『心』論の前提
 ―送籍・徴兵忌避をめぐって―
                   水 川 景 三
 
 大正三年四月二十日から東京、大阪両『朝日新聞』に連載が開始された『心』は、同年八月十一日(『東京朝日新聞』、『大阪朝日新聞』は八月十七日)連載が完結した。
 そして『心』は岩波茂雄の要請を入れ、岩波書店よりの自費出版とする事にし、脱稿早々の八月九日には、自装本としての体裁を決定し、十月に岩波書店から刊行された。(@)
 刊行本表見返しの裏にはars longa,vita brevis(ラテン語で「芸術は永遠で人生は短い」)との自作の印をはさむなど、漱石のこの作への自信と愛着がうかがわれる。
 発表以降『心』は、人間の逃れられぬ「エゴイズム」を徹底的に克明にえぐり出した作者漱石の求道的側面への賛嘆の声、人間の持つ原罪的なものをゆるがせには出来ない「先生」の倫理的潔癖性の評価、そしてそれを若き世代「私」が全身全霊をあげて衝撃を持って受け止めるというストーリー展開の緊張感、作品構成の緊密度に対する評価などに取り巻かれてきた。
 例えば江藤淳氏は「「心」は佳篇である。その全編にみなぎっている、透徹した静謐ともいうべき調子は、自らの主題を的確に、冷静に掴んでいるものの筆から生れるものである。これほど非感傷的に、人間的愛の絶望的陰影を描いた小説は少い。漱石はさながらストア派の哲人が、迫り来る死を語るように、淡々と、しかも沈痛に、「愛」の不可能性を立証する。」(『決定版夏目漱石』昭和四十九年・新潮社)と論じた。
 また、吉田精一氏は「主人公の倫理的感情から来る、人間に対する、あるいは世間に対するあいそづかし、もしくは孤独な厭世観が、ついに自殺にまで追いつめられ、そして自殺によって先生の人格が完成されるに至る経過は、あまりに倫理的にすぎるとの非難をあびるかも知れないが、一応読者に疑問を起こさせないほどの用意と筆力をそなえている。」(『鴎外と漱石』昭和五十六年・桜楓社)とこの作を評している。
 こうした硬直しているともいえる『心』の読みに対して小森陽一氏は反発を感じ、「読者の私」自身に開かれた読みを提起したのは今からほぼ十二年前の昭和六十年の事であった。
 小森氏は「ある意味では官民一体となった形で、「道義」とエゴイズム、恋愛と友情、信と不信といった二項対立的な枠組みが、「正しい(ヽヽヽ)」解読格子として設定され、その二項対立を止揚するものとして「明治の精神への殉死」といった、欲望を禁忌の中におし込める、精神と倫理の優位性に裏打ちされた死の美学に、普遍的価値が与えられてきたのである。」と論じ、『心』という作品から定説的解釈、定説的漱石像を取り除き、作品と作者を関連させることを排除した読み手中心の解釈を示した。
 その必然の結果というべきか氏の論では「今の「私」に「貰ツ子」ではない子供がすでにいることを暗示してもいる」とまで踏み込んだ解釈を示し、「〈「奥さん」―と―共に―生きること〉」を選んだ「私」の「自由な人と人との組合せを生きる」その後の人生を予想した。(A)
 「精神と肉体を分離させてしまった」先生、「欲望を禁止と欠如の枠に囲い込み、その欲望の源でもある身体を抹殺しようとする衝動」にとりつかれた先生のありようへの論者の批評は、その反措定として「禁止」から逸脱し「欠如」を充填すべく、「奥さん」と「私」との間の「欲望(性(ヽ)欲と生(ヽ)欲)」をすくい取る方向へと赴かざるを得なかったのであろう。
 また、従来論じ難かった『心』から『道草』への転調という問題についても、「欲望」を解き放った『心』の最終地点から『道草』への距離は遠くは無いという説明が出来そうにも思える。
 しかしながら、そこに人間漱石は、どのようにして位置づけられるのであろうかという疑問を私は持たざるを得ない。
 何故漱石は『心』を書いたのか。漱石にとって『心』の意味は何なのだろうか。
 友を裏切り、それに対する自責の念を持ち続けつつその裏切り行為が暴露することを極端に恐れ続けるという「先生」に漱石自身の徴兵忌避に対する罪意識とその事実が暴露する事に対する恐れ、そして「先生」の自殺に作品上の贖罪行為を読みとったのが丸谷才一氏の「徴兵忌避者としての夏目漱石」(『展望』昭和四十四年六月号)であった。
 氏の論は作家らしく、『心』創作に当たっての漱石の内面考察を中心とする。そしてその中心を、徴兵忌避という犯罪を犯し、当時の国家や徴兵され戦死した若者たちへの申し訳なさが「無意識ないし半無意識の層において、長い歳月をかけてゆっくりと育って行った」、それを告白したくてしようがなくて書いたという点に置く。 
 この論が発表された当時反響、反論もあったようであるがその後深められて行った様には思われない。(B)『心』の背後に隠された作家漱石の素顔の一端を検証してみるのも『心』という作品を読み深める上で無駄ではないように思われる。
 
