芥川龍之介の死 その一
    ――『歯車』の周辺――

 まえがき
 芥川について、特にその死については、まさに汗牛充棟もただならぬほどの論稿が
月々生産されている。その上私になにか言うことがあるだろうか。私の書くものはす
べて既に言い尽くされてしまっているに違いない。しかし、日文協近代部会で報告し
たのをきっかけに、ぜひ書けと言われて、書いた次第である。しかし、書いてみる
と、報告した時の論点を覆うことが出来ず、私にすすめた人にも失望を与える結果に
なったと思う。
 元来は老年の身で余裕があるはずなのだが、今年はいろいろ忙しいことがあって、
時間的にも余裕がなかった。本来なら先行文献についても論及しなければならないの
だろうが、その余裕がなかった。失礼を許していただきたい。
 元来、これは学術論文などと言うものではないのである。私は若いときから親しん
できた芥川について、「私の芥川」を書いて置きたかったのである。芥川は三十五歳
で死んだ。私はその倍以上も生きたわけである。この頃、芥川の写真を見ると、その
若々しさに驚く。芥川は私が生れて間もなく、金融恐慌の最中に死んだ。私の父とほ
ぼ同年である。しかし、今三十五歳の人を見れば、自分の子供よりはるかに若いので
ある。芥川は自ら死んだが、私もまたやがて死ぬのであり、あらためて自分の生涯を
振り返っても見るのである。そのような老年の私が自分の生涯を振り返る思いで、若
くて死んだ芥川のことを書いて置くのも、何か意味があるかも知れない。
 ただ、肝心の『歯車』論はその入り口に達したところで、尻切れトンボに終ってし
まった。今になってようやく自分の芥川論がはじまるような気がしているのである。
こういう杜撰なものを発表するのは恥かしいが、お許し願いたい。
 参考文献についてはこんなわけで失礼したが、関口安義氏がその長年にわたる研究
の成果をまとめられた大著『芥川龍之介とその時代』と宮坂覚氏の作成された年譜
(『芥川龍之介事典』所収)には大変お世話になった。特に記してお礼の言葉とした
い。
   

 「私は最近における我国の社会思想の傾向が、人間生活乃至は社会生活の過度な分
析と解剖とであることに気づき始めた」「私たちの不安は、何一つ自発的に働きかけ
るようなものを持たないで、ただただ受け身の位置にあることを暗示せられるところ
から来る。鋭いと思う言説の多くに接することは出来ても、真に私たちの心を動かし
てくれるような強い綜合の力に遭遇しないところから来る」(「胸を開け」)と島崎
藤村は一九二〇年の年頭に述べた。
 宮本百合子の『伸子』の女主人公は、夫について「なぜ、どっちかにしっかり自分
を据えて、 日光をたっぷり、空気をたっぷり、人間らしく活きようとする気になら
ないのだろう」と思う。
 芥川龍之介の死について考えるとき、先ず心に浮かぶのはこれらの言葉である。芥
川は遺稿として死後発表された「十本の針」に、「わたしはこの世の中にある人々の
あることを知っている。それらの人々は何ごとも直覚するとともに解剖してしまう。
つまり一本の薔薇の花はそれらの人々には美しいとともにひっきょう植物学の教科書
中の薔薇科の植物に見えるのである。現にその薔薇の花を折っている時でも。……」
と記している。
 藤村は日本の知識人が自己の生活、現実との格闘から自己の思想を形成するのでな
く、常に西洋の既製の思想を追いかけ、本から現実を理解する傾向、具体的、個別的
な、生きた現実の問題を、一般的公式や原理論の高みから批評する傾向を批判したの
であった。藤村はどうかして生きたいという強い欲望によって、聖書をさえ利用し
て、世間から不倫として糾弾される近親相姦を、聖化し、作品化した。「新生」事件
を乗り切った藤村は、長男を故郷に帰農させて、そこに自己の思想の拠点を求め、子
供たちそれぞれに独立した生活の道を開いてやりながら、『夜明け前』の大作を実現
する道を歩いた。
 この藤村について、『侏儒の言葉』(遺稿)に「果して『新生』はあったであろう
か?」(「『新生』読後」)と記した芥川は、「或る阿呆の一生」四十六では「彼は
『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった」と述べている。藤村
が落ちた地獄は芥川の落ちた地獄であった。『新生』のテーマは芥川にとって切実
だった。芥川はこの地獄にもだえ苦しみ、自己破滅の道をたどった。それだけに、
「新生」を説く藤村に偽善を感じないではいられなかったのであろう。
 藤村が批判する「人間生活乃至は社会生活の過度な分析と解剖」は、芥川自身が落
ちたワナであり、地獄であった。「十本の針」の芥川は、前掲文につづけて「ただ直
覚する人々はそれらの人々よりも幸福である。真面目と呼ばれる美徳の一つはそれら
の人々(直覚するとともに解剖する)には与えられない。それらの人々はそれらの
人々の一生を恐ろしい遊戯のうちに用い尽くすのである。あらゆる幸福はそれらの
人々には解剖するために減少し、同時にまたあらゆる苦痛も解剖するために増加する
であろう。『生まれざりしならば』と言う言葉は正にそれらの人々に当たっている」
と述べている。
 芥川が『新生』について述べた「或る阿呆の一生」四十六は、「彼の姉の夫の自殺
は俄かに彼を打ちのめした」という言葉で始まる。彼は姉の一家の面倒も見なければ
ならなかった。「彼の将来は少くとも彼には日の暮のように薄暗かった。彼は彼の精
神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわ
かっていた)不相変いろいろの本を読みつづけた」のであった。
「或る阿呆の一生」四十四には、「窓格子に帯をかけて縊死しようとした」ことが記
されている。このような彼にとって、姉の夫の自殺は大きな打撃だった。その上、経
済的な問題も大きな重荷であった。「彼の精神的破産」については後述するが、日一
日、刻一刻、死への傾斜を強めていたのである。この生涯の危機にあって、彼は本に
よって「新しい力」を得ようとした。
 しかし、今の彼には本は無力だった。ゲエテのDivanは「もう一度彼の心に新しい
力を与えようとした」が、「恐しい感動」が静まった後では、「しみじみ生活的宦官
に生まれた彼自身を軽蔑せずにはいられなかった」のである。ルソオの『懺悔録』に
