現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らに欺されたいらしい人たちを私は理解できない。おそらく彼らは私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は半分は子供である。
軽い喀血をした<私>は、五日分の食糧を与えられて山中の患者収容所に送られたが、三日後に治癒を宣告されて退院した。しかし、<私>は分隊長に頬を打たれ、
<(中隊にゃ)役に立たねえ兵隊を、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。>
<どうでも入れてくんなかったら──死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃねぇぞ。それが今じゃお前のたった一つの御奉公だ。>
と言われる
米軍がレイテ島に上陸したのは十月二十日、日本の連合艦隊はフィリピン沖海戦で壊滅し、米軍の圧倒的な兵力と火力によって、日本軍は全戦線で敗退していった。
<私>の部隊も米軍に包囲され、食糧補給の道をたたれて、飢餓に苦しんでいたが、<私>が去って間もなく、米軍の砲撃で粉砕され、ばらばらになって敗走することになる。
軍隊からはじきだされた<私>は、フィリピンの原野をただ一人歩いて行き、村人が逃げ去ったあとの集落で、無人の畠を荒らして飽食の日々を過ごすなどしたが、部落にもどってきた比島人の女を銃で撃ったため、そこを去らなければならなくなった。
<私>は殺そうと思って女を撃ったのではなかった。引き金を引いたのは女が叫んだからである。弾丸が彼女の胸の致命的な部分に当たったのも、偶然であった。<私>はほとんど狙わなかった。これは事故であった。
<しかし事故なら何故私はこんなに悲しいのか。>女を殺したのは銃を持っていたからだと考えて<私>は銃を川に捨て、見知らぬ異郷をあてもなくただ一人、確実に迫って来る死を見つめながら歩いていった。
日本軍に荒らされた畠には、ゲリラに殺された日本兵の無残な死体が転がっていた。彼がおそれなければならないのは、米軍と同時に比島人、そして日本軍だった。
しかし、三々五々逃げていく日本兵と出会い、パロンポンに集合せよという軍命令が出ていて、そこからセブ島にわたるらしいと聞いて、<私>は生還の希望にとりつかれ、彼らとともにパロンポンを目指した。
道端には飢えて動けなくなった死に瀕した兵士や、餓死した兵士の死体が数多く見られた。そして死者たちは臀の肉がえぐり取られていた。
猿の肉だといわれて食べたのは人肉だった。やがて<私>は同行の兵士が、人肉を獲るために日本兵を撃ち、自分をも狙っているのを知り、すきをみて相手を撃ち殺す。
大岡は一九四四年、三十五歳で教育召集を受け、フィリピンのミンドロ島に派遣された補充兵である。ミンドロ島の日本軍はほとんど全滅したが、偶然のことから助かり、米軍の捕虜となった。「俘虜記」はこの体験を作品化したものだが、この作品は、俘虜収容所での見聞をもとに、狂人となった兵士の手記として発表した虚構である。
朝鮮戦争勃発前後、再び戦争がはじまり、日本の再軍備がはじまった時代に大岡は、人が殺し合う戦争とは何かを徹底して追窮するこの作品を書きつづけたのである。
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