 明治二十五年四月五日分家・北海道送籍
 
 漱石の北海道への送籍の理由、その詳細な事情については、定説的なものがない。以下その間の事情を漱石自身の発言その他から探ってみることにする。
 漱石の北海道への送籍について、漱石自身は早く次のように語っている。
 
   子供は真実に油断は出来ぬ。親の知らぬ中に親の秘事でも何でも嗅付けるから驚く。先日も矢張小学校へ行ってる長男が先生から徴兵忌避は国民の恥辱である、此国民たる義務を遂行しなくては忠良の日本国民ではないと云ふ様な意味の話を聞かされた時、長男がスット立ち上がって「ダッテ先生、私のお父さんは北海道へ行って徴兵を逃れたのですがお父さんは日本国民ではないのでしゃうか」と先生に質問を浴せた。先生グッと行詰まって暫く黙って居たが漸く思付いて「イヤ、あなたのお父さんは外の方で国家のお為になりなさる方だからそれでいゝのです。だが他の方がソンナことをなさる様であったら必ず諫めて上げなさい」と教へたそうだ。これは後に他の人から聞いたのだが父が北海道に転籍して徴兵忌避をしたなぞ誰が教へたものだか実際驚か[さ]れる。「夏目博士座談 徴兵忌避問答」(明治四十四年六月二十日『高田日報』)(C)
 
 この談話中の「小学校へ行ってる長男」というのは、漱石の勘違いか(考えにくいが)、漱石自身の朧化的表現か、『高田日報』記者の聞き違い、若しくはスキャンダル的効果をねらった脚色であろう。長男純一が暁星小学校に入学するのは大正三年四月である。
 また、これと同内容の話は漱石の死の直後緊急にまとめられ刊行された『新小説』の臨時号「文豪夏目漱石」(大正六年一月二日・春陽堂)の中に本多嘯月の回想記として次のように掲載されている。
 
   或る時、私は三重県の人物史伝を書くことを或る人からたのまれて、何となく紳士録に目を通すと、夏目金之助といふ名を其紳士録に探り当てた。不図見ると北海道に籍を置いて居られる。私は江戸ッ子とばかり信じ切って居た先生が北海道はをかしいとおもって、先生へお伺ひした時におたづねした。すると先生は、「君は能く僕の身許をいろいろと探ってくるね、仰せの通り北海道だ。それには些(ママ)細があるので、北海道といふ処も知らない僕が北海道に籍があるなぞは不思議だが、それは昔気質の僕の親が丁度徴兵令の更った時分に養子にやったのださうだ。併しつまらぬ話は出来ないもので、これに付てつひ此間をかしな話がある。自家の娘が女学校に行くが、それが学校で先生の話に、日本国民の男子はすべて兵役の義務がある、然るに世間では兵役に服する事をどうかすると嫌ふ者がある。不心得な事で、皆さんも大きくなって家庭の主婦となられたら皆さんのお子にかやうな不心得の男の子のないやうにせねばならぬ、それは主婦たるべき皆さんがさうした心がけを、今から平常に養って置かなければならぬ。といふやうな意味の教訓をした。すると小児は無邪気なもので、いつか北海道か何かの話から、自分の昔を話したことでもあって、それを聞き囓ってでも居たものか、娘は教師に向って、妾のお父さんは徴兵除けに昔北海道に養子に往ったさうです、それは甚だ不心得で国民の義務に反しますね、とやった。教師もこの質問には困られたと見えて、それは人に由るので、貴娘のお父さんは例令(ママ)兵隊に出ないでも、文学といふ立派な事業を有って国家に貢献して居られるからそれでよろしい、立派に国民の義務を其方面で尽して居られる方は、国民の義務に背いては居られないのです、といはれたさうだ、こんなことがある。君などは小児がないからいゝが、小児には滅多なことは聞かされないよ。と笑ひ話をされた。
         「夏目先生と春陽堂と新小説其他」(D)
 
 本多嘯月のいう「或る時」とはいつ頃なのか、また漱石のいう「つひ此間」とはいつなのか明確ではないが、「自家の娘が女学校に行くが」という言葉を信用すれば、長女筆子が日本女子大学付属高等女学校に入学するのが明治四十五年なので、それ以降のことになる。
 更に、北海道に本籍があることについては、『極北日本』(高原蟹堂(操)著 大正元年十二月・政教社)序に明らかにしている。
 
   余は東京の場末に生れたものであるが、妙な関係から久しい以前に籍を北海道に移したぎり、今に至って依然として後志国の平民になってゐる。原籍のある所を知らないのも変だと思って、機会があったら一度海を超えて北の方へ渡って見たい積でゐたが、つい積計で実行の決心は容易に出来ず、来る年来る年を荏苒と暮らして仕舞った。(E)
 
