平和新聞 第23回 2002年5月 宮本百合子 「その年」 次へ トップ ホーム
中国に対する戦争は、首都南京が陥落しても終らず、戦線は限りなく拡大して、妻子のある三十歳以上の後備兵まで動員されることになった。
一年半ばかりのうちに、村からも四十余人が出征し、はや、遺骨になって白木の箱にいれられて帰ってきたものもあった。息子の源一も、いつ来るかと不安な日々を過ごしていた召集が来て、名も知らぬ遠い大陸の戦線に駆り出されていった。弟の広治もやがて入営しようとしている。
息子を軍隊に奪われた母親の切ない思いを、宮本百合子は母だけが知っている肉体の痛みとして描き出した。母の肉体の深みから、戦争の不条理と悲しみを描き出したのは百合子が始めてであったろう。
○○作戦に参加したという紫色のゴム印で隊名を記した軍事郵便が来たが、記された地名はお茂登の見当つかないものばかりだった。犠牲者も相当出ましたが、幸い僕は風邪一つ病まず元気一杯ですと、源一は書いていた。広治が慰問袋に入れて送ったハーモニカは、流行歌で兵隊たちを慰問している。眠い夜行軍には特に役立ったとも書かれていた。源一の面影が浮ぶような懐かしさで、お茂登はくりかえし読んだ。
しかし、悲しんでばかりはいられない。父のあとをついで運送業をしていた息子たちが相次いで軍隊に奪われたあとは、どうして仕事をつづけるか。一度はトラックを処分して仕事をやめようと思ったが、源一の入営中使っていた友三という運転手が、トラックが徴発されて手が空いたので使ってくれというのを聞いて、留守を守って家業をつづけようと決心する。
軍需景気と人手不足が、兵役をまぬがれた人たちに思わぬ好運を恵んでいるようにも見えた。しかし、トラックを取り上げられた友三の場合も同様だが、戦争は人々の生活を容赦なく破壊して、拡大していった。
お茂登の家のすぐ裏を、住民の都合など無視して、まっすぐに町中をつらぬいて建設された軍事道路が通るようになった。戦争で働き手を失った女所帯の住民たちは、片隅に押し込められ、息をひそめて暮さなければならなかった。
百合子は夫である宮本顕治の母や弟たちをモデルにして、戦争で息子を奪われた母たちの悲しみとともに、日本のいたるところで進行していた、戦争による生活破壊の現実を、検閲を顧慮しながら、短い作品に注意深くまとめあげた。
もちろん、顕治は獄中にいたし、百合子自身も何度か検挙され、執筆禁止になったが、そのすきを縫うように、この作品は一九三九年(昭和十四)三月に書き上げられた。『文芸春秋』に発表の予定だったが、しかし、執筆当時は発表を許されず、戦後になってようやく日の目を見ることが出来たのである。
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