ついてもも「英雄的な#(ゴンベンに虚)に充ち満ちていた」と述べている。このよ
うな文脈で藤村の『新生』を読み、「老獪な偽善者」を感じたのである。フランソア
・ヴィヨンだけが「心にしみ透った」。「絞罪を待っているヴィヨンの姿は彼の夢の
中にも現れたりした。彼は何度もヴィヨンのように人生のどん底に落ちようとした」
と「或る阿呆の一生」は述べている。


『或る阿呆の一生』四十六の記述は、『歯車』の世界と重なっている。昭和二年三月
二十三日という日付のある『歯車』の冒頭の章「一 レエン・コオト」は、知人の結
婚式のために、当時妻子とともに暮らしていた湘南の避暑地から上京した「僕」が、
その晩宿泊したホテルで、姉の夫が東京からあまり遠くない田舎で轢死したことを知
らされる話である。
 二から五までは、東京のホテルに滞在して執筆する日々のことが書かれている。一
つの作品を仕上げて、「新しい小説」を書き始めるが、それは「僕はこの小説の世界
を超自然の動物に満たしていた。のみならずその動物の一匹に僕自身の肖像画を描い
ていた」(五 赤光)という言葉から、『河童』であると思われる。『河童』という
ことは書かれていないが、「僕自身の作品」として、『侏儒の言葉』や「地獄変」が
出て来る。特に「点鬼簿」については「僕の自叙伝だ」と書いているから、この「新
しい小説」についても、それを『河童』と想定してもかまわないだろう。そうする
と、その前に書き上げた作品は「玄鶴山房」ということになる。
「玄鶴山房」は『中央公論』一九二七年一月号に、その最初の部分一と二だけが発表
され、二月号に一と二を含めて全文が発表された。この作品に芥川はかつてない困難
を感じた。元来は一月号に発表するはずだったのに、どうしても書きあげることが出
来なかったのである。前年十二月十六日付で編集者高野敬録に宛てて「昨夜は二時す
ぎまでやっていたれど、薄バカの如くなりて書けず、少々われながら情なく相成り候
次第、何とも申訳なく候へども二月号におまはし下さるまじきや」と書き送ってい
る。十二月十九日には、斎藤茂吉に宛てて「中央公論は前後だけ出来て中間出来ず、
とうとう二月に出すことに相成り、尊台にも申訳無之心地あり、怏々として暮らし居
候」と書いている。また、十二月二十五日には滝井孝作に宛てて「僕は多事、多病、
多憂で弱っている。書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くた
ばってしまえと思う事がある」と書いている。
 そして、一月十六日に斎藤茂吉に宛てて「新年号の続き(「玄鶴山房」か)を書き
をり候らヘども心落ち着かず、難渋この事に存じています。来世には小生も砂に生ま
れたしと書き、「来ム世ニハ水ニアレ来ン軒ノヘノ垂氷トナルモココロ足ラフラン」
という歌を記している。十九日の日付で高野敬録に宛てて「これでおしまひです」と
書き送っているから、一月十八日か十九日に書き上げられたのだと推定される。
 この間、一月九日に田端から宇野浩二に宛てて「その後又厄介な事が起り、毎日忙
殺されている」と書いているのである。「この厄介な事」というのが、一月六日の
「姉の夫」西川豊の轢死事件であることは言うまでもない。岩野英枝に宛てた一月二
十一日付書簡には「親戚に不幸有之、その上その方の衣食の計立たざる為、東奔西走
中」と記している。また、佐々木茂索に宛てた一月三十日の手紙には「唯今姉の家の
跡始末の為、多用で弱っている。しかも何か書かねばならず。頭の中はコントンとし
ている。火災保険、生命保険、高利の金などの問題がからまるのだからやり切れな
い。神経衰弱癒るの時なし。六七日頃までは東京を離れられない」と書いている。
 姉の家、西川家はこの年一月四日に火事で焼けた。多額の保険金をかけていたの
で、西川は放火と保険金詐欺の疑いをかけられ、鉄道自殺をした。芥川には妻と三人
の子があり、養父母と伯母がいた。その上、姉の先夫の子葛巻義敏も芥川の家にい
た。そこに、姉と姉の子二人の生活がかかって来た。その姉の夫は金利が年三割多額
の借金があり、火災保険、生命保険にかかわるトラブルの処理も厄介であった。
 このようなごたごたの中で、四苦八苦して「玄鶴山房」を書きあげ、『河童』にと
りかかったのであった。『歯車』には「新らしい小説」執筆の様子が「ペンは僕にも
不思議だったくらい、ずんずん原稿用紙の上を走って行った。しかしそれも二三時間
の後には誰か僕の目に見えないものに抑えられたようにとまってしまった。僕はやむ
を得ず机の前を離れ、あちこちと部屋の中を歩きまわった。僕の誇大妄想はこう云う
時に最も著しかった。僕は野蛮な歓びの中に僕には両親もなければ妻子もない、唯僕
のペンから流れ出した命だけあると云う気になっていた」(四)と書かれている。ま
た、不眠に苦しむ「僕」が、「絶望的な勇気を生じ、珈琲を持って来て貰った上、死
にもの狂いにペンを動かす」と、「二枚、五枚、七枚、十枚、――原稿は見る見る出
来上って行った」とも書かれている。
 『河童』には昭和二年二月十一日の日付があるが、鵠沼の小穴隆一に宛てて、二月
十二日の手紙には、「『河童』はだんだん長くなる。しかし明日中には脱稿のつも
り」と書き、二月十五日(消印二月十六日)には「河童を106枚書いた。それから
『三十六歳の小説論』を書いて谷崎潤一郎君の駁論に答えた。毎日多忙」と書いてい
る。佐々木茂索宛の消印二月十六日の手紙にも、河童百六枚脱稿。聊か鬱懐を消し
た」と書いている。これらの手紙によって、『河童』の脱稿は二月十五日と推定され
るが、田端から佐々木茂索に宛てた二月十一日付の手紙には、「六十枚くらいのもの
をやっと三十枚ばかり書い[た]所だ。『河童』は僕のライネッケフックスだ」と書い
ているから、この手紙を信じれば、この三、四日の間に、予定をはるかに超えて七十
枚も書いたことになる。しかもこの間に「蜃気楼」(『婦人公論』三月号)その他を
平行して書いている。二月十二日の前掲小穴宛書簡には「今日は『サンデイ毎日』と
『婦人公論』と『改造』へ書いた。婦人公論のはしみじみとして書いた。大兄や女房
も登場させている」と記されている。
 姉の家族の問題で心身ともに疲労困憊しながら、このように猛烈に書きつづけたの
は驚くべきことである。二月二日には斉藤茂吉に宛てて「『海の秋』という小品を製
