平和新聞連載 第51回 2005年3月 遠藤周作 「海と毒薬」 前へ 次へ 一覧 ホーム
戦争末期の一九四五年五月、九州大学の医学部教授らは軍の指示で米軍捕虜八人を生体解剖して、肺切除などの実験をし、標本にしたり、肉を食べたりした。この事件に、横浜軍事裁判所は、絞首刑五人、終身刑四人、重労働十四人の判決を言い渡した。
この事件を素材とする「海と毒薬」は一九五七年に『文学界』に発表された。
勝呂(すぐろ)は田舎出身の平凡な医師で、大学に残るあてもなく、将来はどこかの山の療養所で結核医として過ごしたいと思っていた。
空襲で街の大半は焼失し、多数の人々が死んでいった。同僚の戸田は「何をしたって同じことやからなあ。みんな死んでいく時代なんや」「病院で死なん奴は毎晩、空襲で死ぬんや」と言った。希望も夢もない、荒涼とした、空虚な日々だった。
そのなかで、勝呂ははじめての患者のおばはんをなんとか死なすまいと懸命になった。両肺がおかされて助かる見込みのない施療患者だった。門司で焼け出され、この町の妹も空襲で行方不明、ただ一人残った戦地の息子に一目あうのが唯一の希望だった。
柴田助教授はおばはんを手術して、教授昇進の業績をつくろうとしていた。手術をすればおばはんは到底助からないことがわかっていた。どうせ助からない命だから、研究の役に立てばその方がいいのだと戸田は言ったが、勝呂は納得できなかった。
おばはんの手術はある事情から延期され、手術前に自然死してしまう。おばはんの死体が木箱につめられて、雨の中を運ばれて行ったとき、みんなが死んでいく世の中で、たったひとつ死なすまいとしたのがおばはんだったことに勝呂は気づき、もう今日から、戦争も日本も自分も、凡てがなるようになるがいいと思った。
こうして勝呂は、次期学部長を狙い、軍とむすびついて勢力を伸ばそうとする橋本教授らの、F市を空襲して市民を殺傷した捕虜を生体実験する企てにまきこまれていった。断れば断ることもできたのに、ずるずると大波にまきこまれ、押し流されていった。
彼は生体解剖の現場にいたが何もせず、実験が終わったあとも、人を殺したという実感を持つことができなかった。おばはんの手術にもはっきり抵抗せず、ただあいまいに生きてきた。戦争裁判は、このあいまいな、暗い空虚な心を罰することはできなかった。
戦後十年、刑をおえた彼は同じあいまいな暗い心を抱いて、東京の郊外でひっそりと開業医をしていた。
その街には、南京で憲兵をしていた元兵長が洋服屋ををしていた。銭湯で一緒になったガソリンスタンドの主人は、戦地で負傷した跡を自慢げに見せびらかし、「中支に行ったころは面白かったなあ。女でもやり放題だからな。抵抗する奴がいれば樹にくくりつけて突撃の練習さ」と言った。そして、「シナに行った連中は大てい一人や二人はやっている」と言い、あの洋服屋も、「南京では大分、あばれたらしいぜ」と言った。
新しく郊外に開けた住宅地で暮らす平和でおとなしい市民たちは、あの戦争を生きた日本人であった。戦争で人を殺した日本人は、平凡な市民としていまを生きている。時代の大波に押し流されて生きる日本人は、自分の罪を自覚することができない。作者はその日本人の暗い無自覚な心を見つめ、人間はどうしたら変わるかと問うている。