の「根強い命題」(Garfinkel,1967)を,掘りくずすのではなくむしろ強化する。アンドロジニーが,男性と女性という二つの性別アイデンティティをもつ人たちによる,性別役割行動の相互乗り入れであるとすれば,それは二つの性別の存在の再確認でもある。しかし,二つのジェンダーによる社会の分割は,通文化的な現象だろうか。ケスラーらは,アメリカ・インディアンなどにみられた「ベルダシュ」についての資料を再検討して,それが単なる性別倒錯や同性愛ではなく,女/男と並ぶ第三のジェンダーであった可能性があると指摘する(Kessler and McKenna,1978)。
現在,生物学主義以外の,ある程度説得力をもつ性別についての保守派の理論には,二つのタイプがあるとおもわれる。一つは,男女の機能分化によって相互依存の必要性が生まれ,社会的連帯が強められるという機能主義の理論であり,もう一つは,性別の区分は「世界」のカテゴリー化の構造的基盤として不可欠のものだという,文化の理論である。性別役割を扱う前者に論駁するのは比較的容易だが(産業社会の現状自体がある程度その反証になっている),性別帰属(認知)にかかわる新保守主義的な後者への論駁はむつかしい。しかし,ケスラーらが正しいとすれば,「n個の性」が文化的な世界の構造化の基盤になりえないとしても,現在の性別の二分法が文化にとって不可欠のものではないとはいえる。脱近代の彼方に,「労働と非労働」の解体(上野,1986-7)と並んで,多様な性別カテゴリーに属する人びとのあいだの多様な社交性と性愛を望むこと。それが,少なくとも筆者にとっては,純粋にナルシスティックで自己完結的なアンドロジニーの夢よりも魅力的な,ジェンダーの未来のイメージである。
[注]
(1) 70年代以降台頭してきた保守主義のイデオロギーや,「レイシスト」・「セクシスト」のレッテルに恥じない社会生物学の一翼の理論(Toback et al.,1974)にしても,近代の理念と食い違った制度的現実(または政策)に援護射撃をするのがせいぜいで,理念のレベルでのオルターナティヴを提出する力はないようにみえる。
(2) 事実,フェミニストたちはメンズ・リブ(男性解放運動)をかならずしも暖かい目で見てはおらず,とりわけゴールドバーグら「自由な男性」派の「セクシズム」に厳しい批判を加えているという(Franks,1984)。また,男性研究や男性運動の内部でも,フェミニズム同伴派と自己解放派のあいだに路線上の亀裂があるようだ(Brod,1987)。
(3) 筆者は徹底した文化決定論者ではないが,性別については当面文化の力の重要性を強調する立場をとりたい。それは,一つには,遺伝子やホルモンや脳の状態(女性型の脳と男性型の脳!)による性差や性別役割行動の説明の多くは,生物学的にみても十分な裏づけをもつとはいえない段階にある(Fausto-Sterling,1985)ようだからである。
(4)いっぽう女性は,「性的存在」に矮小化されやすいだけではなく,男性と同席しているときには,男性の側のジェスチュアが優位の表示として読まれがちなために,従属的地位にあるとみなされやすい。
(5)ただし,本稿ではスペースの都合で,男の鎧が膨れあがって突出した「槍」の部分,つまり男性の攻撃性(レイプ,性的虐待,ワイフ・ビーティング等々)やファリック・シンボルの問題にふれることができなかった。男性の攻撃行動にも,鎧の場合と同様に少なくとも,支配の物理的な道具,心理的な防衛機制の発動,キャラクター・コンテスト的な地位獲得行動という三つの面があると考えられる。
[引用文献]
- Bernstein,Basil.1971.Class, Codes and Control, Vol.1, London: Routledge & Kegan Paul; 萩原元昭編訳『言語社会化論』明治図書 1981.
- Brod,Harry.1987."The Case for Men's Studies," H.Brod (ed.).The Making of Masculinities: The New Men's Studies.Boston: Allen and Unwin.
- Carrigan,Tim, Bob Connell and John Lee.1985."Toward a New Sociology of Masculinity." Theory and Society,14: 551-603.
- Chodrow,Nancy.1978.The Reproduction of Mothering: Psychoanalysis and the Sociology of Gender.Berkley: University of California Press; 大塚光子,大内菅子訳『母親業の再生産』新曜社 1981.
- Collins,Randoll.1985.Sociology of Marrige and the Family: Gender, Love, and Property.Chicago: Nelson-Hall.
- Craib,Ian.1987."Masculinity and Male Dominance."Sociological Review,35: 721-43.
- Davis,Martha,and Shirley Weitz.1981."Sex Differences in Body Movements and Positions." Mayo and Henley (eds.).Gender and Nonverbal Behavior.New York: Springer-Verlag.
- 江原由美子,好井裕明,山崎敬一 1984 「性差別のエスノメソドロジー」『現代社会学』18号 アカデミア出版会 143-76頁。
- Elias,Norbert.1969.Uber den Prozess der Zivilisation.Bern: Francke Verlag; 波田節夫他訳『文明化の過程(上)(下)』法政大学出版局 1977-78.
- -------- 1983."Der Fuss ballsport im Prozess der Zivilisation."Satz(ed.).Der Ball ist rund.Transit Buchverlag; 岡野進訳「文明化の過程におけるサッカー」『現代思想』1986年5月号 122-31頁.