造中、同時に又『河童』というグァリヴァの旅行記式のものをも製造中、その間に年
三割という借金(姉の家の)のことも考えなければならず、困憊この事に存知居り
候」と書き、二月七日には、田端から蒲原春夫に宛てて「僕は多忙中ムヤミに書いて
いる。婦人公論十二枚、改造六十枚、文芸春秋三枚、演劇新潮五枚、われながら窮す
れば通ずと思っている」と書いている。前掲二月十一日付佐々木宛書簡には「僕は姉
の亭主の債務などの事を小説を書く間に相談している。年三割の金と云ふものは中々
莫迦に出来ないものだよ。十五日頃にはそちらへかへれるつもり」と書き、同二月十
二日付の小穴宛書簡には「姉の生計のことや原稿の為にごたごたしてゐる。年三割の
金を借りてゐる上、家は焼けてゐるし、主人はない為、どうにも始末がつかないの
だ。(僕でももっとしっかりしていれば善いのだが)」と書いている。そして、『河
童』脱稿を告げる前掲二月十五日付の小穴宛書簡には「これから親族会議をすまさな
ければならん。君には気の毒で弱る。しかし、二十日にはかえる」と書いている。は
やく鵠沼に帰りたいと思いながら、親族会議だの、債権者との交渉だののために容易
に帰れない様子がうかがわれる。同じ日の消印がある前掲佐々木宛書簡には、前記の
ように『河童』百六枚の脱稿を告げて、「聊か鬱懐を消した」と述べるとともに、
「火災保険、生命保険、親族会議、――何もかもゴチャゴチャで弱っている。が、そ
れだけに何か書いているのは愉快だ。ヴェロナアル〇.七常用、アロナアルよりもヌ
マアルの方が眠るのに善い。やはりロッシュ会社製」と書いている。
 『或る阿呆の一生』「四十一 病」に芥川は「彼は不眠症に襲われ出した。のみな
らず体力も衰えはじめた。何人かの医者は彼の病にそれぞれ二三の診断を下した。
――胃酸過多、胃アトニイ、乾性肋膜炎、神経衰弱、慢性結膜炎、脳疲労、……」と
書いている。元来病弱な芥川は前年頃からいっそう健康を害して、不眠症に苦しみ、
睡眠薬を用いていた。鵠沼からの佐々木茂索宛、十二月二日の書簡には「鴉片エキ
ス、ホミカ、下剤、ヴェロナアル、――薬を食って生きているようだ」と書いてい
る。アヘンエキスは斎藤茂吉に頼んで送ってもらった。このような状態で、姉の家族
のことで東奔西走しなければなず、ますます追いつめられなければならなかった彼
が、『河童』をかつてない速力で書くことが出来たのはなぜか。


 十二月三日(消印五日)の佐々木茂索宛書簡には「僕は暗タンたる小説を書いてい
る。中々出来ない。十二三枚書いてへたばってしまった。冬眠、冬眠、その外のこと
は殆ど考えない」と書いている。十二月四日には斎藤茂吉に宛てて、オピアム(阿
片)は毎日服用している。そのために便秘すれば下剤を用い、それで痔が起れば座薬
を使っていると書き、「僕のは碌なものは出来そうもありません。少くとも陰鬱なも
のしか書けぬことは事実であります」と書いている。。十二月十三日には同じく茂吉
に宛てて、阿片が乏しくなって心細いから、もう二週間分送ってほしいと依頼し、一
昨夜は浣腸して便をとったため、痔が痛くてたまらず、眠ることも出来なくて、うん
うんいって夜明けになったと書いている。この時、芥川は「玄鶴山房」を書いていた
のである。この「陰鬱な」「暗タンたる小説」を書く苦しみが、彼の神経を追いつ
め、身体を痛めた。
 しかし、この手紙に芥川は、『中央公論』のは大体片づき、あと少々残っているだ
けだと書いている。ところが、実際は「玄鶴山房」は意外に難航して、とうとう締め
切りに間に合わなかったのであった。先に引用した十二月十九日の斎藤茂吉宛書簡に
よれば、「前後だけ出来て中間出来ず、とうとう二月に出すことに」なったというの
である。芥川は前後が出来れば、中間は容易に書けると思っていたのではないだろう
か。しかし、中間につまずいた。むしろ、前後は容易で、中間がむずかしかったので
ある。
「玄鶴山房」の一は、堀越玄鶴の「小ぢんまりと出来上った、奥床しい門構えの家」
を外から描き、ゴム印の特許と時代の変化で資産をつくった画家玄鶴の生涯を概観し
て、最後のところで、この家の前を通りかかった画学生に「玄鶴山房――玄鶴と云う
のは何だろう?」と言わせる。画家としての彼は、時代おくれになり、画学生にさえ
知られない存在になったのである。それは玄鶴の芸術家としての生涯の空しさをあら
わしている。
 最後の章六で、リイプクネヒトを読む大学生を登場させたことについては、「わた
しは玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外の世界は触れさせたい気もちを持っていまし
た」という、昭和二年三月六日の青野季吉宛の書簡があり、さまざまに論じられてい
る。茂吉宛書簡の「前後だけ出来て」というのは、この一と六、玄鶴と玄鶴の家族に
ついて、外からの眼で批評した部分が先に出来ていたというのであり、この部分に芥
川のこの作品のモティーフがあったことになる。
 二以下では玄鶴の家の内部にはいり、複雑な家族関係や家族の感情のもつれを描い
た。五ではこのいざこざの中に横たわり、自分の生涯をふりかえって、死を思う玄鶴
の内部にたちいって書いている。それは芥川をとりまく家族関係や、自分自身の苦し
みに重なる「陰鬱な」「暗澹たる」世界であった。それを書くためには、自分自身と
向き合わなければならない。それは想像した以上に、困難な、苦しい仕事だった。行
きづまり、書き渋り、ついに締め切りに間に合わなくなったのはこのためであろう。
「彼は時々唸り声を挙げ、僅かに苦しみを紛らせていた」いう玄鶴の苦痛は、前記の
『或る阿呆の一生』四十一や、「昨夜呻吟して眠られず」という十二月十二日の佐々
木茂索宛書簡その他に見られる芥川自身の病苦に重なっている。恐しい孤独のうちに
「長い彼の一生と向い合わない訣には行かなかった」玄鶴について、「玄鶴の一生は
こう云う彼には如何にも浅ましい一生だった」と書かれているが、それは芥川自身の
実感でもあったろう。
「何、この苦しみも長いことはない。お目出度くなってしまいさえすれば……」と玄
鶴は思い、縊死のための褌を手に入れる。「これは玄鶴にも残っていたたった一つの
慰めだった。 玄鶴は「この褌を便りに、――この褌に縊れ死ぬことを便りにやっと
短い半日を暮した」と芥川は書いている。しかし、身体の不自由な彼は容易に死ぬこ
