平和新聞連載 第50回 2005年1月  堀田善衛 「記念碑」 伊豆利彦  前へ 次へ 一覧 ホーム 

 夫の外交官に自殺された石射康子は、国策通信社の外信部に勤め、深田英人枢密顧問官が口述する覚書の筆記をしていた。米国人の妻をアメリカに残して交換船で帰国した伊沢信彦と愛人関係にあり、協力して深田の和平運動のために情報を提供している。
 兄の安原武夫大佐南方の島にいて生死不明であった。すでに戦争の末期、太平洋の島々で玉砕が相次ぎ、東京爆撃が始まっていた。比島沖海戦、台湾沖海戦では若者たちが続々と特攻機で突入していった。
 学徒動員で予備学生になり、海軍少尉になった息子の菊夫は深田の娘と結婚して、妻が妊娠しているのに特攻隊を志願し、死に向かって飛び立とうとしていた。
 深田の口述を筆記するようになって、康子は『それまでにはどうにかなるだろう』というのが、開戦とそれ以後の全過程の指導理念であることを知った。
 アメリカから帰国した伊沢は、期待を裏切って、その論調は次第に愛国行進曲調になり、「日本の草莽の民の忠誠心に感激した」と言うまでになった。
 続編「奇妙な青春」にはアメリカに占領された戦後の日本で、民主主義の担い手として活躍する姿が描かれている。そのアメリカの政策が変わったら、今度はどう変わるのか。
 康子の弟の安原克巳は共産主義者だったが転向して、参謀本部の依頼で豪州の鉱物資源の調査をするようになり、シンガポール陥落の提灯行列に参加して、宮城前で最敬礼するまでになった。もちろん、戦後は共産主義者として活躍するのである。
 彼らが時代とともに転向を繰り返すのは、彼らの思想が日本の現実そのものに根ざしたものでなかったからである。戦争で「西洋風の付焼刃みたいな教養」が洗い流されると、日本的虚無感にひたり、非合理主義的な国体思想や神国思想に流されていく。
『……あなたはそれでも自前で戦って来たつもりなの、持ち出しで生きてきたひとや死んだひとがいっぱい、いる……』
「悠久の大義」とか「肇国の精神」とか、意味内容の不明な思想を熱烈に説き、現実に対する生身の人間としての自分の責任を回避する菊夫に対する康子の批判である。
 康子は兄の安原大佐から届けられた手記を読み、悲惨な戦場の現実に心を打たれる。


死者たちは「死んだときの、殺されたときの形相そのままで、天の奥処(おくが)を限りなく、いまも歩いている。」 私たちはこの死者たちどのように答えるか。
しかし、はやくも第二、第三の転向が始まっていた。
 この作品は、一九五五年、朝鮮戦争の特需景気で経済を復興し、対米従属を強めながら、再軍備の道を歩きはじめた時代に発表された。