 以上が漱石自身の北海道送籍についての発言と記述のほぼすべてである。送籍した理由については、漱石自身は微妙にぼかした形でしか述べていないことに注意が必要であろう。徴兵忌避が目的らしかったとは匂わせながらも自分で決断実行したことだとは断定はしていない。
 とにかく丸谷氏が言われるような重大な罪意識があるようには感じられない。
 しかしながら『高田日報』、本多嘯月への打ち明け話は重複しており、更に『極北日本』(大正元年十二月・政教社)序文で「妙な関係から久しい以前に籍を北海道に移した」と書けば当時の読者には徴兵忌避目的とすぐにわかる筈のことであっただろう。北海道への送籍は漱石の心中にある位置を占めている事柄であったのは疑いがない。漱石の発言が記録されたとおりであったとすれば、事実関係のゆれは何を示しているのか。おそらくは、当時の「小学校」でも「女学校」でもそうした国家主義的教育のひずみが生み出すエピソードが多くあったということを我が子の例を引き合いに出して語ろうとしているのではないかと思われる。
 実は、このエピソードの張本人は、長女筆子によるものである。
 関口安義氏は筆子生前中直接取材し、この件についての話を聞き取っている。(関口安義『評伝松岡譲』平成三年一月二十日・小沢書店)
 それによると、筆子が「早稲田小学校三年生の時」に前記のようなことがあり、「筆子は学年の修了証に毎年「北海道平民夏目筆」とあるのに不審を抱き、矢来の伯父さんに問い、父の徴兵忌避のことを知っていた」との事である。
 付け加えるならば、私が筆子の三女松岡陽子マックレイン氏に問い合わせたところ、「うら覚えでその真偽に全く自信がないのですが」「小学校の時ある日先生が『お国の為に軍隊で働くことは大変大切なことだ』というようなことを言われたそうです。その時母が手を上げて『家の父は兵役を逃がれるためにわざわざ北海道に籍を移しました。これはよくないことだと思います』と生意気なことを言ったところ先生が困って『でも貴女のお父様は他のことでお国の為に尽くしていらっしゃるからいいでしょう』と仰ったそうです。母が、あんなことを言わなくていいのにどうして言ったのだろう、きっと父親が国家の義務を果たさないことに子供心にも少し罪を感じたのかもしれないと言っていたように覚えています」とのご返事の御手紙を頂いた。
 この件を筆子から直接聞いたか、他の誰かから聞かされたのかは不明だが、漱石は驚天動地の体で否定はしていない様子である。筆子がこの件に関して、むしろ父に対して済まないように感じていることは、漱石にこのことで叱られたりはしなかったことを示すであろう。つまり徴兵忌避は事実であるものの、それを暴露されて困る様な心情にはなかったということではないか。むしろ、当時の学校教育、或いは周囲の社会情勢が猛烈に国家主義的に傾きつつあることへの危機意識、嫌厭の情といったものが大きかったのではないかと思われる。学校関係者、級友、或いはその保護者よりの激烈な反発、抗議、問い合わせがあったのではなかろうかと想像される。
 筆子は、明治四十年九月一家が牛込区早稲田南町七番地に転居したのに伴い誠之小学校から早稲田小学校二年生に転校し、明治四十一年早稲田小学校三年の時、先の件が起こっていることになる。そして、翌明治四十二年四月には、日本女子大学付属小学校に転じている。軍国主義教育の蔓延している公立の教育を忌避する気持ちが漱石になかったとは言えないだろう。
 当時の公立の学校教育と私学教育の状況の違いについては、検討を要する事項であるけれども、この後筆子を含めて子供たちが私学に学んだこと、それは、鏡子とともに漱石の意向が強かったことも見逃せない事実である。(F)
 事実関係を押さえておくと、明治二十五年四月五日に牛込区喜久井町一番地から同区馬場下町二番地に分籍届出、同日馬場下町二番地から北海道後志国岩内郡吹上町十七番地浅岡仁三郎方へ送籍し、北海道平民となった。(G)
 その送籍の理由については、徴兵忌避説(H)が主として考えられていたが、養家塩原昌之助は「塩原金之助が夏目金之助となったとき、夏目の父は後を恐れて、すぐに金之助の籍を北海道の親戚のうちに一時仮り入れた事実もあった」と述べて養家との紛争を避ける為の父直克の一時的措置であったとの考えを提出している。(関荘一郎「「道草」のモデルと語る記」(『新日本』第七巻第二号、大正六年二月・冨山房)(I)
 また、江藤淳氏は三度目の妻みよを迎えるに際しての「兄の仕打ちに対する拒否の表現」であり「嫂登世への深い思慕のために、新しい嫂と戸籍を同じくすることをいさぎよしとしなかったため」の分籍が主たる目的だったとの考え方を提出している。(J)
 いずれにせよ「北海道」が送籍先に選ばれており、明治二十五年段階ではその地に本籍を有する者は徴兵が免除されていたことは決定的な事実である。(K)
 そして漱石の北海道送籍が「徴兵忌避」によるものであると証言しているのが「矢来の伯父」(前記関口安義『評伝松岡譲』)つまり直矩である点も見逃せない。
 直矩は明治二十年に大助、直則の両兄が共に肺結核で死去するのに伴い、同年七月十三日夏目家の家督を相続し戸主となっている。 家族の戸籍移動については、当然戸主が監督すべきもので、漱石は兄の直矩に直接相談の上、徴兵が心配だということを申し述べた上で分籍、更に北海道送籍という事を行ったのであろう。
 従って前記本多嘯月への打ち明け話中の「昔気質の僕の親が丁度徴兵令の更った時分に養子にやったのださうだ。」というのは、嘘言の可能性がある。
 ただ江藤淳氏が「金之助は三度目の嫂みよが入籍される十日前という日を選んで分家する必要は少しもなかった」(『漱石とその時代』)と述べているように、いかにも慌ただしく事を進めている感じがするのは否めない。
 しかし翌年に帝大卒業を控え、徴兵猶予が切れることになる漱石自身の徴兵に対する嫌悪、心配が昂じて何とか自由に動ける春期休業中にけりをつけてしまおうと焦った上でのやり方と考えれば納得は行く。荒正人氏の『増補改訂漱石研究年表』(昭和五十九年・集英社)によれば、この年帝国大学文科大学春期休業は四月七日までで、八日から第三学期が始まっている。
 尚、分籍先の牛込区馬場下町二番地とは如何なる場所なのか。荒正人氏の『増補改訂漱石研究年表』には「元来、牛込の馬場下町と馬場下横町とは名主が別で、馬場下横町とは馬場下の通りから南東に入る横町を云い、その横町の角は馬場下町二番地であり、そこにあった酒屋小倉屋のすぐ裏が名主夏目家の屋敷であって、これを馬場下横町改め、喜久井町の一番地となし、横町の道(夏目坂)の登りに従い、二番地、三番地としたものである。」(L)と注記があり、これでみると例の『硝子戸の中』十四、十九に登場する「小倉屋」のある場所が相当する。(『草枕』(七)では「万屋」という酒屋として登場している。)
 『増補改訂漱石研究年表』によると、明治十三年一月二十九日馬場下町四番地から出火、この辺り一帯三十八戸が類焼した。その結果夏目家はどうなったのか、また「小倉屋」はどうなったのか詳細は未確認である。
 荒正人氏は同項に一家は家が類焼して「牛込区肴町五十四番地の借家に住む」と記し、石川悌二氏はそれを踏まえ、それは「仮寓で、その後また喜久井町に再建した家に戻った」と考えている。さらにその後実家の土地は直矩により明治三十年九月二七日に売り払われたことを平岡敏夫氏が『日露戦後文学の研究』(下)(昭和六十年七月二十日・有精堂)で紹介している。旧民法に於いて、家督は長子単独相続とはいえ、父直克が六月に死去して間もなく、出生の地が売却されていくのを漱石はどう見ていただろうか。漱石は、帰るべき故郷を失ってしまったと言えよう。(M)
 
