平和新聞 第30回 2003年1月 吉村昭 殉国 前へ 次へ トップ ホーム
本校の三年以上の生徒は、一昨日の昭和二十年三月二十五日付をもって全員召集令状を受けた。お前らは、すでに皇国の兵である。…………本日ここに鉄血勤皇隊沖縄県立第一中等学校隊を編成し、大元帥陛下のみもとに馳せ参ずる。
アメリカ軍は四五年三月下旬から沖縄本島中南部や慶良間諸島に艦砲射撃を行い、三月二十六日に慶良間に,四月一日には沖縄本島中部嘉手納海岸に上陸した。
中学三年生の比嘉真一はだぶだぶの軍服を着せられ、陸軍二等兵として、圧倒的な兵力と火力で日本軍を島の南端に追いつめる米軍との戦闘に参加させられた。
米軍は各種の砲弾、爆弾を集中させ、地上にあるものすべてを掘りかえし、その上を戦車の群が進んできて、洞穴を発見すると火焔放射器で、執拗に炎を吹きこんだ。
入隊した夜、若い中隊長は「これからは貴様たちの郷土は決戦場となるが、至誠殉国の精神を以て郷土防衛のために死ね」と言った。
五月四日の総攻撃には師範学校男子部の斬込隊員が出撃し、五年生の生徒全員がが機雷を背に敵戦車に体当たりをしたという情報があった。
「おれたちも、斬込むんだ」「兵隊になったからには戦うんだ。敵を一人でも多く殺すんだ。おれたちは、鉄血勤皇隊員だ」という声が真一の仲間たちからあがった。
<ひめゆり部隊>として看護婦の仕事に動員されていた女学生四人が、「斬込むーー」「アメリカ殺すーー」といってあばれ、荒縄で後手にしばりつけられて、雨にうたれたまま土の上に転がされるというようなことも起った。
真一たちは<負傷者運搬作業>に従事していたが、陸軍病院壕は負傷者で充満し、運ばれた負傷者たちは壕外に放置され、死体も壕外に横たえられてわずかに毛布をかぶせるだけになっていた。
負傷者たちはは血と膿と排泄物にまみれ、無数のウジにたかられて、ただ呼吸しているだけだった。しかし、この病院も撤収することになり、重傷患者は青酸カリを混入された牛乳を自決のために配られた。
軍とともに多数の住民が南部の喜屋武半島に向かい、摩文仁(まぶに)岬に追いつめられて行った。真一は負傷者を助けて南下したが、多くの悲惨な負傷者と死者たちを目撃した。二人の友人は内臓をはみ出させ、顔の半ばをふきとばされた。壕が爆破され、死体の堆積の下敷きになって、わずかに命を助かったこともあった。それ以後、死体の山に身を隠しながら南下して行った。
道路には、入る壕もないのか住民たちが放心したように往き来していた。死んだ子供を抱いて、路傍で寝ころがっている女や、死んだ母親の乳房にすがりついている嬰児もあった。子供が泣き声を出すと米軍に所在を知られるからと、自分の手で嬰児を絞め殺させられた母親もあった。
こうして、軍と住民がまじりあいながら、摩文仁岬に追いつめられ、そこで数えきれぬほどの男女が死んで行った。あまりに悲惨な負傷者の現実に、美しく死にたいとのみ思った真一は、無残な死者たちにかこまれ、死に無感覚になっての生き延びた。
自分の生まれ育った郷土が戦場になるとはどういうことか、軍は住民を守るのか。この作品は強くそれを訴えている。
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