[富山大学保健管理センター発行『ほけかん』No.30, 20038, pp.1-4

ダンス,冗談,そして涙

                                 中河 伸俊

 

1 ダンスについて

 私の趣味は,アフリカン・アメリカン音楽です。もっと具体的にいうと,合衆国黒人のR&Bやブルーズやゴスペルを聞き,レコードや資料を集め,マニアの雑誌に記事やレビューを書き,ときには関係書の翻訳をするといったことを,30年近くやってきました。私の本職は社会学の教員ですが,この趣味のキャリアのほうが本職のキャリアより長かったりします。

 こうした長い付き合いの中で,私はアフリカン・アメリカンのポピュラー音楽からいろんなことを学びました。そのレッスンの第一課は,人はリズムに乗って身体を動かせば,かんたんに気持ちよくなれるということでした。R&Bやソウルやヒップホップの音楽的な土台になったのは,黒人キリスト教会の礼拝音楽です。毎日曜日,アメリカ中の黒人教会で,たくさんの会衆が歌い,手拍子を打ち,リズムに乗って動き,そして「ハッピーになって」います。

 アメリカ黒人の踊りといえば,ブレイクダンスやジャズダンスのような,複雑なステップ,曲芸的な身のこなしを思い浮かべる人も少なくないでしょう。じっさい,R&Bはダンスのステップや振り付けの宝庫です。しかし,かれらの踊りにおいていちばん大切なのは,じつは外形的な技法ではなく,「感じること」です。何かの形式的なキマリに合わせて動くことよりも,グルーヴ(リズムのノリ)を全身で感じて,気持ちよくなることのほうが先決なのです。若者も年寄りも,器用な人も不器用な人も,自分なりに身体を動かして楽しめばいい。そんなふところの深さが,アフリカン・アメリカンのダンスにはあります。そして,「感じること」はまた,アドリブ,つまりさまざまな即興の動きの活力源だったりもします。

 人が身体を動かして気持ちよくなる方法には,ダンス以外に,スポーツというものもあります。走ること,跳ねること,投げること,打つこと,泳ぐことといった動作はそれぞれ,うまくいけば気持ちがよいものです。しかし,スポーツには「勝つ」という目標があります。そして,この目標へのこだわり(スポーツ試合のテレビ中継でも解説者がしょっちゅう「プレッシャー」についてコメントしていますよね)が,ときに「気持ちよくなること」を邪魔します。そのうえ,この国のスポーツには,身体的な苦痛を引き受けそれをのり越えることを尊しとする根性主義の伝統や,人の動作を一つの様式に沿って揃えることへの強い関心(運動会の行進の練習,私は苦手でした)があって,それがさらにスポーツの「気持ちのよさ」を達成する技法としての性能を低めているように思えます。もちろん,ダンスだって勝敗を競う競技になることもあるけど,たいていの場合は踊りたいから踊るのでしょう。あるいは,R&Bの歌詞にあるように,リズムが身体の中に入ってきて勝手に手足が動き,踊り出してしまう,といったふうに経験される事態さえあるかもしれません。

 圧迫され,社会的に恵まれない境遇にいる人たちが,そのうっぷんを晴らし,ストレスを昇華させるために,歌い,踊り,忘我の状態(「トランス」などと呼ばれます)に陥っているのだ。昔の文化人類学者たちは,R&Bの基盤になった黒人教会の礼拝のことを,こんなふうに「精神医学的」に説明しました。踊りの場での昂揚を,一種のヒステリー症状のようなものとして捉えたわけですね。でも,最近では,こうした見方はあまり流行らないようです。メアリー・ダグラスという英国の社会人類学者などは,それとは正反対の見方をします。社会的なプレッシャーや制約が少ないとき,人はかんたんに自分の周囲の世界と溶け合い,昂揚し,忘我の境地に達することができると,彼女はいいます。いいかえれば,人には本来的に,「幸せな気分」になる能力がそなわっているということですね。さまざまな世間のしがらみ(圧力)が,そうした能力の発揮を妨げている。いっぽう,リズムとダンス(あるいはそれを前面に出した宗教的な礼拝)は,そうしたしがらみを一時的に取り去り,人の中にある「幸せな気分」になる能力が立ち働くのを助ける,というわけです。

こうした見方が正しいと証明するのは,むつかしいでしょう。人間の「本来的な性質」なんて,実験や観察からかんたんに導き出せるものではありませんから。でも,そうした見方が,私は好きです。私たちには,状況が許しさえすれば,薬物やアルコールの力を借りなくとも,自分の殻を蒸発させ,世界と溶け合い,気持ちよくなる力がもともとそなわっていると考えることは,生きる励みというか,一種の拠り所になると,私は思います。

 

