平和新聞 第21回 2002年3月25日
火野葦平 「土と兵隊」 (『文芸春秋』 一九三八年十一月号)
一九三七年七月七日、北京の郊外蘆溝橋付近の発砲事件がきっかけで、日本軍は中国全土を戦場とする泥沼の戦争に突入していった。
このため予備役の大動員が行われ、全国から徴集された兵士たちが、中国大陸に運びこまれた。火野葦平も九月に召集され、十月、杭州湾に敵前上陸した。
「土と兵隊」はこの経験を作品化したものである。検閲で削除された部分や、記述をはばかった部分も多かったが、戦後、それらを書き足して、現行の作品となった。
当時火野は三十歳、若松沖仲仕労働組合を結成して、荷役のゼネストを決行するなど、戦闘的な左翼青年であったが、特高に検挙され、転向して、作家として生きようとしていた。大変な愛妻家で、三人の子があり、出征中にもう一人生れた。
「土と兵隊」は、普通の生活から急に動員され、どこへ行くかもわからぬ輸送船に積みこまれた<私>が、生死の境をくぐりぬける苛酷な体験によって、次第に軍人としての自覚をもつようになるという筋書きだが、この作品には、戦争の犠牲になる中国の民衆や兵士の姿が、愛情をこめて描き出されている。
戦火を避けて暗闇の道路を移動中、中国側のトーチカから射撃され、瀕死の重傷を負った一人の母親は、道路傍に投げ出された赤ん坊の方に手をさしのべ、何か歌うようにつぶやいて、赤ん坊をあやしていたが、やがて赤ん坊を腕の中に抱いて、そのままの格好で死んでしまった。赤ん坊は眼をくるくる動かし、時々にこにこ笑ったりしていた。
一晩中、泣きつづける赤ん坊の声は、野原一面で鳴く虫の声とまじりあって、兵士たちに故郷のことを思い出させ、やりきれない思いにしたと火野は書いている。
激戦の末、奪い取ったトーチカから出て来た中国兵は、どれもひ弱そうな若い兵隊で、日本人によく似ていた。彼らは手を合わせ、助けてもらいたいという哀願の表情をした。トーチカの中には泣いている二人の兵隊がいた。二人とも、ほとんど少年の若さで、女かとみまがうばかり美しかった。一人は母かと思われる女の写真を示し、しきりに殺さないでくれという身振りをした。よしよしというようにうなずくと、少年兵の悲しみにつぶれた顔に、かすかな喜びに似た影がかすめたように思われた。
しかし、この捕虜たちは、私がちょっと眠っているあいだに、全員殺されてしまった。死骸は散兵壕の中に投げこまれていた。「三十六人、皆殺したのだろうか」<私>は胸の中に怒りの感情の渦巻くのを覚え、嘔吐を感じたと、火野は書いている。。
<私>はしばしば大きな空を見上げ、美しい月と星を眺める。大きな自然の中で、故郷の家族を思い、個人的には何のうらみもない人間同士が殺しあう戦争の空しさを思ったのであろう。
出征前に書いた「糞尿譚」が芥川賞を受賞して、戦地でおこなわれた授賞式が話題になり、「麦と兵隊」で戦争作家としてもてはやされた火野は、戦後は戦犯作家という非難を受け、やがて自殺する。時代に翻弄された作家の悲しみが思われる。