とができない。「のみならず死はいざとなって見ると、玄鶴にもやはり恐しかった。
彼は薄暗い電燈の光に黄檗の一行ものを眺めたまま、未だに生を貪らずにはいられぬ
彼自身を嘲ったりした」のである。
『或る阿呆の一生』「四十四 死」の芥川は「窓格子に帯をかけて縊死しようとした
が、帯に頸を入れて見ると、俄かに死を恐れ出した」と書いている。しかし、それは
「死の刹那の苦しみを恐れたのではなかった」と言う。ちょっとのあいだ苦しいだけ
で、あとはぼんやりしはじめる。そこを通り越せば死んでしまうにちがいない。しか
し、まだ彼は死ねなかった。この章の末尾の「窓格子の外はまっ暗だった。しかしそ
の暗の中に荒あらしい鶏の声もしていた」という言葉は、リイプクネヒトを読む大学
生が登場する「玄鶴山房」の末尾に呼応するのであろう。もう一度彼は自分自身を励
まして立ち上がろうとする。
「四十五Divan」の芥川は「Divanはもう一度彼の心に新しい力を与えようとした。そ
れは彼の知らずにいた『東洋的なゲエテ』だった。彼はあらゆる善悪の彼岸に悠々と
立っているゲエテを見、絶望に近い羨ましさを感じた。詩人ゲエテは彼の目には詩人
クリストよりも偉大だった」と書いている。「若しこの詩人の足あとを辿る多少の力
を持つてゐたらば、――」ここには絶望から立ち上がろうとする芥川の願いがある。
「しかし、彼はデイヴアンを読み了り、恐しい感動の静まつた後、しみじみ生活的宦
官に生まれた彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた」のである。
『或る阿呆の一生』では、このあとに「彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめし
た」に始まる「四十六 #※[#「ごんべへん」に虚]」が来る。姉の夫の死にはじ
まる地獄の日々については既に述べたが、この中で『中央公論』二月号を目ざして
「玄鶴山房」を書きつづけ、前記のように一月十九日頃に脱稿した。これにつづいて
「蜃気楼」を書き、『河童』を書くが、姉の家をめぐる紛糾がつづき、ヴェロナアル
等の睡眠薬や阿片エキスに依存する度合いはますます激しくなった。『河童』の「両
親らしい河童を始め、七八匹の雌雄の河童を頸のまわりへぶら下げながら、息も絶え
絶えに歩いて」いる河童は芥川自身のカリカチュアである。



『河童』には人間の国からこの河童の国へ迷いこんだ「僕」が出会うさまざまな河童
が描かれているが、その河童たちはそれぞれに芥川自身のカリカチュアであった。
マッグの『阿呆の言葉』は、『侏儒の言葉』の抜粋とでもいうべきもので、この時期
の芥川が『侏儒の言葉』のどんな言葉を重視していたかを知ることが出来る。さらに
その幾つかにはクラバックが爪で印をつけている。
 音楽家で詩も書くクラバックは、ロックの「何か正体の知れないものを、――言わ
ばロックを支配している星を」恐れていると言う。「ロックは僕の影響を受けない。
が、僕はいつの間にかロックの影響を受けてしまう」ロックはいつも安んじて自分だ
けに出来る仕事をしているのに、自分はいらいらする。「それはロックの目から見れ
ば、或は一歩の差かも知れない。けれども僕には十哩も違うのだ」このクラバック
に、芥川の志賀直哉に対する羨望を見ることも出来るだろう。『歯車』の芥川は「主
人公の精神的闘争は一々僕には痛切だった。僕はこの主人公に比べると、どのくらい
僕の阿呆だったかを感じ、いつか涙を流していた」と書いている。『文芸的な、余り
に文芸的な』に志賀を論じたのは、『河童』脱稿直後だった。『河童』執筆中の芥川
は志賀を思い浮かべていに違いないのである。
 しかし、『歯車』で述べられた「僕自身の肖像画」というのはどの河童であろう。
 家族をぶら下げて、息も絶え絶えに歩いている河童を指さして、トックは「見給
え。あの莫迦げさ加減を!」と言う。トックは当り前の河童の生活ぐらい、ばかげて
いるものはないと信じていた。「親子夫婦兄弟などと云うのは悉く互に苦しめ合うこ
とを唯一の楽しみにして暮らしている」のであり、「殊に家族制度と云うものは莫迦
げている以上にも莫迦げている」と信じていたのである。この河童の犠牲精神に感心
する「僕」をトックは軽蔑し、「ふん、君はこの国でも市民になる資格を持ってい
る。……時に君は社会主義者かね?」と言う。トックは昂然として自分は超人(直訳
すれば超河童)だと言い、芸術についても「芸術は何ものの支配をも受けない、芸術
の為の芸術である、従って芸術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなけれ
ばならぬ」と信じているのであった。
 しかしこのトックは、やがて幻影と不眠に苦しむようになり、ピストル自殺を遂げ
る。超人と信じた彼は超人ではなかった。ある時、幸福そうな家庭団欒の様子を垣間
見て、やはり羨しさを感じると言う。その後偶然に出会ったトックは、しきりに汗を
ぬぐい、「この二三週間は眠られないのに弱っているのだ」などと訴えていたが、突
然「おや!」と叫んで急にしがみついた。自動車の窓から緑色の猿が一匹首を出した
ように見えたのだといい、体中に冷や汗を流していた。医者のチャックに診察して貰
うように勧めるのを頑強に断り、「僕」とラップの顔をなにか疑わしそうに見比べな
がら、「僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきっと忘れずにいてくれ給
え。――ではさようなら。チャックなどは真平御免だ」と言った。そして、その後ま
もなく自殺してしまうのである。 トックは僕を軽蔑している。僕はトックのように
大胆に家族を捨てることが出来ないからというラップは、とうとう雌河童に抱きつか
れ、嘴を腐らせてしまって、家族のごたごたに疲労困憊する。このラップは、トック
が異常な振舞をしたとき、いつの間にか往来のまん中に脚をひろげて、ひっきりなし
に通る自動車や人通りを股目金にのぞいていた。そして、あまり憂鬱だから、逆さま
に世の中を眺めて見たのだが、やはり同じことだったと言った。
 このラップにも芥川の投影がある。しかし、『歯車』にいう「僕の肖像画」を『河
童』に描かれた河童たちに求めれば、やはり、自殺したトックということになるだろ