2 冗談について

 とはいえ,人はいつでも,ダンスをしたい気分でいられるわけではありません。けがや病気でつらい思いをしたり,「大切な人」を失った悲しみに打ちひしがれたり,周囲からかけられる圧力や攻撃や期待が耐えがたいものに感じられたり,自分がまったくあやふやな存在のように思えたり・・・,といったように,さまざまな痛みや苦しみやつらさが,しばしば私たちを不意打ちします。トラブルは,「気持ちがいい」状態に比べるとじつに多種多様で,そのぜんぶに効く万能の妙薬のようなものはおそらくありません(それが「ある」と私たちの耳にささやく人は,その人がどんな資格を持っていても,たぶん山師です)。

 私たちが抱えこまされる「つらさ」のうちある種のものには,自分(自己)というもののあり方が,深く関わっています。そして,そうしたトラブルを抱えた自分を当のトラブルから引き離すのに,冗談や笑いが大きな役割を果たすことがあります。たとえば,ポルナーという米国の社会学者による,アルコール依存症の人たちの自助団体AA(アルカホーリックス・アノニマス)の調査も,そうしたことを示唆します。

 AAは,アルコール依存症の人たちが,お互いに助け合って自分たちの困難に対処していくという目的のために作られた,半世紀を超える歴史を持つ団体です。「アルコールに勝てると思うのではなく,アルコールに対して自分がまったく無力だと認識することを出発点にしよう」,という独創的なポリシーにそったAAの活動は,長年にわたって,アルコール依存症の人たちの「立ち直り」に大きな成果を収めてきたとされます。そのAAの定期会合に出席し,そこでのベテランのメンバーのスピーチを詳しく調べたポルナーとステインは,そのスピーチが,アルコール依存症患者の人生の,一般的に見れば悲惨なエピソードを並べたものであるにも関わらず,それがつねに冗談めかして語られ,ときにはコメディアン(漫談家)の舞台のように大きな笑いを呼ぶ点に注目しました。

 「いつも酔っぱらっているか,二日酔いかなのに,主婦として世間が求めることをちゃんとやろうしたものだから,最悪だったわ。息子が出ているリトル・リーグの試合を応援にいっても,相手側のチームを応援してしまうし。ちっちゃなビンを,スカートに隠して出かけたわよ。カブ・スカウトの子どものためにモカシン(皮の靴)を縫う集まりでは,靴に指を縫いつけてしまったわ。」「AAに来る人には,酔ってブタ箱に何十回入ったとか,精神病院に何回入ったとかいう素晴らしい身の上話があるけど,ぼくにはそういうのはない。ぼくにいえるのはせいぜい,酔って吐くってことについては,AAでのチャンピオンだってことだね。そうなるには,かなりの訓練が必要だよ。便所の冷たいタイルに這いつくばって,便器を愛しげに抱きしめられるようになるにはね。」「酔って車の中で眠ってしまう人は,AAにたくさんいます。真夜中に目がさめて,地獄のように痛む頭を抱えて,本当は閉まっている窓を空いていると勘違いしたことはありませんか。で,窓から吐こうとして,頭を窓と激突させてしまうんですよね。」

 AAの会合の出席者たちは,誇張され,冗談めかした語り口で語られるこうした経験談を,「あるある」というリアクションで受けとめながら,ひんぱんに,ときには文字どおり腹を抱えて笑うのだそうです。こうした「過去の自分をおとしめて笑いをとるスピーチ」には,どんな効能があるのでしょうか。おかしいというのは楽しいことだし(それが楽しみで会合に来る人もいるといいます),「笑いは百薬の長」ということわざにもあるように,笑うことは健康にいいという話も聞きます。でも,社会学者は,もう少し手のこんだ説明をします。

 こうしたスピーチで笑いの対象になる自分は,アルコール依存症でひどい状態にある,どうしようもない自分です。AAのメンバーが「立ち直る」には,まず,自分がどんなにだめな状態にある(あった)かを,しっかり自覚する必要があります。では,そうした自分を自覚し,ジョークの対象にして,聴衆といっしょに笑う自分は,昔の自分と同じ自分でしょうか。

 笑うことによって,笑う自分は,そこで「笑いものにされている」昔の自分から切り離されます。たとえば,ミスをして,「ううー,何であんな愚かな失敗をしたんだろう」と後悔する自分は,たぶんミスをした自分と「切り離されて」いません。いっぽう,そのミスをした自分を取り上げて,「ぼくってばかだなあ。ははは」と笑うとき,そういって笑うことによって,笑う自分は笑われる自分から切り離されます。(こうした説明のおおもとには,人は他の人とのやりとりの中で「自分」を作り出す,という,社会学的な考え方があります。この話に深入りするとややこしくなるので,ここでは詳しいことは省きますが,「自分」が作り出されるものだからこそ,条件を整えて上手くやれば「自分」を変えられる,ということにもなります。)

