平和新聞 第17回 2001年10月25日       

 越中谷利一 一兵卒の震災手記   『戦争ニ対スル戦争』

 越中谷利一は一九二三年九月の関東大震災のとき、千葉県習志野の騎兵連隊に属していて、帝都の治安維持のためということで、実弾を携行し、戦時武装で出動させられた。
 震災では、日本軍が流したデマが発端で、六千六百人もの朝鮮人が虐殺された。中国人や社会主義者も多数殺された。
 朝鮮人の多くは、民間で組織した自警団によって殺されたが、軍隊はこの暴行を阻止するどころか、自らも命令を下して、銃撃し、銃剣で刺殺して、多数を殺戮した。
 虐殺は何日もつづいた。「一兵卒の震災手記」の主人公は、震災後十日もたって、夜間、非常呼集でたたき起され、集団化した朝鮮人を包囲して、皆殺しにする戦闘に参加させられる。
 朝鮮人は東京の各地で追い立てられ、逃げ惑っているうちに集団化したのであるらしい。日本軍は彼らを一か所に追い込み、突撃命令を出して、皆殺しにする作戦をとった。まさに戦争だった。
 越中谷は、自身の経験によってこの暴行を描いたという。冒頭の言葉は、作者自身の感慨であろう。××が多いが、これは戦後、可能なかぎり復元された『越中谷利一著作集』によったのである。当時はさらに伏字が多く、最後の二頁は削除されてしまっていた。
 この作品は一九二七年九月の『解放』に発表され、一九二八年五月、日本左翼文芸家総連合によって刊行された『戦争ニ対スル戦争』に掲載されて、ひろく読まれることになった。このときも、最後の二頁は削除されたままだった。
『戦争ニ対スル戦争』が刊行されたのは、一九二八年三月十五日の大弾圧の直後のことである。ながくつづく経済不況は金融恐慌に発展し、倒産と失業がひろがっていた。中国では国民革命が進行し、北伐がはじまっていた。これに対して、日本の軍部は軍事的に干渉し、中国に対する支配を強化し、そこに不況脱出の道を求めた。
 前年五月には山東省に出兵し、この年六月には、満州で張作霖爆殺事件が起っている。天皇の名のもとに侵略戦争を推進するためには、これに徹底して反対する社会主義者、共産主義者を抹殺しなければならない。こうして三・一五の大弾圧がおこされ、治安維持法の改悪がおこなわれた。
 このような反動の嵐に抗して、これまで分散して対立抗争していたプロレタリア文学団体が、戦争反対の一点で結集して、日本左翼文芸家総連合を成立させ、『戦争ニ対スル戦争』を刊行したことの意味は大きい。
 こうしてプロレタリア作家同盟が成立し、プロレタリア文学は、戦争とテロルに抗し、自由と解放を求める文学運動として、広汎な作家たちを結集し、社会をゆり動かすものとなった。小林多喜二がプロレタリア作家としての自覚を固めたのも、この時期である。

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