- Fausto-Sterling,Anne.1985.Myths of Gender: Biological Theories About Women and Men.New York: Basic Books.
- Franks,Helen.1984.Goodbye Tarzan: Men after Feminism.London: George Allen and Unwin.
- Garfinkel,Harold.1969.Studies in Ethnomethodology, Englewood Cliffs.New Jersey: Prentice-Hall; 「アグネス,彼女はいかにして女になり続けたか」山田富秋,好井裕明,山崎敬一編訳『エスノメソドロジー−社会学的思考の解体』せりか書房 1987.
- Goffman,Erving.1967.Interaction Ritual: Essays on Face-to-Face Behavior.New York: Anchor Books; 広瀬英彦,安江孝司訳『儀礼としての相互行為』法政大学出版局 1986.
- -------- 1971.Relations in Public: Microstudies of Public Order.New York: Basic Books. -------- 1979.Gender Advertisements.London: Macmillan Press.
- 橋本治 1982 『蓮と刀−どうして男は"男"をこわがるのか?』作品社.
- -------- 1984 『革命的半ズボン主義宣言』冬樹社.
- Heath,Stephan.1982.The Sexual Fix.The Macmillan Press; 川口喬一監訳『セクシュアリティー性のテロリズム』勁草書房 1987.
- Henley,Nancy,and Sean Hermon.1985."The Nonverbal Semantics of Power and Gender: A Perceptual Study."Ellyson and Dovidio(eds.).Power, Dominance and Nonverbal Behavior.New York: Springer-Verlag.
- Hochschild, Arlie Russell.1983.The Managed Heart: Commercialization of Human Feeling. University of California Press.
- 伊藤公雄 1984 「<男らしさ>の挫折」作田啓一,富永茂樹編『自尊と懐疑』筑摩書房.
- -------- 1988 「現代男性論−男たちはどこへ向かえばいいのか」『法学セミナー増刊 総合特集シリーズ』40,日本評論社 40-47頁.
- Kessler,Suzanne J.,and Wendy McKanna.1978.Gender: An Ethnomethodological Approach. Chicago: University of Chicago Press.
- Kimmel,Michael S.1987."The Contemporary "Crisis" of Masculinity in Historical Perspective."Brod (ed.).The Making of Masculinities: The New Men's Studies.Boston: Allen & Unwin.
- LaFrance,Marianne.1981."Gender Gestures: Sex, Sex Role, and Nonverbal Communication."Mayo and Henley (eds.).Gender and Nonverbal Behavior.New York: Springer-Verlag.
- Lakoff,Robin Tolmach,and Raquel L.Scherr.1984.Face Value: The Politics of Beauty.London: Routlege & Kegan Paul; 南博訳『フェイス・ヴァリュー−美の政治学』ポーラ文化研究所 1988.
- Major,Brenda.1981."Gender Patterns in Touching Behavior."Mayo and Henley (eds.),Gender and Nonverbal Behavior.New York: Springer-Verlag.
- McGill,Michael E.1985.The McGill Report of Male Intimacy.New York: Harper & Row.
- Mills,C.Wright.1951.White Collar: The American Middle Class.Oxford University Press; 杉政孝訳『ホワイト・カラー』東京創元社 1957.
- 岡本夏木 1985 『ことばと発達』岩波書店.
- Parsons,Talcott,and Robert F.Bales.1955.Family: Socialization and Interaction Process. Glencoe,Illinois: The Free Press; 橋爪貞雄他訳『核家族と子どもの社会化(上)(下)』黎明書房 1970.
- Shiedler,Victor J.1987."Reason, Desire, and Male Sexuality."Caplan (ed.),The Cultural Construction of Sexuality.London: Tavistock.
- Sherrod,Drury.1987."The Bond of Men: Problems and Possibilities in Close Male Relationships."Brod (ed.).The Making of Masculinities: The New Men's Studies.Boston: Allen & Unwin.
- Spender,Dale.1985.Man Made Language (2nd.Ed.).London: Routledge & Kegan Paul; れいのるど〓秋葉かつえ訳『ことばは男が支配する−言語と性差』勁草書房 1987.
- Toback et al.1974.The Four Horsemen: Racism, Sexism, Militarism, and Social Darwinism. Human Science Press; 本吉,岡本訳『科学の名による差別と偏見』新曜社 1979.
- 上野千鶴子 1986 「女のかしこさ」『女という快楽』勁草書房.
- -------- 1986-7 『マルクス主義フェミニズム−その可能性と限界』『思想の科学』86年3月号〜88年1月号.[のちに『家父長制と資本制−マルクス主義フェミニズムの地平』岩波書店 1990 として刊行]
- 山崎敬一 1985 「男と女−ことばという道具立て」江原,山岸編『現象学的社会学−意味へのまなざし』三和書房.
- 渡辺恒夫 1986a 『脱男性の時代ーアンドロジナスをめざす文明学』勁草書房.
- -------- 1986b 「男性の自己解放理論を構想する−「アンドロジナス」の深層史観」『思想』1986年6月号 45-61頁。
- Whyte,William H.1956.The Organization Man.Simon & Schuster; 辻村,佐田訳『組織のなかの人間(上)(下)』東京創元社 1959.
「プライベートルーム・2 福袋」目次へ。
中河伸俊のホームページへ。