男性学・書評二題
1.伊藤公雄著『〈男らしさ〉のゆくえ−男性文化の文化社会学』(新曜社 1993年)
(『週刊読書人』1993年11月5日 5面)
2.梁石日(ヤン・ソギル)著『男の性解放−なぜ男は女を愛せないのか』(情報センター出版局 1992年)
(『CHOISIR』26号 1993 20-22頁)
1.伊藤公雄『〈男らしさ〉のゆくえ』
1970年代から80年代にかけてが「女性問題の時代」だったとすれば,90年代は「男性問題の時代」だ。本書の巻頭で著者はこう述べる。
もちろん当初から,女性問題はとりもなおさず男性問題だった。そもそも「女」と「男」とはどちらも両者の関係を通じて成り立つものである以上,これはあたり前の話だ。しかし,70年代から80年代にかけては,男たちはまだ,なんとかこのあたり前に目をつぶり,女性解放の動きを他人事として傍観できた。しかし,いまや傍観者でいることはむつかしくなってきている。なぜなら,第一に,女たちからの「女は変わった(変わろうとしている),今度は男が変わる番だ」という圧力がしだいに強まっている。第二に,男たちは外圧だけでなく,内側からの危機にも直面している。男性中心社会が崩れるにつれて,男がこれまでアイデンティティの拠り所にしてきた〈男らしさ〉の神話が大きくゆらいでいる。このゆらぎのただ中にいる男の不安や迷い,心の傷が,1990年前後からさまざまな「男性問題」として顕在化しはじめているというのが,著者の時代診断なのだ。
本書は,日本での本格的な男性学研究書のほとんど嚆矢だといえる。ただし,だからといって,晦渋で無味乾燥な力仕事を予期してはいけない。大衆小説からマンガ,流行音楽までを縦横に読み解いて,戦後の男性イメ−ジの変遷をエッセ−でたどる序章を読めばわかることだが,著者のフットワ−クはかなり軽やかだ。近代の産業社会の仕組みのなかに「女」と「男」を位置づけ,ポスト産業社会化の流れに注目しながら〈男らしさ〉の来し方行く末を絵解きする啓蒙的な諸章も,歯切れよく明快に書かれている。しかし,社会学者としての著者の力量を鮮やかに示すのは,イタリアのファシストの文化運動を近代社会の〈男らしさ〉イメ−ジのグロテスクな戯画として捉えた「〈男らしさ〉の革命と挫折」と,従来の男性論を網羅的にレビュ−しながら,著者の男性解放のヴィジョンを示す末尾の「男の性もまたひとつではない」の二つの章だろう。
著者は,フェミニズムから受けた知的衝撃の大きさを認めたうえで,しかし「男のフェミニスト」になることを拒み,あくまで「男性問題」(つまり〈男らしさ〉の鎧を着込んでいるため男たち自身も辛い目にあっているという事実)にこだわるメンズ・リヴ運動のなかに自分を位置づける。評者はこうしたスタンスのとり方に共感する。また,いま男たちに必要なのは古い〈男らしさ〉に強迫的にしがみつくことでも,逆にそこから闇雲に逃げだすことでもなく,フェミニズムと共闘しながら新しい〈男らしさ〉を探求することだという著者の主張にも,まったく賛同する。その新しい〈男らしさ〉は,終章で述べられるとおり,統制的・抑圧的な「ひとつ」の性のイメ−ジではなく,現実の男たちの生の多種多様な在り方に開かれたものであるべきだろう。
「病理的」な事件や現象を安易に「男性問題」の指標にしたり,同性愛を〈男らしさ〉への過同調として説明してしまうあたりは,少し気になった。また,〈男らしさ〉の階級差という重要な論点にも触れてほしかったという気がしないでもない。とはいえ,本書は,現代社会の男たちの自画像を描く理論的試みとしては,最上の部類のものにちがいない。
2.男は,なにをせなあかんのか−梁石日『男の性解放』を読んで
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フェミニズムのことばへの,男たちの対応のカタログを作ると,どうなるやろう。だいたい,こんなところが定番やないかな。(1)からかい(「欲求不満なんやろ」「見かけの ようない女があんなこというんや」),(2)恐怖や嫌悪をこめた無視(「………!」), (3)「常識」にもたれかかったひらきなおり(「どないいうたかて,男は男,女は女や」 ),(4)対応放棄(「それはもっともかもしれんけど,ぼくに,いったい何ができるいうねん」「世の中がそないなってるんやから,仕方がない」),(5)反省(「ぼくら男が, そんな悪いことやってたんか! ごめんなさい,ごめんなさい」),(6)メンズ・リブ(「女性だけやなく,男性も解放されなあかん」),(7)自責や知的立ちくらみ,批判への恐怖からの沈黙(「………@□▲αX◎◇」),(8)被害者意識にたった反論(「女より,男のほうがひどい目にあってる!」「けっきょく強いのは女や!」)。