 明治三十年一月二十二日吹上町から鷹台町へ移籍
 
 漱石の北海道送籍について現地調査をもとに詳しく調べたものに武井静夫氏の「夏目漱石と本籍」(『北方文芸』昭和四十四年十二月号掲載、後『後志の文学』(昭和四十五年九月十日・北書房)に「漱石の本籍」として所収)があり、その間の事情を考察しておられる。丸谷氏が『漱石の思ひ出』添付の年譜に記載されている送籍先の住所(北海道後志国岩内郡吹上町十七番地)と小宮豊隆『夏目漱石』の記す住所(北海道後志国岩内郡鷹台町五十四番地)の違いに疑問を呈していたが、武井氏の論文でその事情が次のように述べられている。
 
   岩内町役場に保存されている除籍簿を見ると、明治三十年  一月二十二日に「鷹台町五拾四番地ニ移ル」とある。浅岡仁三郎も本籍地を変更しているが、それは明治三十五年三月二十四日で、住所は岩内町大字鷹台町拾七番地である。仁三郎は、変更の届出をする前からそこに移っていたことも考えられるが、それにしても漱石の本籍地とは違うし、「浅岡仁三郎方同居」の文字も消えている。したがって浅岡仁三郎方に籍があったのは四年九か月ほどで、それ以後は鷹台町五拾四番地なのである。この移籍が妻鏡子(戸籍名キヨ。明治二十九年六月九日熊本で結婚式をあげている)の入籍した明治二十九年九月七日に近いところから、あるいは結婚を契機に、漱石自身の手で同居という不自然な形を解消したとも考えられる。
 
 常識的に考えれば、結婚に伴って新居に籍を移すというのが本来的なあり方ではないだろうか。しかし、漱石は熊本には移籍しないで北海道に原籍を置いたままでいる。武井氏は「新撰 北海道史 第四巻」(北海道庁 昭和十二・八)を調べられ、「明治二十八年一ぱいで、岩内の徴兵免除はなくなっている」と述べている。そのことを漱石は知っていたのかどうかは分からない。
 「鷹台町五拾四番地」には明治三十五年三月十日岩内警察署が新築移転している。(武井静夫氏論文による)従って浅岡仁三郎の明治三十五年三月二十四日「鷹台町拾七番地」への転籍は、それと関係するものとして理解できるが、漱石が「鷹台町五拾四番地」に籍を置き続けた理由は判然としない。想像に渡るが次のようなことも考えられる。
 「鷹台町五拾四番地」には、浅岡家の事務所が置かれていたのではなかろうか。三井物産の岩雄登硫黄山の御用商人として財をなした仁三郎は、東京進出を目論んでおり(武井氏の調査によると大正五年五月に東京に転籍している。)、この地からの撤退を考え事務所を縮小、転売を考えて空き地にしていたのではないか。しかし明治三十五年に岩内警察署として土地活用の目途がたつまでは、何らかの形で土地管理をしたいと思い、北海道送籍時に世話した漱石に形だけでも籍を置いてくれと頼んだのではないだろうか。
 結婚を機に、本籍を移転することも考えた漱石は、そのことを戸籍上の同居先浅岡仁三郎に申し出たが、浅岡は以上のようなことを頼み込み同居という不自然な形の解消にのみ応じたのではないか。
 とすれば明治三十五年三月「鷹台町五拾四番地」に岩内警察が居を構えて以降は、双方その地にこだわる必要は全くなくなる。ところがそのことを漱石に申し出るにも、漱石は丁度ロンドン留学中につき日本には居なかったのである。鏡子には、浅岡仁三郎から連絡はしたかも知れないが、筆無精の鏡子はそれをロンドンまで伝えなかったかも知れない。仮に、伝えたとしても当時の漱石は強度の神経衰弱状態で移籍手続き所ではなかった。そこでそのまま漱石の本籍は「鷹台町五拾四番地」に残され続けることになったのであろう。
 