もちろん,世の中には,簡単に笑えないこともたくさんあります(アルコール依存症の経験だって,そうでしょう)。そこで,「仲間」が必要になります。つまり,AAの会合でのスピーチは,笑いによって過去の「どうしようもない」自分を今の「立ち直りへと向かっている」自分から切り離し,今の自分をお互いにサポートし合うという働きをもった,ちょっと大げさないい方をするなら,集団的な「生まれ変わり」の儀式なのです。

 

3 涙について

 冗談をいって笑うことは,トラブルやそのトラブルを抱えた自分との距離を作り出し,それを通じて,自分のあり方を変えるとか,そこまではいかなくても,一時的な慰めを得るのに役立つようです。では,笑うこととしばしば対比される,泣くことについてはどうでしょうか。ここでもやっぱり,「距離」がキイワードになるようです。

 私は,人生的にはけっこう打たれ弱いほうですが(後輩たちから「愚痴のナカガワさん」なる不名誉なあだ名を頂いたこともあります),しかし,実生活上のことでは泣きません。いっぽう,映画や小説や歌などの物語の,お涙ちょうだいものには結構弱いのです。富山大学の近所の某レストランに全巻揃いで置いてある『マスター・キートン』というマンガ(よくできた人情話です)を読んで,食事をしながら涙ぐんだこともあります。また,授業で合衆国の公民権運動の歴史を話したら,あるエピソードのところでかならずジワっとくるので,受講生に察知されないように,黒板へ向かってむやみに板書します。

 実生活で泣かず,オハナシで泣くなんて,私は変なやつ,あるいは冷たいやつなのでしょうか。シェフという社会学者にいわせれば,必ずしもそうでもないようです。彼は,物語で泣くのは,場合によっては,実人生の事柄をめぐって泣くより,心を軽くするのに効果的だといいます。私たちは,実生活の中ではしばしば,感情を抑えることを強いられます(「男の子が,そんなことで泣いてはいけない」とかね)。そうして抑えられた感情が,心の中のどこかに溜まっていたりする。溜まっているものには,出口が必要です。泣けるオハナシが,そうして溜まっているものの出口になるというわけです。

また,実生活でとても悲しい出来事が起こったとき,悲しみを抑圧せずに涙にくれても,その出来事の経験があまりにも生々しい「じか」のものであるため,カタルシスを得るのはなかなかむつかしい。泣けば泣くほどつらくなるだけ,だったりする。自分にとって直接的でなく,安全な場所から距離をおいて経験できる絵空事のモノガタリ,つまりフィクションに実人生での悲しみを移し替えることこそが,心を楽にする効果的なやり方だと,シェフはいうのです。私は,こうした精神分析の系統の考え方がそれほど好きではありませんが,でも,自分がドラマを見聞きして(あるいは自演して?)泣いたあとのすっきりした気分が,うまく言い当てられている気はします。

 

 ダンスや,冗談や,ドラマを鑑賞して流す涙など,まったくの無駄ごとだと考える人もいるでしょう。しかし,そうしたことが,つらいことも多々ある人生を楽しく,あるいはなんとかバランスをとって生きるのに役立つ,大切な生の技法であるかもしれない。このくねくねした小文でいいたかったのは,つまりはそれだけのことなのでした。

 

 

[参考にした本など]

(1)   メアリー・ダグラス『象徴としての身体』紀伊國屋書店,1983年。

(2)   M.Pollner & J.Stein, “Double Over in Laughter: Humor and the Construction of Selves in Alcoholics Anonymous,” in J.F.Gubrium & J.A.Holstein(eds.), Institutional Selves, Oxford University Press, 2001.

(3)   T.J.Scheff, Catharsis in Healing, Ritual, and Drama, University of Califirnia Press, 1979.

                                 [’03-5-11脱稿]

 

*本稿は,中河が富山在住のころ通っていた大学病院での主治医であり,現在,富山大学保健管理センター長である斎藤清二氏に依頼されて書いたものです。斎藤氏は,ナラティヴ(物語論)アプローチの診療内科の分野での実践者であり,『ナラティブ・ベイスド・メディスンの実践』(岸本寛史氏と共著,金剛出版,2003年)の著者でもあります。といっても,通院していたころには,中河は主治医のそうした側面を知りませんでした。また,斎藤氏も中河が構築主義理論の紹介をもっばらにする輩だとは,ご存知ありませんでした。この原稿依頼は,斎藤氏の,おそらく精力的なネット巡回の産物です。と同時に,この原稿の芸風は,いうなれば「裏中河」です。中河が十年以上前に,当分は構築主義という立場で行くぞと決めたときに,断念することにした路線のネタを,ここでは埃をはたいて使っているからです。(たぶん,こうした芸風のほうが一般にはウケるのですが,社会理論の真実一路を貫くには,カットすべきものはカットしなくちゃ行けないと思ったのでした。メアリー・ダグラスなんて,いまでも結構好きなんですけどね。)