もちろんこれ以外にも,いろいろあるやろうね。たとえば,ちゃんとした(?)保守思想の立場からの「フェミニズムはまちがってる,人の道に反している」という対応やとか。ちなみに,それには,ぼくはあまり出っくわしてなくて,もっとも,考えてみたら,そんなこといいそうな方とはあまりつき合わんようにしてるから,当たり前やった。それと同じくらい,めったにお目にかからないのが(6)の反応で,身のまわりだけやなく,各種メディアを見渡しても,フェミニズム系統の本の売れ行きから考えれば不思議なほど,「男性解放」の声は少ない。(7)にはときどき出会うけどね。
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ところが,昨年(1992年)後半に,上原隆さんの『上野千鶴子なんかこわくない』(毎日新聞社)と,この梁石日(ヤン・ソギル)さんの『男の性解放−なぜ男は女を愛せないか』(情報センター出版局)が相ついで出た。これは,上のような娑婆の形勢が,いくらか変わりはじめたしるしやろうか。
といった期待をこめて読ませてもろうて,さて読後感はどうかというと,うん,かなりがっかりやったね。ぼくは,自分が「活動家」やなんて口が裂けてもよういわんけど,「メンズ・リブ」と呼ばれるような動きと,何がしか問題意識を共有してるつもりではいてる。そういう目で読んでみて,どうにもこうにも,元気がでません。
フェミニズムのことばがそのサークルの外に普及するのも,男が女に「造反されてる」という自覚をもって考えこむのも(著者はふたりとも離婚・家庭内離婚の経験者),一般論としては,とりあえずええことや。そういう意味では,この二冊は,状況の[+]の面のバロメーターといえんこともない。しかし,どっちもが,フェミニズムという他者(ひと)の褌でわけ知り顔に相撲をとっといて,けっきょく,「男は,なにをせなあかんのか」という問いに深入りしない。「男性解放」のリクツが,不当な女性への抑圧をなくすためやとしても,男が楽になるためやとしても,けっきょく,その基本方針は,どないぞして(今の形での)「男を下りる」ということやからね。ふたりとも,よういうたら男女のあいだの荒野を前に立ちすくみ,取り乱すの図。悪くいえば,「男を下りなあかん」現実を認めつつも,「認識」というオール・マイティ・カードにすがって,なんとかコケンを保とうとしているようにみえる。(おまえが以前書いた男性学の文章かてそうやないかぁっ,と,ここでいちおう,自分で自分につっこんどきます。)
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さて,梁さんの『男の性解放』。これは,著名な書物の引用と「率直な経験談」のオン・パレードで,しかし,論旨の筋道ということになると,すくなくともぼくには,非常にたどりにくかった。帯のコピーによれば,本書は,「すべての男にとって女は性器そのもの/というこの〈男社会〉の病理を 男の側からはじめて衝いた衝撃的論考」なんやそうな。「ほんまに〈はじめて〉かいな?」というつっこみは野暮の骨頂にしても(仲人口(ぐち)にコピー口,っていうくらいのもんやからね),コピーの前半分の原文の「男は女を性器そのものとみなしており,女の社会的存在を否定することで男の性差はなりたってる[ママ]」(56頁)というような断言には,多少チェックを入れときたい。
「社会的存在」というのは,地位や自意識をもつことを指すらしいけど,これが女にあると,男は女性に性的親密性を感じられない,というのが,「すべて」の男の性の現実かどうかとなると,眉唾やね。「仮に女社長と男性社員がセックスのあと,女社長の胸に男性社員が顔を埋めてうっとりしているとしたら,私たちはグロテスクな感じをうけるだろう。」(五七頁) 梁さんは受けるんやろうね。ぼくは,それほどでもない。だいたい,社会的に「上位」の女性との交渉についてのセクシャル・ファンタジーて,けっこうポピュラーやしね。…というような話になると,脱線しそうやから,ここでは置く。
梁さんがここで描きだそうとするマッチョ(男性優位主義)のイメージは,ぼくにも,思い当る節もあるし,よくわかる。しかし,それは,やはりある時代と文化の制約を受けたものだ。梁さんは,自分の感性(本文よりそれに挟まれた「コラム」のほうによく顕れてる)を普遍化しすぎている。この普遍化の過剰は,どうしてまずいか? 男の性を,自然の性やない,文化的に作られたものというふうにいいながら,それを,自分だけやない,いつでも男はこうやった,というぐあいに,何千年もつづいてきた男性優位主義文化の産物として平板に位置づけると,けっきょく男の性は,「どないもしようがない」「第二の自然」になってしまう。歴史的限定を外して「男の本性」を話すとね,つまるところは,男はこんなもんや,といってお手上げしてればいいという怠慢な姿勢(上の分類の(4)ね)につながるわけです。そのへんに,開きなおりを感じる女性読者は,多いやろうね。