う。トックは遺書ともいうべき、「いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ」とい
う一篇の詩も残している。芥川はまた残された雌の河童や子供のことも書いている。
「どうしたのだか、わかりません。唯何か書いていたと思うと、いきなりピストルで
頭を打ったのです。ああ、わたしはどうしましょう? qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r」
(これは河童の泣き声です)」雌の河童は倒れたトックの胸に顔を埋め、大声を挙げ
て泣き、二歳か三歳かの残された一匹の河童は何も知らずに笑っている。雌の河童の
代りに子供の河童をあやしてやるうちに、「僕」はいつか涙をこぼしていた。芥川は
「僕が河童の国に住んでいるうちに涙と云うものをこぼしたのは前にも後にもこの時
だけです」と書いている。
 ガラス会社の社長ゲエルは「何しろトック君は我儘だったからね」と言い、裁判官
のペップは「何しろあとのことも考えないのですから」と言う。そして、マッグは
トックの詩はゲーテの『ミニヨンの歌』の剽窃だと指摘して、「トック君が自殺した
のは詩人としても疲れていたのですね」と言い、クラバックはトックの詩稿を握りし
めて、「しめた! すばらしい葬送曲が出来るぞ」と叫ぶ。

   5   
 自ら「超人」と称して、家族制度を侮蔑し、常人をばかにしていたトックが、なぜ
突然自殺してしまったのか。芥川も家族制度を侮蔑していたが、ラップと同様に家族
を捨てることが出来ず、疲労困憊していた。トックと同様に常人をばかにしていた
が、同時に「彼等」を恐れ、彼らの前に自己を恥じていた。また、たえず自殺の誘惑
を感じていながら、容易に自殺することが出来なかった。トックは芥川が感じている
二重三重の制約から自由だった。芥川も超自然の動物である河童の世界を描くとき、
現実の束縛、自分自身から解放されて自由であることができた。
 正義とか人道とか、河童はそんなことを聞くと、腹をかかえて笑い出す。河童の世
界は人間社会よりはるかに合理的で、進んだ社会のようだが、それだけに人間社会の
矛盾が極端な形であらわれている。それは基本的に超人間的世界であった。河童は人
間を笑い、人間は河童を笑う。芥川は河童によって解放された自由な精神で、人間社
会の因襲や、道徳を笑い、とりわけ自分自身の劣弱さを笑うことができた。
 この作品の語り手「僕」は、河童の世界では異邦人だったから、河童の世界に責任
を負う必要はなかった。また、精神異常者で精神病院にいるのだから、人間世界に責
任を負うことことも求められなかった。芥川はこのような「僕」に変身することに
よって、「出て行け!この悪党めが!貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、
うぬ惚れきった、残酷な、虫の善い動物なんだろう。出て行け! この悪党めが!」
と思い切って叫ぶことができた。
「玄鶴山房」で苦しんだのは、芥川自身が生きている現実、芥川の精神と生活を束縛
する家族制度の現実を描かなければならなかったからである。もちろん、年老いた画
家の堀越玄鶴を主人公とし、しかもそれを外部から描く虚構によって、自己の現実と
まともに対決する困難を避ける工夫はしていた。しかし、書き進むうちに自己の問題
が露出してきて、身動きならなくなったのであった。この困難を避けるところに『河
童』は成立した。
 『歯車』には「新しい小説」にとりかかったときのことが、前記のように「ペンは
僕にも不思議だったくらい、ずんずん原稿用紙の上を走って行った」と語られてい
る。『河童』を書くことによって、虚構の現実を生き、人間世界を離脱し、現実に生
きる人間としての自分自身から解放されたからであろう。しかし、「二三時間の後に
は誰か僕の目に見えないものに抑えられたようにとまってしまった」というのは、現
実の錘が「僕」の自由に飛翔する想像力をはばんだのだと思われる。超人間的自由と
人間的な現実の錘の葛藤が『河童』の世界の背後にあり、それがこの作品にリアリ
ティを与えている。
「僕はやむを得ず机の前を離れ、あちこちと部屋の中を歩きまわ」るが、やがて「野
蛮な歓びの中に僕には両親もなければ妻子もない、唯僕のペンから流れ出した命だけ
あると云う気になっていた」。芥川は「僕の誇大妄想はこう云う時に最も著しかっ
た」と書いている。この「誇大妄想」とは、『河童』のトックが主張した「芸術は何
ものの支配をも受けない、芸術の為の芸術である、従って芸術家たるものは何よりも
先に善悪を絶した超人でなければならぬ」というような超人の思想をさすのであろ
う。しかし、このようなトックの思想は、いつも「トックの信ずる所によれば」とい
う形で紹介されている。それはトックを支える信念であって、疑うことのできない真
理ではなかった。芥川自身についていえば、常人に絶望し、超人を夢見たけれども、
彼らが「いずれも一時代を、――あるいは社会を越えられなかった」(「西方の
人」)ことを知っていた。「超人」はついに悲劇をまぬがれない。トックの自殺は避
けられなかった。しかし、芥川は暗澹たる現実からの脱出を求めて、しばらく、この
「誇大妄想」の夢に酔い、この空想の世界で、自己を否定し、嘲笑し、ついにはトッ
クに、自分自身は容易に実現できない自殺までさせてしまう。さらにトックは死後の
名声が気になって幽霊になって出てくる。高揚した芥川はこのような自分を滑稽なも
のとして描くことが出来た。
 しかし、「誇大妄想」の夢にも疲れた。「le diable est mort」(悪魔は死んだ)
人間世界を離脱し、空想の世界を飛行させた「悪魔」が死に、「誇大妄想」的な夢か
らさめた時、芥川は『河童』を生んだ暗澹たる現実に帰らなければならない。『河
童』につづいて「歯車」が書かれる。「歯車」は姉の夫の死にうちひしがれて、疲労
困憊、幻覚におびえながら、東京の街を幽鬼のようにさまよう作家の物語である。
「ヴェロナァル、ノイロナァル、トリオナァル、ヌマアル……」「こう云う僕を救う
ものは唯眠りのあるだけだった。しかし催眠剤はいつの間か一包みも残らずになく
なっていた」と芥川は書いている。「僕」は海岸の松林の中にある妻子と暮らす家に