 大正三年六月二日早稲田南町へ転籍
 
 漱石伝・年譜中で北海道より東京へ転籍した年月日を確定するのは、容易ではなかった。詳細に漱石の一生を追った小宮豊隆『夏目漱石』中には「明治四十一年十月に次男伸六が生れるまでは、漱石の原籍は北海道にあった。無論漱石はそれまで、一度も北海道に行ったことはないのである。」とあるだけであり、『漱石の思ひ出』の松岡譲作成の年譜には、大正二年の項に「この年ごろ籍を北海道より移して、東京府平民にかえる」とある。どうもこの松岡譲の年譜が踏襲されて戦後荒正人氏の『漱石研究年表』(昭和四十九年十月・集英社)で「大正三年六月一(ママ)日」(増補改訂版では「六月二日」と直されている)という日付に転籍のことが記載されるまで、一貫して大正二年九月説が流布していたようである。(N)
 それにしても「九月頃」というのが何に基づくのか不審であったが、松岡譲『漱石・人とその文学』(昭和十七年六月十日・潮文閣)に付されている年譜を見て理解できた。それは次の如くである。
 
   大正二年(四十七歳)一月以降。数ケ月の間強度の神経衰
    弱症状再発。二月。講演集『社会と自分』出版。(実業
    之日本社)三月末より胃潰瘍にて臥床。為めに『行人』
    一時擱筆。九月其続稿を掲載。此年籍を北海道より移し
    て東京府平民にかへる。
 
 いかにも九月に東京へ転籍したように見えるのである。
 おそらくは、それで後々まで大正二年九月頃という誤解を生み続けたのではないかと思われる。
 先に記した武井静夫氏の「夏目漱石と本籍」という論文は、そういう点を考えるならば、漱石研究への功績大なるものがある。当該論文には、付記として岩内町役場保管の「漱石の除籍簿」を載せてある。それには「明治二十五年四月五日東京市牛込区牛込喜久井町平民夏目直矩弟分家ス,大正参年六月弐日東京市牛込区早稲田南町七番地へ転籍届出同日同区戸籍吏古本崇受付同日届書及入籍通知書発送同日(ママ)五日受付除籍,」とある。
 そして戸主として父直克四男夏目金之助と筆頭に記され、五女ひな子の死までが記載されてある。漱石は鏡子との婚姻届、そして長女筆が生まれてから五女ひな子の死までことあるたびに、当該地の区役所へ足を運び、本籍地「北海道岩内郡」籍を書き続けたのである。最初の北海道への送籍については、「徴兵忌避」の目的が大きかったと思われるが、岩内に徴兵令が施行された明治二十九年以降、ましてや先述したように明治三十五年以降は、東京乃至他所へ移籍してもよかったはずである。先述のように明治四十一年前後には、子供に指摘されてもいる。それにもかかわらず北海道の住所をことあるごとに書き続けたのはなぜなのか。
 