乱暴にいうとやね。梁さんは,オチンチンにこだわりすぎよ。それへの固執が男社会の罠やといいながら,そこから離れる算段も決意もあるように見えない。オチンチンの意味は,「第二の自然」扱いせなあかんほど,確固としたものやない。性交の儀礼的意味を〈支配〉から〈友情〉に変えるのは,個々人のレベルでいえば,たぶん,男性優位主義者(と,そのいちばん断固たる批判者)が考えるほど,むつかしいことやない。人間は,本能が壊れた動物で,本来的に多型倒錯なんやからね。それに,狭義のセックスの行為に,そんなにこだわるいわれもない。橋本治がどっかでいってたように,オチンチンなんて,子どものころは,水鉄砲ごっこに使うおもちゃやった。オチンチンを含めて,身体の遊戯性を回復すること。これが肝要。セックスや射精や「正しい快感」にこだわりすぎる(そうせざるを得ない場所に編入される)のは,〈社会〉の罠にはまることよ。インポテンツ? そりゃ,親しい人に求められたとき,使ってもらえんのは悲しいけど,それを男の面子 と連動させとうないね。(友情って,それがないと壊れるもんでもないでしょう。)
梁さんの論旨の流れはかなり秋の空なので,しかとはわからないけど,彼のいう「男社会」は,つまりは「とどまることを知らない資本の論理と極限にまで達した管理社会」であり,それが「男を去勢」するらしい(別のところで抑圧史観を批判するフーコーを引用しときながら,結語ではこう書くから,真意がわからなくなるんやけどね)。でもって,この文明は行き詰まっていて,自然が回復される必要があるという。生命の源泉である母胎に根ざした女性の「母胎胚種的な思想」こそが,文明がもたらした生命の危機に敏感な,すぐれた思想なんやそうな。「男の性解放」は,こうした思想とつながるものだと,梁さんは信じるという。…よく聞く話。要するに,「お母〜さ〜ん!」ということやね。
おイタたをして,部屋がメチャメチャになったら,お母さんに片付けてもらう。マッチョの男って,行き詰まると,きまってこれなんやから。〈困ったときの「母」だのみ〉って,歴然と,男性優位社会の仕掛けの一部よ。まず,自分がどう責任とるか,考えなあかん。ちがいますか?
梁さんが,性が「作られた」ものという指摘を繰り返して,男社会の「俗説」壊しにたくさんのスペースをさきながら,最後に,「性の内在肯定力」だの(フェミニズム運動はこれを必ずしも反映してないのやそうだ),「性の根源的生命力」だのということばをくり出して,文明に対置できる「自然の性」があるようなことをいうのも,解せない。ここでいう性が生殖なのか,性交渉なのか,わかるように書いてないけど(そういう区分を超えた生〓性みたいな話かね),なんにせよ,社会関係と文化を超えて,人間の性はありえないでしょう。それにまつわるいろんなややこしいこと(セックスだけやなく,性役割の話もあるよ)をいちいち具体的に検討して進路をさぐるのやなく,生命〓母性の神秘でオチをつけるなら,南無観世音菩薩と百ぺん唱えるほうが,まだましよ。
あと,気になることを,ふたつだけ。文中に,「もともと男には力に対する信仰がある」などというクラリとくる断定が入った(アマゾネスとイスラエルの女性兵士はどないすんねん?),男の暴力についての一節がある。たしかに,男性支配と暴力のつながりは軽視できない。そやけどね,暴力だけが「力」やない。金も,身分もあれば,「知」というやつもある。大量(必要以上?)に「権威者」のことばを引いて,理論武装(?)するのも,「力への意志」の表れよ。ぼくも他人事やなく,おおいに自戒せなあかんことやけど,梁さんの場合も,権力的な生き方をほんとに否定したいなら,「知」への構えを変えて,ことばへの対話的な関わり方を,もっとお稽古せなあかんのやないかな。
もうひとつ,「男の解放」を考えるなら,女性との関係だけやなく,男性との関係を考える必要がある。梁さんのセックスの話には,ゲイの存在する余地がぜんぜんないけど,問題はそれだけやない。男のゲイ恐怖症は,じつは,男性恐怖症の裏返し。男が淋しいのは,女を愛せないから,だけやなく,ライヴァル関係をのり超えてほかの男を愛せないから。「女獲得ゲーム」の成果を自慢しあうコンテストやとか,女を締め出すための同盟に参加しなくても,男と男は手をとりあえるはず。まず,うまく「男を下りる」すべを身につけるのが,先決やろうけどね。「管理社会」のなかに,たくさんの小さい虫食いというか,気泡というか,無重力の場所を作って,そこで「男を下りる」お稽古をする。威張って「蒙を啓く」本を書くことより,そっちほうが,たぶんいま必要なことなんでしょう。つまりは,『ショワジール』を見習え,というところで,どうやら落ち合いがつきましたようで…。(おしまい)
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