帰って行くが、そこにも平和はなかった。『歯車』は「――僕はもうこの先を書きつ
づける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦
痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと紋め殺してくれるものはないか?」とい
う言葉で終っている。


 三月二十八日、鵠沼から斎藤茂吉に宛てて、「『河童』などは時間さえあれば、ま
だ何十枚でも書けるつもり」と書いている。「時間さえあれば」ということは、時間
がないということであり、自分には他にしなければならない仕事があるということに
なろう。このとき書いていたのは「歯車」である。章末に記された日付を信じれば、
この日は第三章を脱稿した日である。前記のように、第二章を前日の二十七日に書
き、第四章を翌日の二十八日に書いている。また、『改造』四月号から連載した「文
芸的な、余りに文芸的な」の原稿も書いていた。この手紙に「尊台のことなど何かと
申すがらにも無之候へども、あまりはたが歯痒き故、ペンを及ぼし候次第、高免を得
れば幸甚に御座候」と書いているのは、この『文芸的な、余りに文芸的な』「八 詩
歌」に茂吉について論及したことを指しているのであろう。四月号に発表した一から
二十までは二月二十六日脱稿の日付があり、この手紙を書いた頃に五月号に発表した
二十一から二十八までを書いていたと思われる。つまり、『河童』脱稿直後から大変
な速度で書き進み、『歯車』執筆と前後して、その続稿をこれも大変な速度で書いて
いたということになる。
 このときも姉の家族の問題は片づいていない。この茂吉宛の手紙にも「来月一日に
は帰京、又々親族会議を開かねばならず、不快この事に存知をり候」と書いている。
このごたごたの中で、芥川は大変な速度で書いていたのである。芥川はこの手紙に
「蜃気楼」だけは自信があるが、これも片々たるもので仕様がないと書いている。そ
して「但し何かペンを動かし居り候へども、いづれも楠正成が湊川にて戦ひ居るやう
なものに有之、疲労に疲労を重ねをり候」と書いている。「ペンを動かし」ていると
書いて、「書いて」いると書かなかったのは、芥川がこれまでとはちがった衝動に駆
りたてられて書いていることを示していると思う。「楠正成が湊川にて戦ひ居るやう
なもの」という言葉は、死を覚悟し、勝利の見込みなく、最後の作品のつもりで書い
ていることを示している。
『歯車』はその第一章だけが『大調和』六月号に発表されて、第二章以下は死後に遺
稿として発表された。いつも締め切りに追われて四苦八苦していた芥川としては珍し
いことである。宮坂覚の作成した年譜(『芥川龍之介事典』所収)によれば、四月七
日、『歯車』最終章「六 飛行機」を脱稿後、帝国ホテルに向うが、そこで平松麻素
子と心中する予定だったという。もともと『歯車』は、すくなくとも第二章以降は生
前に発表するつまりはなかったのではないか。それは『或る阿呆の一生』と同じく、
最初から遺稿として死後に残すつもりだったのではないかと思われる。芥川は多くの
作品に執筆の日付を残しているが、『歯車』は一日に一章ずつを書き、その一章ごと
に日付を記している。大量の睡眠薬を用い、いつ死ぬかもわからない状態で、一日一
日を生きていたのだから、その各章をそのまま遺書のつもりで書いていたのではない
だろうか。
『或る阿呆の一生』末尾の「五十一 敗北」に芥川は「彼はペンを執る手も震へ出し
た。のみならず涎さへ流れ出した。彼の頭は〇・八のヴエロナアルを用ひて覚めた後
の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時
間か一時間だつた。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこ
ぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら」と書いている。これは死の直前のことであ
るが、『歯車』執筆当時も同様だったのではないだろうか。『歯車』には右の目に歯
車を感じた「僕」が、「頭痛のはじまることを恐れ、枕もとに本を置いたまま、〇・
八グラムのヴェロナァルを嚥み、兎に角ぐっすりと眠ることにした」という記述があ
る。
「一休禅師は朦々三十年と申し候へども、小生などは碌々三十年、一爪痕も残せるや
否や覚束なく、みづから「くたばってしまへ」と申すこと度たびに有之候。御憐憫下
され度候」と芥川は茂吉に書いている。また、「この頃又半透明なる歯車あまた右の
目の視野に回転する事あり、或は尊台の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎」
と書いている。芥川は精神病を恐れていた。「緑いろの猿」の幻覚におびえ、医者の
チャックに診察して貰うように勧められた『河童』のトックは、「――ではさような
ら。チャックなどは真平御免だ」と言って去っていったが、この後まもなく自殺を遂
げるのである。『歯車』の「僕」は、歯車の幻覚をはじめさまざまな異様な経験を聖
書会社の屋根裏で暮らす老人に語りたい誘惑に駆られるが、それが妻子に伝わること
をおそれて、沈黙をまもる。「僕も亦母のように精神病院にはいることを恐れない訣
にも行かなかった」「そこへはいることは僕には死ぬことに変らなかった」と『歯
車』の芥川は書いている。発狂を恐れ、死を思いながら、芥川は自分の生涯を思い返
し、正成の湊川の戦いを思いながら、「ペンを動かして」いた。
 茂吉宛のこの手紙を書いた三月二十八日は、芥川が各章の末尾に付記した日付によ
れば『歯車』の「三 夜」脱稿の日である。もっとも、この時はまだ『歯車』という
題名もきまっていなかった。一つの作品としての構想もなかったのではないかと思わ
れる。「東京の夜」とか「ソドムの夜」とかいう題が考えられていたというが、ここ
には東京の現実もなければ、ソドムの現実もない。姉の夫の自殺後の跡始末に奔走す
るが、「僕」をおびやかす幻影としての姉の夫はくりかえし出てきても、客観的な存
在としての彼の像は明らかでない。姉との会話も事件の本質にかかわるものはなく、
姉が何を考え、どのように生きようとしているかは明らかでない。「僕」が姉をどう