 大正三年四月『心』の執筆と六月東京への転籍
 
 『坊っちゃん』(明治三十九年四月『ホトゝギス』掲載)を書き上げた後、大学を辞めたい気持ちの強まっている漱石は、人生の転機を迎えようとしていた。明治三十九年七月には狩野亨吉が第一高等学校長から京都帝国大学教授に転じ、漱石に京都帝大への招聘の話をするが、漱石は頑として承諾しなかった。その狩野への書簡中で漱石は「卒業して何をしたかと云ふと蛇の穴籠りと同様の体で十年余をくらして居た」「進んで人と争ふを好まねばこそ退いて只一人(種々な便宜をすて、色々な空想をすて、将来の希望さへ棄てゝ)退いて只一人安きを得ればよいと云ふ謙遜な態度で東京をすてたのである。」「然し今の僕は松山へ行った時の僕ではない。僕は洋行から帰る時船中で一人心に誓った。どんな事があらうとも十年前の事実は繰り返すまい」(明治三十九年十月二十三日)と記している。
 ここに述べられているのは主として明治二十八年四月の松山行き以降のことであるが、ロンドン留学から帰国する船中にいるときに「繰り返すまい」と誓った「十年前の事実」とは明治三十五年の十年前、つまり明治二十五年の北海道への送籍をもさすのではないか。 北海道への送籍が、「徴兵忌避」にしろ、嫂みよへの忌避にしろ、その他直矩他親族俗縁への忌避にしろ、漱石にとっては不合理な事、困難な事、不愉快なことからの逃避であったと認識されているのである。さらに、その後態度をはっきりさせなかったことにより出講せざるを得なかった東京高等師範学校の教師生活の憤懣、転々とした下宿生活、参禅への期待とその失敗などいわゆる「沸騰せる脳漿」(明治二十七年九月四日正岡子規宛)を抱えて悪戦苦闘する生活から、「一人安きを得ればよい」と考えていわば逃避したという事への罪悪感が非常に色濃く刻みつけられているように思われる。
 そうした現実生活全体を相手取った戦いを、「命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で」(明治三十九年十月二十六日鈴木三重吉宛)決然として始めたのが、明治四十年の朝日新聞社への専属文芸記者としての入社であった。
 そうした決意をした漱石は、苦い思いを噛みしめながら諸々の公文書に記された「北海道平民」なる文字を読み、気持ちを新たにしつつ辛抱強く諸届に本籍を記したのではなかろうか。いわば青春の挫折敗北を噛みしめる記念碑としての意味がそこにあったのだろうと思う。
 そのように考えると、いつまでも東京へ移籍せずに北海道に籍を置き続けた点についても納得が行く。
 そして、大正三年六月二日北海道から東京への移籍手続きが為される。それは四月に『心』が連載開始されて間もない時期の事である。
 『心』のストーリーの中心は、若きころ友を裏切ったという過ちを生涯忘れられず、その罪悪感に堪えきれず自ら命を絶つ男とその精神を引き継ごうとする「真面目」な青年の精神的交流の様である。
 自ら非常に重い現実生活の中の課題を背負い込まされ、それを何とか打開すべくつとめなければならないと分かっているのに、結局はそれが出来ない弱さを人間というものは持たざるを得ないのではないかということを「先生」や「K」は重く問いかけている。
 それはこれまでに見てきた漱石自身の思いでもあったであろう。『心』で漱石はこれまでの自らの挫折、失敗を悔いを持って眺め返し、そして現実の今の目の前の意のままにならざる様々の状況をじっと見つめている。そして、その過去をいかにして乗り越え未来につないでいけるかと熟考しているかの如きである。
 漱石の思考は、過去をきちんと総括した上でないと次へ踏み出せない、発展の展望は見えてこない、という形で働くのが特徴であり、そうした考え方に立って身を処して来たように見える。
 明治四十年の東京朝日新聞社への入社は、前述のようにまさしくそうであったし、『それから』『門』も小説の上に於いてそのことを確認しようとしている。
 明治四十三年『門』の直後の大逆事件に関する漱石の反応は修善寺大患と丁度重なって分かりにくいのだが、社会主義弾圧、危険思想撲滅を理由にした言論抑圧が繰り返され、軍国主義、国家主義の嵐が吹き荒れる「冬の時代」のまっただ中に置かれた漱石は、果たして自らの信ずる道を突き進むことが出来たのだろうかと問うて見たい。それは、子細に検討する必要のあることだけれども、答えは恐らく否であろう。
 『それから』(十三)の中で平岡が代助に「現代的滑稽の標本」と述べる幸徳秋水を見張る巡査の話は、東京朝日新聞で仲のよい杉村楚人冠の「幸徳秋水を襲ふ」(明治四十二年六月七、八日『東京朝日新聞』)という同新聞に掲載された雑報が元になっている(日本近代文学大系『夏目漱石集V』重松泰雄注より)が、それが掲載されたとき「池辺主筆からたしなめられ、楚人冠を憤慨させた」(清水卯之助『石川啄木 愛とロマンと革命と』平成二年四月・和泉書院)事件もあり、啄木の「所謂今度の事」は、夜間編輯主任弓削田精一に渡されたが、掲載されなかった。(O)さらに「文芸欄」用に提出された「時代閉塞の現状」も掲載不可であった。
 また、『東京朝日新聞』紙上には「発売禁止と洋書△洋書の発売は一切放任」(明治四十三年九月三日)「危険なる洋書」(明治四十三年九月十六日から十月四日まで十四回連載)など「言論弾圧を助長する」記事が躍った。(P)
 おそらく漱石は病床でこれらの出来事や記事を苦い思いで聞き、また読んでいたことであろう。さらに大逆事件の真相を啄木やその周辺の人物から聞かされもしただろう。
 しかし、「漱石は大逆事件に関する根源的な論評を避けて通ったのである。」(助川徳是「漱石・避けて通ったもの」)(Q)
 大患後の一連の講演は、そうした時勢に対する批判、自己の再検討の場として引き受けたのであろうが、「どうすることも出来ない、実に困ったと嘆息する丈で極めて悲観的の結論」(「現代日本の開化」)で終わってしまう。
 恐らく、『それから』まで突き進んだ漱石自身には、どこを突くべきか、何を言わねばならぬかは分かっているはずである。だのにそれを「直言」はしなかった。それは、批判すべき対象の上に乗って自らの生活、生存、独立が保障されているという近代日本の矛盾、自らの思考論理の結論と現実生活の矛盾、自己の生存基盤の抱える矛盾にまで突き当たるであろう。(R)
 北海道送籍により徴兵忌避したことについて、漱石は個人対国家的な論理の枠組みの中では、何ら「やましいこと」「うしろめたいこと」とは考えていなかっただろう。しかし合法とは言え万人が平等に行えたわけではない北海道送籍による徴兵忌避といういわば姑息な手段を用いたこと、更にそれが現実からの逃避的なものであったと意識されるに及び、漱石心中の倫理的なものは自己の行為の矛盾を絶えず突き上げ続けたであろう。
 帝大講師辞職直前のことになるが、教え子の川井田藤助が徴兵猶予のため漱石に在学証明の下付を申し出たのに対し、次のような返事を書き送っている。
 
