平和新聞 第22回 2002年4月25日 次へ トップ ホーム
石川達三 「生きている兵隊」
少女は家の中に逃げこんだが、銃声を聞いて飛び出した兵はすぐにこの家を包囲し、扉を叩きやぶった。そして唐草模様の浮き彫りをした支那風な寝台のかげに踞(うずくま)って顔を伏せている少女に向ってつづけざまに小銃弾を浴びせ、その場に斃(たお)した。この家の中には今一人の老人がいたが彼もまた無条件で射殺されることになった。
日本軍の将校が、路上で十一、二の少女に拳銃で撃たれて即死したことからこの事件がおこった。そういう了見なら「支那人という支那人は皆殺しにしてくれる」というので、「幾人の支那人が極めて些細な嫌疑やはっきりしない原因で以て殺されたかわからなかった」と、作者は書いている。
中国兵は追いつめられると庶民の中にまぎれこんだ。日の丸の腕章をつけている良民の中にも正規兵の逃亡者が入っているかも知れなかった。「抵抗するものは庶民と雖も射殺して宜し」という指令が軍の首脳部から伝達されたのはこの事件の直後であった。
一九三七年、蘆溝橋の偶発的な小事件が全面的な戦争に拡大され、新聞社・出版社はきそって作家たちを中国に特派した。石川達三は同年十二月、中央公論社から派遣されて陥落直後の南京に一ヶ月ばかり滞在し、その見聞をもとにこの作品を書き上げ、一九三八年三月の『中央公論』誌上に発表したのである。
南京の残虐行為は当時の国民にはすこしも知らされなかった。新聞・ラジオ・雑誌などは戦争美化の記事で埋まり、南京陥落は提灯行列などの大々的な祝賀行事で迎えられた。石川はこのような風潮を憤り、戦争の悲惨な真実をつたえ、この戦争に動員された兵士たちのの苦悩に迫ろうとした。
平尾一等兵が気狂いのようになって、十七、八の娘の胸を銃剣で三度も突き刺し、他の兵たちも頭といわず腹といわず突きまくるという事件を石川は書いている。娘は日本軍に撃たれて動かなくなった母を胸の中に抱きかかえ、いつまでもいつまでも号泣しつづけていた。その泣き声は夜ふけまでつづき、平尾はついに耐えられず、突然の凶行に及んだのであった。
新聞社の校正係だった平尾はロマンティックな青年で、感受性の強い繊細な神経は荒々しい戦場の生活でひとたまりもなく破壊されたのだった。平気で人を殺す乱暴者の下士官もいたが、兵士たちの大多数は平和を愛し、人間を愛する普通の市民だった。とうてい人殺しなどできそうもない人々である。それなのに、兵士となって戦場におもむくとなぜあのような残虐な行為をするのか。
石川は目をおおうような日本軍の残虐行為をリアルに描いたが、これを告発し、否定するために書いたのではなかった。殺人が日常的な、苛酷で異常な現実が、彼らを変質させ、残虐行為に駆りたてる。どんな戦争でも、戦争というものはこのような悲惨な事件を生まずにはいないのだと、むしろこれらの日本兵を弁護しようとさえしていた。
しかし、この作品を発表した『中央公
論』は発禁になり、作者は「皇軍兵士の非戦闘員殺戮、掠奪、軍紀弛緩の状況」を記述し、「安寧秩序を紊乱する」として起訴され、有罪となった。戦争は作者の主観的な意図にかかわらず、一切の真実を許さなかったのである。
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