考えているのか、またこの事件をどう解決しようとしているのかわからず、この事件
をめぐる家族会議や、債権者その他の関係者たちとの交渉もまったく描かれない。こ
れらの現実はこの作品からすべて排除されている。そもそも「僕はあらゆる罪悪を犯
していることを信じていた」と言い、「僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた一人に違い
なかった」と言うが、その「罪」がいかなるものかは明らかにされていない。
 この作品は「玄鶴山房」と同じく、第一章と最終章が外部の世界を描いているが、
第二章から第五章までは、ひたすら「僕」の内部の想念の世界が描かれている。公園
の樹木はダンテの『地獄』にある樹木になった魂を思い出させる。東京の街を歩いて
も、東京の街を東京の街として見ることなく、東京の街、そこに生きる人々と具体的
な関係は切断されている。東京の街を歩くうちに松林を思い出し、絶えず廻っている
半透明の歯車を見る。彼は現実を生きていない。何一つ現実に働きかけることができ
ない。彼は宿命にうちひしがれ、自己をうしない、幽鬼のように、地獄と化した東京
の街を彷徨する。地獄の責め苦を逃れ、少しでも安らぎを得ようとするが、平和を求
めれば求めるほど、いっそう不安をかきたてられ、罪の呵責に苦しめられる。本屋に
並べられた本も、いずれも彼を告発し、鞭うつのである。彼はまともに本を読むこと
もできない。
 芥川はいたるところに現出する地獄の苦しみをさまざまに書きつづりつづけたが、
地獄の現実はすこしも描かなかった。彼はどのような「罪」のために、こういう地獄
におちなければならなかったのか。「僕はラスコルニコフを思い出し、何ごとも懺悔
したい欲望を感じた」というが何を懺悔しようというのか。『歯車』二は「復讐」と
題されている。「僕」は本屋で手にした子供むけの「希臘神話」で偶然読んだ「一番
偉いツォイスの神でも復讐の神にはかないません。………」という一行に衝撃を受
け、この本屋を出て人ごみの中を歩いていっても、「いつか曲り出した僕の背中に絶
えず僕をつけ狙っている復讐の神を感じ」つづける。しかし、なぜ彼は「復讐の神」
を恐れなければならないのか。
「三 夜」には友人と女の話をする場面があり、「僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた
一人に違いなかった。が、それだけに悪徳の話は愈僕を憂鬱にした僕は一時的清教徒
になり、それ等の女を嘲り出した」と述べられている。そして、「S子さんの脣を見
給え。あれは何人もの接吻の為に……」と「僕」は言い、その友人が「僕」の秘密を
知ろうとして絶えず注意しているのを感じたことが記されている。そして、夢の中で
汽車に乗った「僕」が「或寝台の上にミイラに近い裸体の女が一人こちらを向いて横
になって」いるのに出会う場面があり、「それは又僕の復讐の神、――或狂人の娘に
違いなかった。……」と書かれていいる。この夢にはまた、田舎の停車場で年をとっ
た女と出あったことも記され、「彼女と話していることに或愉快な興奮を感じた」と
述べられている。またこの夢では妻に出会った「僕」が「烈しい後悔を感じた」こと
も記されている。これらの記述は「僕」の「後悔」、「僕」の「罪」がこの女性たち
に関係するものであることを暗示するが、それ以上の記述はなく、すべては秘密の
ヴェールに包まれているのである。
 すべてを告白し、懺悔しようとしながら、どうしてもそれが出来ない弱さ、芥川は
自分の生涯を振り返り、すべてを隠蔽し、虚偽のうちに生きてきた自分を恥じなけれ
ばならなかった。芥川は「僕」が「暗夜行路」を読み、強く打たれたことを記し、前
にも引用したが「主人公の精神的闘争は一々僕には痛切だった。僕はこの主人公に比
べると、どのくらい僕の阿呆だったかを感じ、いつか涙を流していた。同時に又涙は
僕の気もちにいつか平和を与えていた」と述べている。『河童』の「僕」が涙をこぼ
したのはトックが自殺した時に、残された幼な子が何も知らずに笑っているのをあや
していた時だけだった。常に世間を意識して、弱さを恥じ、自己を隠蔽し、虚栄を
張って生きてきた芥川は、涙を恥じ、涙を馬鹿にして生きてきた。知的な自己を誇
り、民衆を嘲笑して生きて来た。しかし、それは世間を恐れ、民衆を恐れる自分の弱
さではないか。自分は自分を生きて来なかった。芥川は自分の弱さを恥じ、弱さを恥
じる自分を恥じた。恥の意識は二重三重に限りなく輪をえがき、内へ内へととぐろを
巻き込んでいく。そこには最初に述べた「十本の針」の苦悩がある。「生れざりしな
らば」という嘆きは芥川自身のものであった。
 罪はあれこれの女性との世間的に非難される関係にあるのではなかった。彼のこれ
までの生存のすべて、彼の生き方そのものにあった。「先生、A先生、――それは僕
にはこの頃では最も不快な言葉だった」と芥川は書いている。「あらゆる罪悪を犯し
ていることを信じていた」彼は、「そこに僕を嘲る何ものかを感じずにはいられな
かった」という。かつての自分の言説、自分の作品がすべて自分を嘲るものになり、
自分を刺すのである。こう生きてくるのではなかったという後悔がある。しかし、他
にどんな生き方があるのか。一切の自信を奪われ、過去の自分を空虚な無意味なもの
と思う。しかし、これを否定し、乗りこえる新しい生き方を見出すことが出来ない。
彼は宿命を思い、宿命におしつぶされる自己の生存の空虚を切実に感じ、限りない不
安と恐怖に支配された。
 このような自分から脱出し、どこにも出口のない暗闇の地獄にもがく自分と自分を
取りまく人間世界のすべてを嘲笑しようとして書いた『河童』の世界も、永く安住す
ることのできる世界ではなかった。河童の世界もまた虚偽の世界であった。「誇大妄
想」の夢から覚めてみれば、いっそう強く、自己の空虚、自己の虚偽を意識し鳴けれ
ばならなかった。しかし、自己の存在を罪悪として、限りない罪悪感に苦しみ、それ
故にさまざまな病気と神経障害に悩まされる芥川は、現実ともっとも真面目に取り組
もうとしていたのだった。現実と真面目に取り組もうとすればするほど、ますます自
分の罪に苦しまなければならない。それが芥川だった。


「先生、A先生」と呼ばれて、自分を嘲る「何ものか」を感じた「僕」は、元来、自