   拝啓 御手紙拝見仕候偖御希望の證明書は今日学校に行き事務で問ひ合せ候處君は研究科の学生であるから東京に居らねばならんのである東京に居らぬ以上は研究科を退学せねばならぬと云ふ譯で證明は到底出来ないといふ。夫が規則であつて而して夫が正当である。もし胡魔化せば小生が責任となる。あらはれゝば君は忌避となる。よろしくない事と思ふ。夫で願書は持つて帰つて来た。僕の考えでは研究科を退学の上直に徴兵の検査を受ける事に致されたらよろしからうと思ひ候先は至急御返事迄 匆々頓首 (明治四十年二月二十二日付)
 
 まさに『心』の「先生」を地で行くような漱石の心中がうかがえる。内心では自分もかつて徴兵忌避に腐心し、北海道送籍ということを「遣った」にも関わらず、教え子には徴兵検査の受検を進言せねばならない苦渋があったことだろう。
 徴兵忌避に絡めて大岡昇平がいみじくも次のように語っている。
 
   もっとも小沢勝美さんは、ただ誰でもやることだからやる、というような安易な気持ちではない。ちゃんと国家と自分との関係を見据えた上での選択だといいます。これもあり得ないことではないけれど、私は差当って丸谷さんの側の意見です。漱石は意見としては、国家の倫理は個人の倫理より下等だ、という説(「私の個人主義」)ですが、処世においては臆病といってもいいくらい慎重だったので、その行動の全体から見て、そんな気がするのです。(「漱石と国家意識」『小説家夏目漱石』一九八八年筑摩書房所収)
 論理的帰結と現実とが矛盾し拮抗し相反したとき、人は大概現実の方を選択するものである。そうしなければ生きることが出来なくなってしまうからである。漱石もそうして現実の生を生きて来たであろう。『心』の「先生」もそうして生きた。しかしながら現実に埋没せず、徹底して自己の論理を貫徹し現実生活の中に韜晦することを峻拒しようとする者があるならば、破滅への予感を感じさせながらもその姿は倫理的な眼から見れば美しくもあり、憧れでもあろう。『心』の「K」はそうした存在としてあるのだろう。
 そうした『心』の構図は、明治文学史の流れの見取り図をも思い浮かべさせる。北村透谷に代表される浪漫主義文学を乗り越えるべく登場してきた自然主義文学と漱石が明治の終わりに位置し明治という時代を締めくくると共に次の大正時代へと橋渡しをして行ったという「明治という時代」の文学の流れが想起される。
 さらにその明治の文学の流れは、文学者漱石個人史の中でも初期の浪漫的作品から、現実的作品への深化発展という筋道として、繰り返されているようにも思われる。
 「先生の遺書」として書き始められた『心』には、漱石の実生活上の歴史における敗北挫折悔恨の情がにじんでいると共に、「明治という時代」の文学の中にその生を送った漱石自身の歴史への哀惜の気持ちも色濃く揺曳している。
 「K」を横に置きつつ、矛盾を抱えながら現実を生きた「先生」の死は、漱石の姿と重なる。さらにそれを大正を生きる今の漱石が総括的にとらえ、描き出そうとする。そうした所に『心』の異様な迫真力なり、淋しさなりが生まれているのだと思う。
 晩年を迎えた漱石の、実生活と文学者生活との両面に渡る総括決算を意図して『心』は構想されたのではないだろうか。そのとき実生活上での一つのけじめとなるべきものが、北海道籍の東京への転籍ではなかったか。過去をいつも振り返るだけでなく、徹底的総括の上に新たな人生を切り開く展望を持ちたいが故に、過去の敗北の象徴たる北海道籍は、現実生活の戦場たるべき東京に据えられる。
 『それから』以降の『門』『彼岸過迄』『行人』そして『心』という観念的で自閉傾向の強い作品世界から現実の葛藤の場へと進み出ていく機縁を、「K」や「先生」を哀惜しつつ乗り越えるべく描かれている「私」を設定することによりつかみ取ったのではないだろうか。自己の論理と矛盾する現実へ再度積極的に挑戦しようとするための過去の総決算が『心』であったように思われる。
 

(@)夏目鏡子『漱石の思ひ出』(昭和三年十一月二十三日・改
   造社)中の「五三 自費出版」の項参照        
   脱稿日については大正三年八月一日付山本松之助宛書簡に
   「拝啓私の小説は今日差上げるので漸く片付きました。」
   とあり、自装本については同年八月九日付橋口貢宛書簡に
   「私は今度の小説の箱表紙見返し扉一切合切自分の考案で
   自分で手を下してやりました」とある。        
                             
(A)小森陽一「『心』における反転する〈手記〉―空白と意味
   の生成―」(『成城国文学』1号 昭和六十年三月)  
                             