分はそんなものを信ずるはずの人間ではないと思う。「僕の物質主義は神秘主義を拒
絶せずにはいられなかった」と芥川は書いている。つい二三箇月前にも或小さい同人
雑誌に「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは
神経だけである」という言葉を発表していたというのである。この言葉は『侏儒の言
葉』(遺稿)にもはいっているが、『歯車』ではこのような言葉がゆらいでいるので
ある。それを良心と呼ぶことは出来ない。良心という言葉は観念的な虚構であると思
われる。やはり、神経というべきだろうか。しかし、自己を超えるもの、自己を裁く
ものの存在が彼を脅かしはじめ、彼は自己を裁き、自己を否定せずにはいられなくな
っている。彼の存在を根底から否定するもの、彼を裁き、彼を罰するものはなにか。
『侏儒の言葉』(遺稿)ではこの言葉は「わたし」と題して、「人間的な」「罰」
「罪」につづいて記されている。芥川はこの「罪」の項に「道徳的並びに法律的範囲
に於ける冒険的行為、――罪は畢竟こう云うことである。従って又どう云う罪も伝奇
的色彩を帯びないことはない」と書いた。そして、「わたしは良心を持っていない。
わたしの持っているのは神経ばかりである」と述べたのである。ここには道徳に縛ら
れる芥川がいて、そういう自分に逆らうように、善悪の彼岸にたつ「超人」のポーズ
を示しているように思われる。
『侏儒の言葉』の芥川はまた「幻滅した芸術家」と題して、「或一群の芸術家は幻滅
の世界に住している。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行
者のように無何有の砂漠を家としている」と書いている。しかし、芸術はこのような
幻滅の彼方に咲く花である。「百般の人事に幻滅した彼等も大抵芸術には幻滅してい
ない。いや、芸術と云いさえすれば、常人の知らない金色の夢は忽ち空中に出現する
のである。彼等も実は思いの外、幸福な瞬間を持たぬ訣ではない」と述べている。
『歯車』の芥川はこういう自分に嘘を見た。自分に嘘を見ただけではなくて、ストリ
ンドベリーにもメリメにも嘘を見た。『河童』では、トルストイも自分の嘘に堪えら
れず、自殺を思わずにはいられなかったと、生命教の長老に語られている。すべてに
嘘を見る芥川は真実を求めていたのであろう。しかし、その真実はどこにも得られな
い。求めれば求めるほどそれは遠ざかっていく。『歯車』の「僕」は神に背いて地獄
の底で、飢えと渇きに苦しむタンタルスに自分を見る。そして、「あらゆるものの淌
であることを感じ出した」と芥川は書いている。「政治、実業、芸術、科学、――い
ずれも皆こう云う僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった」
というのである。しかし、この嘘と戦おうとするのでなければ、あらゆるものに嘘を
見つけることは、憂鬱を増すばかりであった。
 なぜ、芥川はこの嘘と戦わなかったか。せめても、この嘘を具体的に描き出さなかっ
たのか。「或る旧友へ送る手記」(遺書)に、『或る阿呆の一生』の中にも「僕に対
する社会的条件、――僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書
かなかった」と書いている。『或る阿呆の一生』は芥川の死にいたる生涯を鮮明に描
き出した作品であるのに、何故「僕の上に影を投げた封建時代」のことだけは「故意
に」書かなかったのか。芥川はその理由を「我々人間は今日でも多少は封建時代の影
の中にいるからである」と述べている。そして「社会的条件などはその社会的条件の
中にいる僕自身に判然とわかるかどうかも疑わないわけにはゆかないであろう」と述
べた。このように考えるなら、妻のことも養父母のことも、自分の周囲の現実すべて
が書けなくなり、現実から切り離された自己の内心の苦悩ばかりが描き出されること
になる。
『歯車』には「僕」が計画していた長編を考えるところがある。「それは推古から明
治に至る各時代の民を主人公にし、大体三十余りの短篇を時代順に連ねた長篇だった」
という。しかし、「僕」が「甲冑を着、忠義の心そのもののように高だかと馬の上に
跨って」いる「宮城」の前のある銅像を思い出したことを書いた芥川は、「しかし彼
の敵だったのは、――」と書いたところでで行をかえ、「淌!」と書いて、「僕は又
遠い過去から目近い現代へすべり落ちた」と書いている。楠正成の忠義の伝説そのも
のが嘘であるというのか、彼の忠義が南朝への忠義であり、今の天皇が北朝の血統で
あるのに、今の天皇に対する忠臣であるかのように、「宮城」の前にその銅像がてら
れていることに嘘を感じたのか、さらに、そこに正成を讃美する天皇中心の嘘の歴史
をでっちあげて、国民の忠義をあおりたてようとする明治天皇制の嘘を感じたのか、
すべて不明にしたまま、このエピソードは打ち切られる。
 この嘘を追及することは芥川にはできなかった。それは「或る旧友へ送る手記」に
書かれたような理由によるとだけは考えられない。芥川は「封建時代の影」、現代を
支配する天皇制権力を恐れていた。芥川と社会主義についてはさまざまに論じられて
いる。今はそれについて論ずる余裕がないので、別の機会に論じたいが、芥川は社会
主義の必然を信じ、プロレタリア革命が遠からず実現すると思っていた。しかし、天
皇制権力を恐れた芥川はプロレタリア権力をも恐れていたのではないかと思う。それ
以上に、社会主義理論を振りかざし、意見を異にするものを容赦なく階級敵として断
罪する理論家や文学者たちをおそれたのではないかと思う。『歯車』の末尾に芥川は、
海辺の砂山にブランコのないブランコ台があり、そのブランコ台を見てたちまち絞首
台を思い出す「僕」を描いている。これも前に引用したが、『或る阿呆の一生』の『歯
車』と重なる章「四十六 淌」に芥川は「絞罪を待つてゐるヴイヨンの姿は彼の夢の
中にも現れたりした」と書いている。彼を処刑する者は誰か。これに関連して、芥川
とキリストとの関係、『歯車』と平行して書かれた『文芸的な、余りに文芸的な』の
意味も考察しなければならないが、これも別の機会を待つほかはない。

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