(B)駒尺喜美氏は「「こゝろ」における殉死の意味―丸谷さん
   への手紙―」(『展望』昭和四四年八月号掲載、『漱石―
   その自己本位と連帯と―』昭和四五年五月・八木書店所 
   収)で                       
   「少なくとも「こゝろ」を証拠として漱石の「うしろめた
   さ」をいい立てることは、誣構としかわたしには考えら 
   れないのです。」と直接反論している。        
                             
(C)新書版『漱石全集』第三十五巻所収          
                             
                             
(D)大正六年一月二日『新小説』「文豪夏目漱石」春陽堂  
  (『国語国文学研究史大成鴎外漱石』昭和四十年・三省堂)
   所収                        
                             
(E)新書版『漱石全集』第二十一巻所収          
                             
                             
(F)大正二年二月十二日付龍居頼三宛書簡に「拝復先夜は失礼
   致候其節御約束の暁星中学の規則書其他都合三葉御親切に
   御送り被下深く御礼申上候先不取敢右迄 匆々不一」とあ
   る。                        
   夏目鏡子は『漱石の思ひ出』の五六「子供の教育」で、娘
   の教育上のことを考えて鏡子自身で娘達を「女子大学の附
   属」「双葉」へやったと述べており、男の子達については
   語学習得のことを考え漱石自身で「暁星」に決めたと述べ
   ているが、漱石の真意は、他になかったのか検討は必要で
   あろう。                      
                             
(G)石川悌二『夏目漱石―その実像と虚像―』(昭和五十五年
   十一月二十日・明治書院)による。          
                             
(H)赤木桁平『夏目漱石』(大正六年五月二十八日・新潮社)
   中の「また、先生は近頃まで戸籍上北海道平民といふこと
   になってゐたが、それは先生の籍が夏目家に移されると間
   もなく、所謂徴兵逃れのため、便宜上北海道の親族へその
   籍を入れて置かれたのに由るものである。」との言が漱石
   伝中の北海道送籍徴兵忌避説の嚆矢である。以降夏目鏡子
   『漱石の思ひ出』(昭和三年十一月二十三日・改造社)、
   小宮豊隆『夏目漱石』(増補新版昭和二十八年・岩波書 
   店)等主な伝記、年譜に引き継がれている。      
                             
(I)『夏目漱石研究資料集成第三巻』(平成三年五月十日・日
   本図書センター)所収                
                             
(J)『漱石とその時代第一部』(昭和四十五年八月二十日・新
   潮社)                       
   石川悌二氏も注(G)書中で「親身の者たちに愛想がつき
   て、その俗縁からのがれようとして「さいはての国」の平
   民になったのであろう」と述べておりほぼ同意見である。
                             
(K)大江志乃夫『徴兵制』(昭和五十六年一月二十日・岩波新
   書)中に「北海道への徴兵令の施行は一八九六年(明治二
   九)であった。それ以前には本籍地を北海道に移すことに
   よって合法的に徴兵をまぬかれることができ、かなりおこ
   なわれた。」とある。                
                             
(L)荒正人著・小田切秀雄監修『増補改訂漱石研究年表』(昭
   和五十九年・集英社)十八頁             
                             
(M)平岡敏夫『日露戦後文学の研究』に次のようにある。  
   「法的には間違っていないにせよ、この財産と相続という
    問題が、漱石における「家」の問題に、そしてその文学
    に少なからぬ影を落としていると思われる。」「明治三
    十年の兄直矩のありようは、夏目家という「家」の崩壊
    に立ち合わざるをえなかった、そのはしりであると言え
    よう。」                     
                             
(N)荒正人氏自身『評伝夏目漱石』(昭和三十五年七月・実業
   之日本社)の年譜では大正二年九月頃としている。   
    また、板垣直子氏の『漱石・鴎外・藤村』(昭和二十一
   年・巌松堂出版)の年譜、福田清人編『夏目漱石読本』 
   (昭和三十三年・学習研究社)の年譜、日本近代文学大系
   『夏目漱石』各巻末の年譜、熊坂敦子氏が『明治文学全集
   夏目漱石集』(昭和四十六年六月・筑摩書房)につけた年
   譜、井上百合子氏が『文芸読本夏目漱石』(昭和五十年六
   月・河出書房新社)につけた年譜等いずれも大正二年九月
   頃のこととしている。                
                             
(O)斎藤三郎「「所謂今度の事」についての一考察」(『文 
   学』昭和三十二年十月号・岩波書店)         
                             
(P)渡辺善雄「「沈黙の塔」・その背景と鴎外の意図」(『森
   鴎外研究6』平成七年八月・和泉書院)        
                             
(Q)助川徳是『漱石と明治文学』(昭和五十八年五月二十五日
   ・桜楓社)所収                   
                             
(R)小澤勝美「漱石における個人と国家」(『日本文学』一九
   七O年一一月、一九七一年四月 『透谷と漱石』一九九一
   年六月双文社出版所収)で詳細に論じられている。   
                             
付記 突然の問い合わせにも関わらず丁寧な御返事を頂いた武井
   静夫氏、松岡陽子マックレイン氏に感謝申し上げます。 
                             
【神戸大学国語教育学会「国語年誌」第16号 一九九八年二月】
 
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